第四話 シャルディンの高弟 / 第一幕 銀狼旗の使者
オーウェン・クラフト・サーハルが、フェンリルを進めた。
白銀の鎧が陽光を返す。
左右の腰には二本の短槍。
槍身を覆う古い魔法文字は、まだ沈黙していた。
その後ろから、十二騎の狼人が動く。
命令はなかった。
先頭の四騎がオーウェンの前方へ広がり、残る八騎が左右と背後を固めた。雪原狼の足音まで揃っている。
三十六鉄騎。
三隊十二騎で編成され、昼夜を問わずサーハル公を守る狼人の近衛だった。
十二騎が当直。
十二騎が待機。
残る十二騎が休息する。
当直が倒れれば待機が出る。待機が倒れれば、休息中の者が武具を取る。
その先頭に立つ狼人だけは、オーウェンと肩を並べた。
灰色の毛並み。
右目を横切る古傷。
狼騎兵長ヴォルフガング。
彼は城壁を見上げたまま、何も言わない。
「下がっていろ、ヴォルフガング」
オーウェンが言った。
「……」
「会談の申し入れだ」
「だからです」
短く答え、フェンリルを半歩だけ前へ出す。
オーウェンは横目で側近を見た。
ヴォルフガングは見返さない。
主君の意思へ反対しているのではない。
危険な場所へ主君だけを出すという考えが、最初から彼の中に存在しなかった。
「十二騎も要らん」
「当直です」
「一人でよい」
「十二騎で一人です」
オーウェンは、それ以上言わなかった。
銀狼旗の前では、バルガス老が長杖を構えている。
先ほどまで主君の名を山々へ響かせていた老雪男は、杖の先端に埋め込まれた氷晶へ再び魔力を通した。
「クラウディア侯へ申し上げる!」
声が盆地を渡る。
「ネーヤ護国将軍、サーハル公オーウェン殿下より、御問いである!」
城壁上の弓兵が身を固くする。
リーフェルはアリアの前へ立ったまま、背負った大剣の柄へ右手を添えた。
タナトスは城壁の縁へ寄り、眼下のオーウェンを見ている。
ミシェルは遠眼鏡を下ろした。
「名乗りより短いな」
「今から長くなる」
タナトスが答えた。
「予言みたいに言うなよ」
バルガス老が杖を掲げる。
その横で、オーウェンが口を開いた。
魔法が声を拾い、城壁まで運ぶ。
「第四王子ライン・ネーヤ殿下は、御無事か」
最初に問うたのは、王子を渡せという要求ではなかった。
アリアはすぐには答えない。
赤い目で、オーウェンと十二騎の配置を見ている。
前へ出た護衛。
後方で待機する二十四騎。
バルガスを中心に並ぶ五将軍。
最後尾に残された魔砲。
戦う用意はある。
だが、戦端を開く者の配置ではない。
「殿下は、クラウディア城内におられます」
アリアが答えた。
リーフェルが僅かに振り返る。
王子の所在を、ここで認めるとは聞かされていない。
だが何も言わない。
「負傷と疲労がございます。現在は施療を受け、休息されています。
御命に別状は、
ありません 」
オーウェンの肩から、ほんの僅かに力が抜けた。
遠目に見ていた者には分からない程度の変化だった。
だが、ヴォルフガングの耳が一度だけ動いた。
「殿下御本人の御姿を確認したい」
「認めません」
アリアの返答は早かった。
バルガス老の白い眉が持ち上がる。
「クラウディア侯! 護国将軍たる我が主が、王家の御安否を――」
「爺」
オーウェンが止めた。
バルガスは口を閉じる。
不満は、長い髭の動きに残っていた。
「理由を伺ってもよろしいか」
オーウェンが尋ねる。
「軍勢を率いて訪れた方を、無条件で王子殿下へお通しするほど、私は親切ではありません」
「殿下を害する意思はない」
「それを確認するための話し合いが、まだ行われていません」
「私が反乱軍へ殿下を引き渡すと?」
「可能性の話です」
「サーハル家は、代々ネーヤ王家の北門を守ってきた」
「そのサーハル家が、いま誰の命令で軍を動かしているのか。私は知りません」
サーハル軍の一部がざわめいた。
反乱軍に与している。
半島では、すでにその噂が流れている。
オーウェンは表情を変えなかった。
「殿下を保護しているのは、クラウディア侯御自身ですか」
「はい 」
「御本人の意思によって?」
アリアの目が細くなる。
そこまで問いが進むことを予想していたのか。
あるいは、今初めてオーウェンの目的を測り直したのか。
表情からは分からない。
「王子殿下は、自ら城門まで来られました」
「城へ入る以外の選択肢がない状態で?」
「選択肢が一つしかない者には、意思がないと?」
「そうは申していない」
「では、何をお確かめになりたいのです」
オーウェンは答えなかった。
王子が自らクラウディアを選んだのか。
アリアが、逃亡直後の王子を囲い込んだのか。
王家を守る者として確かめたいのは、身柄よりも、その一点なのかもしれなかった。
アリアは、城壁の後方へ目を向ける。
そこには、ラインに従ってきた老従者が立っていた。
腕に包帯を巻き、顔色も悪い。
それでも、王家の紋章を胸へ抱き、自らの足で立っている。
「殿下の侍従です」
アリアが言った。
老従者が城壁の縁へ進み、膝をつこうとする。
だが傷が痛んだのか、身体が揺れた。
近くの兵が支える。
「サーハル公」
掠れた声だった。
「殿下は御無事にございます」
オーウェンはフェンリルの上で頭を垂れた。
選帝侯が、一人の老侍従へ。
「御苦労であった」
それだけだった。
老従者の目が潤む。
彼は王子が何を望んでいるかまでは語らなかった。
アリアも語らせなかった。
生存の証明だけ。
それ以上のものを、この場では誰にも渡さない。
「面会については、正式な会談の後に判断します」
アリアが告げる。
「会談は認められるのか」
「条件によります」
「伺おう」
「両軍の間に席を設けます。双方、少数の供のみ。王子殿下は出席されません」
オーウェンが答える前に、ヴォルフガングが僅かに顔を動かした。
「少数とは」
初めて、城壁へ向けて声を発した。
魔法に拾われた低い声は、短いながらよく通った。
「四名を想定しています」
アリアが答える。
「足りません」
「何人なら足ります?」
「三十六」
ミシェルが小声で言った。
「会談する気あるのか、あの人」
「大真面目だ」
タナトスが答える。
オーウェンはヴォルフガングを見る。
「四名だ」
「私は供に数えません」
「何に数える」
「影です」
「影は話さない」
「もとより」
オーウェンは小さく息を吐いた。
叱責ではない。
長い間、何度も同じやり取りを繰り返してきた者の諦めだった。
その様子を見たアリアの口元が、僅かに緩む。
「護衛一名は、人数の外とします」
「姫さま」
リーフェルが振り返る。
「こちらも、あなたを人数の外にできますから」
リーフェルは黙った。
反論の余地がなかった。
オーウェンも、アリアと近衛のやり取りを見ていた。
互いに、主君の意向だけでは動かない護衛を持っている。
ただし、その理由は同じではなかった。
オーウェンの視線が、アリアから外れる。
城壁の端。
黒髪の男へ向いた。
「久しいな」
タナトスは答えない。
「兄弟子」
城壁の空気が変わった。
ミシェルが横を見る。
リーフェルの手が大剣へ近づく。
サーハル側では、ヴォルフガングの耳が真っ直ぐ立った。
「誰が兄弟子だ」
タナトスが言った。
「先生へ入門した順では、あなたが先だ」
「年はお前が上だろう」
「順序に年は関係ない」
「面倒な奴だ」
「昔から、そう呼んでいる」
「俺は認めていない」
「それも昔から聞いている」
両軍が見守るなかで交わされたのは、天下に名を知られた二人とは思えない会話だった。
ミシェルが眉を寄せる。
「そこ、ずっと揉めてるの?」
「こいつだけだ」
タナトスが答える。
「兄弟子だけだ」
オーウェンも同時に答えた。
「仲いいじゃないか」
「違う」
二人の声が重なる。
アリアの赤い目に、ごく薄い興味が浮かんだ。
だが、オーウェンの表情からはすぐに軽さが消えた。
「先生は」
タナトスを見る。
「まだ、戻らないのか」
城壁上の風が、二人の間を抜けた。
タナトスは、すぐには答えなかった。
「一年だ」
やがて言う。
「最後の連絡から」
オーウェンの指が、槍の柄へ触れる。
握ったのではない。
そこにあることを確かめるような動きだった。
「手掛かりは」
「追っている」
「ここへ来たのも、そのためか」
「ああ」
「クラウディアに?」
「三月前、東街道で先生らしい男を見た者がいる」
オーウェンは東の山並みへ視線を向けた。
ほんの一瞬。
だが、彼の背後にいる者たちは見逃さなかった。
バルガス老が目を伏せる。
ヴォルフガングの耳が、僅かに後方へ向く。
エドガーは長槍の柄を握り直した。
ミールの杖に宿っていた淡い光が消える。
ボルガーの一つ目が、まっすぐタナトスへ向いた。
剣聖ロック・シャルディンは、オーウェン個人だけの師ではなかった。
彼がいなくなったことを、銀狼旗の下に立つ者たち全てが知っていた。
そして一年という時間が、軽くないことも。
「会談の席で聞く」
オーウェンが言った。
「話すかは、俺が決める」
「構わない」
短い返答だった。
だが、オーウェンの背後では、当直の十二騎が僅かに間隔を詰めていた。
主君が気に掛けるものを、彼らもまた自分たちの問題として受け取った。
アリアは、その動きを静かに見ていた。
人間の主君。
雪男の家老。
狼人の近衛。
サイクロプスの功臣。
異なる者たちが、一人の表情の変化だけで同時に動く。
まだ、その理由までは見えない。
ただ、クラウディアにはない何かが、銀狼旗の下にはあった。




