氷の首輪と誓いの指輪
「あら、本当に起きてしまったのね。残念。……それじゃあアイン、続きはまた今度ね」
背後で渦巻く猛烈な吹雪の気配を察知したエレナは、まるで悪びれる様子もなく艶然と微笑むと、身軽な動作で窓枠へと飛び乗った。
彼女は夜風に長い髪を揺らしながら、からかうようなウインクを一つ残し、月夜の闇へと溶けるように姿を消した。
残されたのは、氷点下まで冷え切った寝室と、逃げ場を失った俺。
そして、極寒のオーラを纏いながら、無言でこちらを見下ろす最愛の妻である。
「アイン」
「は、はい」
「そこに正座」
抗いようのない、地の底から響くような声音。
俺は急いでベッドから降りると、冷たいフローリングの上で背筋をピンと伸ばし、綺麗な正座の姿勢をとった。
「その……誤解しないでほしい、リリア。俺は何も――」
「ええ、分かっているわ。あっちが勝手に忍び込んできたんでしょう?」
リリアの言葉にホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、彼女の手のひらに魔力が収束し、カチャリ、と金属質な音が鳴った。
生み出されたのは、美しい冷気を放つ『氷の首輪』。そしてそこから伸びる、細くしなやかな氷の鎖だった。
「わ、分かっているなら、その物騒なものは何かな……?」
「アインは優しすぎるから、あんな風に隙を突かれるのよ。だから、私がしっかり『管理』してあげることにしたの」
有無を言わさぬ笑顔と共に、俺の首にヒンヤリとした氷の首輪が装着される。
痛くはないが、俺が少しでもリリアから離れようとしたり、別の女性(特にエレナ)と一定の距離まで近づいたりすると、即座にキュッと締まる特製の魔力具らしい。
「ほら、似合ってるわよ、私のご主人様」
鎖の端を握りしめ、リリアは酷く蠱惑的で、それでいて少しだけ不安げな笑みを浮かべた。
その表情を見て、俺はハッとした。彼女は怒っているだけでなく、自分にはない俺の『過去』を知るエレナに対して、ひどく焦り、嫉妬しているのだ。
俺が不甲斐ないせいで、妻にこんな顔をさせてしまっている。
(……俺から、ちゃんと安心させてやらなきゃダメだ)
翌朝。俺は首輪をマフラーで巧妙に隠しつつ、リリアが執務で目を離したわずかな隙を突いて、ゴルド商会の仮設店舗へと足を運んでいた。
目的は一つ。妻の機嫌を取り、かつ彼女への揺るぎない愛情を形にして示すためだ。
「おお、アイン様! 本日はどのようなご用件で? まさかまた厄介事では……」
「いや、個人的な買い物だ。ゴルド、今扱っている中で一番質のいい『指輪』を見せてくれないか?」
俺の要望に、ゴルドは一瞬目を丸くしたが、すぐに人の良い笑みを浮かべて奥から豪奢な木箱を持ってきた。
「奥様への贈り物ですな? ならば、こちらが至高の一品。極北の地でしか採掘されない『蒼氷石』を、ミスリルで縁取った指輪にございます。奥様の瞳や魔法の美しさに、これほど似合うものは他にありませんぞ」
深く澄んだ青色の宝石が、朝日に反射してキラキラと輝いている。
一目見て、俺はそれがリリアに相応しいと直感した。
ステータス書き換えによる強引な生成ではなく、俺自身の稼ぎで、彼女のために選んだ正真正銘の贈り物。
執務室に戻ると、俺の姿が見えずに探し回ろうとしていたらしいリリアが、眉を吊り上げて待ち構えていた。
「アイン! どこに行っていたの!? 首輪の距離制限ギリギリまで離れるなんて……!」
「ごめん、リリア。どうしてもこれを、君に渡したくて」
俺は彼女の前に歩み寄り、小さな箱を開いた。
中に入った蒼氷石の指輪を見た瞬間、リリアの説教がピタリと止まる。
「これ……私に?」
「俺たちは慌ただしく辺境に来たから、ちゃんとこういうものを贈れていなかっただろう? 俺の過去に誰がいようと関係ない。俺の現在も、未来も、全部リリアだけのものだ」
俺が彼女の細い薬指に指輪をはめると、リリアは顔を真っ赤にして俯き、ポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。
昨夜の恐ろしい冷気はすっかり霧散し、ただの可愛らしい一人の少女に戻っている。
「ずるい……そんなこと言うなんて、ずるいわ……」
「機嫌、直してくれたか?」
「……今回だけ、特別に許してあげる。首輪も……外してあげるわ」
パチンと指を鳴らすと、俺の首を絞めつけていた氷が淡い光となって消え去る。
彼女が俺の胸に顔を埋め、平和で甘い時間が訪れようとした、まさにその時だった。
「アイン様! 急を要する事態です!」
クオンがノックもそこそこに執務室へ飛び込んできた。その後ろには、かつてないほど緊張した面持ちのヴァルガスとエレインが続いている。
【天災クラス】の二人すら顔を強張らせる事態。俺は即座に領主としての顔に切り替わった。
「何があった?」
「使者が来ました。あの、大国『アルカディア』からです」
アルカディア。その名を聞いて、俺も息を呑んだ。 ガルディアやルミナのような武力や魔力に偏った国ではない。
広大な領土、豊かな経済力、そして何より現国王の『賢王』と謳われる類まれなる手腕によって、大陸で帝国に並んで最も繁栄している覇権国家だ。
「軍を率いてきたのか?」
「いえ、使者は単騎。携えていたのは、アルカディア国王・オズワルド陛下からの親書のみです。アイン様に、直接の会談を申し入れたいと」
手渡された封蝋付きの書状には、極めて丁寧な、しかし一切の隙を感じさせない洗練された筆致でこう記されていた。
『突如として辺境に現れた新たなる覇者へ。 愚かな二カ国の軍勢を退け、かの天災をも心服せしめた貴殿の手腕、深く敬服いたす。 つきましては、我が国と貴殿の領地との今後の行く末について、剣を交えるのではなく、酒を酌み交わしながら語り合いたい』
「……ガルディアのような強硬手段ではなく、対話でこちらの底を探ろうってわけか。さすがは賢王、動きが早いな」
「どうしますか、アイン様。断れば、アルカディアを敵に回すことになりますが」
クオンの問いに、俺は手元の書状を机に置き、不敵に笑い返した。
「断る理由はないさ。俺たちの領地が国として認められるための、最高の舞台じゃないか」
薬指の指輪を愛おしそうに撫でるリリアと、頼もしい仲間たち。
辺境のいち開拓地から始まった俺たちの物語は、ついに大陸全土を巻き込む世界規模の盤上へと、その駒を進めようとしていた。




