第一話 亡命王子は膝をつかない
剣聖ロック・シャルディンは、道を残さない。
足跡を消すわけではない。偽名を使うことも、行商人に身をやつすこともない。
ただ、どこへ行くのかを誰にも告げず、必要がなくなれば、それまで歩いてきた道そのものを捨てる。
だから、あの男を追う者は、足跡ではなく、ロック・シャルディンが何に足を止めるかを知らなければならなかった。
滅びかけた村。
誰も止めようとしない戦争。
見どころのある剣士。
そういうものを見つけると、シャルディンは黙って首を突っ込む。
ひと月後には、その村の自警団が妙に強くなっていたり、戦争を始めた領主の首が城門に吊るされていたりする。
本人は何も語らない。
何事もなかったように、また別の土地へ消える。
それがロック・シャルディンという男だった。
「灰色の鎧を着た、馬より大きな男?」
クラウディア領北部へ続く街道脇で、羊飼いの老人が首を傾げた。
「ああ」
タナトスは短く答えた。
「背に、人の背丈ほどの剣を負っている」
「そりゃあ見れば忘れねえな」
「見たのか」
「いや」
老人は迷いなく否定した。
タナトスは黙った。
「ただ、三月ほど前だったか。北から来た薬売りが、そんな男を見たと言っておった」
「どこで」
「クラウディアの東街道。古い石橋の近くだったかな」
「三月前か」
「四月だったかもしれん」
「どっちだ」
「羊の生まれた日は覚えておるんだが、人間の出入りはなあ」
老人は悪びれずに笑った。
タナトスはそれ以上聞かなかった。
直近一年。
ロック・シャルディンからの便りは途絶えている。
初めのうちは、誰も気にしていなかった。
シャルディンが少人数を連れ、各地を流浪することは珍しくない。傭兵団と居城はバク・ティクトが守っている。契約も、兵の訓練も、領地の運営も滞ってはいない。
いずれ、何事もなかったように帰ってくる。
幹部たちはそう考えていた。
タナトスも同じだった。
半年を過ぎるまでは。
「クラウディアか」
街道の先には、半島中央部の盆地を囲む低い山々が連なっていた。
雪原ではない。
肥沃な大平原でもない。
乾いた風が草を倒し、土と家畜の匂いを運んでくる。畜産と、亜人諸族との技術交流によって成り立つ、小さな選帝侯領だった。
さらに遠く、城壁の上で大烏の旗が翻っている。
クラウディア城。
女選帝侯の家系が守ってきた古城である。
老人の話が正しければ、シャルディンはあの城へ向かった可能性がある。
もっとも、老人の記憶そのものが怪しい。
タナトスが東街道へ進もうとした時だった。
馬の嘶きが聞こえた。
続いて、弩の弦が鳴る。
一本ではない。
間を置いて、二度。
訓練された斉射だった。
タナトスは足を止めた。
「師匠じゃないな」
馬蹄の音が近づいてくる。
追う側は二十を超えている。
逃げる側は四人。
うち二人は、すでにまともに馬を走らせられない。
タナトスには関係のないことだった。
街道を外れようとした時、若い男の声が響いた。
「殿下だけでも城へ!」
「置いていけるか!」
木立の向こうから、栗毛の馬が飛び出した。
馬上の青年は、王家の紋章を縫い込んだ外套をまとっていた。上等な布は泥と血で汚れ、片袖が大きく裂けている。
青年の後ろには、三人。
馬に乗った老従者。
負傷した近衛。
そして馬を失い、片足を引きずりながら走る、もう一人の近衛。
「右から来る!」
青年が叫んだ。
走っていた近衛も反応した。
だが、遅い。
木々の間から現れた騎兵が、馬上で長剣を振り上げる。
逃げる相手の背へ、迷いなく刃を落とす一撃だった。
タナトスは進路を変えた。
刀を抜く必要もない。
鞘ごと騎兵の剣を下から打ち上げる。
刃が近衛の肩を外れ、空を斬った。
「何者だ!」
騎兵が怒鳴る。
タナトスは答えない。
馬の轡を掴み、横へ捻った。
突然進路を変えられた馬が大きく首を振る。騎兵の身体が鞍から浮いた。
タナトスはその腕を掴み、地面へ引き落とす。
鈍い音がした。
騎兵は背中を打ち、そのまま息を詰まらせた。
青年が馬を止めた。
「お前は……」
「行け」
「何?」
「城門が見えている」
「だが、追手が――」
「邪魔だ」
タナトスは青年ではなく、その後方を見た。
騎馬の群れが次々と木立から現れる。
五騎。
十騎。
十五騎。
さらに十騎。
二十五騎。
装備は統一されていた。
馬上弩。
軽騎兵用の短槍。
片刃の長剣。
ただ数を揃えた兵ではない。
先頭の隊長が手を上げると同時に、騎兵たちは左右へ散開した。
中央の部隊は逃亡者を押さえ、両翼はクラウディア城へ続く道を塞ぐ。
最後尾の五騎だけは、戦列から距離を取っている。
伝令役。
全員が最後まで戦う前提ではない。
王子の生け捕りと、逃亡先の特定。その両方を任された選抜追跡隊だった。
「王子は殺すな!」
隊長が命じた。
「足を射抜け! 従者は斬って構わん!」
弩兵が馬上で照準を合わせる。
青年の近衛が前へ出ようとしたが、腕が上がらない。
「殿下、城へ!」
老従者も声を張る。
青年は歯を食いしばったまま、タナトスを見た。
「名を聞いてもいいか」
「今か」
「命を預ける相手の名くらいは知りたい」
「預かっていない」
「では、なぜ助けた」
タナトスは、地面で呻く騎兵を一度だけ見下ろした。
「背中から斬るのが気に入らなかった」
「それだけか」
「十分だ」
隊長の腕が上がる。
弩兵八騎が三列に分かれた。
一斉射ではない。
最初の矢を防いだ直後に、次を射る配置だった。
「下がっていろ」
タナトスが言った。
「一人で二十五騎を相手にするつもりか」
「二十五人だ」
「同じだろう」
「馬を斬る気はない」
青年は、その意味を理解できなかった。
タナトスの両手が腰へ下りる。
二振りの刀。
遠目には、日本刀に似た細身の長刀だった。
だが、一般的な刀の滑らかな刃とは明らかに異なる。
刀身の一部には、獣の歯を思わせる細かな凹凸が並んでいる。
のこぎりと日本刀を掛け合わせたような、細身の刀二本。
右の刀は、左より僅かに長い。
切っ先へ向かうほど反りが深くなり、一度入った刃を引き抜く動きで傷を広げる形状をしている。
左の刀はやや短い。
鍔元に近い鋸歯が大きく、敵の剣や槍を受けた際に、滑らせず噛み止めるための作りだった。
右で斬る。
左で受ける。
右で絡め、左で裂く。
あるいは、その全てを逆にする。
二本を一対として扱うことを前提に鍛えられた刀だった。
風輪双刀。
その姿だけは、持ち主の顔以上に大陸へ知られている。
タナトスが鞘から抜き放つと、二本の刃が陽光を受けた。
隊長の顔色が変わった。
「待て……」
隣の騎兵が振り向く。
「隊長?」
「首斬りだ!」
叫び声が街道へ響いた。
「首斬りタナトスだ!」
騎兵たちに動揺が走る。
一騎が反射的に馬を下げた。
知らぬ者はいない。
西方大陸の傭兵戦争。
5か国を巻き込んだ5人の傭兵。
その一人の黒髪の剣士。
のこぎりの歯を持つ異形の双刀。
敵陣深くへ入り込み、指揮官の首を奪って帰る男。
首斬りタナトス。
その異名は武勇伝というより、夜番の兵が眠気を失うために語る怪談に近かった。
だが隊長は、恐怖に呑まれなかった。
剣を抜き、兵たちへ突きつける。
「怯むな!」
恐怖を消そうとしたのではない。
恐怖を、功名心へ変えるための声だった。
「第四王子だけではないぞ!」
「首斬りを討てば、大陸中に名が轟く!」
騎兵たちの目に、再び光が戻る。
「打ち取って名を上げろ!」
隊長は続けて命じた。
「弩兵、三段!」
「短槍は左右から!」
「正面は入るな。双刀の間合いへ近づけるな!」
速い。
異名を聞いて混乱した直後に、部隊が再編される。
手練れだった。
弩兵は三騎、三騎、二騎に分かれた。
第一射。
三本の短矢が、胸、喉、右腿を狙う。
タナトスは走らない。
右の刀が胸への矢を横から叩く。
左の刀の鋸歯が、喉への一本を噛み止める。
右腿への矢だけを半歩ずれて外した。
「次!」
第二射。
最初の矢を弾いた腕が戻る前に、顔と左脇へ二本が迫る。
タナトスは右刀を返さない。
柄頭を落として一矢を叩き、もう一本は首を傾けて避ける。
耳元で風が鳴った。
その時には、左右から短槍が迫っていた。
右は足。
左は刀を持つ手。
馬の速度を殺さず、交差するように突き込んでくる。
タナトスの口元が僅かに上がった。
「悪くない」
右から来た槍へ左刀を合わせる。
刃の細かな歯が、槍の柄を噛んだ。
捻る。
騎兵の手首が外へ開く。
そこへ右刀が走った。
革手袋ごと、親指だけが宙へ飛ぶ。
「ぐあっ!」
槍が落ちた。
タナトスは振り向きざま、右刀を横へ払う。
左から迫った騎兵の首筋へ、一本の傷口が開いた。
赤い血が噴き出す。
騎兵は恐怖に顔を歪め、馬上で首を押さえた。
深さは指一本にも満たない。
だが本人には分かる。
あと僅かに深ければ、頸動脈を裂かれていた。
馬から転げ落ちる。
背後から三人目。
片刃の剣を振り下ろす。
タナトスは振り返らない。
身体を僅かに沈めて刃を頭上へ通し、左刀を逆手へ持ち替える。
短い音。
騎兵の人差し指と中指が、剣の柄から離れて落ちた。
悲鳴が続く。
それでも死者はいない。
「距離を取れ!」
隊長が即座に命じる。
「囲み直せ!」
負傷した三騎の隙間を、後続が埋める。
親指を失った兵を味方が引きずり、首を斬られた兵へ別の騎兵が止血布を投げる。
仲間が倒れても陣形を崩さない。
恐怖だけでは逃げない。
第四王子を大陸中央部まで追い続けてきた選抜兵だった。
隊長はタナトスの刃筋を見ていた。
負傷者の傷も見ていた。
「奴は首を取っていない!」
兵たちへ叫ぶ。
「殺せぬのではない!」
「殺していない!」
その違いを正確に読んでいる。
「殺す気がないなら、踏み込める!」
「捨て身で押し潰せ!」
兵たちの目が変わった。
慈悲を期待したのではない。
首斬りタナトスが、自ら何らかの制約を負っている。
ならば、その制約を攻撃へ利用できる。
手練れの兵ほど、敵の情けを好機と見る。
タナトスは右の刀を下げた。
紫色の目が、隊長を捉える。
「よく見ている」
隊長が長剣を構える。
「光栄だな」
「だが」
タナトスは一歩、前へ出た。
二十五騎の包囲へ。
逃げ道のない中心へ、自分から入る。
「勘違いするな」
風輪双刀が左右へ開いた。
「殺さないのは、俺の都合だ」
騎兵たちが一斉に馬を進める。
「お前たちの命が惜しいからじゃない」
次の瞬間。
クラウディア城壁の上から戦いを見ていたリーフェルには、タナトスの姿が消えたように見えた。
◇
消えたのではない。
一歩。
ただ一歩、包囲の内側へ踏み込んだだけだった。
だが、二十五騎が距離を詰める僅かな隙間を抜ける速度が、目で追える域を越えていた。
「中央へ入れ!」
隊長が叫ぶ。
「囲んで潰せ!」
四騎が同時に馬首を返す。
正面から二本の短槍。
左右から長剣。
後方の弩兵は、味方を射抜かぬよう照準を上げたまま、タナトスが包囲を抜ける瞬間を待つ。
よく訓練されていた。
兵同士の距離も、馬の歩幅も、武器を振る順番も乱れない。
タナトスは右から来る短槍へ左刀を合わせた。
鋸歯が柄を噛む。
そのまま捻り、騎兵の手首を開かせる。
右刀が走る。
今度は小指と薬指だけが、手袋ごと落ちた。
槍が地面へ転がる。
タナトスはそれを踏み、身体を回した。
左から来た騎兵の足首を覆う革紐だけを裂く。
鐙が外れる。
騎兵は馬上から横へ投げ出され、肩から地面へ落ちた。
その脇を、別の騎馬が駆け抜ける。
長剣の狙いは頬。
眼を奪い、捕縛するための軌道だった。
タナトスは避けなかった。
右刀の背を顔の前へ置く。
敵の剣が触れる。
通常の刀なら滑る。
風輪刀の歯は逃がさない。
馬の速度ごと剣を持っていかれ、騎兵の肩が開いた。
左刀が脇の下へ差し込まれる。
肉ではなく、鎧の留め革だけを切る。
胸当てが地面へ落ちた。
続いて右刀。
露出した鎖骨の上、喉の横へ赤い線を引く。
「ひっ……」
騎兵が息を呑む。
首へ刃は届いていた。
そのうえで、殺されなかった。
「止まるな!」
隊長の怒号が飛ぶ。
「二本同時に受けるな!」
三騎が間隔を空けて迫る。
一騎目が上段。
二騎目が胴。
三騎目は動かず、タナトスが避ける方向を待つ。
最初の二人は斬るためではない。
逃げ道を三人目へ固定するための攻撃だ。
タナトスは避けなかった。
上段の剣へ右刀。
胴の剣へ左刀。
二振りを同時に受ける。
風輪刀の凹凸が、二本の剣を噛み止めた。
両腕が外へ開く。
正面が空く。
三騎目の短槍が、真っ直ぐ胸へ伸びた。
「もらった!」
ラインが叫ぶ。
「首切り!」
槍先が外套を貫く。
城壁の兵がどよめいた。
だが、手応えがない。
タナトスは槍が届く寸前、身体を半身へ変えていた。
穂先が裂いたのは外套だけ。
彼は二本の剣を噛んだまま、左右の腕を交差させた。
敵の剣同士が衝突する。
一騎目と二騎目の手元が絡み、馬同士が接触した。
タナトスは刀を離す。
槍の柄へ肘を落とす。
穂先が下がる。
その上を右刀が走った。
槍兵の人差し指だけが、爪の付け根から落ちた。
「ぐっ――!」
左刀は既に別の場所へある。
一騎目の手首。
鎧の隙間へ浅く入る。
腱は切らない。
だが、剣を握れば傷口が開く。
二騎目には柄頭。
鼻梁を打ち、馬上で意識を奪った。
三人が、ほぼ同時に崩れる。
城壁のリーフェルは、息をすることさえ忘れていた。
速い。
だが、異常なのは速度ではない。
右から来る槍。
左から来る剣。
後方の弩。
馬の脚。
味方同士の距離。
それら全てを見ながら、一人ずつ傷を選んでいる。
首へ刃を置きながら、動脈を外す。
指を飛ばしながら、掌を残す。
腱へ届く寸前で止める。
生かすための傷ではない。
戦うことを諦めさせる傷だった。
騎乗すれば傷口が擦れる。
武器を握れば血が流れる。
再び戦場へ立てば、今度こそ死ぬ。
負傷者自身に、それを理解させている。
(殺せなかったのではない)
リーフェルの手が城壁の石を掴む。
(殺さない場所を、一人ずつ選んでいる)
「リーフ」
隣に立つアリアが呼んだ。
リーフェルは戦場を見たまま答える。
「はい」
「あの方を知っていますか」
「異名だけは」
「?」
「首切り。」
「随分と異名に似合わない戦い方ですね」
「違います」
否定は即座だった。
「殺せないのではありません」
「一人ずつ、殺さない場所を選んでいます」
アリアは戦場へ目を戻した。
「それほど違う?」
「まったく違います」
◇
倒れた騎兵は十一。
まだ十四騎が動ける。
隊長は二騎を負傷者の回収へ回し、残る部隊を二つへ分けた。
「七騎で首斬りを囲め!」
「五騎は王子へ!」
タナトスだけを倒すことに固執しない。
任務を忘れていなかった。
五騎が戦闘を迂回し、ラインたちへ向かう。
負傷した近衛が剣を構えた。
「殿下をお守りしろ!」
ラインも剣を抜く。
手が震えている。
立っているだけでも苦しいはずだった。
それでも近衛の後ろへは隠れない。
タナトスは五騎を見た。
同時に、包囲の七騎が動く。
王子を助けるため前へ出れば、背中を晒す。
包囲へ対処すれば、五騎がラインへ届く。
隊長が叫んだ。
「首斬り!」
「王子を救いたければ、双刀を捨てろ!」
「構うな!」
ラインが怒鳴った。
「私は自分で戦う!」
タナトスは一度だけラインを見た。
「無理だ」
「何だと」
「立っているのがやっとだろう」
「なら、私を置いていけ!」
「置いていけばいいのか」
ラインは答えられない。
自分を差し出せば、随員は助かるのか。
保証はない。
王子を捕らえた後、口封じに全員を殺すこともできる。
自分が犠牲になれば全てが収まるほど、戦争は親切ではない。
「迷うな」
タナトスが言った。
「剣を持っているなら、斬る相手だけ見ろ」
「お前はどうする」
「俺もそうする」
タナトスは包囲する七騎へ背を向けた。
「今だ!」
隊長の命令で、七騎が同時に踏み込む。
タナトスは振り返らない。
左右の双刀を逆手に持ち替えた。
背後から来る短槍。
音だけで位置を読む。
左刀が肩越しに回り、槍の穂先を噛んだ。
引く。
騎兵の身体が前へ流れる。
右刀が耳を半分だけ切り落とした。
絶叫。
二騎目の剣。
前へ踏み込んで外す。
鍔が手首へ当たり、骨が鳴る。
三騎目と四騎目。
同時。
タナトスは二騎の間へ身体を沈めた。
右刀が片方の馬具を切る。
鞍がずれ、騎兵が落ちた。
左刀はもう一人の剣を噛み、頭上へ跳ね上げる。
脇が開く。
上腕の内側へ刃を浅く入れた。
血が散る。
腕は残る。
だが力が抜け、剣を持てない。
五騎目が、馬で踏み潰そうとする。
タナトスは地を蹴た。
馬の首へ左手を置き、身体を横へ流す。
すれ違いざま、右刀が騎兵の剣帯を切った。
武器が鞘ごと落ちる。
続く左刀は顎の下。
皮膚へ薄い傷を刻む。
「動けば開く」
騎兵は馬上で固まった。
残る二騎が躊躇する。
タナトスは二人を斬らない。
ラインへ向かった五騎を追った。
「追え!」
隊長が叫ぶ。
だが二騎は動けなかった。
これまで倒れた仲間の傷が、目に焼きついている。
次に自分のどこが落ちるのか。
想像してしまった。
タナトスは五騎へ追いつく。
先頭の槍がラインへ伸びた。
ラインも剣を振る。
刃と穂先がぶつかる。
腕が痺れ、剣が落ちかけた。
騎兵が槍を引き、二撃目へ移る。
その手元を風輪刀が横切った。
親指の付け根が裂け、槍が落ちる。
タナトスがラインの前へ入った。
「下がれ」
「遅い」
「助けられた者の言葉じゃないな」
「頼んでいない」
「面倒だ」
「お前に言われたくない」
残る四騎は止まらない。
二騎はライン。
一騎は負傷した近衛。
最後の一騎は老従者へ向かう。
タナトスは舌打ちし、左刀を投げた。
風輪刀が回転しながら飛ぶ。
老従者を狙った騎兵の長剣へ、刃の鋸歯が噛みつく。
剣が手から弾かれた。
風輪刀は地面へ突き立つ。
タナトスは右刀だけで、ラインへ迫る二騎の間へ入った。
一人目。
剣を握る三本の指を、柄ごと切り落とす。
二人目。
首へ刃を置く。
騎兵は馬を止めた。
鋸歯が皮膚へ食い込んでいる。
動けば自分で傷口を広げる。
「降りろ」
騎兵は剣を捨て、馬から降りた。
最後の一騎がタナトスへ背を向ける。
逃げるのではない。
地面へ刺さった左の風輪刀へ手を伸ばした。
「触るな!」
ラインが叫ぶ。
騎兵の指が柄へ近づく。
タナトスの表情が変わった。
それまでの無関心が、一瞬で消える。
右刀を振りかぶり、投げた。
刃は頭へ向かわない。
伸びた右手へ飛ぶ。
手首から先が、風輪刀の柄へ触れる寸前で切り離された。
騎兵の絶叫が盆地へ響く。
タナトスは歩み寄り、二本の刀を拾った。
切断された手が足元へ落ちている。
見向きもしない。
刀身に付いた血だけを、倒れた兵の外套で拭った。
ラインは、右手を失った騎兵を見る。
「そこまでする必要があったか」
「触るなと言った」
「聞こえる前だった」
「関係ない」
「その刀は何なのだ」
タナトスは答えなかった。
二本を鞘へ納める。
乾いた音が重なった。
その音を合図にしたように、隊長が叫んだ。
「離脱!」
まだ動ける騎兵は七騎。
隊長は三騎を前へ出し、自ら後衛へ回った。
「四騎は本部へ走れ!」
「第四王子がクラウディアへ向かったことを伝えろ!」
「首斬りタナトスが現れたこともだ!」
「隊長は?」
「負傷者を回収する!」
「任務だ、行け!」
四騎が馬首を返した。
クラウディアとは逆方向。
北へ続く街道を駆けていく。
「逃がすな!」
ラインの近衛が声を上げた。
タナトスは動かない。
「追わないのか」
ラインが尋ねる。
「理由がない」
「あの者たちが報告すれば、私の行方が本部へ知られる」
「そうだな」
「クラウディアも巻き込まれる」
「俺はクラウディアの人間じゃない」
「なら、なぜ私たちを助けた」
「目の前にいたからだ」
「それだけで二十五騎を相手にしたのか」
「師匠を探している」
タナトスは遠くの城を見る。
「あの城に手掛かりがあるかもしれない」
「私とは関係がない?」
「ああ」
ラインは、腹を立てるべきか、礼を言うべきか分からなかった。
やがて剣を鞘へ戻す。
「私はライン・ネーヤだ」
「聞いた」
「神聖ネーヤ帝国第四王子」
「それも聞いた」
「お前はタナトス」
「…ドレイゴだ。ドレイゴのタナトス。」
「首斬りと呼ばれている」
「勝手に呼ばれているだけだ」
「では、今はそれでいい」
ラインはクラウディア城へ向き直った。
「城へ行く」
「好きにしろ」
「お前も来るのだろう」
「師匠の手掛かりがあればな」
「なければ?」
「出ていく」
「本当に勝手な男だ」
「王子よりはましだ」
「どこが」
「俺は、自分が勝手だと知っている」
ラインは一瞬黙り、疲れたように笑った。
「少しだけ、お前が嫌いになった」
「それでいい」
地面には、二十人近い追討兵が倒れている。
死者はいない。
だが、すぐに武器を握れる者もいなかった。
隊長は残った三騎とともに、負傷者を庇う位置へ馬を寄せる。
タナトスへ剣を向けた。
「また会うぞ、首斬り」
「次は首が落ちる」
隊長の顔が強張る。
それでも剣を下ろさない。
「覚えておけ。俺は反乱軍北部追討隊――」
「名はいらない」
「何?」
「覚える気がない」
隊長の目に怒りが浮かんだ。
しかし追わない。
勝てない時に死ぬほど、未熟な兵ではなかった。
負傷者へ撤退を命じる。
それが、彼らが手練れである最後の証明だった。
◇
クラウディア城壁の上では、弓兵たちがまだ矢を番えていた。
追討隊とタナトス、その双方へ向けている。
どちらが味方か分からないからではない。
どちらも味方ではないからだ。
「追討兵が退きます」
見張り兵が報告した。
「四騎は北へ。残りは負傷者を回収しながら東街道へ戻ります」
「追わないでください」
アリアが命じた。
「よろしいのですか」
「領外へ出た兵をこちらから攻撃すれば、クラウディアが戦端を開いたことになります」
「しかし、殿下の所在が」
「もう伝わります」
アリアは遠ざかる四騎を見た。
今から騎兵を出しても、全員を捕らえられる保証はない。
一騎でも逃せば同じである。
「隠せませんね」
「ならば、隠すことを前提に決めるべきではありません」
リーフェルは戦場から目を離さない。
「あの方を城へ入れるおつもりですか」
「まだ、お話を聞いていません」
「反乱軍は既に、第四王子がクラウディアへ向かったと知りました」
「ええ」
「門を開けば、推測が事実になります」
「門を閉ざし、殿下が目前で捕らえられても同じです」
「クラウディア家にとっては違います」
「殿下を見捨てれば、王家の生き残りを反乱軍へ差し出した選帝侯として名が残る」
「名より領民です」
「その通りです」
アリアは即答した。
「ですから、名誉のために門を開けることはありません」
「では」
「価値があるなら開けます」
リーフェルが主君を見る。
横顔には、まだ少女らしさが残っている。
だが赤い目は、門前の青年だけを見てはいなかった。
王家の血。
反乱軍が恐れる正統性。
帝国を失った旧臣をまとめる旗。
そして、辺境へ押し戻されたクラウディア家が、再び中央へ戻るための道。
「姫さま」
「それより」
アリアがタナトスへ視線を移した。
「あの剣士を、どう見ますか」
「危険です」
「強いから?」
「強いだけなら対処できます」
「本当に?」
リーフェルは僅かに黙った。
「姫さまの腕だけを落とすことも」
「目だけを奪うことも」
「喉へ傷を入れ、声を失わせることもできる」
アリアは自分の喉へ指を当てた。
「怖いですね」
「分かっておられません」
「分かっています」
「なら、城へ入れてはなりません」
「王子殿下とは別に?」
「別です」
リーフェルは断言した。
「殿下は政治的な危険です」
「あの男は、姫さま御自身への危険です」
アリアは門へ近づいてくる一行を見た。
ラインは負傷した近衛へ肩を貸している。
老従者も足を引きずっていた。
タナトスだけが傷を負っていない。
彼は城壁の弓兵を見る。
塔を見る。
城門の蝶番を見る。
最後に、リーフェルを見る。
視線がアリアへ移った。
ほんの一瞬。
リーフェルが前へ出る。
反射だった。
自分でも意識するより早く、アリアとタナトスを結ぶ直線へ身体を入れている。
タナトスの紫色の目が、僅かに細くなった。
リーフェルには、それが笑ったように見えた。
「……穢らわしい」
「リーフ?」
「何でもありません」
しかし、殺気は消えていなかった。
◇
城門前へ到着すると、ラインは一人で立とうとした。
近衛の肩を離す。
膝が崩れかける。
それでも、地面へはつかなかった。
剣を石畳へ突き、杖の代わりにして身体を支える。
城門は閉ざされている。
城壁から無数の矢が向けられていた。
ラインは顔を上げる。
「神聖ネーヤ帝国第四王子、ライン・ネーヤだ」
声は掠れている。
「クラウディア侯へ、保護を求める」
城壁の上へアリアが姿を見せた。
「証明できますか」
ラインは懐へ手を入れる。
リーフェルのボーガンが、即座に彼へ向いた。
「ゆっくりと」
「分かっている」
ラインが取り出したのは、小さな金属板だった。
蒼光神の光輪。
その中央に翼を広げる、ネーヤ王家の紋章。
血統を示す魔法文字が、ラインの手の中で青白く光っている。
アリアは印璽を見た。
次にライン本人を見る。
「本物のようですね」
「門を開けてくれ」
「理由を」
ラインの眉が動いた。
「今、名乗った」
「名前は理由ではありません」
「反乱軍に追われている」
「見ていました」
「随員は負傷している」
「それも」
「なら、何が聞きたい」
アリアは少し考えた。
「殿下は、クラウディアへ何を持ってきたのですか」
ラインは問いの意味を測るように黙った。
「剣も兵もない」
「ええ」
「金もない」
「おそらく」
「あるのは王家の印璽だけだ」
「それだけですか」
「これ以上、何を持てという」
「御自身です」
ラインの表情が強張る。
「私を売れと?」
「殿下が、御自身をどう評価しているか聞いています」
「王子だ」
「それは身分です」
「では、反乱軍が欲しがる首だ」
「それは敵から見た価格です」
「随分と失礼な女だな」
ラインは城壁を睨んだ。
「私一人を、反乱軍へ引き渡してもいい」
近衛たちが顔を上げる。
「殿下!」
「代わりに、この者たちを治療しろ」
老従者が何か言おうとした。
ラインは片手で制した。
「私を捕らえれば、反乱軍は少なくとも交渉には応じる」
「応じた後、随員を生かす保証は?」
「それは……」
「ありませんね」
「ならば、他に何ができる!」
ラインの声が城壁へ響く。
怒り。
疲労。
自分が王子であるために、周囲が傷ついていくことへの焦り。
アリアは静かに受け止めた。
「殿下は、御自身を差し出せば責任を果たせるとお考えですか」
「この者たちを巻き込んだのは私だ」
「殿下の命令に逆らい、勝手についてきた者はいませんか」
ラインは答えない。
近衛たちの顔を見れば分かる。
王子の命令だけで、ここまで来た者たちではない。
「ならば、殿下だけが決めることでもありません」
「私の臣下だ」
「だからこそです」
アリアの口元に、小さな笑みが浮かぶ。
「殿下は、御自分を随分と安く売るのですね」
「何だと」
「王家の血を、負傷者三名の治療費と交換するおつもりですか」
「人の命を安いと言うのか!」
「逆です」
アリアの声が冷える。
「殿下御自身を安く扱うなと申し上げています」
ラインは言葉を失う。
「殿下が御可哀想だから迎えるつもりもありません」
アリアは続けた。
「では、なぜ」
「殿下を迎えれば、クラウディア家は王家を保護した選帝侯になる」
「反乱軍から見れば、明確な敵だ」
「ええ」
「他の諸侯も、私を担ごうとする」
「ええ」
「帝国全土が、この城を見る」
「それを望んでいます」
リーフェルが振り返る。
「姫さま」
アリアはラインから目を逸らさない。
「かつてクラウディア家は、皇帝の選定に関わりました」
「今は半島中央部の小領主です」
「それが不満か」
「不満です」
あまりにも率直な答えだった。
ラインは怒ることさえ忘れ、アリアを見る。
「殿下を利用します」
アリアは言った。
「殿下も、クラウディアを利用なさい」
「それで対等だと?」
「まだ違います」
「今の殿下には、選べる場所がここしかありませんから」
ラインの目に屈辱が浮かんだ。
それでも視線を逸らさない。
「なら、いずれ選べるようになった時」
掠れた声で言う。
「私が先に、お前を捨てるかもしれない」
「その時は、捨てられないだけの価値を示します」
「傲慢だな」
「殿下ほどではありません」
城壁の兵たちは、息を潜めて二人を見ていた。
救いを求める王子と、救いを与える侯爵ではない。
互いに相手の価値を測り、利用すると宣言する二人だった。
アリアは右手を上げた。
「開門してください」
リーフェルが一歩近づく。
「姫さま」
「殿下と随員を施療所へ」
「御決定ですか」
「ええ」
「逃げた騎兵は、間もなく反乱軍本部へ報告します」
「承知しています」
「門を開けば、後戻りはできません」
「だから開けるのです」
リーフェルは唇を引き結んだ。
主君の決断には従う。
だが、もう一人いる。
視線がタナトスへ移った。
「殿下をお迎えする御決断には従います」
「ありがとう」
「ですが」
声が低くなる。
「あの男を、姫さまへ近づけることは認められません」
門前まで届く声だった。
タナトスが城壁を見上げる。
アリアの前へ立つリーフェル。
主君を覆い隠すように、両者の間を塞いでいる。
「なら」
タナトスは風輪双刀の柄へ片手を置いた。
「お前が止めろ」
リーフェルの瞳に、雷のような光が走った。
城門の内側で、巨大な閂が動き始める。
古い鉄金具が軋んだ。
大烏の旗が、盆地の風を受けて大きく広がる。
王子を迎える門が開く。
同時に。
クラウディア家が、これまで閉ざしてきた戦争への門も、ゆっくりと開き始めていた。




