第六話 生臭司祭の三方よし
サーハル軍との会談を終えた、その夜。
クラウディア城下の酒場は、いつになく騒がしかった。
北門から逃げ込んだ者たち。
臨時に召集された兵士。
戦が始まらずに済んだことを祝う町民。
誰もが、明日のことを考えないように酒を飲んでいる。
その隅の卓に、ミシェルは突っ伏していた。
「もう飲めない……」
目の前には、空になった水差しが三つ。
酒ではない。
昼まで残っていた二日酔いを抜くため、ひたすら水を飲み続けていたのだ。
「珍しいな」
向かいの席に座る青年が言った。
「お前が酒場で酒を飲んでいないとは」
白を基調とした簡素な司祭服。
胸元には十字架ではなく、青い光を思わせる蒼光神の印。
整った顔には、人当たりのよい笑みが浮かんでいる。
ヨハン・ドーレス。
蒼光神教団の祭司でありながら、信仰よりも教団の勢力拡大に関心を持つ、ミシェルの悪友だった。
「お前のせいだろ」
ミシェルは卓に顔を伏せたまま答えた。
「昨夜、もう一杯だけって言ったのは誰だ」
「お前だ」
「勧めたのは?」
「店主だ」
「勘定を俺につけたのは?」
「私だ」
「やっぱりお前のせいじゃないか」
ヨハンは笑いながら、杯へ酒を注いだ。
「身体に悪いぞ」
「司祭が酒場で酒を飲みながら言うことか」
「蒼光神は葡萄酒を禁じていない」
「朝まで飲むことも許しているのか」
「教義の解釈には幅がある」
「便利だな、宗教は」
「便利に使えない宗教に、何の価値がある」
司祭らしからぬ発言だった。
だが、ヨハンは悪びれない。
酒を一口飲み、店内を見回した。
兵士と避難民が同じ卓を囲んでいる。
人間の隣にゴブリンが座り、三つ目族の商人が酒をお代わりしている。
蒼光神教団の本部では、まず見られない光景だった。
「しかし、お前も出世したものだな」
ヨハンが言った。
「魔呪大習院の試験を酒で潰した男が、今ではクラウディア軍の将軍」
「俺も驚いてるよ」
「それも正規兵ではなく、逃亡兵と避難民を集めて陣を組み、サーハル公を足止めした」
「足止めしたのは兄貴とお姫ちゃんだ」
「お前の予備隊がいなければ、アリア侯は同じ条件で交渉できなかった」
「セトにも同じことを言われた」
「ほう」
ヨハンの笑みが少し深くなる。
「医者に褒められたのか」
「本人は医学的所見だと言ってた」
「医師も司祭も、責任を負いたくない時には専門用語を使う」
「お前と一緒にするなよ。セトが怒るぞ」
「怒らせておけばよい。あの男は怒った顔の方が人間らしい」
ミシェルは顔を上げた。
「何の用だ」
「旧友と飲みに来ただけだ」
「お前が俺に奢る時は、必ず何かある」
「奢るとは言っていない」
「帰る」
ミシェルが立ち上がろうとする。
ヨハンは、卓の上へ一枚の紙を置いた。
「蒼光神教団北方管区から、サーハル家へ送られた書簡の写しだ」
ミシェルの動きが止まる。
「何でお前が持ってる」
「司祭だから」
「答えになってない」
「教団とは、信仰を共有する組織ではない。情報を共有する組織だ」
ミシェルは座り直し、紙を手に取った。
文面には、北方における反乱軍の動向と、蒼光神教団の聖堂や修道院を保護するようサーハル家へ求める内容が記されている。
末尾には、教団北方管区の印。
「サーハル公は承諾したのか」
「当然だ」
ヨハンは答えた。
「オーウェン公は信仰熱心というほどではないが、帝国の秩序を尊重する。教団施設を守ることも、選帝侯の責務と考えている」
「それが何だ」
「今、蒼光神教団は困っている」
「教団が?」
「帝都の大聖堂は反乱軍に囲まれている。南の教会はブラド公国の監視下。ゲート王国では魔呪学者に相手にされず、亜人種の地域では昔の弾圧が原因で嫌われている」
ヨハンは杯を回した。
「その一方で、クラウディア領には王子がいる」
「まだ公表してない」
「城下の酒場で隠し事をするのは無理だ」
周囲では、すでにライン王子に関する噂が飛び交っている。
第四王子がクラウディア城にいる。
アリア侯が皇帝に立てる。
サーハル公が王子を奪いに来た。
噂は事実より速く、事実より派手に広がっていた。
「教団は王家との関係を切れない」
ヨハンが続ける。
「だが、今の段階でライン殿下を支持すれば、反乱軍に敵と見なされる。アリア侯へ接近しすぎれば、サーハル公との関係が壊れる」
「だから様子見か」
「様子を見るだけなら、二流の組織だ」
ヨハンは身を乗り出した。
「三者とも得をする形を作ればよい」
「三者?」
「教団、クラウディア、サーハル」
ミシェルは怪訝そうに見る。
「三方よしってやつか」
「商人の言葉は好きだ。神学者より正直だからな」
「どうやる」
ヨハンは別の紙を取り出した。
ネーヤ半島北部にある教会、修道院、施療院を記した簡略図だった。
「教団が、クラウディアとサーハルの間に立つ」
「仲裁するのか」
「仲裁ではない。交互に引く」
「交互に?」
「まず教団が、サーハル公へ要請する。ライン殿下との面会は、教団の立会いのもとで行うべきだと」
「オーウェンに教団の権威を飲ませるわけか」
「彼は断りにくい。サーハル家は代々、蒼光神教団の北方守護者でもある」
「それでサーハルが引く」
「次に、教団がクラウディアへ要求する」
「何を」
「城内に臨時の礼拝所と施療所を置かせろ」
ミシェルは紙から顔を上げた。
「布教する気か」
「救護だ」
「言い換えただけだろ」
「避難民が増えた。セト一人では診きれない。教団には司祭だけでなく、治療術を使う僧侶もいる」
「クラウディア側の得は、負傷者の治療か」
「それだけではない」
ヨハンは図の教会を指でつないだ。
「教団の通信網を使える」
ミシェルの目が変わった。
「勤王の檄文か」
「その言葉は、まだ表では使うな」
「でも、それが目的だろ」
「教団は王子への忠誠を呼びかけない」
ヨハンは笑った。
「ただ、帝国第四王子が無事であり、クラウディア領が保護しているという事実を、各地の聖堂へ知らせる」
「同じじゃないか」
「全く違う」
「どう違う」
「教団は事実を伝えただけ。兵を募るのは、それを聞いた者たちの自由意思だ」
ミシェルは思わず笑った。
「お前、やっぱり司祭より政治家向きだよ」
「政治家は責任を取らされる。司祭なら、神意と信徒の判断に任せたと言える」
「生臭いにも程があるぞ」
「褒め言葉として受け取ろう」
ヨハンは酒を飲み干した。
「さらに、クラウディア侯からも一歩引いてもらう」
「何を引く」
「ライン殿下を、すぐに皇帝候補として掲げない」
「お姫ちゃんはまだ掲げてない」
「準備している」
「そこまで読んでるのか」
「ミシェル。お前がお姫ちゃんと呼ぶ少女は、王子を助けただけで満足する女ではないだろう」
ミシェルは否定しなかった。
「教団の立会いで、ライン殿下が自らの意思を表明する」
ヨハンは指を三本立てた。
「サーハル公は、王子がクラウディアの傀儡ではないと確認できる」
一つ目の指を折る。
「アリア侯は、教団の通信網と治療組織を得る」
二つ目を折る。
「教団は、王子と選帝侯の双方に恩を売り、北方での影響力を回復する」
三つ目を折った。
「三方よしだ」
「教団だけ、二つくらい得してないか」
「神々の御加護だ」
「お前が考えたんだろ」
「神は人を通じて働く」
「便利だな、その理屈」
ヨハンは笑った。
「お前も得をする」
「俺も?」
「教団の施設を使って、予備隊の募集と連絡ができる」
ミシェルは黙った。
「教会に兵を集めるのか」
「違う。避難民の名簿を作り、出身地、元の所属、家族の所在を確認する」
「その中から戦える者を選ぶ」
「選ぶのはお前だ。教団は救済対象を記録しただけ」
「全部それで逃げるつもりだな」
「責任を分散すると言ってほしい」
「言わない」
ミシェルは紙を見つめた。
教会と修道院。
半島各地へ張り巡らされた、宗教組織の網。
兵を送る道ではない。
たしかな情報を送る道。
戦争で家を失った者が、助けを求めて集まる場所。
そこを押さえれば、クラウディア領は大陸各地の情勢を知り、人材を集められる。
「ただし、問題がある」
ミシェルが言った。
「何だ」
「亜人種は蒼光神教団を嫌っている」
「当然だ」
ヨハンはあっさり認めた。
「ファイン族の虐殺をはじめ、教団は神の名で多くのことをしてきた」
「お前、それを司祭が言うか」
「事実を否定しても、信仰は戻らない」
「じゃあ、どうする」
「教団の旗を下げる」
ミシェルは眉を上げる。
「礼拝所を置くんじゃなかったのか」
「礼拝所には蒼光神の印を掲げる。施療所には掲げない」
「教団の施設だと隠すのか」
「治療を受ける時まで、信仰を強制されたと思わせないためだ」
「本部が許すか」
「許させる」
「どうやって」
「南方布教の責任者は私だ」
ヨハンの笑みから、一瞬だけ軽さが消えた。
「失敗すれば、私の責任になる」
「珍しく責任を取るのか」
「教皇を目指す者が、何の実績もなく本部へ戻れると思うか」
「やっぱり自分のためじゃないか」
「自分の野心と他人の利益が一致するなら、最も長続きする」
ヨハンは再び杯へ酒を注いだ。
「善意だけで動く者は、善意が尽きれば去る。野心で動く者は、利益がある限り働く」
「正直なのか胡散臭いのか、分からないな」
「両方だ」
◇
「それで」
ミシェルは椅子にもたれた。
「俺に何をさせたい」
「アリア侯を説得しろ」
「自分で行け」
「私が言えば、教団がクラウディアを利用しようとしているように見える」
「実際そうだろ」
「お前が言えば、クラウディア軍の提案になる」
「教団の案を、俺の案として話せってことか」
「少し違う」
「何が違う」
「お前自身が良い案だと思ってから話せ」
「もっと悪質だな」
「お前は嘘が下手だ。納得していなければ、お姫ちゃんにはすぐ見抜かれる」
ミシェルは紙を指で叩いた。
「オーウェンには誰が話す」
「私だ」
「お前が?」
「サーハル家には祖父の代から付き合いのある司祭が多い。老家老とも話ができる」
「あの長い名乗りの爺さんか」
「彼は悪い方ではない」
「話が長すぎる」
「こちらも説教なら負けない」
「地獄みたいな会談だな」
「互いに話し続け、オーウェン公が折れるのを待つ」
「若殿が可哀想になってきた」
ヨハンは笑った。
「サーハル公は、教団の面目を守るために一歩引く」
「お姫ちゃんは、実利のために一歩引く」
「教団は、その間へ一歩入る」
「交互引きってわけか」
「どちらか一方だけを引かせれば、遺恨が残る」
ヨハンは卓の上で、左右の杯を少しずつ後ろへ動かした。
「クラウディアが一歩引けば、サーハルにも一歩引かせる。サーハルが譲れば、次はクラウディアにも譲らせる」
中央に、自分の酒瓶を置く。
「そのたび、教団が間へ入る」
「最終的に教団が真ん中を取るじゃないか」
「三方よしだ」
「それ、教団が一番よしだろ」
「運営者には手数料が必要だ」
ミシェルは、しばらく図を眺めていた。
悪くない。
いや、かなり良い。
クラウディアだけでは、帝国全土へ連絡する手段がない。
サーハル家だけでは、ライン王子へ近づけば身柄を奪う意図を疑われる。
教団だけでは、どちらか一方へ肩入れできない。
三者が少しずつ譲れば、誰も敗者にならず、全員が必要なものを得られる。
「ヨハン」
「何だ」
「お前、本当に信仰心がないのか」
「ない」
即答だった。
「でも、教団は守りたい」
「教団が好きなわけでもない」
「じゃあ何で」
ヨハンは酒場の奥を見た。
片隅では、教会の僧侶が避難民の子供へパンを分けている。
「使えるからだ」
「人を救うのに?」
「国を動かすのに」
「どっちだ」
「どちらでもよい」
ヨハンは穏やかに微笑んだ。
「救われた人間が、教団を必要とするなら、教団は力を持つ。その力で、さらに多くの人間を救える」
「綺麗にまとめたな」
「司祭だからな」
「生臭司祭のくせに」
「生臭いからこそ、飢えた者に魚を食わせられる」
ミシェルは吹き出した。
「分かったよ」
「何が」
「お姫ちゃんには俺から話す」
ヨハンは満足そうに杯を上げた。
「さすが将軍」
「その代わり、酒代はお前が払え」
「教団の経費にできるか確認しよう」
「今払え」
「神への寄進と思え」
「神はお前の飲み代を払わない」
「まだ分からんぞ」
◇
酒場を出た時には、夜も深くなっていた。
冷たい風を浴び、ミシェルはようやく頭が冴えてきた気がした。
「ミシェル」
背後から、ヨハンが呼ぶ。
「何だ」
「一つだけ気をつけろ」
「まだあるのか」
「この案が通れば、ライン殿下は教団とサーハル公の前で、自らの意思を示さなければならない」
「それが目的だろ」
「十一歳のソフィア殿ではない。帝国第四王子だ。皆、王子としての言葉を求める」
「だから?」
「本人が何を望んでいるかを、誰もまだ知らない」
ミシェルは黙った。
アリアはラインを旗にしようとしている。
オーウェンは王家を守ろうとしている。
教団は王子との関係を作ろうとしている。
自分は、その名で勤王の兵を募ろうとしている。
だが、その中心にいるライン自身が、何を望んでいるのか。
「王子が帝位を望まなかったら?」
ミシェルが尋ねた。
「その時は、別の三方よしを考える」
「お前、本当にしぶといな」
「教皇になろうという男が、一つの計画に人生を賭けるものか」
ヨハンは教会へ続く道へ歩き出した。
「明日の朝までに、アリア侯を説得してくれ」
「朝?」
「昼にはサーハル側へ使者を出す」
「俺、まだ二日酔いが治ってないんだけど」
「迎え酒を飲めばよい」
「司祭が勧めるな!」
ヨハンは片手を上げ、そのまま振り返らなかった。
酒と政治と神の名を、同じ口で語る生臭司祭。
だが、その背中を見ながら、ミシェルは思う。
剣で敵を斬る兄。
忠誠だけで主を守るリーフェル。
人の心を盤上へ置くアリア。
そして、信仰すら利益へ変えるヨハン。
クラウディアへ集まり始めた者たちは、誰もまともではない。
だからこそ、この崩れかけた帝国を動かせるのかもしれなかった。
ミシェルは、懐へヨハンの提案書をしまった。
「お姫ちゃん、今度は宗教屋まで拾うことになるぞ」
城の明かりを見上げる。




