28 『救世志願のエピゴーネン』
内装も外装も、どうにも地味だった。
つい五分前に出てきた建物に対して正当な評価を下すなら、やはりその一文が適している。一階は閉店寸前の酒場のような雰囲気に、二階は私達が泊まっている安めの宿とそうは変わらない感じだった。
多分現代に同じ立ち位置の物があるとしたら、反社会勢力の事務所に近い気がする。ビルの一部だったり、それそのものだったり。
意外と大きかったしね。
「……」
門番みたいな立ち位置であろう人が逃げた。
その後の動きは容易に想像出来る。さっきの所が本拠地でない可能性は勿論あるし、仮に本拠地だとしても支部や分流の『手足』がそう遠くない場所にいるだろう。
幸いスラム街は区画整理を投げ出したように入り組んでいる。
表通りに戻るまでの道はしっかりと頭に入っているから、ここから逃げるのは多分、問題無いのだけど――、
相も変わらず、人目がある。ギラついたそれが。
『二兎』を追って無事双方共に得た情報提供者をついでに殺そうかとも思ったけれど、後を考えるなら生かしておいた方がいい。
そうやって今後の為に色々と考えるべき事はあるけれど、今はしたくないから彼女に話し掛ける。
「ねえ、銀髪ちゃん」
「なんです?」
私と同じく二週間も冒険者稼業をしていれば、初対面からこの街に来るまでの街道と同じように、息が上がる、といった事は無いらしい。
まあ、スラム街から東地区までは意外と近いから、そうなる可能性は低そう。
「君、身寄りっていうか、親はいる?」
取ったばかりの《気管強化・I》が地味に有り難かったり。
体力とか筋力自体は相当増しているし、結構前世から考えたらおかしい挙動も取れるようになっているけど、内部はそれに追い付いていなかったから。
「親は、いません。身寄りは……あるにはありますけど、ちょっと関係が複雑で」
路地裏の裏の裏を歩いている気がする。
そう思える程度に入り組んでいるし、雰囲気は明るい物ではない。
「私もおんなじでさ、親、いないんだよね」
大分走ってきたから、後もう少しで薄暗い場所からは抜け出せる。
「まあ、いなくなったというか――いなくしたんだけどね」
「……え?」
事実を述べると、彼女が足を止め、こちらに凝然とした視線を向けてきた。
「それは、どういう……」
「殺したって事。包丁で首を刎ね飛ばしてね」
消去したジャケット以外で身に付いている物をこの場で再生成し、付着していた血も匂いも全て無かった事にする。
それから両手を適当にひらりと広げ、いつも通りに笑う。
「君は? 身寄りとやらを、そうしてやりたいと思った事、無いの?」
あくまでこれは、単なる問い掛け。
そして発端であり、起点であり、そして先駆け。
「……わ、わたし、は」
投げ付けられた問いに『考えた事も無かった』、『思い付きもしなかった』、『そんな事を考えるだけでも恐ろしい』、『そのような暴力は受け入れられない』……とでも、言いたげな顔をする。
そういう顔をして、声を震わせ、眉を歪めて目を伏せて。凡そ、そのような表情をしていた。
「あのさあ」
広げていた手を、ひたと下ろす。
一歩、二歩と近付いて、震えている肩に片手を置いた。
「――嘘吐くの、やめたら?」
胸倉を掴んで、壁に強く押し付けた。
「何、を……」
別に不機嫌になったりとか、そういう事ではない。
「だから、その態度をやめろって言ってんの」
いつ買ったのかも分からない彼女の、その女物の服を握る手に、ぐっと力を入れて更に強く壁に押し付ける。
何時だって価値の下がらない美貌は、泣きそうなぐらいに崩れていて、同時に眉が顰められ困惑を露わにしている。
「リーナ、さん……い、いたいです、っ」
「だから?」
君の痛みはどうでもいい。
私には関係ない。
私の気になる事には。
「ずーっとさ、違和感自体は抱いてたんだよ」
「何、言ってるんですか……? いいから早、」
「印象に至るのなら、初めて会った時から感じてた」
胸倉から手を滑らせて、いつしか首に巻かれていたスカーフを指先で弄んでいく。肌触りは芳しくなく、お世辞にも『良い』などとは言えない物。
「君は、優しいよね。ほんとに優しい」
結び目を解いて、下に隠されていた呪いの印を露出させる。
「こんな私にも優しくして、良くしてくれて、何故か世話を焼いてくれてさ。困っている子供がいたら助けるし、節々の気遣いも礼儀もちゃんと出来ているし、私が怪我をすれば直ぐに治して、何度も何度も傷の具合や痛みの程度を尋ねてきたり……ほんっと、優しいよね」
今いる道を右に曲がれば、少し路地を歩くだけで往来に出る事が出来る。
光が近い。
だからこそ、ここは暗い。
往々にして、そういう物だ。
特に、私の人生に於いては。
「だからさあ、解せないんだよ」
未だに震えている肩を掴んで壁に押し付け、まるで接着剤の強さを信じれない人のように数秒抑え込んでから。
肩を起点として、二の腕、肘、前腕、手首、と這い上がるよう指で辿らせて、逃げられないように両手首を掴む。
「だって、〝君〟であればそれは出来ない筈だ。そうは思わない?」
顔を寄せて問えば、顰めた眉の程度が深まる。
「……分かりません、貴女の言っている事が」
……。
……ああ、そう。
なるほど。そうか。
「あっそ」
自覚していないのか。
だったら、と。
息を吸い込んで、笑顔も軽薄な態度も取り止める。そして、コンドームみたいに薄っぺらい欺瞞を剥がしてやろう。
酷く、喜悦の混ざった声で。
「――君は、人死に興味が無い」
言うと、息の詰まる音が、聞こえた。
「そんなわけ、ないじゃないですか」
この反応は……そうだ、初対面時に日本語で話し掛けた時と似ている。違う所があるとすれば、そこには一滴の否定心が混じっているという事。
「じゃあなんで、赤髪の彼を殺したの?」
「あれは、だって……り、リーナさんに、そうしろ、って……言われた、から」
「それだけで?」
「だって。リーナ、さんは。あの、時……死にそう、だったじゃないですか」
死にそう? あれのどこが? いつでも殺せるからこそあのような行動を取ったのであり、私が無用なリスクを取る訳が無い。それに、たとえ彼女から見れば私の身が危険に思えたとしても――、
「もう一回聞くけど、『それだけ』で? それだけで、人を殺したの?」
息が少し荒れていて、私が抑えつけている手が藻掻き始めた。
愚かだ。力で私に叶う訳無いのに。
「リーナさんが、やれって、いったから」
なるほど、責任の全て私に転嫁するつもりらしい。
だからあれは自分の意志ではないと、全ては貴女の所為で、そこに私の意図など入っていない……と、そう主張したいらしく、必死に訴え掛けてきていた。
「私は、『殺れ』なんて言ってないよ」
「うそ、うそです。だって、だって――っ」
対話を拒否しようとして、首をぶんぶんと振り乱している。綺麗な銀髪は頭部に追従しながらその隊列を崩し、二重振り子のように無作為で無鉄砲な軌道を残していく。
「嘘じゃないよ。君は、君の手で、人をひとり殺してる」
「ころして、なんか……っ」
手首を強く握って、肉を圧迫し骨を軋ませる。
神経に伝わる痛みで、彼女の注意がこちらに引かれたのを見ながら。
「殺したじゃん。ついさっき」
「は、ぇ……?」
呆然としてる間に、私の片膝を両腿の間に割り込ませた。
「【氷球】、だっけ? アレ、指示してないよね?」
「――――」
「私は確か……『私が全部どうにかするから。君は階段の近くで隠れてて』、そう言った筈だよ? それ以外は言ってない」
「……」
無視を貫きたいのか、ずっと口を噤んで顔を背けて、目を何処かへと逸らそうとしている。
「君って馬鹿なの? それともただ不快なだけ?」
体重を前に傾けて、彼女の手首をより拘束すると同時にそれを支えとする。顔を背けて逃げようとした所為で、皮肉にも酷く無防備に成り果てた耳へと、どろりとした毒を流していく。
「自分じゃない、自分じゃないって叫ぶだけ。何らかの論理性が含まれている訳でもなく、感情的に否定するだけじゃん。私ではない、私はやっていない、何も知らない……って」
嗜虐が疼いている。
「ねえ、頭が悪いの? それとも、現実を受け止められないの?」
今は、不要である筈のそれが。
「人を殺しておいて、なに博愛主義者気取ってんの? 本当に気持ち悪い。醜いとすら言えるよ、君の在り方は」
細く真っ白な指が、ぴくりと反応を返す。
しかし、ただ、それだけ。
「認めなよ、『私はただの人殺しです』って。そうすれば楽になれるよ?」
その様が、酷く心を擽っている。
「言っておくけど、君は本質的に私と同じだ。『他者の生死』だなんて物に、全く以て興味が無い」
彼女は白い。真っ白だ。
何よりも。
だからこそ、きっと私以外の手に渡ったとしても、所有者の思想に汚れてしまうだろう。
「だから、君が『誰かを助けたい』なんて、思える筈がない。そんな事はあり得ない」
だから、汚されてしまう前に、汚してしまおう。
お前は元からそうだったのだと。それがお前の本性なのだと。
そうしてしまえば、きっと彼女は従順な子猫になってくれる筈だから。ナレーフィア・サリメルカとは、そういう存在でなければならないから。
「……だから、さあ」
言葉には少し、愉悦が滲んだ。
「君の原動力は、抱えてるそれは――」
言葉を、切った。
「――ただの、救世主願望だよ」
そう言い切って、そう決め付けて、そう断言してから、捕まえていた手首を解放した。その暴力的な支えを失ったからか、彼女は倒れ込むように私の胸元に縋り付き、顔を埋めてふる。
荒い息がスーツベストの硬い生地に投げ付けられ、襟の部分にはほっそりとした両手が掛かっている。
「……、……に」
小さな、呟き。
そして、胸倉が掴まれる。
「……あなた、に……」
前後がゆっくりと逆転させられ、か弱くも壁に叩きつけられ、軽く後頭部を打った。
そうして。
息の、吸われる音。
「――貴女に一体、何が分かるんですか!?」
怒鳴る彼女は、涙を流していた。
▼△▼△▼△▼
「……私は、私だけは分かっていましたよ!! とっくに、ずっと前から……っ! 用途の果たせない道具に、私なんかに、価値が無いなんて!! そんなことは、ずっと前から!!」
苦しげに傷口を外気に晒して、そこに起点として広がる痛みをなんの遠慮もなく、発露させている。
「私には価値がない! 生きてる意味も、何も無い! だって、私は出来損ないだったから! 私はゴミで! 生きてるだけで罪で……!」
極彩色にも似て、色鮮やかな傷口を。
「今すぐに死ぬべき存在、で、役立たずなんだって、ことは……。ずっとずっと、ずっと前から……分かってたん、です」
人というのは、生物だ。
往々にして腐敗していく物であり、腐敗というのは全体的であるが、主に傷んだ場所からその進行は始まり、広がっていく。傷口は腐りやすく、それは膿となり、対処が遅れればいずれその部位は腐り落ちる。
彼女はまだ、最終段階ではない。
つまりは酷くグロテスクに、鮮明な傷口に対し、痛み、悶え、苦しんでいた。
「別に、いいじゃないですか……。誰かを助けようとしたって、貴女を救おうとしたって……私が、何を、したって」
涙が一滴だけ落ちて、この世界のアスファルトに染み込んだ。
それを真似するように、手首を掴む手からは力が抜け落ちていく。
「――……必要だって、そう、言われたかった。ただ、それだけなんです」
落ちた声。
それでいて、歪んだ声。
「私は、駄目な人間、だったから。役目を、使命を……果たせなかったから。無駄飯食らいで、邪魔者で、卑しくて、穢れていて、馬鹿で、生き恥そのもので、人に不幸しか、齎せなくて……」
沈む言葉と共に彼女の身体から力が抜けていき、ついには地べたに座り込んでしまう。
「愛されて、みたかった。私は必要なんだって、生きてていいんだって、認められたかった。……子供を母親に引き合わせれば、きっと感謝してくれる筈だって、思った。受付嬢と丁寧に会話を交わせば、きっと良い印象を持たれるって、思った」
漸く上がった顔は、涙に濡れていて。
「貴女に優しくして、世話を焼けば、きっと私を必要としてくれるって、傷を治して、知識を与えたら、きっと私を使ってくれるって、傍に寄り添って、話を聞いてあげたら、きっと私を選んでくれるって……そう、思ったんです」
乾いた笑いが、隙間から漏れる。
割れた仮面の、その罅から。
「……は、はは。はははっ。私は、私はなんで、どうして貴女なんかを、選んでしまったのでしょうね……?」
ぐちゃりと、髪を握り潰して頭を抱えて。
「貴女と私は、違う人間の筈なのに……どうして」
未だに泣きながらしゃくりあげた声で、甚だ自分の選択が信じれないというように、何度も何度も『どうして』『なんで』と繰り返している。
その様は、どうにも発狂に似ていた。
「貴女にはきっと……私の絶望なんて、分かりはしないのでしょうね。いつもへらへらとしていて、真面目な態度で物事に取り組まない――軽薄な、貴女なんかには」
自他どちらかに向けているのかも分からないほどに乱れた感情で、泣きながら彼女は微笑む。仰ぐように目を細めて、こちらを見上げるように見下して、引き攣るように口の端を歪めていく。
それは嘲笑であり、剰え、愚を論って小馬鹿にするような。
或いは――藁人形に、五寸釘を打ち付けるような。
「ふ……ふふ、あは。あはは、あははははは――っ」
けらけら、けらけらと笑って。
自分の皮膚を引っ掻いて。
まるで終身刑が決まった囚人のように、自分だけが真実なのだと絶望してしまったように、狂気の淵にいるのが己だけだと気付いたように、その身に似合わぬ天啓を受けたように。
要するに。
狂ったように、笑っていた。
これが思考を妨げるのだと、銀髪に通した手櫛を無秩序に掻き回し、ここが痛むのだと頭蓋骨に纏わりついた肉を抉りたいのか五指を突き立て、この感覚が欲しいのだと頭皮を爪で切り裂く。
そんな狂気は、突如として指向性を帯びた。
「ねえ」
瞳は、炯々としている。
「貴女に一体、何が分かるというんです。私の、なにが」
宛ら、査問会か何かに立たされている人物に対するように、糾弾と抗議混じりに責め立ててくる。僅か数十cmの見えない壁。それこそを境界線と見立て、加害者・被害者と関係を定義したらしい。
「この虚しさは、私の、私だけの物です。苦しみも、辛いのも、なんだって全部が、その全てが。……貴女には、こんな事も分からないでしょう?」
そう、問い掛けてきた。
透明なアクリル板越しに、刑務所にて面会しているかの如く。
「……」
問いには、答えを返さなければならない。
必ずしも。
往々にして、質問には質問を返すのではなく、質疑応答を済ませるのが人間らしさだという。
だから、私は――、
「――分かるよ」
空気が、止まった。
「……ぁ?」
彼女は。
まるで墓穴から這い出す屍人にも似た動きで立ち上がり、傷を隠す為だけに巻いているこのチョーカーを補助線として、胸倉を――いや、私の首を、その繊細な右手で絞め上げた。
「さっきまでの、話。……聞いて、ましたよね?」
「うん」
「私を、馬鹿に、してます?」
チョーカー、或いは首輪。食い込むそれが喉元辺りの古傷に触れ、少しばかり痛みを感じた。
それを咎める筈の博愛精神はどこへやら、痛がる様子を見せても彼女は力を弱めない。
「分かる、分かってるよ。私には全部」
目を細めて、彼女が言うように『軽薄』に笑って、息苦しさも傷の痛みも考慮から外出させる。
「何を、言って……」
「――痛かった。苦しかった。寂しかった」
紡ぐと更に食い込んでいく指を、頓着せずに言葉を編んでいく。
「悲しかった。辛かった。冷たかった。愛してほしかった。私を見てほしかった。ここから出してほしかった。助けてほしかった。救われたかった。救われる事さえ、罪である気がした」
紡げば紡いで紡ぐ程、指の力が強まる。
「それでも、抱き締められたかった。愛していると、囁いてほしかった。触れてほしかった。認めてほしかった。関わってほしかった。いっそ全て無くなってほしかった。許してほしかった。感じるべき感覚でさえ、誰かに奪われている気がした」
指が、頸動脈を潰している。
「いっその事、殺してほしかったし、壊してほしかった。だけれど、それを叶えてくれる人がいない事に恐怖を覚えた。自分なんてどこまでも矮小である気がした。心臓の音がうるさかった。全てを忘れてしまいたかった。世界から自分だけが剥離していく気がした。こうなった全ての原因は自分であると、そう思い込んだ」
酸素の行き渡らない脳が竦んで痛むが、痛むだけ。
「死んでしまいたいのに死ねない事実に呆れを覚えた。身一つでいる事に足が竦んだ。脳と共に日々が腐っていく気がした。罪悪感が死に至らせるのではないかと不安を抱き続けていた。胸が気持ち悪くて、吐き気を覚えていて、けれど……何度吐いても変わる物なんて、何もなかった」
彼女の息は、酷く荒れている。
お前はそうではないのだと、お前だけは違うのだと、この痛みは自分だけの物なのだと。
そうやって否定して、遠ざけて、自分を守ろうとしていた。
聞きたくない言葉を、封じようとしていた。
だから、吸えない息を吸って、合わない目を合わせて、
「――もっと真っ当に、産まれたかった」
もっと違う環境で、自分以外の誰かとして、全てが捻じ曲がったこんな世界ではなく、もっと真っ当な世界に、真っ当な人間として、真っ当に生きて、そう出来るように産まれたかった。
そう、言った。
「ぁ」
突如として、白魚の指が離れた。
すぐに力の伝導率が悪い身体を背後の壁に寄りかからせれば、少し傾いた姿勢。だのに私よりも身長の低い彼女の、見張られた目。
それが見えた。
「な、んで……?」
まるでマグニチュード8にも似た立ち眩みに襲われているみたいに、ぐらぐらと定まらぬ体幹で揺れ動いている。流星にも似て綺麗な銀髪を、通した手櫛で再度ぐちゃぐちゃと掻き回している。
まるでその奥にある、脳で巡る思考を消し去ろうと。
必死に。
「ちが、違う。これは、違う。だって、貴女と私は、違くて、違う筈、だから」
「違わないよ」
「違う、違う。違う違う違う違う違う違う違う違うっ……、私……は、貴女とは、」
抱き寄せて、
「……違わないよ」
腕の中に閉じ込める。
横の髪を耳輪に掛けて、無防備に晒した耳朶に言葉を注ぐ。
「君と、私は、おんなじなの」
「ち、ちが……っ」
「違わない。何もかも、一から十まで、ぜーんぶおんなじ」
聞きたくない事なのか、やはり頭をぶんぶんと振って、〝聞こえてない〟と私に示し、『聞こえてない』と自分に言い聞かせている。
まるで舞踏に興じるようにゆっくりと立ち位置を逆に回転させて、腕の檻を縮小させてから。
彼女の身体を壁に押し付け、私の身体で抑え込んだ。
「聞いて」
幾分か近付いた距離で言えば、まるで親に叩かれる直前の私みたいに身体をびくりと竦ませて、急制動するが如く静かになる。
「君はね、異常者なの。きっと普通の人では、君の事を分かってあげられない」
情動が乱れて隙だらけの心に、再確認させる為の〝傷〟を刻み込む。
きっと忘れ難いそれを、殊更に。
「君は誰も愛せないし――誰からも、愛されない」
恐れるように、喉が引き攣らなければ聞けない音がした。
見たくないからと蓋をして、まるで意識にすら無いと言い聞かせるように社会が要求した『いい子』を取り繕って演技して、十数年も必死に隠してきたであろうそれを、開示させる。
まるで、かさぶたを剥がすみたいに。
「君は君の言う通り、価値が無くて、生きてる意味も無い」
罵倒を囁けば今更離れようと腕の中で暴れるが、やはり力で私に叶う訳が無い。
「君は出来損ないだ。君はゴミで、生きてるだけで罪で、今すぐに死ぬべき存在で、どうしようもない程に役立たずだ」
彼女にとって私の言葉は聞くに堪えなくて、でも逃げられもしなくて、ついには幼子のように泣き出してしまう。
「君は駄目な人間だよ。与えられた役目も、使命も果たせなかった無駄飯食らい。誰からも厭われているような邪魔者で、抱く欲望は浅ましくて卑しくて、その上存在自体が穢れていて、救いようのない馬鹿で、生き恥そのもので、人に不幸しか齎せないような……ダメ人間」
彼女の自己評価そのままだからか、抗う事無く受け止めて、痛む〝傷〟に涙を流している。
「誰も君を愛さないし、誰も君を理解しないし……誰も君を、救わない」
ぐずぐずと泣いて、言葉を上げる事無く泣き喚いて、何度も何度も嗚咽を繰り返してはしゃくりあげて、泣きじゃくった。
「ひっ、ぅ……、ぁ、ゔぅぅっ」
その落ちる涙を、指先でそっと掬い上げて。
「君はずっと、死ぬまで、永遠に一人だよ。だから、」
それを整髪料とするように銀色の前髪を掻き上げて、色白よりも余程白い額。
そこに、
「……私が、必要にしてあげる」
口付けを、落とした。
▼△▼△▼△▼
「――……ぇ?」
今この場では、誰よりも、何よりも幼く、無垢であると同時に哀れな少女の、丸っこい頭を撫でる。
足と足の間。
そこに再度、私の片膝を、割って入りこませながら。
「君は異常者だけど、私には分かってあげられる」
人というのは、生物だ。
往々にして腐敗していく物であり、腐敗というのは全体的であるが、主に傷んだ場所からその進行は始まり、広がっていく。傷口は腐りやすく、それは膿となり、対処が遅れればいずれその部位は腐り落ちる。
だから、腐り落ちる前に、死に至る前に、その箇所は切除しなければならない。
それには耐え難い程の痛みを伴うが故に、何よりも強力で持続性のある〝麻酔〟が必要とされていた。
果てのない痛みは、目的と手段を逆転させていたのだけれど。
「君は誰からも愛されない。だけど、私だけは愛してあげられる」
一文字一文字を発する度に、彼女はびくびくと震えて不安と恐怖に怯え出す。
『嘘なのではないか』とか、『信じていいのか』とか、『裏切られないだろうか』とか、そういうネガティブな可能性が過っては二の足ばかりを踏み、一歩を踏み出す事に幾らでも怯えている。
きっと、そうである筈だ。
「君には私にとっての『価値』がある、〝意味〟がある。私だけがそれを見出してあげられるし……私だけが、それを使ってあげられる」
言葉と思想とを刷り込むように、或いは肉に振った香辛料を擦り込むように、頭を優しく撫でて、前世で出す機会の無かった優しげで、それ以上に甘ったるい声を作って出していく。
「私にはね、君が――ううん、フィアが必要なの」
今までの二週間で、呼んだ事のない〝名前〟。
今ここで呼ぶ事にこそ、意味がある。
事実として、彼女の息は何かに打ち震え、詰まっているのだから。
まるで求愛するように、白やかな喉をきゅうきゅうと鳴らして、心臓を高鳴らせて、何もかもが昂っているのだから。
「……ほん、とうに?」
「うん、本当」
返答しながら愛でるみたく、その長髪を梳いて、愛おしむみたいに目を細める。
少し体重を前のめらせて、身体と身体をくっつけたまま。
仄かに伝わるのは、彼女の早まった鼓動。
「うそじゃ、ない?」
「嘘じゃないよ。私は絶対に、君を裏切らない」
囁く声は、言葉は、睦言にも似ていて。
しかし嘘ではないのだから、しようがない。
「わ、わたし、だめな、にんげんですよ……?」
「知ってるよ。その上で口説いてるんでしょう?」
というか、多分私の方がダメ人間だし。
「……じゃあ、なんで? なんで、わたし?」
顔を埋めて、くぐもらせた声でそう問うてくる。
「君が私にとって、特別だから」
微笑んで、彼女が求めてやまなかった物を与えると、全てが強張った。落ち着かせるように背中をぽんぽんと叩いてあげれば、一瞬だけ固まっていた身体は自立するだけの力を失った。
いっそ、気持ちがいいくらいに寄り掛かってくる。
「ぜったいに、わたしを、すてませんか……?」
「うん、捨てない。ちゃんと使ってあげる」
電子レンジで冷凍食品を解凍した際に残る冷たい部分、或いはスポンジでも取れないコップの汚れ。それにも似たささやかな猜疑を、嘘だけは含ませていない言葉で射溶かしていく。
「しんじても、いいですか? 嘘じゃないって、やくそく、できますか?」
「出来るよ。絶対に、何があろうと、君を捨てないよ」
背骨の存在を確かにするみたいに、やけに骨の固さを感じる背を撫でながら、耳元で言葉という何よりも甘い毒を垂らし込んで、誑し込んでいく。
「じゃあ、してください……よ」
湿った吐息は、私のワイシャツに溶け込んだ。
「最期まで、私を使うって……約束、してください」
「……うん、いいよ。約束する」
そこに至って。
漸く抱き締め返されて、更に深く首元に顔を埋めてきた。
「ぜんぶ、全部あげますから、捨てないで、くださいね」
声を聞いて、その言葉を聞いてから一旦身を離す。
それでも追い縋ろうとして後退を防ごうとする両手の首を、片手だけで纏め上げ、ぎゅっと握って離さずにいる。
「でもさ、〝約束〟はしたけど……やっぱり不安になっちゃうと思うんだ」
限りなく高い可能性を提示すると、彼女は肯定の意で目を伏せた。
その視線が下に向き、自らの両手が右手一つで拘束されている事を見定めた瞬間に、両手をぱっと離してあげた。
「だからさ、いい提案があるんだけど」
左手の指先で、彼女の顎を持ち上げる。
そうして、言葉を紡ぐ。
「――君、私の奴隷にならない?」
へらりと笑って提案すると、表情がぐにゃりと歪んで……また、泣きそうになる。
「……ずるい人、ですね。今の私じゃ断れないって、分かってるくせに」
文句を付けられてはいるが、それはじゃれあいに過ぎなくて。
今までの整い過ぎた微笑みではなく、自然な笑みを浮かべて。
「私はもう、貴女の物ですから」
だから、どうぞ、という言葉に頷いて。
妙に熱っぽい肢体を抑えつけ、色付いた頬を視界に収めながら――、
「っ」
噛み千切った親指の腹。
それで、〝紋〟に血を刷り込んだ。
それが、成約の証だった。




