死を拒絶する氷の戦乙女
静寂に包まれた大峡谷の街道に、リリアの悲痛な声だけが木霊していた。
「アイン……! 目を開けて、お願いだから……ッ!」
俺の体からはとめどなく血が流れ出し、緑の草花を赤黒く染め上げている。
リリアは自らの服が血で汚れることもいとわず、ピクリとも動かない俺の体をきつく抱きしめ、枯れるほどに泣き叫んでいた。
「嘘だろ……。あの男、魔法すら使っていなかったぞ。ただ指を弾いただけで、アインが……」
獣人の暗殺者であるクオンが、へたり込んだままガタガタと震えていた。
裏社会で数多の死線を見てきた彼女でさえ、先ほどの『青年』が放った純粋な暴力の余波に、心が完全に折れかけている。
「回復魔法が……効かない……っ! どうして!? 傷は塞がってるのに、アインの命が戻ってこない!」
リリアが震える両手で幾度も回復魔法をかける。
だが、その光がどれだけ体を癒やそうと、生命力という根源を使い果たした空っぽの器に、命の灯火が再び点ることはない。
「もう……ダメだ、リリア。アインの生命力が尽きてる……。もう、死んでるよ……」
「黙りなさいッ!!」
リリアの真紅の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ落ちる。
彼女の脳裏を支配していたのは、10年前に冷たい隔離の塔で感じた、あの絶対的な『孤独』と『絶望』だった。
あの時、自ら血を流してまで自分を温めてくれた少年が、今、自分の腕の中で永遠に冷たくなろうとしている。
「嫌……嫌よ! 私に未来をくれたのも、私の居場所を作ってくれたのもアインなのに……! なんで、私を置いていくのよぉっ……私を1人にしないでよぉっ……………!」
リリアは自らの内に眠る規格外の魔力を、強引に俺の体へと流し込み始めた。
それは回復魔法などという生易しいものではない。自分の寿命すらも削り、無理やり俺の心臓を動かそうとする、狂気じみた蘇生術だ。
「やめろ、リリア! そんなデタラメな魔力譲渡をしたら、お前の体が保たないぞ!」
「関係ないわ! アインがいない世界で生き残ったって、何の意味もないものッ!」
リリアの銀髪が激しい魔力流によって舞い上がり、彼女の口から苦痛の呻きが漏れる。
「アイン! 戻ってきて、アインッ!!」
リリアは祈るように、俺の血まみれの唇に、自らの唇を強く重ね合わせた。
――その瞬間だった。
『ピピッ……』
無機質な電子音のような響きと共に、俺の懐から分厚い一冊の本がふわりと空中に浮かび上がった。
本はひとりでにパラパラと捲られ、空中に緑色の光を放つ【システムウィンドウ】を映し出した。
【致命的エラー:術者は『死亡』しました】
その残酷な文字列を見た瞬間、リリアの顔が絶望に染まりかけた。
だが、ウィンドウの中で、信じられない現象が起きた。
まるで何者かがキーボードを叩いているかのように、エラー文の『死亡』という二文字が、バックスペースで強引に消去されたのだ。
「え……?」
呆然とするリリアとクオンの前で、空中に新たな二文字が入力される。
【上書き実行:術者は『睡眠』しています】
カァァァァァンッ!!
世界そのものが、巨大な鐘を鳴らしたような音を立てて震えた。
エラー画面が砕け散り、俺の体を包み込んでいた『死』という絶対的な概念が、世界のシステムから強制的にキャンセルされる。
直後。
俺の胸が、大きく上下に動いた。
止まっていた心臓が、トクトクと力強い鼓動を刻み始める。
「……すぅ……、……すぅ……」
「えっ……嘘……アイン……?」
リリアが息を呑む。
俺は死の淵から蘇ったという劇的なものではなく、ただ、休日の昼下がりに心地よい昼寝を楽しんでいるかのように、穏やかな寝息を立てていた。
「死亡を……睡眠に、書き換えた……? 自分の死という絶対の事象を、ただの状態異常として処理したっていうのか……!?」
クオンが両手で頭を抱え、理解の範疇を超えた現象に絶叫した。
「……んん、ぁ……」
騒がしい声に目を覚まし、俺はゆっくりとまぶたを開けた。
視界のピントが合うと、俺の胸に顔を埋めて、ヒックヒックとしゃくりあげている銀髪の少女がいた。
「……おはよう、リリア。ちょっと、寝すぎたみたいだ」
俺がかすれた声で呟くと、リリアの肩がビクッと跳ねた。
彼女は恐る恐る顔を上げ、俺と目が合うと、真紅の瞳をこれ以上ないほど見開いた。
「アイン……? アイン、アイン、アインッ!!」
「痛っ、ちょ、抱き着く力が強い、背骨折れる!」
リリアは俺の首に思い切りしがみつき、子供のようにわんわんと大声で泣き始めた。
「バカァッ! 10年前も、今回も! また私を庇ってひとりで死のうとするなんて最低よっ! 私を置いていくなんて、絶対に許さないんだからぁっ!」
「……わるい。でも、本当にただの『昼寝』だったんだ。心配かけてごめんな」
俺がそっと彼女の背中に手を回して撫でてやると、リリアは「うわぁぁぁん!」とさらに声を上げて泣きじゃくった。
最強の戦乙女の面影はどこにもない。そこにあるのは、愛する人を失いかけて恐怖に震えていた、等身大の可愛い少女だ。
俺は起き上がり、自分の手のひらを見つめた。
頭の奥が、少しだけ軽い。
前世で生きた28年間の記憶――コンクリートの街並みも、満員電車の匂いも、やり込んだゲームの画面も、今はもう『知識』としてしか残っていない。そこにあったはずの感情や執着は、すべてインクとして燃やし尽くしてしまった。
寂しさはない。むしろ、不要なキャッシュデータが消え去り、思考がかつてないほどクリアになっている。
もう現代日本の記憶はない。
この世界でリリアと共に生きる、ただの【書記官】アインだ。
「……たく。お前ら、本当に理解の範疇を超えた番だな。心臓が止まるかと思ったぞ」
尻餅をついていたクオンが、呆れたように、けれど心の底から安堵したようにため息をついた。
「アイン……っ。もう絶対、絶対に離さないんだから……」
「ああ。すまなかった。」
今回の一件で、嫌というほど思い知らされた。
世界には、あのおとぎ話の神竜のような、インクのキャパシティ上限を遥かに超える理不尽が存在することを。
そして、その理不尽からリリアたちを守るためには、俺自身のスキルの上限をさらに引き上げる必要がある。
(前世の記憶を燃やしたことで、スキルのより深い領域(ルート権限)へのアクセス感覚を掴んだ。……これなら、もっと面白い『書き換え』ができそうだ)
「よし。立てるか、リリア」
「うんっ。アインが手を繋いでてくれたら、歩ける」
すっかり甘えん坊モードになり、俺の腕にギュッとすがりつくリリア。
一度『死』を経験したことで、俺たちの絆は以前よりもさらに深く、強固なものになっていた。
世界の底知れなさを知り、同時に新たなスキルの可能性を手に入れた俺たちは、予定通り、空飛ぶ船の技術を求めて獣人連邦へと歩き出した。
どんな理不尽が待ち受けていようとも、この手だけは二度と離さないと、心の中で固く誓いながら。




