氷の戦乙女の暴走
獣人連邦へと続く街道を歩き始めてから、リリアの様子が明らかにおかしかった。
いや、以前から俺に対する好意は隠していなかったが、一度俺の『死』を目の当たりにしたことで、その執着のベクトルが完全に限界を突破してしまっていたのだ。
「アイン、歩き疲れてない? 私がおんぶしてあげようか?」
「いや、俺は別に怪我人じゃないんだから自分で歩けるぞ」
「だーめ!アインはさっき死にかけたんだから、私が一分一秒たりとも離れずにお世話してあげるの。ほら、腕、ぎゅーっ」
リリアは俺の右腕を両手でしっかりと抱え込み、胸に押し当てたまま離そうとしない。まるで迷子になるのを恐れる子供のような甘えっぷりである。
「……なぁ、クオン。あの青年についてだが、何か心当たりはないか?」
俺は歩きにくさを誤魔化すように、少し前を歩く獣人の暗殺者、クオンに問いかけた。
「あ、ああ。実を言うと、思い当たるフシはある」
クオンは振り返り、まだ恐怖が抜けきらないのか、自分の腕をさすりながら言った。
「我が獣人連邦に伝わる古いおとぎ話だ。『始原の神竜』は、その質量と力があまりにも巨大すぎるがゆえに、ただ呼吸をするだけで嵐を呼び、歩くだけで大地を砕いてしまう。だから、星の法則を乱さぬよう、自らの存在を『人間の姿』に極限まで圧縮して放浪しているという伝説だ」
「なるほどな。魔法やスキルの類じゃない。数億トンという規格外の質量を、あの青年の形に無理やり押し込めていたってわけか」
俺は納得して頷いた。 ステータスに表示されていた桁違いのデータ容量。
あれは、星そのものと同等の重さとエネルギーが、彼の中に詰まっていた証拠だ。
あんなものを正面から書き換えようとすれば、俺のインク(生命力)が即座に底をつくのも無理はない。一度システムの深淵に触れた今の俺なら、次はもっと上手く立ち回れるはずだ。
そんな考察を終えたところで、道の脇に澄んだ水が流れる小川が見えてきた。
「少し休憩にしよう。クオン、すまないがこの先の安全確保も兼ねて、少し周囲の偵察をお願いできないか? 俺とリリアはここで休んでいる」
「ああ、分かった。さっきの一件もあるしな、念入りに周囲を探っておく」
暗殺者であるクオンは気配を消し、あっという間に森の奥へと姿を消した。 これで、この場には俺とリリアの二人きりになった。
「よし、じゃあ少し座って休むか。リリア、腕を……」
俺がそう言って、リリアの腕を軽く解こうとして、半歩だけ距離を空けた、その瞬間だった。
――ピキィィィィッ……!!
突如として、周囲の気温が急激に下がり、足元の緑色の草花が一瞬にして真っ白に凍りついた。
「……え?」
「……どこに、行くの?」
リリアの声が、ひどく冷たかった。 振り返ると、彼女はうつむいたまま、その真紅の瞳から一切の『光』を失っていた。
「いや、すぐそこの倒木に座ろうと……」
「嘘。嘘よ。また私を置いて、一人でどこかに行っちゃうんでしょ?」
リリアの足元から、尋常ではない冷気が渦を巻き始める。 帝国最強の『氷の戦乙女』としての規格外の魔力が、暴走状態に入ろうとしていた。
「絶対に死なないって約束したのに……アインは、さっき私を置いて死んじゃった。私の手をすり抜けて、消えちゃった」
「リリア、落ち着け。俺はここにいる」
「ねえ、アイン。アインは優しすぎるから、また誰かを庇って勝手に死んじゃうかもしれない。……だから、もうどこにも行けないように、手足、凍らせちゃおっか?」
うっとりとした、けれど底知れない狂気を孕んだ瞳で、リリアが俺の頬に冷たい指先を這わせる。
今の彼女の心は、先ほどの喪失の恐怖によってひどく脆く、歪な防衛本能で塗り固められてしまっている。
俺は小さく息を吐くと、自らを拘束しようと伸びてきたリリアの冷たい両手を、逆に強く握り返した。
「アイン……?」
「手足を凍らせる必要はない。俺はもう、どこにも行かない」
俺は彼女の手を引き寄せ、その華奢な体を強く、正面から抱きしめた。
氷のように冷たかった彼女の体が、俺の体温に触れてビクンと跳ねる。
「10年前、隔離の塔でお前を助けた時は、ただ泣いている小さな女の子を放っておけなかっただけだった。ただの幼馴染として、ずっと妹のように思っていた」
「……っ、そんなの、いや……」
「でもな、違うんだ」
俺は彼女の耳元で、はっきりと告げた。
「この領地に来てから……リリアが俺のために怒ってくれたり、美味しいご飯を作って笑い合ったり、俺を守るためにボロボロになって戦う姿を見ているうちに、いつの間にか俺の目は、リリアを一人の女性として見るようになっていた」
「え……?」
「今回のことで、はっきりと自覚したよ。リリアを失うかもしれないと思った時、世界が終わるくらい怖かった。俺はもう、お前がいない世界なんて考えられない。俺は……リリア、お前を愛している」
俺の言葉が胸の奥にすとんと落ちたのか、リリアの瞳にゆっくりと光が戻っていく。
周囲を覆い尽くそうとしていた恐ろしい吹雪がピタリと止み、凍りついていた草花が元の青々とした姿を取り戻した。
「あい、してる……? アインが、私を……?」
「ああ。リリア、お前という1人の女に惚れたんだ。……だから、お前のこれからの未来ごと、全部俺に引き受けさせてくれないか。生涯を懸けて、お前を世界一幸せにするって誓う」
それは、この世界で彼女と共に生きると決めた、俺からのたった一つの真実の誓い(プロポーズ)だった。
木漏れ日が二人を優しく照らす中、リリアの瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。 それは先ほどまでの絶望の涙ではなく、心の底からの歓喜と安心に満ちた、温かい雫だった。
「……ずるい。そんなこと言われたら、もう絶対に、絶対に離れられないじゃない……っ」
「離すつもりはないさ」
リリアは俺の胸に顔を埋め、俺の背中に回した腕にぎゅっと力を込めた。
「私も……私も、愛してるわ。10年前も、今も、そしてこれからもずっと。アインのことを世界で一番、あなたを愛してる……!」
俺は彼女の銀糸の髪を優しく撫で、その涙に濡れた頬にそっとキスを落とした。
言葉通り、生涯を共にする誓いを立てた二人の時間は、世界で一番甘く、そして穏やかな温もりに包まれていた。




