4 『NEW GAME』
「……ぅ、ん。んー……!」
いつも通りの頭痛を伴いながら、重い瞼を押し開く。毎朝毎朝襲い来る頭の痛みにはとっくに慣れていて、目覚まし時計代わりの脳が疼くような痛みは、とうに眠気を払拭してはくれなくなった。
いつそれに慣れたのかは、忘れてしまったけれど。
忘却、或いは棄却された記憶を捨て置き、混濁した前後関係を整理する為に深呼吸しながら、目を、瞬くと――、
「――あー、っと?」
明確に、そして急激に覚醒した頭。目が覚めた先の光景は雪国でも、ましてや異世界でもなく、意識の途切れる前と等しくどこまでも、どこまでも空虚な空間だった。
とりあえず、気を失う前より酷い状態――誰からも忘れられて焼き焦げてしまったバーベキューの肉みたいになっている〝ラトボニルだった物〟に視線を向けて、焦げた息を吸う。
「……なるほど」
推測するに。きっと、ラトボニルの身体は【赫い華】から避雷針のような役目を果たしたのだろう。でなければ今こうして思考してはいない。
だから私は生きていて、ラトボニルの身体は私の代わりとして黒焦げに成り果てている……と。
それでも制服の袖や裾とか、ちょっと焼けちゃってるんだけど。
「考えられるのは、照準ミス? 私があれだけ覚悟固めて高笑いまでしたのに?」
【多重――、なんだっけ。
正式名称はともかく、【神罰】とやらをラトボニルが発動させた状況は切羽詰まった物であったから、現実性という観点で規格外の現象を起こそうとすれば、幾らかの間違いがあってもおかしくはないのだろう、たぶん。
原因がどこにあろうと……少なくとも、焼却炉で焼かれたのは私ではないらしい。
「まあいいや。全然良くないけど」
実際として、私は生きている。
であれば思考が必要とされている。
端が少し焦げているスカー卜の端を摘んでからぱたぱたと仰ぐ。軽くたくし上げたからか目に見えた、脚を包んでいた筈のタイツが、穴が空くようにしてぼろぼろになっている事に溜息を吐いたりなどをして。
なんだかんだしてから膝を数回曲げて、伸ばして、立ち上がり、組んだ両手を上に向けて身体をぐぐっと伸ばす。
腰の調子を確かめる為に、体をぱきぱきと鳴らしながら捻ってー戻してー。
紺色のブレザーにも白色のブラウスにも点々と跡を残している細かい灰燼を叩いて払ってから、頭髪の隙間に差し込んだ掌をしっちゃかめっちゃかに動かしていく。
犬が水を飛ばす為、体をぶるぶると振るうみたいに。
ぐちゃぐちゃーって。
数秒そうした所で視界を邪魔してくる乱れまくった髪を適当に整え直し、左手で髪を耳の輪に掛けた。体と顔で受け止めた『二人分の返り血』は放置。なんかもう乾いてきてるし、匂いは慣れてきたから平気。
さて、私の考えるべき事は明白。
それは――この先どうするか、という事。
どうやら私が頭上に向かって投げたコインは、状況から推測するに〝完全な表〟を指し示したらしい。中途半端な物ではなく、机の上でどっち付かずにくるくると回る事もしない、明瞭な〝表〟を。
要するに、賭けに勝った訳だ。
なればこそ、己が意思の結果を受け止め、この先を考えるべきだろう。賭博の結果にこそ私は関与できないが、それを承知で命を賭けたのは、どうしようもなく〝私の意思〟なのだから。
というか、受け止める事しかできない。
『転生』だの『俺TUEEEE』だのと宣っていたこの空間の主と思われるラトボニルは、もう死んでしまったのだから。
【多重神罰】とやらを受けても傷一つ無い、真夜中のように黒滔々とした地面を私の筋力でどうこう出来るとは思えないし。というか、この空間の脱出口も全然視界内には見当たらないし。
これはラトボニルが悪い。私は悪くない。
確かに『切れ味の良い包丁』を使ったとはいえ、斬り付けて手首を切り落として心臓と喉を何度も刺して首を刎ね飛ばしたぐらいで死ぬ自称神が悪い。私は悪くない。
「やっぱり君は、神なんかじゃないね。不完全に過ぎるし、指が多過ぎるしで」
肩を竦めながらの皮肉。
皮も無ければ肉も無いような言葉を浴びせられた、石炭とそうは変わらない……というか実際に炭化している仰向けの遺骸を爪先でつっついていると、その二の腕が煤けた灰の塊として崩れていく。
どうやら、ラトボニルは日焼け止めを塗り忘れたらしい。
「いや、血液でも案外紫外線は防げるのかな」
考える事、というより、考えたい事はまだある。
ラトボニルに鮮血を噴き出させた原因の、神殺しのMVPたるあの包丁は一体どこから来たのだろうか。途中から何故だか色がより増して黒っぽく変わってたし。
ここに連れ込まれる前からずっと抱いていた疑問に従って、目を凝らしながら周囲を見渡してみる。けれど、少し崩れた黒焦げの焼死体以外には何も無く、黒地の床が無機質な印象を返してくるだけ。
インテリアのセンスが皆無。
唯一称賛に値しそうな細かなグリッド線が描かれた床を見る為に、もう少し下に視線を向けると、
――腹に、穴が。
「……空い、てる?」
恐る恐る楕円状のぽっかりとした穴に手を伸ばして、輪郭部分に触れてみる。
服を無視して開いている亀裂は、この数時間でとっくに慣れた血臭さや生温さといった物は感じられないし、痛みも無い。
その上、何やら白い突起のような物が、無数に鋭く生え揃っていて……。
「なる、ほど」
この身はどうやら、異形に堕ちてしまったらしい。
おめでたくラトボニルの仲間入りだ。
七本の指などではなく、腹に空いた〝大きな口〟と形容すべき何か。とりあえず色々と試してみるけれど、正中線の深い亀裂には妙に力が入っている所為で閉じたり開いたりは出来ない。
咀嚼も出来ない開けっ放しの口にどのような価値があるのかと思っていると、胸骨から下腹辺りまで続いている〝口の端〟の下腹側からは、涎の隠喩とでも言いたげな『黒い靄』が漏れ出していた。
堕ちた身の先は異形ではなく、ディーゼル機関車らしい。
このまま黒い煙のようなものを垂れ流しながら、線路を走って生きていこうか。
脳内で軽口を叩いて平静を保とうとしている時でも止まる事のなく、溢れ落ちる血のように濁々と『黒い靄』は溢れ出していく。私の足元に広がりながら。
黒い床を更に黒く汚染していく黒がかった霧は、殆ど同色に成り果てているラトボニルの死体に絡み付き、その侵食速度を一気に上げた。
「おー」
面白い事になりそう、という好奇心で大きな人型モルモットの尊い犠牲を傍観していると、黒煙にも似た物質はラトボニルの死体を端の方からゆっくり、煙を上げないままに溶かしていく。
衝動のまま呑み込むように。
慈愛のまま包み込むように。
「……〝剣と魔法のファンタジー〟、ねぇ」
落雷のような【紅い華】、転生、不完全な神、そして私の体に現在進行形で生じている異常。『現実に即した思考』は、今ここで役に立たないのだろう。
何一つとして、凡そ全ての尺度が通用しない。
深い溜息を吐きながらしゃがみ込み、死体が溶解? 融解? 分解? どういうプロセスを辿っているのかは知らないが、とにかく溶けているラトボニルの体を間近で観察する。
いやほんと、この先……どうしようか。
「黒い霧をちょっと観察してから出口を探してみて、あとついでに包丁探して……。それでも、何も見つからなかったら」
あるかどうか確かでない、この世界に於ける地平の果てまで歩くしかない。
黒い床にも、曇り空にも、どんな物にも、終わりはあるだろうから。
驟雨や空夜と同じくして。
「さて、ここからは出られるのかな」
黒い靄に触れないよう立ち位置をラトボニルの頭部側まで移動して、不完全な神の死に様を眺めながら発言内容を吟味してみる。
まあ、このよく分からない空間から逃れるには何らかのイレギュラーを起こすか、体育館の床でドリブルされるバスケットボールと同じくらい頭を打ち付けて自殺するか、存在するか定かではない〝果て〟というやつに迎合するか。
その中の、どれか一つの行動が必要だろう。
一つ目は現象を起こす元手となる物が無いし、二つ目は論外。ギャンブルとはいえ自己契約の末、提示された〝結果〟を反故にはできないから。だったら消去法で、三つ目が一番現実的と思われる。
「歩くしかないよね」
パティとは違って、このコインは裏返せないのだし。
しゃがんだままぐいーっと伸びをして呑気に述べた辺りで、黒い靄はラトボニルを完全に溶かし終える。特に酸いも甘いも匂いは無く、やはり白や黒の煙も上がらず、微かな音さえも無い。
そんな危険物かどうかも分からない不定形が、腹に開いた〝口〟がじゅるじゅると音を立てながら吸い上げ、て、
「――ぁっ」
衝撃。それに対して大きく肩が震え、マトモに力の入らない膝の所為で、真っ黒な床に崩れ落つ。
気持ち悪い癖に気持ち悪くは無い情報を噛み潰そうと、奥歯を噛み締める。脳溝目指して濁流してくる不快な快に抵抗するよう、思いっ切り自分の太腿を拳で殴り付けた。
勝手に曲がる背骨と足の指、腹に入った力は、叩く度に消えていく、ような気がした。
情報が乱れて、よく分からない。
「……、!」
首の力で頭蓋を起こして、何度も床に叩き付けて。
脳に直接衝撃を与えて漸く、煩わしい感覚は脳内から去っていった。
「……ぁー、本っ当に……」
気分が、悪い。
今までの数秒で掻いた汗が、未だ図々しくも居座っている余韻が、潤いに歪む視界が、そして何よりも――酷く一方的な、感覚を与えられたという事実が。
そもそも、さっきの感覚はなんだったのか。
不完全ながらも神は神。スムージーになったそれを口の中に突っ込まれたら、余りにも美味し過ぎて達しかけるらしい。だとしたらこの〝口〟には味蕾かそれに類する物がある事になるんだけど。
いや、先程の感覚を単純な〝快〟として分類すべきなのか?
熱を孕んではいるがその実、単調な充足感を増幅しただけのような気も――、
「……あーもう、意味が分からない」
物理的精神的、双方が原因の頭痛を抱えながらも床に手を付いた。身体を揺らしながら立ち上がって、気持ち悪い程に揺れている視界に吐き気を催しつつ、血を整髪料の代わりにして乱れた髪を整える。
黒と灰の地平線を眺め、グリッド線に沿うよう歩を進めていく。
この空間の果てに待ち受ける物を、目指して。
▼△▼△▼△▼
「『何も無い』がある……だなんて、詭弁でしかないよね」
そもそも〝無〟とは『特定の物質』と定義すべき物ではなく、厳密には『物質の状態』と定義するべきだ。林檎が零個〝在る〟のではなく、林檎が一つも〝無い〟というのが〝無〟に対する解釈。
あくまで私の中のね。
そして〝無〟とは観測出来ない故に、存在しない『状態の一つ』などではなく、そもそも『観測出来ない事』それ自体が〝無〟という状態の証明に成り得る。
『観測不可』という事実を脳梁にて意識する事こそが〝無〟を生成する唯一の方法であり、実在の実感を際立たせる為の、空腹状態に近似したある種のスパイスであると。
その議題は今で何回、何十回目だったか。
あれから歩いて歩いて歩き続けたけれど、出口も包丁も無い。在るとすれば日の差さない鼠色の天蓋と、ゲシュタルト崩壊を起こしそうなほどになぞった、タイル状とも捉えようのある黒くて黒い真っ黒な床。
正直、気が滅入る。
思い返せば、何時間歩いたかを血液と喉の乾きや空腹の減り具合から把握しようとした事もあったけど。赤黒い血液は乾いたかと思えば滴を零し、滴を零したかと思えば乾いている所為で信頼性という物が全く持って無い。
腹は減らないし、喉も渇かない。
「こう、バックドアとか、緊急脱出口とか無いわけ?」
愚痴を零しながら、掌を起点として〝口〟をがぱりと開く。
結構前、数えている時間的には十時間程前に『暇だなー、なんか変化無いかなー』と思って色々試行錯誤、詳しくは床に頭打ち付けたり大声で歌ったり頭掻き毟ったりしてたら、なんか開いた〝口〟を。
二度目に開いたその〝口〟は一度目のように開閉不可でなかった事から考えるに、一度目は俗に言う例外というやつだったのだろう。
後にラトボニルを溶かした『黒い靄』を啜った際の感覚から推測を立てていくと、この〝口〟が一種の飢餓状態にあった可能性が浮上する。
『では何故そのような物が私に宿っているのか?』という疑問の答えは、未だに分からないのだけれど。
あの切れ味の良い、良すぎる包丁と同じく、不可解なものに分類される。
この〝口〟をラトボニルの言っていた『チート』とするには、余りにも不自然に思える。あの不完全な神が有していると考えられる能力の発現には、何らかの動作が必要だった事が疑念点になっているが故に。
「手を突き出したり、指パッチンしたり」
何もなくとも発動するのかもしれないけど。だとしても、自身の制御から離れすぎている。私がこれを扱えるようになるまでどのくらいの月日を費やしたというのか。いやまあ、月日とか分かんないんだけど。
ともかく。
『転生』というからには、死にかけていた・死んでいた私の肉体にあれやこれやの処置を施したと考えられ、その過程で何かしらの能力を埋め込まれたとする事も出来るが……。
ラトボニルがわざわざ『私という一個体』にそこまでするとは思えない。あの存在は完全に人間種を心の底から見下していた。必要性があったとしても、行動を尽くす事はないと断言出来る程度には。
ただ当然、ある程度『転生』には関与はしているだろう。
二人分の血を吸っては消えたあの包丁はまさしく異常であり、そして都合が良すぎた。あんな散らかった部屋で父親に首を絞められている私の手が、偶然届く位置に転がっている刃物?
「馬鹿げてるね。聖剣魔剣の類でもあるまいに」
私の運の悪さを舐めるなという話。こちとら被虐待児だ。
それに、切れ味が一番の問題。あの切れ味こそ馬鹿馬鹿しいと称するに値する。父親も神も切れる万能包丁。
深夜のテレビショッピングの方が、まだマシな売り文句を嘯いている。
なんか前にも、似たような事を言った気がするけど。
「あー、暇。暇暇暇暇暇暇暇ひーまー」
とにかく色々と考えに考え、そしてどの議題も大した証拠が無い故に最早妄想と変わらないくらい仮定と推測を塗り重ねている。妄想は嫌いではないが、そろそろ確かな物が恋しい。
あれだよ、実存とやらが。
掌の〝口〟から都合良くも床を溶かしてはくれない『黒い靄』を出したり引っ込めたりしながら歩く。
時折滴らせる事でヘンゼルとグレーテルのように目印としてもいる。黒に黒だから目立ちづらいけど。
「……それに、しても」
この歩みは、いつになったら終わるのだろうか。
▼△▼△▼△▼
「……ああ、そういうタイプね。〝端〟じゃなくて〝穴〟か」
もうなんというか、時間間隔とか体内時計はとうに壊れた……というより、恐らくこの空間には『明確な時間』は存在しないのだろう。
未だ乾かぬ返り血に、伸びない髪、生理的欲求、そういった〝有って然るべき物〟が一切無い。
少なくとも私は――多積的な現在ではなく、一面的な現在を歩み続けている。
だから、時間を数えるのは辞めた。脳内で数字を延々と唱え続けるよりも、馬鹿げた思考を回していた方が無聊と正気を慰めてくれるだろうから。
「そうしなくとも、狂いはしないだろうけど」
前提として、この空間には重力らしき何かの力が働いている。
それだけは神殺しの際に身体を押し倒した経験から理解出来るが、然るべき肉体的な変化が全く持って見られない以上……物理法則の一部分からは切り離されていると考えてもいい。
私という存在それ自体が『時間の無い空間』にいる以上、特に精神的な成長や退化は無いと思われる。感覚的に例えれば、一瞬にも似た何万年と歩き続けても『なんか長いなあ』としか思えなかったのだから。
まあ、それも今終わる。
私の視界八割を埋めるのは、計上するに何千時間も見て殴って嗅いで舐めて聴いた黒い床――よりも正気が削れそうな〝黒い穴〟。
この空間は輪廻の一部ではなく、終わりのある何かであったと示すように虚無性を提示していた。
その正体が気にならないと言ったら嘘になるが、〝何か〟だなんてどうでもいい。一日千秋をこの身で体感したら、そりゃあ殺風景な風景に飽きるのも当然と言える。そうでしょう?
「御託はここらで終わりにして」
虚空に向かい、足を進める。
揺らぐ輪郭に、歩を付ける。
酷く霞んだ声で、宣誓する。
「じゃあ、終わらせよっか。長ったらしい『一度目』を」
くるりと半回転し、〝穴〟に背を向けた状態で両腕を翼のように広げ、片足を半歩後ろ、ズラしたと同時に傾いだ。
身体が。
ぐらり――と、容易く。
もはや愛着すら湧いていた黒い床が離れていって、意識が不理解に染まっていく。
手は黒に包まれ、足は黒に絆され、この身は黒を受け入れ。
体はそのままに、意識が千に切られて。
どこまでも深く、堕ちていって――。




