1 『学習性無力感』
秒針のように淡々と、寒気に満ちた帰路を辿る。
「……、……」
時折として強く吹く無遠慮な風が、未だに湿っている髪を余計に冷えさせる。自らを抱き締める事でその寒さに耐えていると、野良猫と烏の不愉快な鳴き声が鼓膜を引っ掻いていった。
今では聞き飽きた音に関心も払わず、真赤な夕日から逃げるよう足を動かしていると。すぐんと、腹の痛みが急に増していく。
私は何故、生きているのだろう。
麻酔を打たれたにも似て鈍った頭で、そんな事を考える。
〝生〟への疑問にこれと言った明確な答えなど無く、仮に存在していたとしても。今この場で、そう簡単に答えが出る訳が無い。長年抱え続けてきた問いには、容易に答えを出せなくなっていた。
それでも、強いて上げるとするのなら――、
ただ、呼吸が続いているから。
ただ、鼓動が刻まれているから。
ただ、それだけ。
確とした目的などなく、漫然と生きている。
人生を終わらせる決意なんて、何年経っても固まらない物で。
まるで、ダイラタンシー現象を有した水溶き片栗粉のように。決意という物体を固める為に掌を強く握ってみても、手をもう一度開いた時には決意も行動も無かった事にされる。
指と指の隙間からは、その流動的な白濁とした物体が零れ落ちてしまっている。
この世界の全てに、意味は無い。
この世界の全てに、価値は無い。
結局、私は何かしらの切っ掛けが無ければ、この生を終わらせる事など出来ない。惰性のままに日常的な地獄を繰り返すだけ。幾ら頭を回そうと、それだけの話に思考は帰結する。
人生とは大体、そういう物だ。
「……、は」
尽き果てた益体を転がしている内に、浅黒く薄汚れた木造のアパートが視界に入る。軽く老朽化した建築物の二階を目指して、ローファーを履いた足を引き摺るように動かしていく。
コンクリートで爪先を削るかのように。
それだけ遅い歩みだとしても。それが『歩み』である以上、いずれ目的地には辿り着いてしまう。
だから私は、無数の部屋を収めている建築物を眼前に置いた。その二階に上がる為、どうにも心許無い金属製の錆びた階段に足を掛ける。
古びた建物を袈裟斬るよう斜めに備え付けられている十五段は、足を乗せる度にぎぃ、と鬱陶しい悲鳴を上げ出す。所々空いている穴に足を落とさぬよう気を払いながら、汚れた板金を踏み躙っていった。
踏み抜いてしまいそうな不安ばかりを煽る音が漸く止むと、軍隊の如く規則正しく整列している癖に、不規則的に汚れた扉が目に映る。それは、階段を上がり終わった時の話だった。
立ち並んでいる中で一際汚れが目立つドアに近付いて、錆色をしている鍵穴に黒ずんだ鍵を挿し、ぐりんと捻る。手慣れた単純な動きに同期して、ガチャリと鈍い解錠音が小さく響いた。
気色悪い感触のドアノブを掴んで、金属質の不協和音を轟かすであろう扉を押し開く。
「……ただいま」
返答など無い、あろう筈も無い帰宅の挨拶を、乾いた唇から零しながら。
扉をしっかりと閉め切ってから鍵を掛け、ほつれた糸の目立つ靴を脱いでから、後ろを向いて踵を揃える。
劣化の所為か寒さを防ぐ役目を果たしはしない、靴と同じくらいボロボロな黒いコートを壁の突起に掛けてから、手に持っていた学生鞄を壁に寄せてフローリングに置く。
その、溝が酷く黒ずんでいるフローリングに。
そうして室内に入った私の耳には、近くの扉から普段より大きな一人の喧騒が聞こえてくる。気分のまま視線を下ろすと、床に散らかった空き缶の残像が視界に入り込んだ。
アルミ缶からは、腐敗を纏う酒精が垂れ落ちていた。
ふらつきながらも立ち上がり、不揃いな自分の黒髪と、端の崩れた制服の状態を見ていく。付着していた小さな汚れを払おうと、学校指定のスカートを軽めにはたいて。
埃を含んだ様々な汚れを大雑把に落としてから、中身の飛び出たゴミ袋が散乱する廊下に足を進める。
軋む床板を避けながら、音を潜めて慎重に歩いていく。
一歩、二歩、三歩と。
一回も軋ませる事なく静かに歩いていく。
と、薄い壁越しに重めの足音が近付いてきて、ドアが開いた。
そして、
がん。
と、勢いよくドアノブが壁にぶつかる。その所為で響く鈍重な音と、一回も交換されていない蝶番の甲高く、耳障りな雑音が、酒気に淀んだ空気をこの上なく鈍間にさせた。
「……帰ってた、のか」
「うん……まあ、ね」
軽く首を傾げるようにして。紙一枚に満たない薄く、軽い笑みを浮かべながら静かに頷く。言葉なんてまともに交わそうものなら、きっと返答の代わりに暴力が返ってくるだけだと、理解している。
去年も今年も、そして来年も変わらずに。
一生。
はてさて、私の父親は産まれる時代を間違えてしまったのか、はたまた文明人としての自覚が足りないのか――、
「……チッ」
乾いた舌打ちが、鼓膜を震わせる。
「……」
まあ、理由なんてどうだっていい。
どちらであろうと、どんな理由があろうと。これから起きる避けようのない未来は、どうせ何をしたって変えられないのだから。
今でさえも、過去に至っても、未来永劫として。
だから今、父親が私の胸倉を掴んで、壁に強く押し付けているのも。
それとは逆の腕を引き絞っているのも。
仕方のない事で、しょうがない事で。
私には、どうしようもない事で。
「……」
迫ってくる拳。
無意味に、目で追う。
それなりの速度が、腹にめり込んだ。
「ぅ、っぐ……!」
布越しの鳩尾辺りに、深く。
痛みと衝撃が腹の下に響き、身体の中の空気が強制的に吐き出されていく。拳の入った位置が悪かったのか、ただでさえ細い息が乱れていて、不規則になっているのが理解出来る。
「ぁ……っひ……」
掴まれていた制服が乱雑に離されて、足が自らの体重を支える事も無く、壁に寄りかかりながら床に倒れ込んでいく。
そのまま、私は重力に負けてしまう。胎児のように膝を抱えて、意味も無く冷たい木板の上で蹲った。
「ぅ゛、……え」
刺激された吐き気と共に、胃が輪ゴムで巻かれているみたいに収縮して、喉を逆流してきた僅かな胃液が口の中で唾液と混ざり出す。混濁した無色透明の液体が薄く開かれた唇の端を伝い、たらりと垂れていった。
痣になっているのかなんなのか。殴られた箇所が痛くて、そして妙に熱い。その痣は、いったい何色なのだろう。黄色か、赤色か、青色か、緑色か、それとも茶色なのか。
人体スケールのキュビズムが展開されている。
何色にせよ、治るまでは時間が掛かりそうだ。
「その顔が、その、目が」
絡まり合う苦痛から逃避しようと巡回している思考。その途中で、ぼやけた世界の中で父親が私を睨みながら、何がしかの理解出来ない悪感情をぶつけてくる。
顔を憎むのは分かるけど、目とはなんだろうか。
父親から見た私は、どんな目をしているのだろうか。
「……」
――考える意味は、無い。
「は、っ……ぁ」
足りない空気を補おうと息を吸い込んでいると、騒がしい声と共に身体を強く踏み付けられた、らしい。木の板の硬さだけが自分の半身に、不要に、過剰に、鮮明に、伝わってきた。
「ぅっ、……ぐ!」
口からは、言葉にはなり得ない震えが漏れ出るだけ。
仮に言葉を発せたとしても、殴られるだけだろう。私が何をしようとも、どうせ父親は馬鹿の一つ覚えみたいに殴ってくるだけでしかない。……ああ、いや、今は蹴られてるんだっけ。
「何か、言えよ」
だから、返答はしない。
というか、腹を思いっ切り殴られて呼吸すらままならない状態で、『何か』を口走れと? 幾らなんでも、それは無理な注文ではないだろうか。
父親は、そう非難混じりに考える私をカーペット代わりにする事に飽きたのか、頭頂部辺りの髪を鷲掴んでくる。私の身体は吊り上げられるようにして、頭皮が引っ張られる痛みと共に立たされた。
与えられた体勢を一応は維持していると、毛髪からは手を離された。そのまま突っ立っていると、もはや元の色味を思い出せないくらい汚れている後方の壁に、私の肩が片手で強く抑え付けられる。
そんな事しなくても、逃げやしないのに。
ゆっくりと瞬きしながら考えていると、またしても腹を殴られ、て。
「ぁ、……ぐ、ぇっ」
腹筋が、勝手に動いている。
それがなんとも、厭わしい。
反射的な反応を必死に抑えようと、依然として痛む腹部に手を当てようとする……と、面倒極まりない暴力は一度だけでは終わらず。
「っぁ、ぎ……ぅ!」
五臓六腑が磨り潰されている錯覚、それらを生み出す激痛が幾度も幾度も、重なる。
重なり合う。
おかしいなあ。
私が知っている中で誰よりも私に近しい人物の筈なのに。戸籍上は家族である筈なのに。父親が何を考えているのか、私をどうしたいのか。それが、1mmだって理解出来ない。
或いは、理解しようとも思えないのか。
「お前も――お前も、俺を捨てるんだろ」
疑問の中核たる父親は、やはり理解不能な言葉を口にする。
それが出来るなら、とっくにしているというのに。
よく分からない事を口走る父親にまたしても首元を抑えられてから、手加減もなく、顔を殴られた。顔の皮膚が破けていないのが、奇跡に思える程度の力で。
濁る脳に痛覚が刺さって、その棘に似た物を抜く為だけに、思考の総量が割かれていく。
「ぅ……、ぁ゛」
口からは、意味の無い音を出していた。それと同時に肩が掴まれ、木製の床に引き倒される。背中と後頭部が薄汚れた床と激突し、その衝撃と痛みの火花が、僅かばかりの思慮さえ掻き乱していく。
秩序を失った思考の中で、生温かい鼻血が顔の上を伝っているという事だけは、なんとか理解出来た。
その感覚が、ただただ不愉快だった。
「ぁ、い゛……」
倒れた私に父親が馬乗りになってくる。そして首に手を伸ばしてくるのを、数年近く蓄積された経験が予知させる。
背骨が、強張った。
どうにも無抵抗のまま、首と命を手中に収められて。心臓の鼓動からは、一層と落ち着きが無くなっていく。
それらが、どうにも、気持ち悪くって。
喉を圧迫する少し硬い手の感触が。その無駄な温度が。腹と腰の中間に伸し掛かっている体重が。私を見下す父親の黒い目が。暗澹たる現実を覆い隠さない思考が。一方的で、受動的でしかない苦痛が。
ただ、気持ち悪かった。
身体を苛む痛みなんて些細に思え、思考がこの状況に対して拒否反応を起こしていた。蟻走感にも似た感覚が全身を蝕みながらも這い回り、無数に駆けていくようにして。
だけれど。
張り裂けそうな嫌悪を叫ぶ思考は、自分の肉体には全く反映されない。精々出来た抵抗と言えば、首を絞める手首を弱々しい力で掴んだだけ。
ただ、それだけ。
どれだけ頭が否を叫ぼうが、この身体はいつしか刻まれた『抵抗の無意味さ』ばかりに従っていた。
「……ぁ……、ぐ」
代わりにぐるぐると、唯一動く頭だけを働かせる。
やはり父親は、相変わらず私に暴力を振るうのが好きらしい。十数年も同じ事をしていて飽きないのだろうか。
自分で言うのもなんだけど、私の顔立ち自体は結構整ってるから、もっと他に使い道はあると思うんだけど。
まあ、考えてみれば、『だからこそ』なんだろう。
私の母親は、どうやら美人だったらしいから。
俗に言う、面影というやつか。
ああ、嫌になる。
その所為で殴られるのも、いや、そもそも――。
「、ぁ」
私は貴方の〝母〟ではないし、代替品にもなり得ない。繰り返されているこの行為は、少し顔が似ているだけの娘に対し、筋違いの八つ当たりしているに過ぎないというのに。
そんな滑稽な虐待に、私を付き合わせないでほしい。
本当に、嫌になる。
貴方は、捨てられたというのに。
母など、とうにいないというのに。
母から、選ばれなかったというのに。
――あの人は、私達を愛さなかったのに。
だから、私なんかの首を絞めたって、そこに大した意味など、価値など、まるで無いのに。
愚かだ。
私も、父も。
何もかもが。
「俺、だって……俺だってなぁ……!!」
「……ぃ、っ」
涙が零れる。
溺れているにも似た視界の中で、赤ら顔で支離滅裂なことを叫ぶ父親。そこから発せられた耳障りな叫声の大きさに比例するように、力が込められて、首に指が鈍くも食い込む。
その異物感が、只管に気持ち悪かったけれど。あまり、頭には入ってこない。緩慢になってきた思考の所為で。
上にいる父親の顔だとか、安っぽい酒の臭いだとか、黄ばんだ天井だとか、床の冷たさだとか固さだとか、唾液が口の端から垂れているだとか、そんな不愉快の濁流でいっぱいいっぱいだった。
「ク■が……!!」
首に食い込んでいる指が、管という管を抑え付けていて。
自分の拍動が、鳴り立てた。
軋んでいく、音が。
あ、これ。
「っぁ、……ぅ」
ばたばたと、足が動いている。
本能的に、抵抗の為に、藻掻くように。
今更ながら酸素を求めて、みっともなく口を開閉しだす。
頭に殆ど酸素が回っていないのが、壊死しかけた頭脳でも把握出来てしまった。
「――っ」
絞首の原因に爪を立て、掻き毟る。
視界が段階的に輪郭を失い、ぐらりと揺れ出す。
少しずつ、思考が停滞していく。何かに侵蝕されるみたいに端っこから、じんわりと融けていく、溶けていく、解けていく。
とけていくとけていく、とけていく、とけていくとけていってとけてとけてとけttててけkてtけてttててtttてtttてttttttt――。
ただ、とけていく。
「■前さ■! お前■え、■な■れば……!!」
雑音でしかない絶叫が、鼓膜を叩く。
それは恐らく、何かの言葉で。
だけど、今の私には意味が理解出来なくて。
「――――」
生命の危機って、こういうこと、なのかなあ。
そう意識した途端、背中が、体が寒くなって、手足までもが冷たくなっていく。だけれど、そんな異様な寒さの中でも、父親に握られている自分の首だけは、嫌に熱い。
不快を訴える脳味噌こそが、乱雑に、煩雑に、猥雑に。軌道も無く、散らかる。散らかっていく。
そうしてぐちゃぐちゃになって、無茶苦茶にばらけた物を無理矢理に掻き集めて、思考を空回す。
「、」
べつに……死ぬのは、いい。
どうせ、人生に、意味も、価値も、無いから。
存在理由。も、存在、意義も……私に、ないから。
……ああ、でも。
父親に、たにんに、殺される。なんて。
それ、は――、
「ぃ、ゃ」
――――。
血が巡らずとも慣性で回る思考を止めず、気管を圧迫してくる手の首から両手をゆっくりと離した。まるで動かないそれで床を叩いていって。そうして、何かを探り出した。
呼吸を放棄しながら、感覚のない指で、掌で、床を擦るよう手を動かしていると。
指先には何か、硬い物が当たる。
何でもいいからと、微かな変化を求めて、まだ動く眼を巡らせて。
色褪せた視界の中に目的の場所を収めると。ゴミ袋に埋もれるように、そこには、
――何かが、鈍い光を放っていた。
『是非ともこれを使え』とでも言いたげな整い過ぎた状況は、気色の悪ささえ感じさせた。黒い柄と、綺麗な刃が付いているそれは、きっと新品の刃物か何かで。
私は、こんな物を買った覚えはない。
父親も、調理道具を買う事は無いだろう。
だけれど、それが、どれだけ異常だろうが。これは明確な、打開策というやつで。
不気味さなんて、どうでもよくて。
だから、だから、だからだからだから。
柄を、握り締めた。
左手は震えていた。何かに。
少し浮いていた肘を思いっきり曲げて、それで、床を叩いて。
腕を跳ね上げるようにし、無根拠な確信と共に、正体不明な刃物を、躊躇無しに。
無防備な、首元目掛けて――。
「、」
振り、きった。
▼△▼△▼△▼
想定より、軽い、手応え。
明確な違和感。
それに意識を向けるよりも先に、切られた首の断面からは大量に血が噴き出す。滝の如く勢い良く流れ落ちる物が、私の着ている制服を汚していく。
次いで、さっきまで生きていた体が倒れてくる。
何かが床板と鈍く接触した音が鳴り響いたと同時、呼吸を制限していた忌々しい手から力が抜け落ちていった。
落ちてきた腕を払うように退けてから、無駄に重い死体の下から抜け出す。
「ひゅ、っぁ、か……っ」
血から逃げ、這うように動き、また胎児のように蹲る。
背中を丸めた無様な姿勢で、急に入り込んで来た新鮮な酸素を肺に馴染ませていく。
ゆっくりと深い呼吸を繰り返す度に、散らばっていた思考が確実に纏まっていく実感を、漸く得られた。
刃物を握っていない方の手で、制服の胸元を強く握り締めて、身体の苦痛と混乱と、轟音の耳鳴りを、必死に紛らわす。
「はぁっ、は……っ゛ぅ、はぁ゛……っ」
荒く、聞くに耐えない呼吸音が耳を掠めた。
不規則な呼吸音の裏で、明瞭さを失っていた視界が真っ当に機能し、通行止めになっていた血液や酸素が頭部に流れ出して、激しい勢いで巡り出していく。
ごうごうと、ごろごろと。
「……っ、はっ、は……ぁっ」
身体はみっともなく痙攣を繰り返していて、頭脳も鈎針を抜き差しされているかの如く痛む。手足の末端に冷えが未だに居座っていて、殴られた腹の痛みも、痣と共に継続している。
だけれど、それら全ては。
私の抵抗が、結実した証で。
「ぁ、ふ……っ」
だから、横たわったままで震えている右手を強引に上げて、まだ違和感が残る喉をごろりと鳴らす。
死体に向かってなんとか中指を立て、吐き捨てた。
「……ばぁー、か」
ただ、それだけを。
そうして。
私と父親は、今生の別れを終えた。




