月夜の闖入者
深夜。急激な発展を遂げる辺境の街も、この時間ばかりは深い静寂に包まれる。
執務と魔力回復の疲労が重なり、監視役であるリリアも、今日は俺のベッドの隣に置いた簡易寝台で穏やかな寝息を立てていた。
彼女の銀糸のような髪が月明かりに照らされるのを眺めながら、俺は一人、昼間の出来事を反芻して微かに寝返りを打つ。
エレナとの再会。
それは、俺の心の奥底に沈めていた、青く未熟な時代の記憶を否応なしに呼び覚ますものだった。
その時だ。 カチャリ、と。極めて微小な音と共に、寝室の扉が開いた。
「……誰だ」
声を潜めつつも警戒を露わにする俺の前に、音もなく一つの影が滑り込んでくる。
月光に浮かび上がったのは、薄手のネグリジェを身に纏い、艶めかしいボディラインを惜しげもなく晒したエレナの姿だった。
「しーっ。そんなに声を張ったら、可愛い奥様が起きちゃうわよ?」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、手にした小さな魔石を床に転がした。
途端に、俺とエレナの周囲だけに薄い膜のような防音の結界が張られる。
手際が良すぎる。間者や暗殺者がうごめくこの街の警備網を、冒険者の彼女がどうやって単独ですり抜けてきたのか。
「エレナ……お前、こんな夜更けに何をして……」
「何って? 昔の恋人に『夜這い』をかけに来たに決まってるじゃない」
俺の動揺をよそに、エレナは音もなくベッドへ這い上がり、しなやかな獣のように俺の上へ跨った。
ふわりと、鼻腔をくすぐる甘く成熟した香り。
リリアの纏う澄んだ冷気とは対極にある、人を酔わせるような熱と蠱惑的な匂いだった。
「……背は伸びたけど、近くで見ると昔の面影が残ってるわね。相変わらず、少し困ったような優しい目をしてる」
エレナの細く白い指先が、俺の頬から首筋へとゆっくり這っていく。
抗いがたい大人の色香に、俺の心臓が警鐘を鳴らす。だが、彼女のその手つきには、どこか酷く懐かしい温もりがあった。
俺がまだスキルを使いこなせていない駆け出しの冒険者だった頃。
特定のパーティーにも所属できず、日銭を稼ぐためにその日限りの臨時パーティーでクエストを受けたことがあった。
だが、運悪く強力な魔物の群れに遭遇し、俺を庇った一人の青年が命を落とした。
『お前だけでも逃げろ』と笑った彼の顔が脳裏に焼き付き、俺は深い喪失感と自責の念に押し潰された。
ギルドの片隅で、ただ虚空を見つめて塞ぎ込む日々。
食事も喉を通らず、暗闇の底へ沈みかけていた俺の手を無理やり引き寄せ、温かいスープを飲ませてくれたのが、当時中堅冒険者だったエレナだった。
『泣きたい時は、声を出して泣きなさい。私が隠してあげるから』
そう言って、彼女は自分の胸に俺の顔を押し当て、子供をあやすように一晩中背中を撫でてくれたのだ。
それがきっかけで、俺たちはほんの短い期間だけ、肌を重ねる関係になった。
「あの頃のあなたは、触れたら壊れてしまいそうな硝子細工みたいだった。……だから、私が守ってあげなきゃって思ったの」
エレナの吐息が、俺の耳元にかかる。
「アイン。あなたはきっと、私が傷ついた年下の少年の『弱みにつけこんだ』と思っていたんでしょう?」
「……俺は、あんたに救われたんだ。あの時、エレナがいなかったら俺は冒険者を辞めて――」
「違うのよ、アイン」
俺の言葉を遮り、エレナは俺の胸板に身を預け、見上げるように視線を絡ませてきた。
その瞳には、昼間の余裕めいた態度とは違う、剥き出しの熱情が宿っている。
「私はね、仲間を失ってボロボロになっても、必死に誰かのために泣けるあなたのその不器用な優しさに、最初から惹かれていたの。……あの頃からずっと、本気であなたが好きだった」
「っ……」
「弱みにつけこんだのは事実よ。そうでもしないと、あなたがどこかへ消えてしまいそうだったから。……でも、今のあなたはもう、誰かに縋らなくても自分の足で立っている。立派な領主様だわ」
エレナは自らの身をさらに密着させ、豊かな双眸の感触を俺の胸に押し当てる。
薄い布地越しに伝わる体温が、理性を焼き切るほどの誘惑となって迫ってきた。
「だから今度は、同情や慰めなんかじゃない。一人の女として、あなたを奪いに来たの」
「エレナ、俺には……リリアが……!」
「知ってるわ。でも、私だって引き下がるつもりはないもの。あの可愛らしい奥様には負けないわよ?」
彼女の濡れた唇が、俺の首筋にそっと触れる。
かつて俺の全てを包み込んでくれた恩人であり、俺の脆い部分を知り尽くしている女性。
彼女の猛烈なアプローチに、俺の全身から嫌な汗が噴き出し、どうやってこの状況を切り抜けるべきかと思考をフル回転させた。
その瞬間。
ピキッ……。
防音結界の表面に、霜のような白い模様が走った。 部屋の温度が、先ほどとは違う意味で――物理的に、急激に低下し始めている。
「……あら? 案外、お目覚めが早かったみたいね」
エレナがクスリと笑う。 隣の簡易寝台から、凄まじい冷気と殺気を纏ったリリアが、静かに、そしてゆっくりと身を起こす気配がした。
「ア・イ・ン……? なぜ、そこに別の女の人が乗っているのかしら……?」
極寒の地獄の底から響くような妻の声に、俺は寿命が数年は縮むのを確信したのだった。




