2 『自己制御欲求』
「……あー。あ、あー、んんっ」
荒れた喉の調子を吐息が混じった声で確認しながら、上げていた中指、と右手を下ろして立ち上がる。下げたばかりの袖で鼻血やら何やらを拭い、だけれど袖すらも血濡れている事態への嘆息。
腹も頭も喉も目も。相も変わらず鋭利な痛みが走っていて、正直な話まだまだ蹲っていたいが……そんな暇は無い。
明らかな『異常』が、すぐ側にあるのだから。
「……っと」
まだ身体が安定していないのか、少しだけ立ち眩んでしまう。
ので、とりあえず壁に片手を付いて、不安定な身体を支えた。
そうして壁に体重を預けてもまだ僅かに揺れている視線を下に向けると、至極当然として新鮮な死体が見える。
頭部が備わっていない事を除いたら、至って普通の死体が。
「こんなオブジェ……一体、誰が作ったんだか」
異常性を誤魔化すように肩を竦めながら、まだ痛む喉で適当な軽口を叩く。
頸動脈を浅く傷付けるのが関の山だと見積もっていた抵抗は、どうやら父親の首を切り落としていたらしい。幻覚にしては鮮明で、冗談にしては稚拙以外の何物でもない。
要するに、馬鹿げた現実という訳だね。
「あー……」
比較的安定した体幹が唱える、支柱に対する異議に従い壁から手を引き剥がした。
それからは一先ず、どこかしらに落ちているであろう生首を充血した目の動きだけで探していく。赤い絨毯のような床を見回しながら、同時並行で頭も回す。
「……」
あの抵抗の瞬間、私が振るった腕には全くと言っていいほどに力は入っていなかったし、それ以上入れられはしなかった。あの時、そこにあった物と言えば――精々が否定心。
それだけでしかない。
それでも、まだ皮膚や筋肉を切断出来たのはいい。それはまだ比較的……まあ、現実的だ。表面張力の限界まで水を注がれたコップと同程度、ギリギリな物ではあるが。
問題は骨だ。
首を支える頸骨をどう断った? まさか私には異常なまでの殺しの才能でもあって、それで一尾の秋刀魚から抜き出した骨を折るように、単純且つ容易なまでに首を切り落とせたとか?
……まさか。
そんな才があったなら、とっくに数人は彼岸の向こうで手を振っているだろうね。
とすれば、頸骨同士の仲介者である椎間板に偶然……奇跡的に刃を通せた、とか?
「……んな馬鹿な」
私に断頭を可能とする技量も、運も無い。
ならば、父親の死体の状態をどう説明すればいいのか。
思い当たる事があるとすれば――、
「……」
今までずっと、握り、締めていた柄を、手の中で握り直す。
あれだけお誂え向きに整った状況で見つかった、異質な凶器を原因と仮定するのなら。この、まるで身に覚えの無い包丁ならば、首を切り飛ばしたっておかしくはない。
言語化出来ない異質さを伴う、この包丁であれば。
まぁ、父親の首を刎ね飛ばした刃物が何なのかが、依然として分からないのがネックだけれど。首だけに。
「……はあ」
黒ずみよりも血の方が目立つ床に転がる、呆然の面を晒した父親の生首が目に入った。しょうもない言葉を捨て置いてから赤色の水音と足音を立てて、探していた目的の首に近付いてみる。
そうすれば、フローリングと同じくして足先が赤く染まっていく。
「……あ、タイツ」
買ったばかりの貴重な新品で、なけなしのバイト代で買った裏起毛のやつなのに。……血で濡れた所がすっごい張り付いてきて、すっごい気持ち悪いんだけど。
死して尚、私を不愉快にさせるとは。
「偉大な存在だね、父親って」
そんな偉大で素晴らしい、崇高な生首を右手だけで持ち上げようとするが――、
驚く事に、あんな父親でもしっかりと頭の中身は詰まっていたらしい。私の予想していた以上に重く、頭髪を掴んで持ち上げた物を右手から取り落としてしまう。
床にころころーと転がっていった生首の、血液にて粘性を付加された髪を先程よりも強く鷲掴みにして持ち上げて、頭部と死体が繋がっていた箇所。つまる所の断面を観察してみる。
未だに血がとろりと流れているその断面は、まるでギロチンに切り落とされたかのように綺麗で、滑らかな切断面を呈していた。いやまあ、ギロチンも、それに首を刎ねられた死体も見た事無いけどさ。
はくはくと呼吸らしき蠕動と、その度に噴水の如く吐き出される血液……というのは中々にグロテスクな光景。そういう物に慣れてはいないけれど、悲鳴を上げる程でもなかった。
寧ろ清々しいね。
「……」
断頭台の代替品となった左手の刃物を、両目でじっと見詰める。
目に映る形状は、一般的な三徳包丁ではなく出刃包丁。特に異常な所は見られない。その存在を確かめる為に柄の部分を強く握ると、多少どころではなく吸い付く感触が返ってきた。
「……なる、ほど?」
オーダーメイドと思い違える刃物を、矯めつ眇めつ眺める。片腹の冷たさを指先でなぞってからひっくり返し、光と景を僅かに反射している湾曲した模様を、指紋と視線で冷感を共に辿らせていく。
どう見ても、何の変哲も無ければ種も仕掛けも無さそうな包丁なんだけど……強いて異様な点を上げるとすれば、これ一本で世界の全てを変えられそうな――、
そんな確信を、感じる。
「――――」
そんな、馬鹿馬鹿しく阿呆らしい思考に喝でも入れたいのか、腹がぐぅと鳴った。
まあ、ついさっき激しい運動をしたのだから、お腹が空くのは当然ではある。というか今日はまだ偶然廃棄されてたコンビニ弁当くらいしか食べてないから、お腹が鳴るのも当然の話。
冬場だと、腐るまでに時間が掛かるから比較的美味しいんだよね。
暑い夏の、糸を引いた白米を食べようとはあまり思えない。
んー、にしても。
食べれそうな物、まだあったかなあ。
お金は持ち主のいなくなったばかりの物を使えばいいけど、こんな血塗れの服装じゃあ外には出られない。今から風呂に入って服を着替える……だなんて、そんな気力はどこにも無いし。
父親はさっきまで呑んでいたみたいだし、その酒のアテでも食べれば――、
「……ああ、いや」
丁度いい物が、あるじゃないか。
数十kg程度の、肉塊が。
「まぁ、最期の晩餐には相応しいんじゃない? 血と肉だし」
それにこれは、異様な印象を受ける包丁の切れ味を確認する為でもあるし、自分の好奇心を満たす為でもあるし、そもそもの前提として。包丁とは、〝食材〟を切るための道具だし。
倫理的には問題があるけど、私の価値観の中では大丈夫。
「……というわけで」
脳内で自分だけを納得させられる言い訳を並べ立てた後に、投げ出されている父の左腕を右手にて掴み取り、その持ち上げられてちょうど良く曲がった内肘辺りに、輝く刃をそっと当てる。
手首の前後移動で鈍色のそれを深く喰い込ませていき、肘を起点に前腕を雑に切り落とした。そのくらい適当な一連の動作には、僅かな引っ掛かりさえ生じない。
なるほど?
力を殆ど込めずとも滑らすだけで、まるで豆腐か何かのように筋肉・関節を切断出来ている。こんな切れ味だったら、そりゃあ私の細腕でも父親の首を刎ねれてもおかしくはない……のかな。
この刃物が何なのかは、未だ不明なままなんだけど。
「テレビショッピングでなら売れるんじゃない?」
疑問を保留して、床に転がった胴と泣き別れている腕の、お誂え向きの手首を持って拾う。
フライドチキンでも齧るみたいに赤い断面側に噛み付いて、肉を皮膚ごと噛み千切り、神経を啜り、骨膜を削り、全体的に血の味がする口の中の物を何度か咀嚼してみる。
……んー。
苦い血の味が、舌に纏わり付く。
噛む度に、僅かな生臭さが口の中に広がった。
美味しいとは言えない血液が、口の中の水分を乱暴に奪い去る。
んー……。
「ぺっ」
吐き出した。
期待してた肉の旨味はどこにも無くて苦いし、ゴムかガムのようなぐにぐにとした食感がただただ不快だった。なるほど、カニバリズムが禁忌とされる理由はこれか。
これなら、ペットフードの方がまだマシだ。ちなみに、キャットフードの方がちょっとしょっぱくて美味しかったりする。
「さてと」
味の酷評が終わった後は床に膝を付き、息を深く吐く。
そして、斑に赤黒い包丁を自らの首に向ける。
「ふー……」
無意味に抵抗した後、父親に無意味に殺される筈の私は……父親の死体を食べる程度の元気があって、今も尚生きていて。
でも、その元気を、命を持て余している。
これから生きるにしても、父親の死体やこの凶器などの証拠をどこかで焼いたり埋めるなり大海原に捨てるなりして証拠になり得る物を徹底的に隠滅して、そこからずっと警察と世間の目から隠れて逃げて、逃げ続けて、そして――、
そして、どうするというのだろう。
他者の視線に怯え、息を潜め、身を隠し。自分が何をしたいのかすら曖昧なまま生きる事に、一体どんな意味があって、そしてどれほどの価値があるというのだろうか。
それ以外の道もある。然るべき機関に保護されるなんて、そんな手段もありはするけれど。
今までのように惰性で生きてしまうくらいなら、いっそ。
「――――」
私の人生は、私の意思で幕を下ろすべきだ。
無意味で、無価値な人生だったけれど、最期くらいは納得して迎えたい。
父親にも、他人にも縛られず。
他の誰でもない、自分の手で死んでしまいたい。
死の淵に見せたそれが、それこそが、私の本性らしいから。
「……」
少し掠れた息を漏らしながらも、この呼吸と鼓動は酷く早い。
それが恐怖故か、或いは歓喜故か曖昧なまま、両手は握る包丁ごと今更震え出す。震えた手や傷跡だらけの身体は、一貫して帰宅後に掻いた冷や汗で僅かに湿っていた。
それでも、思考だけは透き通る様に明瞭で。
本能的な反応を、捩じ伏せて。
躊躇いを1mgも混ぜずに、深く刺した。
喉に。纏わる皮や肉は、異様な切れ味をしている包丁の前には、先程父親の腕で確かめた通り障害にすらなり得ない。
「づ、ぶ……っ」
熱い。
首が、只管に熱い。
感じている熱の正体は、きっと痛み以外に無い。
なんて皮肉なのだろう。
刺さっているのは、どこまでも冷たい尖った金属だというのに。
苦痛から逃げ出そうとする本能的な両手を調伏し、喉に刺さった温度の矛盾を喉に捩じ込むように、肉を抉るようにして動かす。執念深く、殺傷を帯びた熱を掻き混ぜていく。
「ぁ……っ?」
首から血が大量に流れ出しているのが、握った手に垂れる血の不快さで理解出来た。潤滑油のような血液の所為で手が柄から滑るが、両手で握り直して更に深く、喉に突き刺す。
脳がそんな光景を漸く認識し、感じている〝熱〟を『痛み』だと理解する。
それでも、私の決意は揺らがなく。
死への、恐怖は無く。
「――っっ」
意味も無く叫ぼうとしても、血泡で満たされた喉がゴロゴロと鳴るだけに終わった。
喘鳴は。永遠に声にはならないし、私がそれをさせる事も無い。滲むような断末魔を上げようと開いた口からは、勢い良く逆流した血が唾液と共に吐き出されるだけ。
口から込み上げた血塊と共に、意識が徐々に暗く染まっていく。
まるで、そんな血塊こそが〝魂〟だとでも宣うかのように。
「、」
冗談交じりの思考が苦痛に滲み、身体に力が籠もらなくなっていって。つい先程まで熱さだと誤認していた激痛と、首から溢れ出した血腥い液体に溺れゆく。
自分が、消える。
その事実に寂寥と安堵を抱いた所で、まだ微かに残っていた視界が、急激に傾ぎ。
「――――ぁ」
身体が倒れたらしい音が聞こえるが、音に伴う筈の倒れた衝撃さえ、もう、分からない。
未だに分かる事があるとすれば、身体が酷く寒い事くらい。
そんな温度の感覚が、脳が、不理解に染まって。
「――――」
意識が黒く、暗く、深く落ちていって――、
「――――」
「――――」
「――――」
[――――接続を承認]
[――――特定領内への干渉権限使用]
「――――前後関係の調査を開始……」
[――〈特殊神器:移住権利〉による対象の死亡を確認]
[個体名称:〔ラトボニル〕からの世界間移住権利の申請……]
[――受理されました]
[管理者規定に則り、『転生保全プロトコル』の施行を開始]
[死体複製……成功]
[死因隠蔽……成功]
[身体補修……成功]
[空間転移……成功]
[意識補填……失敗]
[Error:対象意識の欠損が検知されません]
[Error:魔力思念の流入が検出されました]
[……『転生保全プロトコル』の修了を確認。永住権付与の準備が整いました]
[『市役所』にて下位権限を選択し、必要手続きを終えてください]
[――良き来世を]




