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第二話 姫君の雷

 城門が開く。


 長い年月、風雨にさらされてきた鉄金具が軋み、二枚の扉がゆっくりと内側へ引かれていく。


 クラウディア兵が左右へ分かれた。


 歓迎の列ではない。


 槍を揃え、弩を構えたまま、城へ入る者を一人ずつ見定めるための配置だった。


 ラインは剣を杖代わりにし、開かれた門を見た。


 門の内側には担架が用意されている。


 水を運ぶ兵。


 包帯と、大仰な蒸気治療かばんを抱えた若き施療師。


 城壁からは、なお無数の矢が門前へ向けられていた。


 助かった。


 そう思うには、まだ早い。


「殿下」

 

老従者が、ラインの脇へ手を入れた。


「歩ける」


「膝が震えております」


「地面が揺れている」


「城は揺れておりません」


「なら、私が揺れているのだろう」


 ラインは支えを拒まなかった。


 負傷した近衛が先に担架へ乗せられる。


 もう一人は、自分で歩けると言い張ったが、二歩目で崩れた。クラウディア兵が左右から身体を抱え、門内へ運んでいく。


 誰も声を緩めない。


 追討隊は退いた。


 だが、四騎は本部へ走った。


 第四王子がクラウディアへ入ったことは、間もなく反乱軍へ伝わる。


 ここから先は、城門一枚の問題ではなかった。


 ラインが歩き出す。


 老従者が続く。


 その後ろを、タナトスが進もうとした。


「止まれ」


 声は、門の内側から聞こえた。


 リーフェルが石段を下りてくる。


 城壁の上から見ていた時と、表情は変わらない。


 結上げた銀色の髪。


 冷たく澄んだ目。

 

 背中には、彼女の身体に比してあまりに大きな剣が斜めに担がれている。

 

 タナトスは足を止めた。

 

 ラインも振り返る。


「殿下と随員はお通りください」


 リーフェルは言った。


「その男だけは、ここへ残します」


「彼は私たちを助けた」


「それは見ていました」


「ならば――」


「殿下を助けた者が、姫さまを害さないという証明にはなりません」


 ラインは言葉を詰まらせた。


 反論できない。


 タナトスについて、彼が知っていることは少ない。


 ドレイゴのタナトス。


 首斬り。


 剣聖ロック・シャルディンを探している。


 そして、二十五騎を一人も殺さず無力化した。


 それだけだった。


「タナトス」


 ラインが呼ぶ。


「どうする」


「知らん」


「お前自身のことだろう」


「俺を入れないと言っているのは、あの女だ」


 リーフェルは背へ手を伸ばした。


 巨大な柄を握る。

 

 留め具が外れ、大剣がゆっくりと引き抜かれた。

 

 刀身は幅広く、彼女の肩から足元まで届くほど長い。

 

 石畳へ切っ先が触れる。

 

 重い音がした。


「始めるぞ」


 その十歩ほど後ろで、アリアが小さく肩を落とした。


「……始めないで」


 それだけだった。


 リーフェルは返事をしない。


 アリアも、二度は言わない。


 ラインの一行は、二人の短いやり取りへ反応する余裕すらなかった。


 負傷者を運ぶ兵たちだけが、一瞬足を止める。


 すぐにまた動き出した。


 タナトスは、背後のアリアを一度だけ見た。


 次にリーフェル。


「俺は師匠の痕跡を探しに来ただけだ」


「城内を探させると思うか」


「聞けば済む」


「姫さまへ?」


「誰でもいい」


「ならば宮宰の私が答える。知らん」


「お前には聞いていない」


 リーフェルの目が細くなった。


「余計に通せなくなった」


 大剣を両手で構える。


 剣先が、真っ直ぐタナトスへ向いた。


 タナトスは双刀へ手を置かない。


「近衛殿」


「何だ」


「城門を塞いでいる」


「貴殿のためだ」


「王子の負傷者が通れない」


 リーフェルは一歩だけ横へ移動した。


 それでもアリアとタナトスを結ぶ直線上からは外れない。


「これでよいか」


「ああ」


「では」


 リーフェルの身体が沈んだ。


 石畳が鳴る。


 次の瞬間には、大剣がタナトスの肩口へ迫っていた。


          ◇

 速い。


 ラインには、それしか分からなかった。


 あれほど大きな剣が、軽い棒のように振るわれている。


 最初の一撃は、右肩から左脇へ。


 胴を断つ軌道だった。


 タナトスは抜かない。


 半歩、左へずれる。


 大剣が外套の表面を掠め、石畳へ食い込んだ。


 破片が飛ぶ。


 リーフェルは剣を止めない。


 食い込んだ刃を、そのまま地面を削るように横へ払う。


 タナトスは後ろへ退かず、右足だけを引いた。


 切っ先が靴の前を通る。


 リーフェルは剣を引き上げた。


 逆袈裟。


 その直後に突き。


 さらに柄頭を使った打撃。


 三つの攻撃が、ほとんど一つに重なっていた。


 タナトスは身体を反らし、首を傾け、最後の一撃だけを掌で押し流した。


 双刀は、鞘に収まったままだ。


 リーフェルは最初から手加減をしていない。

 

 二十五騎を相手にした剣士へ、出し惜しみが通じるとは考えていなかった。

 

 一撃目から、当たれば骨を砕く。

 二撃目は脚を奪う。

 三撃目は意識を断つ。

 だが、どれも届かない。

 

 タナトスは大きく退かない。

 走らない。

 跳ばない。

 左右へ僅かに身体をずらし、リーフェルの大剣を紙一枚の差で外している。

 大剣が横へ走る。

 身を沈める。

 返す刃。

 上体を反らす。

 突き。

 首を傾ける。

 タナトスの黒髪が、切っ先の風に揺れた。

 

 リーフェルは踏み込む。

 一歩。

 二歩。

 三歩。

 攻めるたび、タナトスは門の外側へ押されていく。

 だが、それはリーフェルの剣に圧倒されたためではない。

 彼女がアリアとの距離を保ちながら戦っていることを見抜き、移動する方向を選んでいる。

 

 リーフェルも、それに気づいていた。

 自分が押しているのではない。

 押す場所を、選ばされている。

 大剣を振り下ろす。

 タナトスの肩が僅かに動く。

 刃はその横を通り過ぎた。


「抜け」

 リーフェルが言った。

 タナトスは答えない。


 次の一撃。

 剣の腹で押し潰すような横薙ぎ。

 タナトスは後方へ身を倒し、刃の下を抜けた。

 リーフェルが左足を軸に回転する。

 大剣が円を描く。

 上段。

 下段。

 正面。

 いずれも、タナトスの身体へ届く寸前で空を斬る。


「抜け!」

 声が鋭くなる。

 タナトスは、初めて僅かに笑った。


「抜かせてみせよう」

 紫色の目がリーフェルを捉える。

「近衛殿」


 リーフェルの大剣が止まった。

 ラインには、一瞬、彼女が攻撃を諦めたように見えた。

 違った。

 大剣の刀身を、青白い電流が走る。

 刀身の内部で、何かが外れる音がした。

 一つ。

 二つ。

 続けて、九つ。

 巨大な剣が、中央から割れた。

 壊れたのではない。

 幾重にも重なっていた刀身が解け、長さも形も異なる十本の剣へ分かれていく。

 正面へ残る長剣。

 幅の広い斬撃剣。

 細身の刺突剣。

 内側へ反った曲刀。

 片手で扱う短剣。

 鉤爪のような刃。

 十本の剣が、リーフェルの周囲へ扇状に展開した。

 それぞれの柄と刀身を、細い電流が結ぶ。

 魔力の糸ではない。

 電流そのものを導線とし、刃の向きと速度を制御している。

 雷を敵へ落とす術ではなかった。

 電気を、自らの神経と十本の刀身へ通し、複数の剣を手足のように操る。

 ソード・ディアンジェカー。


 挿絵(By みてみん)


 有翼民族の剣を、リーフェルが自らの身体に合わせて作り替えた戦法だった。

 アリアは、リーフェルの十歩後ろに立っている。

 十本の剣が浮かぶ。

 タナトスの表情から、僅かな笑みが消えた。


「行くぞ」

 リーフェルが右手を振る。

 十本のうち、三本が走った。

 正面。

 右。

 足元。

 タナトスは右へずれる。

 そこへ四本目が待っていた。

 短剣。

 喉を狙う高さ。

 タナトスが身体を引く。

 五本目の刺突剣が背後から来る。

 振り返らず、さらに半歩。

 六本目。

 曲刀が退路を断つ。

 剣が一斉に襲っているのではない。

 一つを避けた先へ、次の刃が置かれている。

 十本で、逃げ道を少しずつ削っている。


 タナトスはなお抜かない。

 足元へ来た刺突剣を踏み越え、正面の長剣を身体の回転だけで外す。

 短剣が頬を掠めた。

 黒髪が数本、宙へ舞う。

 リーフェルの指が動く。

 電流が強くなる。

 剣の軌道が変わった。

 弾かれるはずだった短剣が空中で止まり、再びタナトスの喉へ向かう。

 左右から長剣。

 背後から曲刀。

 足元へ鉤刃。

 上には刺突剣。

 十本の剣が、初めて完全な円を作った。

 タナトスの逃げ道が消える。

 喉元へ短剣が迫る。

 あと半寸。

 乾いた音がした。

 双刀の右が、鞘から抜かれていた。

 

 のこぎりと日本刀を掛け合わせたような細身の刀が、短剣の切っ先を横から受ける。

 鋸歯が刃を噛んだ。

 短剣の勢いが止まる。

 城門上の兵がどよめいた。


 抜かせた。


「一本か」

 リーフェルが言う。

「十分だ」

 タナトスは短剣を噛んだまま、右刀を捻った。

 刃が弾かれる。

 同時に身体を回す。

 右から来た長剣を刀の背で流し、曲刀の内側へ風輪刀の鋸歯を滑り込ませる。

 噛む。

 引く。

 曲刀の軌道が変わり、背後から来た刺突剣とぶつかった。

 高い音。

 二本が弾かれる。

 タナトスはその間を抜けた。


 だが、リーフェルは既に次を動かしている。

 地面すれすれを走る二本。

 腰の高さを斬る三本。

 頭上から落ちる長剣。

 残る四本は、タナトスが動く方向を待っている。

 タナトスは右刀だけで受ける。

 鋸歯で噛む。

 刃の腹で弾く。

 鍔で逸らす。

 一振りで二本を処理し、身体の向きを変えて三本目を外す。

 それでも、全ては止めきれない。

 短剣が左肩の外套を裂いた。

 鉤刃が腰の鞘へ絡みつく。

 タナトスは左手で鞘を押さえ、右刀を逆手に持ち替えた。


 十本の剣が、再び広がった。

 刃と刃を結ぶ電流が、網のように空中へ走る。

 リーフェルが両手を開く。

 剣陣が回転を始めた。

 十本の刃が、互いの間隔を変えながらタナトスを囲む。

 ひとつの剣を見れば、別の剣が死角へ入る。

 二本を弾けば、その間から三本目が来る。

 タナトスは右刀を振る。

 短剣を噛み止める。

 長剣を逸らす。

 刺突剣の切っ先が頬へ迫る。

 首を傾ける。

 曲刀が脇腹へ来る。

 外套だけを切らせ、身体を捻る。

 リーフェルが距離を詰めた。

 十本を浮かせたまま、自らも中央の長剣を握る。

 正面から振り下ろす。

 タナトスが右刀で受ける。

 刃と刃が噛み合った。

 力ではリーフェルが押す。

 剣技ではタナトスが流す。


 均衡した一瞬。


 タナトスの視線が、リーフェルの肩越しへ動いた。


 ほんの一瞬だった。


 リーフェルの十歩後ろ。


 アリアがいる。


 戦いを止めようともせず、二人を見ている。


 何を考えているのか。

 恐れているのか。

 測っているのか。

 タナトスは、ただ見た。


 それだけだった。


 リーフェルの殺気が、周りをどよめいた。


 空気が重く沈む。


 十本の剣を走っていた電流が、一斉に強くなる。


 石畳の砂が震えた。


「姫さまに向けた、その無礼な目玉を」

 リーフェルの声は静かだった。

 怒鳴ってはいない。


 だからこそ、ラインの背筋へ冷たいものが走った。


「抉り出してやろう」


 剣陣が、完全に開いた。


 十本の剣が円を描く。


 一本目が目。

 二本目が喉。

 三本目が右手。

 四本目が左脚。

 残る六本が、逃げ道と反撃の軌道を同時に塞ぐ。

 先ほどまでとは違う。

 タナトスを止めるためではない。

 目を奪うための剣舞だった。


 タナトスが右刀を返す。

 目を狙った短剣を弾く。

 次の刃。

 喉。

 刀の腹で逸らす。

 右手へ来た鉤刃。

 鋸歯で噛む。

 左脚へ細剣。

 足を引く。

 残る六本が、一斉に距離を詰めた。


 タナトスの左手が、二本目の柄へ触れる。


 まだ抜かない。

 一本。

 二本。

 三本。

 右刀だけで弾く。

 四本目が外套を裂いた。

 五本目が髪を切る。

 六本目。

 再び短剣が喉へ迫る。

 右刀で止める。

 だが、その背後から長剣が来る。


 タナトスは身を沈めた。


 頭上を刃が通る。

 曲刀が肩へ迫る。

 右刀の鋸歯で受ける。

 電流が刀身を通り、腕へ流れた。

 タナトスの指が僅かに震える。


 リーフェルは見逃さない。

「魔法が効かないわけではないのか」


 タナトスは答えなかった。

 龍鱗化。

 ロック・シャルディン直伝の四高弟へ授けられた、肉体を龍へ近づける秘技。

 それを使えば、雷への耐性も大きく増す。

 だが、タナトスは使わない。

 今ここで見せる理由がない。


 腕を流れる電流を握力で押さえ込み、右刀を振り抜く。

 三本の剣が弾かれた。

 リーフェルがさらに踏み込む。

 剣陣も追う。

 十本が、タナトスを門の外側へ押し出していく。

 タナトスの左手が柄を握る。

 抜く。

 そう見えた。

 リーフェルも剣を集中させる。


 次の一合で、風輪双刀が揃う。

 同時に、ソード・ディアンジェカーの十剣がタナトスへ届く。

 空気が張り詰めた。


「ふたりとも、やめて」

 アリアの声がした。

 近い。

 リーフェルの顔色が変わった。


 アリアは、もう十歩後ろにはいなかった。

 二人の間へ歩いている。

 ためらいもなく。

 剣陣の内側へ。


「姫さま!」

 リーフェルの集中が切れた。

 十本の剣を結んでいた電流が消える。

 空中の刃が、一斉に制御を失った。

 長剣が落ちる。

 短剣が跳ねる。

 鉤刃が石畳へ突き刺さる。

 十本の剣が、乾いた音を重ねながら地面へ散った。


 リーフェルは武器を見なかった。

 アリアへ駆ける。

 その身体を抱え込み、自分の胸元へ引き寄せた。

 次いで背を向ける。

 タナトスへ。

 アリアを腕の中へ隠し、自分の背中で覆う。

 風輪刀が来るなら、最初に自分が受ける。

 選択ではない。

 考える前に、身体が動いていた。


 タナトスの右刀が走る。


 リーフェルは振り返らない。

 アリアを抱く腕へ力を込めた。


 刃は、リーフェルの背へ触れる寸前で止まった。


 リーフエルの銀髪だけが、風圧で僅かに揺れた。

 

 広場が静まり返る。

 

 タナトスは、自分へ背を向けたリーフェルを見る。

 

 その腕の中にいるアリアを見る。

 

 アリアは、リーフェルの肩越しに彼を見返していた。

 

 怯えてはいない。

 

 笑ってもいない。

 

 何を考えて飛び込んだのか、表情からは読めなかった。

 

 タナトスは小さく息を吐いた。


「えげつない主人だ」

 

 リーフェルの背中へ止めた刀を引く。


「忠義を鎧にするとは」

 

 アリアは答えなかった。

 リーフェルも振り返らない。

 タナトスは右の風輪刀を鞘へ戻した。

 

 乾いた納刀の音が、城門前へ響いた。

          ◇

「姫さま」

 リーフェルが、ようやくアリアから身体を離した。

 肩。

 腕。

 顔。

 喉。

 怪我がないかを確かめる。

「お怪我は」


「ありません」


「本当に?」


「ええ」


「痛むところは」


「リーフに強く抱かれたので、少しだけ」


 リーフェルの腕が止まった。


「申し訳ございません」


「それより」


 アリアは地面へ散らばった十本の剣を見る。


「落としてしまいましたね」


「姫さまが突然入ってこられたからです」


「だから止まったのでしょう」


 リーフェルは返さない。


 アリアも、それ以上は言わなかった。


 電流を失った刀身は、ただの重い金属へ戻っている。


 リーフェルは自分で拾おうとしたが、アリアの前から離れない。

 

 近衛兵が代わりに集めた。

 

 タナトスは門外に立ったまま、二人を見ている。


「入らなくてよいのですか」

 アリアが尋ねた。


「俺に聞くのか」


「リーフに聞けば、駄目と言います」


「当然です」

 リーフェルが即答した。


「なら、入る」

 タナトスは城門へ足を向けた。


 リーフェルが前へ出ようとする。


 アリアが、その鎧の裾を掴んだ。

 強くはない。

 それだけで、リーフェルは止まった。


「姫さま」


「殺す理由がなければ、止まる方なのでしょう」


「今の一度だけで判断なさるのですか」


「あなたも、剣を落として私を守りました」


「それは当然です」


「タナトス殿も、刀を止めました」


「比べないでください」


「比べてはいません」


 アリアは袖を放した。


「見ただけです」


 リーフェルは唇を引き結ぶ。

 不満は消えていない。

 それでも、主君が決めた以上は従う。


 タナトスが門を通る。


 リーフェルの横を過ぎる時、足を止めた。


「近衛殿」


「何だ」


「悪くなかった」


 リーフェルの眉が動く。


「次は目を奪う」


「やりとげててみせろ」


「リーフ」


「……御意」


 タナトスは城内へ入った。


 ラインは、担架へ乗ることを拒んだまま二人を見ていた。


「いつも、ああなのか」


 アリアへ尋ねる。


「何がです」


「近衛が勝手に戦いを始める」


「いつもではありません」


「では、珍しい?」


「私の近くへ危険な方が来た時だけです」


 ラインはタナトスを見る。


「十分いつも起こりそうだな」


 アリアは答えなかった。


 若い施療師がラインの腕を取る。

「殿下、こちらへ」


「歩ける」


「先ほどから同じことを仰っています」


「事実だ」


 一歩進む。


 膝が揺れる。


 老従者が支えた。


「やはり揺れておりますな」


「地面がだ」


「城内も揺れておりません」


 ラインは諦めて担架へ腰を下ろした。


 それでも横にはならない。


 王子としての姿勢だけは、崩すつもりがないらしい。


 アリアはそれを見届け、施療師へ命じた。


「殿下と御一行をお願いします」

「承知しました」


「王家の印璽は?」

 リーフェルが問う。


「殿下御自身にお持ちいただきます」


「武器は」


「負傷者のものだけ預かってください」


「タナトス殿は?」


「預けない」

 本人が答えた。


 リーフェルの目が鋭くなる。


「城内の規則です」


「なら出ていく」


「待ってください」

 アリアが止める。


 タナトスは振り返った。


「武器をお預かりできない事情があるのですね」


「ああ」


「理由は」


「触らせたくない」


「それだけ?」


「…師匠は誰にも触らせるな、と」


 アリアは一瞬、地面へ落ちた追討兵の手を思い出した。


 双刀へ触れようとしたため、手首から先を失った男。


「分かりました」


「姫さま」

 リーフェルが抗議する。


「ただし、城内ではリーフの監視下に置きます」


「お断りします」

 今度はリーフェルが即答した。


「本人の前ですよ」


「聞かせています」


「俺も断る」


「では、お二人で相談してください」


「何を」


「どちらが相手を見張るのか」


 タナトスとリーフェルが、互いを見る。


 先ほどまで斬り合っていた二人だった。


 アリアはもう、二人から顔を背けている。


 話は終わったらしい。


 ラインの一行は施療所へ運ばれていく。


 近衛兵は、散らばった剣の最後の一本を拾い上げた。


 城門が閉められようとしていた。


 その時だった。


 城下の酒場の扉が、勢いよく外へ開いた。


          ◇

「朝から、何の騒ぎだよ……」


 低い声。


 少し掠れている。


 男が酒場から姿を現した。

 クラウディア軍の外套を片肩へ無造作に引っ掛けている。


 軍服の襟元は大きく開き、胸元の留め具は半分も留まっていない。帯は緩く、片方の袖は肘までしか通していなかった。

 髪も乱れたまま。

 それでも腰には制式剣があり、肩には中隊長の階級章が付いている。

 酒場前にいた兵たちは、彼を見ると自然に道を空けた。


 男―ミハイルは、片手で眉間を押さえた。


「頭に響くんだよ。剣をぶつけるなら、せめて昼から――」


 広場を見る。


 石畳へ残る斬撃の跡。


 散らばった砕石。


 アリアの前へ立つリーフェル。


 そして、城門近くに立つ黒髪の男。


 ミシェルの言葉が止まった。


 眠気と酒気に濁っていた目が、ゆっくりと開く。


「……兄貴?」


 タナトスが振り返った。


 紫色の瞳が、男を捉える。


「ミシェル」


 その名を口にした瞬間だった。


 タナトスの顔から、初めて剣士の冷たさが消えた。


 二十五騎へ囲まれても。


 リーフェルの十剣へ追い詰められても。


 アリアが刃の間へ入っても。


 ほとんど動かなかった目元が、僅かにほどける。


 驚き。


 安堵。


 長く消息を知らなかった家族を、思いもよらぬ場所で見つけた者の顔だった。


 笑ったわけではない。


 けれど、それまでのタナトスを見ていた者には、十分すぎる変化だった。


「兄貴!」


 ミシェルが酒場の段差を飛び降りる。


 駆け出した。


 二日酔いの足は、身体の勢いについていかなかった。


 着崩した外套の裾を自分で踏む。


 派手に転んだ。


 石畳へ肩から落ちる。


「ぐっ……!」


 広場が静まり返った。


 ミシェルは顔を上げ、打った肩を押さえる。


「今のは、地面の方から来た」


「相変わらずだな」


 タナトスの口元が、ほんの僅かに上がった。


 今度こそ、笑った。


 リーフェルはその表情を見た。


 首斬りタナトス。


 何を守るのか分からない男。


 他人の命へ関心があるのかさえ、判断できない剣士。


 だが、何も持たない男ではなかった。


 少なくとも、石畳へ転がった着崩れた中隊長は、彼の内側へ残された人間を呼び戻すらしい。


 ミシェルは立ち上がった。


 服を直そうとはしない。


 外套を片肩から垂らしたまま、タナトスの前へ行く。


 胸を拳で一度、強く叩いた。


「生きてたのかよ」


「ああ」


「一年も何してた」


「師匠を探していた」


「連絡くらい寄越せ」


「お前もだ」


「俺は色々あったんだよ」


「酒か」


「だいたい酒だ」


 タナトスの口元に、まだ僅かな笑みが残っている。


「中隊長か」


「見れば分かるだろ」


「似合わない」


「再会して最初にそれかよ」


「最初は生きていたのかと聞かれた」


「細かいな、相変わらず」


 ミシェルは鼻で笑った。


 だが、声が少し掠れている。


「兄貴。本当に……」


「ああ」


 それだけだった。


 ミシェルも、それ以上は言わなかった。


 アリアが二人へ近づく。


「御兄弟ですか」


「そうだよ」


 ミシェルが答えた。


「似ていませんね」


「血は繋がってない」


「なるほど」


 リーフェルはタナトスから視線を外さない。


「ミシェル中隊長」


「はいよ」


「この男について、知っていることを全て話せ」


「兄貴について?」


「そうだ」


「長くなるよ」


「構わない」


「俺、二日酔いなんだけど」


「構わない」


「そっちが構わなくても、俺が構うんだよ」


 リーフェルの目が冷える。


 ミシェルは片手を上げた。


「分かった。話す。だから、その物騒な顔をやめろ」


「通常の顔だ」


「それで?」


「そうだ」


「苦労してるなあ、お姫ちゃん」


「誰がお姫ちゃんですか」

 アリアが即座に返した。


 ミシェルは突然黙り、タナトスと目線を合わせた。


 その時。

 城壁の見張り台から、角笛が鳴った。

 一度。

 二度。

 三度。

 長く、重い警戒音。


 広場の空気が一変した。


 二日酔いのミシェルからも、表情が消える。


 タナトスが北を向く。


 リーフェルは即座にアリアの前へ立った。


「報告!」

 見張り兵が塔から叫ぶ。


「北街道より軍勢!」


「数は!」


「不明! 先陣だけで街道を埋めています!」


「旗は?」


 兵が遠眼鏡を覗く。


 沈黙。


 やがて、その声が僅かに震えた。


「銀狼旗!」


 城壁上の兵たちがざわめいた。


 アリアの赤い目が、北方へ向く。


 地平線の向こう。


 槍兵の列が進んでくる。


 まだ遠い。


 何のために来た軍なのかも分からない。


 だが、その先頭で翻る銀色の旗だけは、半島に暮らす者なら誰もが知っていた。


 ミシェルは、先ほどまで押さえていた眉間から手を離した。


「……最悪の目覚めだな」


 声から酒気が消えている。


「ミシェル中隊長」


 アリアが呼ぶ。


「はい」


「予備兵を集めてください」


「何人まで?」


「動ける者を全員」


 ミシェルは北の旗を見た。


 次にアリア。


「まだ中隊長なんだけど」


「今は集めるだけです」


「その言い方、嫌な予感がするなあ」


「急いでください」


「了解」


 ミシェルは踵を返した。


 外套は片肩から落ちたまま。


 襟元も開いたまま。


 それでも歩みには、もう先ほどまでのふらつきがない。


 広場の兵へ声を張る。


「動ける奴は東広場へ!」


「槍を持って来い! 使えるかどうかは後で決める!」


「伝令は各詰所を回れ!」


 兵たちが一斉に走り出した。


 タナトスは、その背を見送る。


 どこか懐かしそうに。


 アリアは北の銀狼旗から目を離さない。


「城門を閉じてください」


 リーフェルは、タナトスへ視線を向けた。


「何か知っているのか」


「旗だけでは分からん」


「銀狼旗を知らないとは言わせない」


「知っている」


「なら」


「軍議で聞け」


「貴殿は呼ばれていない」


「ミシェルについていく」


「来るな」


「行く」


 二人の間へ、また僅かな殺気が生まれる。


 アリアが振り返った。


「今度は始めないでくださいね」


 リーフェルは黙った。


 タナトスも答えない。


 北の地平線では、銀狼旗が盆地の風を受け、大きく翻っていた。


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