5 『[個体名称を設定してください]』
きっと私は、落ちている。
ここは暗く、深く、長く、遠く、鈍く、重く、怖く、熱く、寒く、何よりも眠かった。内耳液に揺れるクプラが、身に巣食う残穢が、上下の反転を感覚として脳の中ではしゃぎたてては、騒ぎ散らしている。
違和感があるとして、それを『違和』として捉えられなくなるのは、いつの事なのだろう。付随する知識や経験を得たらそれは解消される物なのか、或いは共に過ごす時間が大事なのか。
違和感、違和感。そして違和感。
電車、或いはフェリー。それらを長時間乗った後に降りた時、まるで地面ががたがたと揺れ、或いはゆらゆらと揺れているような感覚の余韻。自らが正しく、世界が間違っているのだと唱える傲慢な平衡感覚。
揺れている、崩れている、落ちている。
何れかに該当する筈で、そのどれにも属さない物。
「――――」
そして……〝それら〟など、どうでもいいと思える違和感。
体内が泥濘の液で満たされて、なのに苦しげな物を一切感じさせず、厚顔無恥にも居座り平然としている。ハイジャックされた航空機の操縦桿は、本人確認も無しに掌握されていた。
だから、必要だった。
ある種の主体が、寄生虫が、パノプティコンに於ける監視塔にも似た役目を誇る『遍在する監視者』が。或いは、分散的であり、居住者であり、二重的な独り言である、演者が。
必要だった。材料があった。
目的があり、意志が付随し、何よりも――気分が、悪かった。
だから、私は。
『――――』
だから、だから、だから――、
▼△▼△▼△▼
嘔吐。
「ぅ、ぶ……ぇっ」
その二文字は、現状を表すに於いて最も適切だった。
当然と言えば当然の話で。
以下は単なる推測ではあるが、今の私は『概念的なデコピン』を食らっている状態なのだから。
幾千幾万……詳しくは分からないが長年停滞していた〝時計の針〟が通常運転に戻ってしまえば、私がツケにツケていた月日という名の負債を補う為にぐるぐると時計盤の上を激しく巡るのは必然でしかない。
絶叫系のアトラクションみたいにね。
そしてその力は、私の脳に襲い来る。気分が悪くなるのもやむなし――、
「っは、……はーっ」
――という現実逃避は、もう終わり。
収縮を繰り返す胃を肋骨越しに掴みながらも、地面に片手を付いて立ち上がった後、口元を赤に染まった袖で一拭きした。息を深く吸って血の匂いを吸い込み、増した吐き気を追い払う為に溜息を吐く。
呼吸という一連の動作を挟んでから、日の明かりを享受した。
「……眩し」
〝黒い穴〟の先は〝森〟と呼ぶべき地帯に繋がっていた――いや、物理的に繋がっている訳ではなさそうだけど。意識を失っていたからどう移動したかも分からない。
正直な話、原理とかを考えるのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
〝剣と魔法のファンタジー〟に一体どれほどの現実性が含有されているというのか。これほど馬鹿げていてふざけたような世界で、普通の思考などに一体どのような意味があり、価値があるというのだろう。
『――こんにちは。望月璃奈』
「ほらね、思った傍からこうだ」
脳内で響く女性的な声に対し、状況を軽く見る声音と共に肩を竦めて茶化す。とりあえず一番近い場所に聳え立っている針葉樹に寄り掛かり、瞼を閉じた。
「で、脳内で囁く君はだぁれ? 私のイマジナリーフレンド?」
『……璃奈、私はそんな曖昧模糊な存在では――[下位権限の行使により、人格の消去を開始します]』
今更だけど、自殺する時にあの出刃包丁で首を抉りまくった所……痕になってないかな。仮に残ってたとしたら相当グロテスクになってそう。
その予想以外には、大して痛みとか違和感は無いからいいけれど。
『……ぇ、は? ちょっと、ま、待ってください! 璃奈、消去プロセスを――!!』
「……」
『――[メインシステム初期化に伴い、一時的に休眠状態へと移行します]』
……あ、そう。
「まあ、どうでもいいや」
今脳内で起こった一連の事象を整理する為に目を開き、首元を左手で抑える。殆ど放棄しかかっている思考を拾い直し、深呼吸しながら頸動脈から伝わる甲斐甲斐しい振動を掌で拾い上げた。
まあ、あれだ。
私は〝拾い食い〟をした所為で悪い物を口に入れてしまったらしい。さっきのはきっと、ラトボニルが体内に飼っていたガールフレンドか何かだろう。頭の良い寄生虫とか。
性癖は人それぞれだしね、うん。
「期せずして、私は体内で二人の仲を取り持つキューピッドになったのかな」
他にも想像できる事はあるが、現状の情報では妄想止まりで空想止まり。色々と余計な物を挟みはしたが、恐らく転生した私にとっては……妄想や空想などでは情報の解像度が足りやしない。
この地で生きていく上では、全く持って。
「全く」
あそこで、〝明確な裏〟が出ていればこんな考えずに済んだのに。
しかし。
此処で幾ら嘆いても仕方ない。出てしまった物はしょうがない。
意思に準じ、則り、従うしかない。
まあ、要するに――、
「私は、〝私〟のやりたいようにやる」
言ってしまえば、ただそれだけだ。
▼△▼△▼△▼
『[個体名称を設定してください]』
方針指針に寄る辺に知る辺。生きていく上に必要な信念や覚悟を固めた後に、取り敢えずジャンプしたり周囲を見渡してみた結果、ここは『あの空間』とは違い物理法則もそれ以外も真っ当に働いているらしい。
……多分ね。
『[個体名称を設定してください]』
あと植生や気候もそれほど地球から外れた物ではない……と思う。
『[個体名称を設定してください]』
なんか変な色をした葉っぱが生えているけれど、ただ単に私が知らないだけかこの世界の固有種か……まあ、今は考えても分からないので放置。
『[個体名称を設定してください]』
「……」
『[個体名称を設定してください]』
[休眠状態]とやらから脱したのか、さっきからずっと騒がしく鳴いているこの声は……よく、分からない。あの女性的な声の〝抜け殻〟とかだろうと考えてるけど、確かめる術がないからどうにもできない。
『[個体名称を設定してください]』
「ヤダね。私、命令とか嫌いなの。分かる?」
『[個体名称を設定してください]』
「……分かんないみたい」
五秒の間隔で頭の中で発せられる相も変わらず女性的な声。人格が無くなっても喋り続けるとは殊勝な事だね。その姿勢は嫌いではない。
まあ、好きでもないが。
『[個体名称を設定してください]』
「……」
『[個体名称を設定してください]』
前言撤回、やっぱ嫌いだ。こいつうるさい。
こうも喚かれると逆張りしたくなる。
脳内で独り言を延々と紡ぎつつ、頬を撫でる微風に意識を向け、見える風景の中で目の付く箇所を点々と視線に捉えていく。
揺れる雑草に露出した土色の地面、数多く生えた木々に、丸みを帯びた緑色の何か――、
「ん? 何あれ」
『[個体名称を設定してください]』
君に聞いてないって。
「苔むした岩、きのこ、低木、何かの頭部」
思い当たるのは、まあこんな所。
とりあえず足元の小石を拾い上げ、緑色の何かに向かってぺいっと投擲。
狙った軌道よりもやや直線的な放物線を描き、豪速球と言っても過言ではない速度で空間を進む小石は……目標である丸みではなく円柱の木に当たった。
「グギャアッ!!」
響く声。
『[個体名称を設定してください]』
「……んー、あれはゴブリンでいいんじゃない?」
脳内に対する囁きへの返答内容通り、緑色の何かは『ゴブリン』と呼称すべき様態を呈していた。
茂みに紛れる濃緑色の矮躯に、ペースト状にした生ゴミみたいな色の腰布。かりんとうと対して見た目の変わらない棍棒を持ったその手は土に汚れていて、尖った鼻や耳や視線が攻撃性を象徴している。
あれがゴブリンじゃなくて先住民なら、私は困る、とても困る、すっごい困る。思いっきり石投げちゃったし。
「ねぇ君! 言葉は話せ――」
「――グッギャアァァァアアアア!! アァッ!! アァァァァアア゛ア゛ア゛!!!」
残念、話せないみたい。
直接当ててないとはいえ、或いはだからこそ先程の投石を威嚇と判断したのか。半ば発狂しながら茂みを掻き分け棍棒振り上げ、ゴブリンが突撃してくる。
明確に攻撃の意志があるから、先住民だとしても正当防衛になるだろう。
とはいっても。
こちとらひ弱な女子高生。
父と神を殺した頼りの包丁も紛失済み。
取れる選択肢は――、
「逃げ一択」
直ぐ様不届き者に背を向けて、裸足というかタイツしか履いてない足で走り出そうとする。小石や木枝が足裏を傷付けようとも、元々このタイツは血濡れなので全く問題なし。
『[個体名称を設定してください]』
そう考え、一歩踏み出すと、
「なん……っ」
危うく転びかける。
無理矢理に崩れた重心を整え、少ししか痛みの感じない裸足をまたも地面に差し出して、押し込んで。予想より上、想定の二倍程度だと思われる身体能力で逃走を続ける。
ゴブリンの聞くに絶えない猿叫を聞き流し、視線をしっかりと前に向かわせた。
『[個体名称を設定してください]』
五秒毎に掛けられる声を今後も含めて意識外に追いやり、視界の情報を精査してみれば『森林』としか形容できない景色ばかり。鬱蒼、という言葉がこれ以上似合う物は無いだろうと思える程度に。
走り続けて目を走らせて、都合の良い樹木を探していく。
こちらの身体能力も高いと言えるが、あちらもあちらで低くはないらしい。視界の端で、目を血走らせながら追い縋るゴブリンを見留めつつも、一瞬姿勢を崩して拳程度の石を拾い上げた。
それはスカートのポケット行き。
「……っ、はっ」
何故か足が速くなっているが持久力までもがそれに準じている訳ではないらしく、運動不足に栄養失調も祟って息が上がり出す。途切れた自らの呼吸を聞きながら、漸く見付けた目標に向かって歩を進めた。
一瞬振り返り、直ぐ様に前を向いて。
目標に辿り着き、斜め一歩前に足を出してから。
ぐっ。――と、膝を屈めて。
伸ばして飛んで、丁度良く突き出ている太めの枝を掴んだ。
その跳躍の勢いを利用して、枝を軸としながら逆上がりするようにぐるんと回り、半回転が終わった辺りで枝の上に足を付ける。
枝を支流とするのなら本流である幹に片手を突き、少しばかり体重を預けて今後の為に軽く息を整えておく。そうして音を潜めつつも呼吸を均していると、私を追いかけていたゴブリンが眼下に到着した。
「……グギャ?」
さっきまでの標的がいない事に対して、右往左往の動作にて戸惑いを表明する人外を見下す。
片手でスカートのポケットを探り、一つ息を吸う。
『[個体名称を設定してください]』
未だに意識に居座る声。それを、聞き流す。
体重を前に傾け、片手に石を握り、緑の頭蓋目掛けて。
「。」
飛び降りた。
凡そ間近に迫った小柄の肩を掴みつつ、頭部には遅れて右手の鈍器を振り下ろし――自身の体重で押し倒す。
息が詰まる衝撃を無視しながら即座に馬乗りになって、微量の血液が付着した大きめの石を両手持ちに。
「――――」
――振り、下ろした。
『[個体名称を設定してください]』
振り下ろす。
『[個体名称を設定してください]』
振り下ろす。振り下ろす。
『[個体名称を設定してください]』
振り上げて、振り下ろす。
『[個体名称を設定してください]』
緑が破ける。赤が広がる。
『[個体名称を設定してください]』
黄ばんだ脳漿。黄白色の解れる神経。
『[個体名称を設定してください]』
鮮やかである赤と、仄暗い赤。
それらが混ざり、即ち血管が縺れ合う。
『[個体名称を設定してください]』
象牙色の頭蓋が砕ける感触。砕く感触。
次いで肉が磨り潰れる感触。磨り潰す感触。
砕けた眼窩から漏れ出た硝子体。
じきに一対の眼球が弾ける。歯列がその隊列を乱す。
『[個体名称を設定してください]』
振り下ろす。その度に粘性の水音が響く。
振り下ろす。その度に固形が粉末になる。
振り下ろす。その度に原形を喪失しだす。
『[個体名称を設定してください]』
脳の鮮やかな桃色が、皮膚の緑と、血肉の赤と、骨格の白とで汚され、飾り立てられていく。
『[個体名称を設定してください]』
振り下ろす。振り下ろす。振り下ろす。
『[個体名称を設定してください]』
振り下ろして、振り下ろす。
『[個体名称を設定してください]』
振って、下ろす。
『[個体名称を設定してください]』
振って、下ろして、下ろして。
『[個体名称を設定してください]』
石を、遠くに投げた。
そうして息を、深く吐く。
死体から離れて、倒れるようにして木に寄りかかって。
ぐしゃりと、前髪を握る。
「……」
特に、殺害による動揺は無かった。




