45 『vanitas vanitatum, et omnia vanitas.』
目が覚めた。
何故かと言えば、フィアが開けたカーテン。そこから這い寄ってきた陽光が、私の瞳を焼いたから。
「ん゛ー……」
太陽は、好きではない。
いくらなんでも無遠慮にも程がある。その光が私の気に入らぬ存在由来だとしても、個人的な話では月灯りの方が好まれていた。月は私の目を焼く事も無く、ただただ薄暗さを提供するだけだから。
「朝ですよ」
折角の遮光を退けつつ、フィアが私に掛けてくる。
声と呼ばれる物を。
普段であればそれを受け止める事は容易いし、寧ろアロマを焚いた時のように精神を大人しくさせる物ではあるが。寝起きにプラスして日光を浴びているという劣悪な状態では、そうそう寛容にはなれない。
子供じみてはいるけれど、毛布を深く被って全てから逃げてやろうか。
そこまで考えた辺りで、がばっと起き上がった。
「……おはよ。随分とまあ、早起きなんだね」
「今、九時なんですけど」
昼まで寝ちゃ駄目かなあ。駄目だよねえ。
寝起きだからか力の伝導率が悪い身体でなんとか立ち上がってから、寝巻きのパーカーとかショートパンツをいつもの服装に変えた。で、フィアから渡された濡れたタオルで顔を拭く。
……冷た。
「んー……」
ごしごしと顔を湿らせて、強引に目を覚ました。
▼△▼△▼△▼
中間地点、或いは休憩地点。
私達が三週間いて、且つなんか色々した場所――『ボーダー』に程近い場所にある大きくはない宿場町。二日歩いては野宿して辿り着いた場所は、平々凡々としていて特に異常は無い。
で、今は部屋に存在する二つのベッドの内、壁際にある方の上で、ぐでーっとしている。
「リーナさん、依頼は……」
「……明日、明日やるよ」
如何に《スキル》の影響を受けているとはいえ、殆ど変化も無く二日間ぶっ通しで歩いて移動するのには疲労が溜まるらしい。
実証して初めて、私はそれを知ったし、知らしめられた。
「あー……」
呻く。喉をごろろーと鳴らして、気怠さを少しでも発露させて誤魔化した。
ごろん、と寝転がって。
今の今までフィアに対してそっぽを向いていた体勢をひっくり返す。つまり仰向け。その状態で、まるで箸のように二つ揃って一つ、だとでも言いたげな彼女の脚に視線を向ける。
「どう? ニーソの調子」
白く薄い上に、伸び上がって保護色ながらも似たような肌の色を覗かせている物。
「調子?」
「こう、なんかあるじゃん。締め付け具合だとか長さだとか、生地の薄さ厚さだとか」
またもベッドの上で寝っ転がっては転がって、床に落ちてしまいそうなぐらい端に到達してから、彼女の太ももをぺちぺちと叩く。
「別に、大きな問題は無いですよ。そこまで気にするほど神経質でもありませんし」
そう返答を返しながら、フィアに手首を掴まれる事によって私の戯れは咎められた。
殆どベッドからは逸脱して、首を反るようにして頭頂部側から床に向かって落ちている頭。それに追従しようと重力に乗じながら、大した遠慮も無く下へと流れ落ちている黒い髪。
「てことは、小さな問題ならあるの?」
自らの額を晒し、いつもとは違い前髪で紅眼を隠す事なく、一つ問うた。
「まあ、それも無いですよ。誰かさんが、私の足をぺちぺちしてくる事を除けば」
返答と同時、またしても寝たまま転がって、
ごん。
私は頭から、床に落ちた。
「……大丈夫ですか?」
サムズアップ。
未だに逆さである視界のまま、親指を立てた左手を持ち上げ見せ付ける。
そうしてから、まだ寝台上に残っている私の下半身も地面に落としてやった。
「大丈夫ですか?」
「何が」
「色々と」
完全に地面へと落ちてみると、暖かみがあるらしい木製の床の冷たさやら固さやらを存分に感じ取れた。そんな私の事を、彼女がいつも通りに青褪めた目で見下ろしてくる。
相も変わらず、黒い瞳孔が宿すは信仰心。
「なんか、危機感とか感じないワケ?」
「なんのですか?」
「ほら、私が下着を覗こうとしてるんじゃないかー、とかさ」
まあ、彼女に渡している下着は全て、私が細部籠めて造った物だから、そのデザインも色も何もかも把握してるんだけど。
つまりは、スカートの中を覗く意味は無く、その価値も無い。
極めて残念な事に、細部には神が宿らない。
対応する既知というのは対象の神秘性を剥離させ、全く以て幻想を思い描く事は叶わなくなる。無知、或いは未知であるというのは余白そのものであり、人々の思考が割り込む余地であった。
だから、私が彼女の下着に関してあれこれ想像を巡らす事も、想像と現実の差異に心躍らす事も出来はしない。
偏に、細部には神が宿らないが故に。
「そんなこと、起きるわけないじゃないですか」
「根拠は?」
物事を酷く矮小化してしまえば……仮に私がフィアの下着について一ミリたりとて知らなかろうが、そのスカートを捲ってしまえばそれで済む話だ。
それは『フィアが奴隷だから』という話ではなく、誰の下着だってスカートを捲るなりズボンを下ろすなりすれば知れる。その比喩、または仮定に於いて、知ろうとする行為に生じる不都合を除外した場合は。
『知らない』という事を知ってしまっている時点で、対象に関する知識に欠陥があるのは明白なのに、多くの人はスカートを捲ったりしないし、ズボンを下ろしたりはしない。
確証バイアスというのは、確かそんな感じの物だった筈。人は信じたい物だけを信じ、無知を既知に塗り替える作業を半ば放棄している。『知らない』という事だけを、それのみを知っている。
皆が皆、細部に神を宿らせまいとしていた。
「リーナさんは、私に欲情したりしないですもん」
「まあ、そうだけどさ」
実際問題、フィアに性的な目を向けた事は無い。その骨格と肉体に性欲というか、まるで精緻な美術品を見た際の知的興奮にも似た情動を押し付けているだけ。
それを性欲と言うのなら、芸術の鑑賞者も私と同義にすべきだ。
ただまあ、下着外されたり組み敷かれて色々と触れられて、それでも尚『私に情欲を向けられはしない』と信じ切っているのは、些か歪に思えるが。
「確かにそうだけどさ、なんでそう思うのさ」
頭を軽く持ち上げては、首の力を抜いて後頭を木板に叩き付けた。
「……だって、リーナさんにそんな目を向けられるほど、私は綺麗ではないですし」
確かに綺麗系ってよりは、可愛い系だよね。
首に食い込んで、軽く頸動脈を圧迫しているチョーカーが哀れさを引き立てているから……まあ、可愛い系ではあるよね。
主に、縊り殺したくなる方向で。
瞳を、ぐるりと回した。
話題の転換を図るように。
「君はさあ、今でも神を信じてるの?」
床に転がり、彼女の足にしがみつく。
「……今は、もう」
「ふーん」
目を合わせる事無く、細い足首を掴み、そこをきっかけに膝の皿を手で覆う。そのように一つ一つ丁寧に段階を踏んで這い上がっていって、スカート越しのもも肉を枕とした。
「それ、辛くない?」
「まるで」
「そか」
次は、彼女が二つ揃いで並べている足の上に腰掛けて、肩を掴みながら体重を掛けて押し倒す。ばふんと毛布が押し潰れた音が聞こえてから、身体を捻ってフィアの上から退ける。
黒くも、軽く日光を照り返す革手袋を上に掲げ、広げた指の隙間から薄暗い天井を見上げた。
「信仰、しないの? サンタ・ムエルテでもなんでもさ」
目を細めながらそう述べると、
「……なんです、それ?」
高さ故かまだ幼さの残る声に籠もっているのは、半分の興味。
あとの、鍋に残った夕ご飯にも似た残りの部分は……なんだろうか。
分からない、分からないけれど、分からないままでいい。
感情には鈍くあれ。
前頭前野と泣き別れろ。
「死の聖母。死と同等の絶対者。そんな感じで、メキシコ辺りだったかな? そこで信仰されてる、骸骨の女性像にて表される女神の事だよ」
掲げていた掌は、力を抜いた左手は、かつての高度を失い視界を覆おうと落ちてきた。
革手袋に包まれていようがなんだろうが、手は冷たい。
「どんな願いも祈りも受け入れる。麻薬カルテルの構成員の物でさえ」
ただ、息を吸った。
どこぞの誰かが死ぬ時に、一つ吐き出すであろう呼気を奪い取るように。
「それは死そのもの。その信仰に於いて〝死〟というのはまた新たな生命を得る機会とされ、それだけは遍く訪れ、万人にとって平等な物である」
そう語り、顔にべたりと張り付いていた左の掌を、少し吸い付く革の手袋を、問答無用に引き剥がした。
「形はどうあれ、死を意識し続けるのはそう悪くない」
俗的に言えば、死を想えというやつになるんだろう。或いは一日を摘め。私としては前者の方が好ましい。蔓延る鼠と奔走す烏、それが織り成す死の舞踏に近しいから。
「じゃあ、リーナさんはそれを信仰してるんですか?」
「いや、全く」
私は神を信じていない無神論者ではなく、神を否定する積極性を持った無神論者だ。そんな私の頑固さを舐めないでほしい。
そうでなければ、私は、一柱の神を殺してなどいないのだから。
「水と油、亀と兎だよ。私と神は」
だから、と。
そう言って、言葉と言葉を接着した。
「例えその本質が〝死〟であれ、私は〝神〟を信仰できはしない。してはいけないし、出来る訳が無い。それが私という存在だから」
だらだらと語る私の、どうでもいいと投げ出していた右手が彼女に掴まれた。革手袋に包まれていようがなんだろうが、彼女の手は何時でも温かく感じる程度に、熱を持っている。
人間、故に恒温生物。故に抱くは恒常性。
その代償とされるのは、他生物の熱量。
「リーナさん、は」
『色は匂へど、散りぬるを』
その本質は諸行無常。どれほど美しい物であろうとこの世に不変である物などなく、全ては移ろい、乱雑さの流れにまつろっていく。
ああ、虚しいものだ。
何れ全ては崩壊する。何れ全ては腐敗する。何れ全ては頽落する。何れ全ては朽壊する。
その結末は、変えられない。
「いなくなったり、しないですよね」
端的に――拡大しきった可能性とは、死に至る病である。
「……いなくならないよ。ずっと、永遠にね」
或いは、絶望とは軽々な物だ。
フィアが今、私の右腕に抱き着いてしがみつこうが、私がそれを嫌がるように腕を揺らして払い退けようが、明日も明後日も彼女の体温がいつも通り私よりも高かろうが、その事実は揺らがない。
vanitas vanitatum, et omnia vanitas.
「空の空。一切は空である、だとかなんだとか」
彼女の聴覚が優れているのを理解した上で、その事実を気にも留めず言葉を紡ぎ出す。
「世界に本質というのは無いけれど、それでもあるとすれば。私は、空しい物であると、そう規定するよ」
私の世界観に於いて、神は既に死に絶えている。
唯一神は薬品と歯車とを要因とした労災にて死に絶え、自称神は私がこの手で、刺し殺してやった。やはり神に救いを求めたのは、私の人生最大の失態だったのだろう。
何にせよ、神は死んだ。
父親に殴られた、あの瞬間にね。
「……今でも〝神〟を信じられていれば、或いは――」
言葉を切って、目を瞑った。
隣にいるフィアの存在を、〝圏内〟の感覚で感じ取りながら――それが、今日最後の記憶だった。




