絶望の淵
意識が、底なしの暗闇へと沈んでいく。
『――アイン! アインッ!! 嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!』
遠くで、リリアの悲痛な絶叫が聞こえる。
ごめんな、リリア。
お前を泣かせるつもりはなかったんだ。だが、あの規格外の質量を書き換えるには、俺の生命力を最後の一滴までインクとして絞り尽くすしかなかった。
全身の感覚が消失し、冷たい虚無が俺を包み込む。 あぁ、これで終わりか。 そう思った瞬間、脳内に強烈なノイズが走った。
ガガッ、ジジジジッ……!
死の直前、脳が最後に処理する情報の奔流――
「いわゆる走馬灯というやつか………」
だが、そこに映し出されたのは、アインとして生きたこの世界での17年間の記憶だけではなかった。
『……なんだ、これ』
ネオンが瞬くコンクリートの街。
満員電車に揺られる日々。
パソコンのモニターに映る無機質なエクセルの羅列と、システム言語。
深夜の薄暗い部屋で、現実逃避のようにコントローラーを握りしめ、無数のファンタジーRPGやMMOをやり込んでいる『自分』の姿。
そうだ。思い出した。
俺は、現代日本でシステムエンジニアとして働く、20代後半のしがないサラリーマンだった。
過労で倒れたあの日。気がつけば、俺はこの異世界で『アイン』という名の孤児として転生していたのだ。
俺の固有スキル【世界編纂】
対象のステータスや世界の法則をテキストとして書き換えるその力は、前世で俺が死ぬほど叩き込んできた「システム管理」と「ゲームのデバッグ作業」そのものだったのだ。
俺が前世の記憶という『隠しフォルダ』を開封したのと同時に、走馬灯は、この世界での最も古く、最も鮮烈な記憶へとアクセスした。
――あれは10年前。俺が7歳、リリアが6歳だった頃の記憶。
当時のリリアは、次期皇位継承者どころか、帝都の最奥にある『隔離の塔』に幽閉された『呪われた皇女』だった。
生まれつき、強大すぎる氷の魔力を宿してしまった少女。
その力は彼女自身の肉体すらも侵食し、内側から心臓を凍らせていた。
宮廷の最高位の魔術師たちすらも匙を投げ、「あと数ヶ月で全身が凍りついて砕け散るだろう」と宣告されていたのだ。
問題は、彼女の部屋が『常人なら数分で凍死するほどの絶対零度の地獄』と化していたことだ。
メイドや兵士たちは死を恐れて誰も近づかなくなった。そこで皇室の大人達が思いついたのが、スラムから身寄りのない孤児を『使い捨ての配膳係』として二束三文で買い叩き、部屋に送り込むことだった。
その捨て駒の一人が、孤児だった7歳の俺だ。
凍傷で指先を黒く変色させながら、重い食事のトレイを運んで鉄の扉を開けたあの日。
誰も寄り付かない、氷点下まで冷え切った暗い部屋。
幼いリリアは一人、粗末なベッドの上で膝を抱えていた。
まつ毛には霜が降り、細い腕は青黒く変色している。彼女はただ、自分という存在が完全に凍りつき、壊れるのを待つだけの『呪われた人形』だった。
『……さむい、よぉ。だれか、たすけて……いやだ、しにたく、ない……』
孤独と寒さに震え、絶望だけを抱きしめて最期を待っていた彼女の姿を見た瞬間、俺の目の前に、彼女の『ステータス』が可視化された。
それは、俺の【世界編纂】が初めて覚醒した瞬間。
【対象:リリア・フォン・クロスロード】
・状態:『暴走する氷の呪い(余命1ヶ月)』
俺は、凍りつく手で迷うことなく懐の羽ペンを握った。
このまま絶望の中で死んでいくには、彼女はあまりにも幼くて、可哀想すぎたからだ。
『暴走する氷の呪い』という文字をバツ印で消し、『氷竜の加護』へと書き換える。
だが、余命わずかの呪いを「最強の才能」へと反転させるためのコストは、幼い俺のインク(生命力)容量では到底足りなかった。
書き換えを実行した瞬間、俺の全身の血管が弾け、口から大量の血が吐き出された。
『えっ……? あなた、だれ……どうして、血を……!』
俺の血が、彼女の冷え切った頬に飛び散る。
俺は薄れゆく意識を必死に保ちながら、ステータスの最後に『ある一文』を書き足した。
急激な設定変更で彼女の体が崩壊しないよう、俺自身の魂の一部を楔として彼女の中に打ち込み、安定させるための処置だ。
『……これで、君はもう、寒くないよ』
俺が血まみれの手で彼女の頬に触れると、凍りついていた彼女の体温が、ふわりと温かいものに変わった。
俺の命を削った代償として、彼女は呪いから解放され、強大な力を御する術を手に入れたのだ。
『あなたが……私を、助けてくれたの……?もしかして…自分の命を掛けてまで……?』
血溜まりに倒れ伏す俺の手を、幼いリリアが両手で強く、強く握りしめる。
その真紅の瞳から、温かい大粒の涙が溢れ出していた。
誰からも見捨てられ、使い捨ての孤児が運んでくる食事だけを待つ暗闇の世界。
そこに現れた名もなき少年が、自ら傷つくことを厭わずに与えてくれた『光』と『温もり』。
『死なせない……私に未来をくれたあなたを、絶対に死なせたりしない……!』
彼女は俺の血で染まった手を胸に抱きしめ、新たな自らの神に誓うように言ったのだ。
『私は、あなたのために生きる。私の命も、心も、これからの未来も……すべてはあなたのもの。だから、どうか……!』
――その日、絶望の淵にいた6歳の氷の皇女は、生涯を懸けて愛し、守り抜くべき『たった一つの生きる理由』を見つけた。
そこで、走馬灯は途切れた。
・・・
再び、現在に戻る
死の淵の暗闇の中
俺は、ゲーマーでありシステム管理者だった前世の思考で、冷静に現在の『エラー画面(自分自身の死)』を分析していた。
(インクがゼロになり、メインシステムたる俺の生命活動が停止した。RPGで言えば『HP0によるゲームオーバー』、システムで言えば『致命的エラーによる強制シャットダウン』の真っ最中だ)
だが、完全に電源が落ちる(死ぬ)までには、まだ数秒の『ラグ』がある。
前世でやり込んだ数々のファンタジーゲーム。
その中には、死の判定が下された瞬間のコンマ数秒に特定のコマンドを入力することで、死を無効化する裏技(バグ技)が存在するものがあった。
(俺のスキルは、世界のルールをデバッグする管理者権限。なら……この俺自身の『死』というイベントすらも、システムの抜け穴を使えば回避できるんじゃないか?)
俺は暗闇の中で、自らのシステムコンソールを開いた。
当然、インク(魔力)はない。通常の書き換えは不可能だ。 だが、走馬灯によって『前世の魂』がアンロックされた今なら、一つだけ、一度きりしか使えない禁じ手がある。
(見つけたぞ。俺の魂の深層に眠る、前世の記憶領域『28年分の不要なキャッシュデータ』。これをすべて圧縮し、純粋な『インク(魔力)』として強制変換する!)
それは、俺が現代日本で生きた28年間の記憶――感情、未練、思い出といった前世の魂の残滓を、燃料として完全に焼き尽くす行為。
二度と前世の自分を思い出すことはできなくなる。完全に、この異世界の『アイン』としてのみ生きることになる。 だが、リリアを残してここで死ぬことに比べれば、安い代償だ。
(変換完了……一時的なオーバーフローを確認! これで、2文字だけなら書き換えられる!)
俺は、目の前に表示されている自分自身の死亡宣告エラー、その文字列に目を向けた。
【致命的エラー:術者は『死亡』しました】
(書き換えるのは、この2文字だけだ。俺はゲーマーだぞ。死亡フラグの回避くらい、腐るほどやってきたんだ)
俺は、絞り出した最後の一滴のインクを指先に込め、エラー画面の『死亡』という二文字を乱暴に削除した。 そして、代わりに書き込む。
システムを欺き、ゲームオーバーを強制的にキャンセルするための、最強の状態異常を。
「上書き実行――『睡眠』ッ!!」
暗闇の世界に、実行キー(エンター)を叩き割るような、激しい起動音が鳴り響いた。




