39 『アダムとイヴが終わる頃に』
深みへと、嵌っている気がした。
リーナさんの胸元に顔を埋めてみれば、落ち着いていて、だけれど甘い匂いがした。
不穏で、不吉で、病的で、なのに清潔感があって、まるで――甘ったるい遺灰のような。
そんな匂い。
それがどこまでも私を落ち着かせ、沈静に導き、同時に頭を茹だらすものだから。
それがあまりにも、私を溺れさせるものだから。
やはり、しかして。
――深みへと、嵌っている気がした。
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「性質的な話として、私は人体に対する破壊行為に〝悦〟を覚えるタイプの人種なんだろうね」
未だ明けぬ夜。濃密な一日の中で、更に濃い時間。
沈殿した茶葉のように、濃厚な時空。
「もっと簡単に言えば、破壊衝動を満たすのが好きらしい。勿論、人体でね」
場所が異なっていれば、きっと治癒ギルドの一角で行われている手術の準備を整えているようにも思える。
しかし場所が異なっていないここでは、単なる〝解体〟であり、彼女が言うには〝検証〟らしい。
「突然だけどさ、アダムとイヴが造られたのは、紀元前四千年前の事なんだってさ。つまり、私からすれば六千年とちょっと前の出来事ってワケ」
刃が、皮膚を通り、肉を選り分け、骨すらも別つ。
「神様直々の造形にケチ付けたい訳じゃないけどさ、現場と理論というのは往々にして異なる物だと思うんだよねえ」
革手袋に握られた鋭利さ、それがずぶりと刺した箇所は頸動脈で、既に動いていない心臓が血液を飛び出させる事は無い。
「進化、というのはある点……そうだね、特定の閾値に達した生物が得られる段階の突破ではなく、異常の発生と偶然の適応、そのサイクルが何回も繰り返される事によって自然と齎された『最適化』だ」
筋繊維が外気に触れている。
取っ払われた骨の檻は、臓器を守りはしない。
全て、剥き出し。
まるで病人に差し出す、果実のように。
「生存者バイアスに近いかな。結局今〝ここ〟にいない時点で、とうの昔にその種族、或いは特徴、それは淘汰されているって事。水の中で息が出来なくて、泳げすら出来ない生物が海の中で生きられると思う?」
神は、己の肉体、その一部を――骨、血、肉、管、その四つに選り分けたと言われている。
であれば、他者の身体をこうまでばらばらにして選り分けている彼女は、神をも越えた悪魔か何かなのだろうか。
「生物は、その大小はともかくサイクルの中で研ぎ澄まされている。それは意図的な物ではなく、結果的な物。『その特徴を獲得した』から生き残れたのではなく、『その特徴を持っていなかった』から生き残れなかった」
解体され、骨、血、肉、管になった一つの死体。
彼女は無造作に、一本の骨を指で持ち上げる。
「きっとね、人間にはまだまだ『最適化』の余地があるのだと思う」
向ける目は慈しむ物、尊ぶ物、愛でる物。
「六千年? 或いはそれ以上? ともかく、私は連綿と受け継がれ、結果的に研磨されたDNAを無碍にはしない。確かに人体には多く残された欠陥がある。それは認めざるを得ない。しかし、その上で言うが――」
向ける目は、きっと。
「――人体とは、誇るべき機能美だ」
炯々とした食欲に、彩られている。
「だから私は、歴史あるそれを、受け継がれてきた遺伝子というやつを……今ここで、私の手で、全部ひっくるめて台無しにしてやる事に、どうしようもない〝悦〟を覚えるのだと思う」
ぱきり、とナニカを噛み砕く音。
「手伝ってね、フィア」
血を塗ったように真っ赤で、墨を落としたように真っ黒な目で、そう指図された。
そう言う彼女は、悍ましい程に麗しかった。
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色っぽいな、と思う。
同時に、この状況がやけに似合うな、とも。
返り血の付いた頬がこんなにも様になるのは、きっと彼女しかいないのではないでしょうか。
「んー……」
リーナさんはその艷やかな口元に手を当てて、さっきからずっと唸っている。
「どうかしましたか?」
「いや、ちょっと考え事してただけ」
今の今まで地面に座り込んでいた体勢を変えて、頭部以外には手の付けられていない死体を、掌に開いた……口? みたいなから黒い靄を出して、まるで手品のように痕跡も物証も消し去ってしまう。
「食べちゃうんですか?」
「食べてないよ。保管してるだけ」
『ここの中にねー』と言いながら人形劇のパペットのように掌の〝口〟をぱくぱくとさせつつ、その〝喉奥〟から未だに関節で繋がったまま骨、多分中指の部分をひょっこりと出して笑っていた。
そのままふと思い付いたように、隣り合って座っている私の二の腕辺りを肘でげしげしと突っついてくる。
「ねえ、フィア」
「なんですか?」
「これ、素材として売ったらどのくらいになるかな」
そう言いながら、リーナさんは自分の下腹を撫でた。《捕食》とやらが周辺の死体を食べ尽くした事も、それにキマイラが含まれている事も、私がこの目で見て知っている。
だから、訊かれているのは――、
「多分、三、四百万ぐらいだと思いますよ」
「……安くない?」
「良くて六百万ですね」
「安――いや、高い……?」
頭を抱えようとして、その手袋に血が着いている事を思い出したのか、外してから頭を抱えて唸っている。
「そもそもさあ」
「はい」
「ここで売ったら、色々と面倒な事にならない?」
盤金貨五枚、つまり五百万円。キマイラ一体に掛けられる額としては少し割高で、依頼書からして相当放置されていた物だから……まあ、追及というか、色々と話題になるのは避けられないでしょう。
新進気鋭の新入りだとか、なんだとか言って。
「面倒じゃない?」
「面倒ですね」
という事なら。
「この都市じゃない場所にある、他の冒険者ギルドで売るのが一番ですかね」
「そうだね。というか移動しないと色々と弊害もあるし」
斃れた雑草と少し乱れた大地を黒い靴で踏み躙って、彼女は立ち上がった。
そのまま、私に手を差し伸べて。
「まあ、まずは帰ろっか」
月灯りに照らされた彼女は、どうにも色っぽかった。




