第五話 医師は嘘を診る / 第一幕 両軍のあいだ
街道の中央へ、長卓が一つ据えられた。
粗末な樫の卓だった。
磨き上げられた玉座でも、王宮の円卓でもない。
街道脇の倉庫から運ばれた、ありふれた食卓である。
それでも、その卓を境に北と南とへ軍勢が並ぶと、不思議と戦場の中心に見えた。
北には銀狼旗。
南には黒き大烏の旗。
両軍は弓の射程を外しながらも、互いを十分に見渡せる距離で止まっている。
魔砲は沈黙していた。
矢も番えられていない。
それでも、誰一人として武装を解いてはいない。
この卓は、平和のためではない。
互いに、戦う理由を増やさないために置かれた卓だった。
クラウディア側から、一人の少女が歩いてくる。
アリア・クラウディア。
歩幅は一定だった。
城門を出た時から、一度も変わらない。
早くもなく、遅くもない。
誰かを威圧するためでもなく、誰かへ媚びるためでもない。
領主として歩く速度だった。
黒を基調とした軍装が風を受ける。
腰までを包む短いコートの裏地だけが深い紅を見せ、その縁を走る金糸が午後の光を拾った。
裾は長くない。
騎乗にも歩行にも邪魔にならぬよう裁たれ、肩から流れる短いケープだけが、選帝侯の威厳を静かに語っていた。
膝まで覆う革のブーツには、余計な飾りはない。
踵は低く、石畳でも雪道でも確実に踏める実用の形。
だが、縫い込まれた金糸だけは、クラウディア家が八百年守ってきた格式を忘れてはいなかった。
腰には、一振り。
青白い氷光を宿す短剣。
アイス・ファルセーリオン。
初代女選帝侯マリア・クラウディアより伝わる佩剣である。
普段は短剣の姿を取る。
だが鞘の周囲だけ空気が白く曇り、歩みに合わせて微細な氷晶が生まれては消えていった。
アリアは柄へ触れない。
そこにあることだけで十分だった。
彼女の半歩前を、リーフェルが歩く。
ソード・ディアンジェカーは再び一振りの大剣へ戻り、背へ斜めに担がれていた。
右手は柄から離れている。
だが、あと指一本分で届く距離。
先ほど城壁でタナトスと剣を交えた時と、まったく同じ間合いだった。
後方にはレイジス・バスジェナーレ。
そして少し離れて、タナトスが歩いている。
「あなたは随員ではありません。」
リーフェルが前を向いたまま言った。
「そうか。」
「戻ってください。」
「嫌だ。」
「会談です。」
「オーウェンがいる。」
それだけだった。
リーフェルは肩を落とした。
これ以上言っても無駄だと知っている。
アリアも止めない。
止めても付いてくる。
ならば見える場所へ置く方が安全だった。
一方、銀狼旗の下でも、一人の男が歩き始める。
オーウェン・クラフト・サーハル。
白銀の鎧が陽を返す。
彼は歩幅を作らない。
ただ前へ進む。
その半歩前へ、狼人が自然と並ぶ。
ヴォルフガング。
さらに左右へ十一騎。
当直十二騎だった。
誰も命令を受けていない。
それでもオーウェンが歩けば、十二騎が一つの壁になる。
「ヴォルフガング。」
「……。」
「ここから先は四名だ。」
「四名おります。」
「お前を含めれば五名になる。」
「私は影です。」
オーウェンは苦笑した。
「影は数えないのか。」
「影を数えたことはございません。」
そのやり取りを聞いたバルガス老が、小さく咳払いをした。
「公。」
「何だ、爺。」
「毎度のことですが、護衛へ勝とうとなさらないでください。」
「勝ったことはない。」
「本日も勝てませぬ。」
「知っている。」
エドガーが静かに笑う。
ヴォルフガングだけは、一切表情を変えない。
そのまま長卓まで歩き続けた。
クラウディア側。
アリアは銀狼旗を見つめる。
人間の公。
雪男の家老。
狼人の近衛。
人間の騎士。
それぞれの歩幅は違う。
だが、不思議なことに、一つの生き物のように進んでくる。
アリアは小さく口を開いた。
「ミシェル。」
遊撃軍を見回っていたミシェルが近寄る。
「何?」
「昨日、あなたは言いましたね。」
「あれは軍じゃない。」
ミシェルは銀狼旗を見る。
「家だ。」
「ええ。」
アリアは視線を外さない。
「私たちが、そこまで行くのに。」
一拍。
「何年かかります?」
ミシェルは、今日も答えなかった。
城門前では、今日集めた遊撃軍が槍を持って立っている。
「……やっぱ作る気じゃん。」
ミシェルが呟く。
アリアは答えない。
◇
その時だった。
「待ってください。」
後方から、少し疲れた声がした。
全員が振り返る。
一人の青年が、黒い革と真鍮で補強された蒸気医療鞄を提げて歩いてくる。
白衣ではない。
動きやすい上着の袖には、洗い落としきれなかった血の跡が残っていた。
セト・バスジェナーレ。
本人だけが、どうして自分がここへ呼ばれたのか理解していない顔をしていた。
「……私は医者です。」
レイジスは穏やかに笑う。
「だから呼びました。」
「外交官ではありません。」
「人を見る仕事でしょう。」
「身体を見る仕事です。」
アリアが空いた席を示す。
「座ってください。」
セトは長く息を吐いた。
「……患者が増える前に終わらせてください。」
そう言って、医療鞄を静かに卓の脇へ置いた。
そして初めて。
二人の選帝侯が、同じ卓を挟んで向かい合った。




