始原の神竜
「私の負けだ。……くそっ、このボードゲーム、奥が深すぎる」
領主の館の縁側。 獣人連邦の暗殺者改め、すっかり居候となっている少女――クオンは、盤面に突っ伏して悔しそうに尻尾をパタパタと揺らした。
「ふふん! 領主の正妻である私に勝とうなんて、100年早いですわ!」
リリアが勝ち誇ったようにふんぞり返り、俺の腕にギュッと抱き着く。
「わるいな、クオン。リリアは昔からこういう卓上遊戯に強くてな。……ところで、お前を雇ったのは獣人連邦のどの派閥だ?」
俺が尋ねると、クオンは盤面を片付けながらあっさりと口を割った。
「連邦の急進派だ。この辺境に極上の魔力温泉が湧いたと聞き、領主を暗殺して土地を乗っ取ろうとした。……だが、こんな面白くて温かい街を壊すのは、もうごめんだ」
「そうか。なら、急進派を黙らせるためにも、連邦のトップと直接『和睦』を結んだ方が良さそうだな。特産品の流通ルートも広げたいし」
俺の言葉に、クオンは獣耳をピクリと立てた。
「なら、うちの『飛空船』の技術を取引条件にするといい。我ら獣人連邦は、魔力を持たない代わりに、風と重力を操る特殊な鉱石で空を飛ぶ巨大な船を持っている。それがあれば、帝国の商会に頼らずとも、空の物流ルートを独占できるぞ」
「空飛ぶ船……! それは喉から手が出るほど欲しい技術だ。決まりだな」
こうして俺たちは、和睦と飛空船の技術提供を求めて、獣人連邦へと向かうことになった。 大軍を動かせば無用な警戒を生むため、向かうのは俺、護衛のリリア、そして案内役のクオンの三人だけという少数精鋭の旅だ。
・・・
辺境領を出発し、獣人連邦へと続く緑豊かな街道を歩くこと数日。 道中はリリアの作ったお弁当を食べたり、時折現れる魔物をリリアとクオンが遊び半分であっさりと蹴散らしたりと、まるでピクニックのような平和で穏やかな旅が続いていた。
「アイン! 見て、あそこに綺麗な花が咲いてるわ! アインに似合いそう!」 「いや、俺に花を飾ってどうするんだ」
笑い合う俺たち。 柔らかな木漏れ日が降り注ぐ、ありふれた昼下がり。
前から、一人の男が歩いてきた。
すれ違っても記憶に残らないような、ボロボロの灰色のローブを着た、くたびれた様子の青年。 手にはかじりかけの林檎を持ち、あくびをしながらゆっくりと歩いてくる。
魔力も、殺気も、闘気も、何一つ感じない。 帝国最強であるリリアも、獣人の暗殺者であるクオンも、彼を「ただのしがない旅人」と認識し、道を譲るように少しだけ端に寄った。
俺たちと青年が、ちょうどすれ違おうとした、その瞬間だった。
「……ん?」
青年が、ふと足を止めた。 眠たげな目で、まじまじと俺の顔を見つめてくる。
「どうした、あんた。道でも迷ったのか?」 俺が気さくに声をかけると、青年は林檎をかじりながら、不思議そうな顔で小首を傾げた。
「いや……君、世界からひどく『浮いてる』ね。法則の結び目がグチャグチャだ。重い荷物を背負わされて、苦しいだろう?」
「は?」 「可哀想に。僕が楽にしてあげるよ」
青年は、本当に、ただ親切心から迷子の子供の頭を撫でるような、ごく自然な動作で。 俺の胸元に向けて、軽く指先で『デコピン』を放った。
敵意など微塵もない。
魔法の詠唱も、予備動作もない。 だが、そのデコピンが放たれるコンマ数秒の世界の中で、俺の脳内に狂ったような『けたたましい警告音』が鳴り響いた。
「……ッ!?」
俺の目に映る世界が、一瞬にしてスローモーションになる。 【世界編纂】が自動で可視化した、目の前の青年のステータス。
それは、魔王でも、人間でもない、これまでみたことのない存在だった。
世界に影響を与えぬよう『人間の姿』に圧縮して気まぐれに歩き回ってるような存在。
純粋な暴力。圧倒的な質量の塊。
ただ『途方もない力を持っている』という、単純にして最強の物理の頂点。
【対象:始原の神竜】
青年が放った、ただの慈悲によるデコピン。
だがそれは、俺の背後にいるリリアとクオン、さらにはその後ろにある山脈すらも一直線に消し飛ばすほどの、純粋な『破壊の塊』だった。
「リリアッ!!」
俺は叫ぶ間も惜しんで、空中に指を走らせた。
【世界編纂・直接入力】
放たれた不可視の一撃のステータスを書き換えて消去する!
だが、空中に展開された神竜の攻撃データ(文字列)を見た瞬間、俺は戦慄した。
・威力:999,999,999,999……
・規模:999,999,999,999……
文字化けではない。ただ純粋に、データ容量がデカすぎるのだ。
これまで俺が書き換えてきた魔王のデータが『1』だとしたら、この青年のデコピンは『億』の質量。
こんなものを書き換えようとすれば、消費するインク(生命力)は俺のキャパシティを遥かに超える。 ――脳内に、『警告』の赤い文字が浮かび上がる。
『警告:インク残量が不足しています。強制的に書き換えを実行した場合、術者の生命力をすべて消費し、死に至ります』
死ぬ。
これを書き換えれば、俺は確実に死ぬ。
だが、この一撃をスルーすれば、背後にいるリリアたちは木っ端微塵に弾け飛ぶ。
青年の指が弾かれる瞬間。 俺の脳裏に、これまでの彼女の笑顔が、俺を不器用なまでに愛してくれた日々の記憶がフラッシュバックする。
「……わるいな、リリア。俺に唯一手を差し伸べてくれたリリアだけは死なせるわけにはいかないだろ」
俺は警告を無視し、自らの心臓を握り潰すような激痛に耐えながら、強引に『実行』の文字を叩きつけた。
「【強制書換】……ッ!!」
バチィィィィィンッ!!!!
世界が真っ白に明滅した。
神竜が放った致死の一撃が、俺の生命力を代償にした書き換えによって、ただの一陣の温かい春風へと変わってリリアの頬を撫でる。
「……え?」
リリアが呆然と目を見開く。
「おや?」
青年は、自分の指先を不思議そうに見つめた。
「今のを無かったことにするなんて、面白い生き物だね。まあいいや、君がそれでいいなら」
青年は、自分が何をやったのか(そして相手がどうなったのか)を気にする素振りも見せず、再び林檎をかじりながら、のんびりとした足取りでそのまま街道の奥へと歩き去っていった。
まるで、道端の小石を蹴り飛ばしただけの、日常の延長のように。
「ア……、イン……?」
リリアが安堵して振り返った先。 そこには、全身の毛細血管が破裂し、血だまりの中に崩れ落ちたアインの姿があった。
【世界編纂】の代償として生命力を文字通り『絞り尽くされた』俺の体は、ピクリとも動かない。
意識が、深い暗闇の中へと沈んでいく。
「あ……あぁ……」
薄れゆく意識の最後。 俺の耳に届いたのは、世界で一番強くて、世界で一番俺を愛してくれた少女の、この世の終わりを嘆くような悲痛な絶叫だった。
「アイン! アインッ!! 嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
血に染まった俺の体を抱きしめ、氷の戦乙女の涙が、木漏れ日の降る平和な街道に響き渡った。




