17 『インソムニア』
一つ言うことがあるとすれば、ただ只管に、溜息が重かった。
アスファルトが敷かれた簡素的な道路。両端にはデフォルメされた『H』のような石畳が連なって、水路の天井として存在している。
道を照らす程度に明るい街燈は、電柱に縋り付きながらも不規則に明滅を繰り返す。
そんな中を無言のまま、一歩を踏み出した。
その次も、そのまた次も。
町並みの光景を置き去りにして、道路の側溝を踏み付け、街灯を無視しながらそのように歩く。私が無視した街燈の光に集る小さな虫は、羽を小刻みに動かして自らを照らすように滞空していた。
背の高い灰色の共同住宅を一つ通り過ぎた所で、前髪を散らす風が強く吹いていく。
「、」
目元を擽る髪を払うよう首を大きく振ると――真後ろに、誰かが立っている気がした。
先程の一瞬よりも長く後ろを振り向いてみるが、人影などどこにもなく、居るとすれば羽虫のみ。
不気味さを振り払う為に一歩を踏み出すと、
――こつん。
と、誰かが小石を蹴ったに近い物音がした。
全てを無視して、振り返る事なく、足を地面に差し出す。
少し早くなった鼓動と歩みで、前に進む。
――こつん。
さっきよりも、大きな音。
それは自らの靴音だと言い聞かして。
一歩を、踏み出す。
――こつん。
脳内で巡る血流が、今はただただ煩わしい。
荒れる呼吸も、胸を叩く心の臓も。
五月蝿い。
うるさい。
こつん。
そう、真後ろに近付いた物音。
振り返る事なく、振り返る事は出来なく。
踵を石床から浮かせて。小走りで、地面を蹴っていく。
――こつん。
先程までに比べたら小さくなった。
けれども。
だけど、逃げるように走って、走る。
震えた吐息と、服の中に汗が纏わり付いたまま。
群立した共同住宅に、足音を響かせながら。
――――。
聞こえないけれど、まだ。
まだ、走る。
走って、ひた走る。
「っ、……は、」
髪が原型を留めない程の速度で疾走していると、私の視界には何やら、 のような物が見えて。
道路の上にあるその目印に向かって、石の床を踏み締めていって、地上を蹴り上げる。
蹴って、走って。
前を見詰めたまま、靴先で音を鳴らして。
最早、眼前にまで迫った を掴もうと汗に湿った手を伸ばして、
――こつん。
「ぁ」
伸ばした手を、掴まれて。
正面の人型に、引き寄せられて。
振り解こうと腕を振り乱してみても、びくともしない。
「な、んで、っ」
どうして。
何故。
ここに。
無駄に巡る思考の所為で途切れた疑問に、答えは返されない。体重を移動させて重心を後ろに移しても、関節まで伸び切り上がった腕が悲鳴を上げるだけで、それ以上の事は無い。
恋人繋ぎは離されない。
「はな、して……っ」
逃げようと暴れていた私の体内には、いつの間にか、人型の左手が。
ずぶり。
と、入っていて。
「い……、ぁぶ」
体内を探る片手が、内側の方から筋肉の組織や肋骨の骨膜を削るように、溶かすように、繊維に沿う形で、指をやわりと這わせられた。
上に移動した肌寒い手は、肺と脊髄の中間辺りに収まる。そのまま冷感を伴った指先で、身体の中を愛撫されていく。
「ぁ、ひっ」
熱い快感ではなく冷たい不快感で腰が砕け、人型の胸元に縋る事しかできない。
布のようでもあり、皮膚にも似た黒の感触を鷲掴む。
「……離、してっ……!」
歯を食いしばりながら言うと、ぎゅむりと肺を握り締められて、強制的に息を嘔吐させられた。無くなった空気を求めて口を開いた所で、脊髄に通っている神経が物理的に逆撫でされて、それで。
――ぶちっ。
「か、ふ……っ」
喘鳴を繰り返しながらも人型の腕を、肘と膝で挟み折ろうとすると……私の微かな抵抗を予期していたかのように、胃袋に添えられた掌に力が入り、手加減無しに握られる。
圧迫された所為で細まった胃袋が痙攣して、過度な収縮を演出した。
「ぅ、ぶ……ぇっ」
灰色をした地面の上に、自らが吐き出した透明な胃液が。びちゃびちゃ垂れ落ちて、小さな水溜りを作る。
口の端を伝う、唾液混じりの液体。
加えて、未だ苦しげに唸っている胃袋が不快感を伝えてきた。
殆ど身体に力が入らない。まるで動けない。
だから、目の前の忌々しい支えに体重を預ける。
もはや、遠く思える痺れを感じながら。
視線を上に向けると、腹の中身たる臓器に冷気を帯びた手が飽きる事なく這い進んできて。
そうして、這い進んだ先は、
「まっ、て」
心臓。
鼓動を咎めるように軽く握られるだけで、上半身全てが痛み出す。痙攣する肩と指先が、震えを発する度に痛く、吐きそうなくらい痛くて。いや、もう、吐いているのか、私は、痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。■い。痛■。痛■。痛■。■い。
■い。■■。
■■。■■。■■。
■■。■■。■■。■■。―■。――。
――。――。――。―――。―――。――――。
――――。――――。――――。――――。――――。
―――――。――――。――――――。――――。――――。
「ぁ、ぶ――っ」
生きている事が、間違いだと思える程に。
私の心臓が、悪寒の掌で握られて、握り締められていく。
窄められていく五指の冷たさと冷たさが、そして冷たい冷たさが、心の底から心の底と心の底から所ががとがところ冷たが身体らから身体が全が域まてで伝染して。して。て。して。して。
して。
て。
。
「……そ、れ――ぁ」
震えた声を吐き出すと、労るように頭が優しく撫でられる。
耳の裏にまで滑り落ちたその優しげな手は、まるで母が泣く子を慰めるかのような手付きで暖かく撫でて、私の耳輪に髪を掛けてから。
ぶちり、と。
小指で、鼓膜を破った。
破られて、穿られる。
そのまま、人影が、罪悪感も無しに身を屈めた。
「――――」
ぎゅるり、と、赤い目と目が、見合って。
引き攣った頬、奪われた唇。
ぬるりと入ってきた舌が、歯の根を無視して一本一本をべきりべきりとへし折っていき、剥き出しになった歯茎を堪能するように味蕾でなぞっていった。
「ぎ、ぅぁっ……!!」
上げたいのに、声が上げられない。異様に長い舌が収まりどころを見つけたように、喉の奥に居座り、まるで亀の首が伸び上がるように残していた余地を使って声帯までもを舐め取った。
破られた鼓膜が耳鳴りとしての悲鳴を叫ぶ。
口の端に垂れ落ちるのは私の血液と、どちらなのかも分からないたらりとした唾液。喉の奥は犯され、体内も体外も最早全てが混ぜられている。
「ふ、ふぶ」
ずっと間近で、まるで接続した信号のように、救急車、パトカー、トマト、林檎、柘榴、血液、苺、薔薇。
それらみたいに赤い目が、愉悦と嗜虐に歪んだ。
それと同時に、窄まった五指は――、
「ば」
心臓を、握り潰した。
▼△▼△▼△▼
「――っ」
胸だけが痛い。耳鳴りが酷い。妙に息が浅い。
「ゆ、ゆめ……?」
いや、あれは夢。単なる悪夢。そうでないと人生全体の文脈が崩壊する。だから、だからここは現実で、あそこは夢の中で、ここは現実で、そして、今は、今は何時……?
『03:27』
――――。
「……ああ、そう」
脳内に、こうしてイメージを刷り込まれるのにも慣れてきた気がする。
「……あー」
太ももの殆どが露出する短いズボン、酷くダボダボなパーカー。上から下まで全部真っ黒でカジュアルにも程があるのが今の服装。
寝ようとしてベッドに転がった時に、それまで着ていた服をこれらに変化させたのは覚えてる。
そうしていて良かったかもしれない。あのワイシャツとかスーツベストとかフォーマルな恰好してたら、全身にへばり付いている不快感が増していたかもしれない。よくやった私。
一回下着含めて全部脱いで、抜け殻となったワイシャツで適当に身体を拭ってから新しく服を作り直す。
で、脱ぎ捨てた物は毎度の如く〝口〟に食べさせて。
溜息を吐いて、ベッドに寝転んだ。
▼△▼△▼△▼
で、だ。
深呼吸とかして漸く精神が落ち着きを取り戻してきたから、まだ午前四時程度、朝までに時間が残っている。
だから、いつも通り考え事をしようかなあと。
「寝たら、どうせ悪夢見るだろうし」
フィア曰く、私達は『仮登録』であるらしい。
『採取・雑用依頼の十回以上の達成』という基準は試用段階にしては少し短い気もするが、まあギルドはそこまで人材一人に掛かり切れないか、そうする必要が無いのだろう。
大雑把な力量さえ確認出来たら、後は依頼を交わす関係。
現状ブルーカラーに近い仕事内容ではあるが、それは戦闘依頼を一度も受けた事の無い私の意見だろう。多分本登録ではなんか、こう、色々戦うのだろう。
その対象が魔物か人間かはさておいて。
まあ、猟師とか傭兵とか賞金稼ぎみたいな物だとしておく。
で、今日の本題。
どうやって本登録まで至るか、という話。
ぶっちゃけ採取とか雑用は苦ではあるが、逆に言えばそれだけでしかない。本題はその後にある『鑑定審査』とやら。絶対に不味いとしか思えない字面。
通過出来る気がしない。
スキルがこの世界観の中でどういう立ち位置にあるのかは未だ分からないが、【暴食系統】のスキルは絶対に不味い。銀髪の彼女の節制関連とか《聖女》とかも、絶対にバレたら不味いスキルだと思う。
それに《第三の家畜》に《行使鑑定》、そして称号達――。
「私も大概、厄ネタだよね」
これでは彼女を笑えない。
まぁ、解決策はあるにはあるんだけども。
つまり、これの事。
「えーとこれを鑑定してっと」
========================================
・《改竄》 [任意稼働技能]【技能系統】
改竄記憶であるイメージを保有した魔力を対象に貼り付けるスキル。
実体を持たぬ物にも使用可能。
========================================
「おー」
ハイドが私に『短剣』を『革靴』と誤認させる為に使ったと思われる、捕食時に奪い取ったスキル。
「多分、これで行けるんじゃないかな」
[ステータス]を何かの方法で鑑定される際に、その結果をこれで適当な結果を貼り変えてしまえばいい。
それだけでいいんだけど、ぶっつけ本番とか本当に愚行でしかないから、時間のある今の内に確かめておく。
という訳で。
「へいナビ」
『《改竄》の使用法については、大枠は《情動戎器》と違いはありません』
「薄々思ってたけど、私の思考読んでる?」
『正確には――性格を加味した上で、内在魔力の反応パターンで目的設定者の意思を割り出しています』
へー、すごい。
何言ってるのかまるで分からない。
分かろうとする努力が無い。
まあ、使用感が《情動戎器》と変わらないんだったらそれでいいや。とりあえず適当に……髪色とかでいいかな。
「えい」
とやれば、視界の上半分を不完全ながら占める黒色は、銀色へと変わる。丁度、今の私が一番密接に関わっている人物のように。
「……やっぱ、綺麗な色だよね」
前髪を指で摘んで観察してみれば、夜の闇に包まれた新雪にも似た色が瞳の裏を這い始める。
自分がやっている事が、ちょっと偏執的な事に気づいてからすぐに改竄記憶とやらの投影を取り止めて、慣れ親しんだ黒髪に指を通した。
まあ、《改竄》については使い方が分かったのでいいだろう。あとは鑑定審査とやらを通過する時に、いい感じに上手く内容を張り替えればいいだけ。
じゃ、朝まで起きてようか。
▼△▼△▼△▼
翌朝、自害時についたであろう首の傷を鏡で見たらちょっと人目に晒せないレベルにグロテスクだったから、適当にチョーカーを作って付けておいた。
そうして暇潰しに、鏡に反射した自分と脳内で会話を重ねていた時に、戸が叩かれる。
そのノックに応えてドアを開けてから挨拶すると、フィアが目を丸くして何故だかびっくりとした面を晒していた。
「どうかした?」
そう問えば、恐る恐る胴体の辺りを指差される。
「……その服、どうしたんです?」
問い返されて下を見てみれば、ワイシャツにスーツベストを赤色のネクタイで締めた、という服装。あとついでに黒いチョーカー。
ああ、なるほど。
「持ってたのを着ただけだよ?」
「いや、でも、明らかに」
「まあまあ、別にお金を使った訳じゃないから」
誤魔化そうとしながら彼女の右手を両手で握り込み、『見逃して?』と言って首を傾げた。
――当然、朝食時にしっかり問い詰められた。




