第二話 姫君の雷
城門が開く。
長い年月、風雨にさらされてきた鉄金具が軋み、二枚の扉がゆっくりと内側へ引かれていく。
クラウディア兵が左右へ分かれた。
歓迎の列ではない。
槍を揃え、弩を構えたまま、城へ入る者を一人ずつ見定めるための配置だった。
ラインは剣を杖代わりにし、開かれた門を見た。
門の内側には担架が用意されている。
水を運ぶ兵。
包帯と、大仰な蒸気治療かばんを抱えた若き施療師。
城壁からは、なお無数の矢が門前へ向けられていた。
助かった。
そう思うには、まだ早い。
「殿下」
老従者が、ラインの脇へ手を入れた。
「歩ける」
「膝が震えております」
「地面が揺れている」
「城は揺れておりません」
「なら、私が揺れているのだろう」
ラインは支えを拒まなかった。
負傷した近衛が先に担架へ乗せられる。
もう一人は、自分で歩けると言い張ったが、二歩目で崩れた。クラウディア兵が左右から身体を抱え、門内へ運んでいく。
誰も声を緩めない。
追討隊は退いた。
だが、四騎は本部へ走った。
第四王子がクラウディアへ入ったことは、間もなく反乱軍へ伝わる。
ここから先は、城門一枚の問題ではなかった。
ラインが歩き出す。
老従者が続く。
その後ろを、タナトスが進もうとした。
「止まれ」
声は、門の内側から聞こえた。
リーフェルが石段を下りてくる。
城壁の上から見ていた時と、表情は変わらない。
結上げた銀色の髪。
冷たく澄んだ目。
背中には、彼女の身体に比してあまりに大きな剣が斜めに担がれている。
タナトスは足を止めた。
ラインも振り返る。
「殿下と随員はお通りください」
リーフェルは言った。
「その男だけは、ここへ残します」
「彼は私たちを助けた」
「それは見ていました」
「ならば――」
「殿下を助けた者が、姫さまを害さないという証明にはなりません」
ラインは言葉を詰まらせた。
反論できない。
タナトスについて、彼が知っていることは少ない。
ドレイゴのタナトス。
首斬り。
剣聖ロック・シャルディンを探している。
そして、二十五騎を一人も殺さず無力化した。
それだけだった。
「タナトス」
ラインが呼ぶ。
「どうする」
「知らん」
「お前自身のことだろう」
「俺を入れないと言っているのは、あの女だ」
リーフェルは背へ手を伸ばした。
巨大な柄を握る。
留め具が外れ、大剣がゆっくりと引き抜かれた。
刀身は幅広く、彼女の肩から足元まで届くほど長い。
石畳へ切っ先が触れる。
重い音がした。
「始めるぞ」
その十歩ほど後ろで、アリアが小さく肩を落とした。
「……始めないで」
それだけだった。
リーフェルは返事をしない。
アリアも、二度は言わない。
ラインの一行は、二人の短いやり取りへ反応する余裕すらなかった。
負傷者を運ぶ兵たちだけが、一瞬足を止める。
すぐにまた動き出した。
タナトスは、背後のアリアを一度だけ見た。
次にリーフェル。
「俺は師匠の痕跡を探しに来ただけだ」
「城内を探させると思うか」
「聞けば済む」
「姫さまへ?」
「誰でもいい」
「ならば宮宰の私が答える。知らん」
「お前には聞いていない」
リーフェルの目が細くなった。
「余計に通せなくなった」
大剣を両手で構える。
剣先が、真っ直ぐタナトスへ向いた。
タナトスは双刀へ手を置かない。
「近衛殿」
「何だ」
「城門を塞いでいる」
「貴殿のためだ」
「王子の負傷者が通れない」
リーフェルは一歩だけ横へ移動した。
それでもアリアとタナトスを結ぶ直線上からは外れない。
「これでよいか」
「ああ」
「では」
リーフェルの身体が沈んだ。
石畳が鳴る。
次の瞬間には、大剣がタナトスの肩口へ迫っていた。
◇
速い。
ラインには、それしか分からなかった。
あれほど大きな剣が、軽い棒のように振るわれている。
最初の一撃は、右肩から左脇へ。
胴を断つ軌道だった。
タナトスは抜かない。
半歩、左へずれる。
大剣が外套の表面を掠め、石畳へ食い込んだ。
破片が飛ぶ。
リーフェルは剣を止めない。
食い込んだ刃を、そのまま地面を削るように横へ払う。
タナトスは後ろへ退かず、右足だけを引いた。
切っ先が靴の前を通る。
リーフェルは剣を引き上げた。
逆袈裟。
その直後に突き。
さらに柄頭を使った打撃。
三つの攻撃が、ほとんど一つに重なっていた。
タナトスは身体を反らし、首を傾け、最後の一撃だけを掌で押し流した。
双刀は、鞘に収まったままだ。
リーフェルは最初から手加減をしていない。
二十五騎を相手にした剣士へ、出し惜しみが通じるとは考えていなかった。
一撃目から、当たれば骨を砕く。
二撃目は脚を奪う。
三撃目は意識を断つ。
だが、どれも届かない。
タナトスは大きく退かない。
走らない。
跳ばない。
左右へ僅かに身体をずらし、リーフェルの大剣を紙一枚の差で外している。
大剣が横へ走る。
身を沈める。
返す刃。
上体を反らす。
突き。
首を傾ける。
タナトスの黒髪が、切っ先の風に揺れた。
リーフェルは踏み込む。
一歩。
二歩。
三歩。
攻めるたび、タナトスは門の外側へ押されていく。
だが、それはリーフェルの剣に圧倒されたためではない。
彼女がアリアとの距離を保ちながら戦っていることを見抜き、移動する方向を選んでいる。
リーフェルも、それに気づいていた。
自分が押しているのではない。
押す場所を、選ばされている。
大剣を振り下ろす。
タナトスの肩が僅かに動く。
刃はその横を通り過ぎた。
「抜け」
リーフェルが言った。
タナトスは答えない。
次の一撃。
剣の腹で押し潰すような横薙ぎ。
タナトスは後方へ身を倒し、刃の下を抜けた。
リーフェルが左足を軸に回転する。
大剣が円を描く。
上段。
下段。
正面。
いずれも、タナトスの身体へ届く寸前で空を斬る。
「抜け!」
声が鋭くなる。
タナトスは、初めて僅かに笑った。
「抜かせてみせよう」
紫色の目がリーフェルを捉える。
「近衛殿」
リーフェルの大剣が止まった。
ラインには、一瞬、彼女が攻撃を諦めたように見えた。
違った。
大剣の刀身を、青白い電流が走る。
刀身の内部で、何かが外れる音がした。
一つ。
二つ。
続けて、九つ。
巨大な剣が、中央から割れた。
壊れたのではない。
幾重にも重なっていた刀身が解け、長さも形も異なる十本の剣へ分かれていく。
正面へ残る長剣。
幅の広い斬撃剣。
細身の刺突剣。
内側へ反った曲刀。
片手で扱う短剣。
鉤爪のような刃。
十本の剣が、リーフェルの周囲へ扇状に展開した。
それぞれの柄と刀身を、細い電流が結ぶ。
魔力の糸ではない。
電流そのものを導線とし、刃の向きと速度を制御している。
雷を敵へ落とす術ではなかった。
電気を、自らの神経と十本の刀身へ通し、複数の剣を手足のように操る。
ソード・ディアンジェカー。
有翼民族の剣を、リーフェルが自らの身体に合わせて作り替えた戦法だった。
アリアは、リーフェルの十歩後ろに立っている。
十本の剣が浮かぶ。
タナトスの表情から、僅かな笑みが消えた。
「行くぞ」
リーフェルが右手を振る。
十本のうち、三本が走った。
正面。
右。
足元。
タナトスは右へずれる。
そこへ四本目が待っていた。
短剣。
喉を狙う高さ。
タナトスが身体を引く。
五本目の刺突剣が背後から来る。
振り返らず、さらに半歩。
六本目。
曲刀が退路を断つ。
剣が一斉に襲っているのではない。
一つを避けた先へ、次の刃が置かれている。
十本で、逃げ道を少しずつ削っている。
タナトスはなお抜かない。
足元へ来た刺突剣を踏み越え、正面の長剣を身体の回転だけで外す。
短剣が頬を掠めた。
黒髪が数本、宙へ舞う。
リーフェルの指が動く。
電流が強くなる。
剣の軌道が変わった。
弾かれるはずだった短剣が空中で止まり、再びタナトスの喉へ向かう。
左右から長剣。
背後から曲刀。
足元へ鉤刃。
上には刺突剣。
十本の剣が、初めて完全な円を作った。
タナトスの逃げ道が消える。
喉元へ短剣が迫る。
あと半寸。
乾いた音がした。
双刀の右が、鞘から抜かれていた。
のこぎりと日本刀を掛け合わせたような細身の刀が、短剣の切っ先を横から受ける。
鋸歯が刃を噛んだ。
短剣の勢いが止まる。
城門上の兵がどよめいた。
抜かせた。
「一本か」
リーフェルが言う。
「十分だ」
タナトスは短剣を噛んだまま、右刀を捻った。
刃が弾かれる。
同時に身体を回す。
右から来た長剣を刀の背で流し、曲刀の内側へ風輪刀の鋸歯を滑り込ませる。
噛む。
引く。
曲刀の軌道が変わり、背後から来た刺突剣とぶつかった。
高い音。
二本が弾かれる。
タナトスはその間を抜けた。
だが、リーフェルは既に次を動かしている。
地面すれすれを走る二本。
腰の高さを斬る三本。
頭上から落ちる長剣。
残る四本は、タナトスが動く方向を待っている。
タナトスは右刀だけで受ける。
鋸歯で噛む。
刃の腹で弾く。
鍔で逸らす。
一振りで二本を処理し、身体の向きを変えて三本目を外す。
それでも、全ては止めきれない。
短剣が左肩の外套を裂いた。
鉤刃が腰の鞘へ絡みつく。
タナトスは左手で鞘を押さえ、右刀を逆手に持ち替えた。
十本の剣が、再び広がった。
刃と刃を結ぶ電流が、網のように空中へ走る。
リーフェルが両手を開く。
剣陣が回転を始めた。
十本の刃が、互いの間隔を変えながらタナトスを囲む。
ひとつの剣を見れば、別の剣が死角へ入る。
二本を弾けば、その間から三本目が来る。
タナトスは右刀を振る。
短剣を噛み止める。
長剣を逸らす。
刺突剣の切っ先が頬へ迫る。
首を傾ける。
曲刀が脇腹へ来る。
外套だけを切らせ、身体を捻る。
リーフェルが距離を詰めた。
十本を浮かせたまま、自らも中央の長剣を握る。
正面から振り下ろす。
タナトスが右刀で受ける。
刃と刃が噛み合った。
力ではリーフェルが押す。
剣技ではタナトスが流す。
均衡した一瞬。
タナトスの視線が、リーフェルの肩越しへ動いた。
ほんの一瞬だった。
リーフェルの十歩後ろ。
アリアがいる。
戦いを止めようともせず、二人を見ている。
何を考えているのか。
恐れているのか。
測っているのか。
タナトスは、ただ見た。
それだけだった。
リーフェルの殺気が、周りをどよめいた。
空気が重く沈む。
十本の剣を走っていた電流が、一斉に強くなる。
石畳の砂が震えた。
「姫さまに向けた、その無礼な目玉を」
リーフェルの声は静かだった。
怒鳴ってはいない。
だからこそ、ラインの背筋へ冷たいものが走った。
「抉り出してやろう」
剣陣が、完全に開いた。
十本の剣が円を描く。
一本目が目。
二本目が喉。
三本目が右手。
四本目が左脚。
残る六本が、逃げ道と反撃の軌道を同時に塞ぐ。
先ほどまでとは違う。
タナトスを止めるためではない。
目を奪うための剣舞だった。
タナトスが右刀を返す。
目を狙った短剣を弾く。
次の刃。
喉。
刀の腹で逸らす。
右手へ来た鉤刃。
鋸歯で噛む。
左脚へ細剣。
足を引く。
残る六本が、一斉に距離を詰めた。
タナトスの左手が、二本目の柄へ触れる。
まだ抜かない。
一本。
二本。
三本。
右刀だけで弾く。
四本目が外套を裂いた。
五本目が髪を切る。
六本目。
再び短剣が喉へ迫る。
右刀で止める。
だが、その背後から長剣が来る。
タナトスは身を沈めた。
頭上を刃が通る。
曲刀が肩へ迫る。
右刀の鋸歯で受ける。
電流が刀身を通り、腕へ流れた。
タナトスの指が僅かに震える。
リーフェルは見逃さない。
「魔法が効かないわけではないのか」
タナトスは答えなかった。
龍鱗化。
ロック・シャルディン直伝の四高弟へ授けられた、肉体を龍へ近づける秘技。
それを使えば、雷への耐性も大きく増す。
だが、タナトスは使わない。
今ここで見せる理由がない。
腕を流れる電流を握力で押さえ込み、右刀を振り抜く。
三本の剣が弾かれた。
リーフェルがさらに踏み込む。
剣陣も追う。
十本が、タナトスを門の外側へ押し出していく。
タナトスの左手が柄を握る。
抜く。
そう見えた。
リーフェルも剣を集中させる。
次の一合で、風輪双刀が揃う。
同時に、ソード・ディアンジェカーの十剣がタナトスへ届く。
空気が張り詰めた。
「ふたりとも、やめて」
アリアの声がした。
近い。
リーフェルの顔色が変わった。
アリアは、もう十歩後ろにはいなかった。
二人の間へ歩いている。
ためらいもなく。
剣陣の内側へ。
「姫さま!」
リーフェルの集中が切れた。
十本の剣を結んでいた電流が消える。
空中の刃が、一斉に制御を失った。
長剣が落ちる。
短剣が跳ねる。
鉤刃が石畳へ突き刺さる。
十本の剣が、乾いた音を重ねながら地面へ散った。
リーフェルは武器を見なかった。
アリアへ駆ける。
その身体を抱え込み、自分の胸元へ引き寄せた。
次いで背を向ける。
タナトスへ。
アリアを腕の中へ隠し、自分の背中で覆う。
風輪刀が来るなら、最初に自分が受ける。
選択ではない。
考える前に、身体が動いていた。
タナトスの右刀が走る。
リーフェルは振り返らない。
アリアを抱く腕へ力を込めた。
刃は、リーフェルの背へ触れる寸前で止まった。
リーフエルの銀髪だけが、風圧で僅かに揺れた。
広場が静まり返る。
タナトスは、自分へ背を向けたリーフェルを見る。
その腕の中にいるアリアを見る。
アリアは、リーフェルの肩越しに彼を見返していた。
怯えてはいない。
笑ってもいない。
何を考えて飛び込んだのか、表情からは読めなかった。
タナトスは小さく息を吐いた。
「えげつない主人だ」
リーフェルの背中へ止めた刀を引く。
「忠義を鎧にするとは」
アリアは答えなかった。
リーフェルも振り返らない。
タナトスは右の風輪刀を鞘へ戻した。
乾いた納刀の音が、城門前へ響いた。
◇
「姫さま」
リーフェルが、ようやくアリアから身体を離した。
肩。
腕。
顔。
喉。
怪我がないかを確かめる。
「お怪我は」
「ありません」
「本当に?」
「ええ」
「痛むところは」
「リーフに強く抱かれたので、少しだけ」
リーフェルの腕が止まった。
「申し訳ございません」
「それより」
アリアは地面へ散らばった十本の剣を見る。
「落としてしまいましたね」
「姫さまが突然入ってこられたからです」
「だから止まったのでしょう」
リーフェルは返さない。
アリアも、それ以上は言わなかった。
電流を失った刀身は、ただの重い金属へ戻っている。
リーフェルは自分で拾おうとしたが、アリアの前から離れない。
近衛兵が代わりに集めた。
タナトスは門外に立ったまま、二人を見ている。
「入らなくてよいのですか」
アリアが尋ねた。
「俺に聞くのか」
「リーフに聞けば、駄目と言います」
「当然です」
リーフェルが即答した。
「なら、入る」
タナトスは城門へ足を向けた。
リーフェルが前へ出ようとする。
アリアが、その鎧の裾を掴んだ。
強くはない。
それだけで、リーフェルは止まった。
「姫さま」
「殺す理由がなければ、止まる方なのでしょう」
「今の一度だけで判断なさるのですか」
「あなたも、剣を落として私を守りました」
「それは当然です」
「タナトス殿も、刀を止めました」
「比べないでください」
「比べてはいません」
アリアは袖を放した。
「見ただけです」
リーフェルは唇を引き結ぶ。
不満は消えていない。
それでも、主君が決めた以上は従う。
タナトスが門を通る。
リーフェルの横を過ぎる時、足を止めた。
「近衛殿」
「何だ」
「悪くなかった」
リーフェルの眉が動く。
「次は目を奪う」
「やりとげててみせろ」
「リーフ」
「……御意」
タナトスは城内へ入った。
ラインは、担架へ乗ることを拒んだまま二人を見ていた。
「いつも、ああなのか」
アリアへ尋ねる。
「何がです」
「近衛が勝手に戦いを始める」
「いつもではありません」
「では、珍しい?」
「私の近くへ危険な方が来た時だけです」
ラインはタナトスを見る。
「十分いつも起こりそうだな」
アリアは答えなかった。
若い施療師がラインの腕を取る。
「殿下、こちらへ」
「歩ける」
「先ほどから同じことを仰っています」
「事実だ」
一歩進む。
膝が揺れる。
老従者が支えた。
「やはり揺れておりますな」
「地面がだ」
「城内も揺れておりません」
ラインは諦めて担架へ腰を下ろした。
それでも横にはならない。
王子としての姿勢だけは、崩すつもりがないらしい。
アリアはそれを見届け、施療師へ命じた。
「殿下と御一行をお願いします」
「承知しました」
「王家の印璽は?」
リーフェルが問う。
「殿下御自身にお持ちいただきます」
「武器は」
「負傷者のものだけ預かってください」
「タナトス殿は?」
「預けない」
本人が答えた。
リーフェルの目が鋭くなる。
「城内の規則です」
「なら出ていく」
「待ってください」
アリアが止める。
タナトスは振り返った。
「武器をお預かりできない事情があるのですね」
「ああ」
「理由は」
「触らせたくない」
「それだけ?」
「…師匠は誰にも触らせるな、と」
アリアは一瞬、地面へ落ちた追討兵の手を思い出した。
双刀へ触れようとしたため、手首から先を失った男。
「分かりました」
「姫さま」
リーフェルが抗議する。
「ただし、城内ではリーフの監視下に置きます」
「お断りします」
今度はリーフェルが即答した。
「本人の前ですよ」
「聞かせています」
「俺も断る」
「では、お二人で相談してください」
「何を」
「どちらが相手を見張るのか」
タナトスとリーフェルが、互いを見る。
先ほどまで斬り合っていた二人だった。
アリアはもう、二人から顔を背けている。
話は終わったらしい。
ラインの一行は施療所へ運ばれていく。
近衛兵は、散らばった剣の最後の一本を拾い上げた。
城門が閉められようとしていた。
その時だった。
城下の酒場の扉が、勢いよく外へ開いた。
◇
「朝から、何の騒ぎだよ……」
低い声。
少し掠れている。
男が酒場から姿を現した。
クラウディア軍の外套を片肩へ無造作に引っ掛けている。
軍服の襟元は大きく開き、胸元の留め具は半分も留まっていない。帯は緩く、片方の袖は肘までしか通していなかった。
髪も乱れたまま。
それでも腰には制式剣があり、肩には中隊長の階級章が付いている。
酒場前にいた兵たちは、彼を見ると自然に道を空けた。
男―ミハイルは、片手で眉間を押さえた。
「頭に響くんだよ。剣をぶつけるなら、せめて昼から――」
広場を見る。
石畳へ残る斬撃の跡。
散らばった砕石。
アリアの前へ立つリーフェル。
そして、城門近くに立つ黒髪の男。
ミシェルの言葉が止まった。
眠気と酒気に濁っていた目が、ゆっくりと開く。
「……兄貴?」
タナトスが振り返った。
紫色の瞳が、男を捉える。
「ミシェル」
その名を口にした瞬間だった。
タナトスの顔から、初めて剣士の冷たさが消えた。
二十五騎へ囲まれても。
リーフェルの十剣へ追い詰められても。
アリアが刃の間へ入っても。
ほとんど動かなかった目元が、僅かにほどける。
驚き。
安堵。
長く消息を知らなかった家族を、思いもよらぬ場所で見つけた者の顔だった。
笑ったわけではない。
けれど、それまでのタナトスを見ていた者には、十分すぎる変化だった。
「兄貴!」
ミシェルが酒場の段差を飛び降りる。
駆け出した。
二日酔いの足は、身体の勢いについていかなかった。
着崩した外套の裾を自分で踏む。
派手に転んだ。
石畳へ肩から落ちる。
「ぐっ……!」
広場が静まり返った。
ミシェルは顔を上げ、打った肩を押さえる。
「今のは、地面の方から来た」
「相変わらずだな」
タナトスの口元が、ほんの僅かに上がった。
今度こそ、笑った。
リーフェルはその表情を見た。
首斬りタナトス。
何を守るのか分からない男。
他人の命へ関心があるのかさえ、判断できない剣士。
だが、何も持たない男ではなかった。
少なくとも、石畳へ転がった着崩れた中隊長は、彼の内側へ残された人間を呼び戻すらしい。
ミシェルは立ち上がった。
服を直そうとはしない。
外套を片肩から垂らしたまま、タナトスの前へ行く。
胸を拳で一度、強く叩いた。
「生きてたのかよ」
「ああ」
「一年も何してた」
「師匠を探していた」
「連絡くらい寄越せ」
「お前もだ」
「俺は色々あったんだよ」
「酒か」
「だいたい酒だ」
タナトスの口元に、まだ僅かな笑みが残っている。
「中隊長か」
「見れば分かるだろ」
「似合わない」
「再会して最初にそれかよ」
「最初は生きていたのかと聞かれた」
「細かいな、相変わらず」
ミシェルは鼻で笑った。
だが、声が少し掠れている。
「兄貴。本当に……」
「ああ」
それだけだった。
ミシェルも、それ以上は言わなかった。
アリアが二人へ近づく。
「御兄弟ですか」
「そうだよ」
ミシェルが答えた。
「似ていませんね」
「血は繋がってない」
「なるほど」
リーフェルはタナトスから視線を外さない。
「ミシェル中隊長」
「はいよ」
「この男について、知っていることを全て話せ」
「兄貴について?」
「そうだ」
「長くなるよ」
「構わない」
「俺、二日酔いなんだけど」
「構わない」
「そっちが構わなくても、俺が構うんだよ」
リーフェルの目が冷える。
ミシェルは片手を上げた。
「分かった。話す。だから、その物騒な顔をやめろ」
「通常の顔だ」
「それで?」
「そうだ」
「苦労してるなあ、お姫ちゃん」
「誰がお姫ちゃんですか」
アリアが即座に返した。
ミシェルは突然黙り、タナトスと目線を合わせた。
その時。
城壁の見張り台から、角笛が鳴った。
一度。
二度。
三度。
長く、重い警戒音。
広場の空気が一変した。
二日酔いのミシェルからも、表情が消える。
タナトスが北を向く。
リーフェルは即座にアリアの前へ立った。
「報告!」
見張り兵が塔から叫ぶ。
「北街道より軍勢!」
「数は!」
「不明! 先陣だけで街道を埋めています!」
「旗は?」
兵が遠眼鏡を覗く。
沈黙。
やがて、その声が僅かに震えた。
「銀狼旗!」
城壁上の兵たちがざわめいた。
アリアの赤い目が、北方へ向く。
地平線の向こう。
槍兵の列が進んでくる。
まだ遠い。
何のために来た軍なのかも分からない。
だが、その先頭で翻る銀色の旗だけは、半島に暮らす者なら誰もが知っていた。
ミシェルは、先ほどまで押さえていた眉間から手を離した。
「……最悪の目覚めだな」
声から酒気が消えている。
「ミシェル中隊長」
アリアが呼ぶ。
「はい」
「予備兵を集めてください」
「何人まで?」
「動ける者を全員」
ミシェルは北の旗を見た。
次にアリア。
「まだ中隊長なんだけど」
「今は集めるだけです」
「その言い方、嫌な予感がするなあ」
「急いでください」
「了解」
ミシェルは踵を返した。
外套は片肩から落ちたまま。
襟元も開いたまま。
それでも歩みには、もう先ほどまでのふらつきがない。
広場の兵へ声を張る。
「動ける奴は東広場へ!」
「槍を持って来い! 使えるかどうかは後で決める!」
「伝令は各詰所を回れ!」
兵たちが一斉に走り出した。
タナトスは、その背を見送る。
どこか懐かしそうに。
アリアは北の銀狼旗から目を離さない。
「城門を閉じてください」
リーフェルは、タナトスへ視線を向けた。
「何か知っているのか」
「旗だけでは分からん」
「銀狼旗を知らないとは言わせない」
「知っている」
「なら」
「軍議で聞け」
「貴殿は呼ばれていない」
「ミシェルについていく」
「来るな」
「行く」
二人の間へ、また僅かな殺気が生まれる。
アリアが振り返った。
「今度は始めないでくださいね」
リーフェルは黙った。
タナトスも答えない。
北の地平線では、銀狼旗が盆地の風を受け、大きく翻っていた。




