第七話 王子の意思
翌朝。
クラウディア城の執務室には、酒の匂いが残っていた。
正確には、酒を飲んだ人間の匂いである。
ミシェル、机の前に立ちながら何度目かの欠伸を噛み殺した。
「遊撃将軍さんは、また飲んだのですか」
アリアが書類から目を上げる。
「迎え酒は薬だよ、お姫ちゃん」
「誰がお姫ちゃんですか」
「昨日もその話をしただろ」
「昨日から間違っているので、今日も訂正しています」
アリアの右後方に立つリーフェルが、冷たい目を向けた。
「姫さまの前で酒臭い息を吐くな」
「俺だって好きで臭わせてるわけじゃない」
「口を閉じれば済む」
「それだと作戦を説明できないだろ」
「紙に書け」
「字を読むと頭が痛い」
「存在そのものが不真面目だな、お前は」
窓際に立っていたタナトスが言った。
「兄貴にだけは言われたくない」
「俺は酒を飲まない」
「剣以外の楽しみがないだけだろ」
タナトスの紫色の目が細くなる。
ミシェルは一歩、アリアの側へ寄った。
「お姫ちゃん、兄貴が弟を斬ろうとしてる」
「リーフ」
「なぜ私が止めるのです」
「近衛だろ」
「姫さまへ危害が及ばない限り、兄弟喧嘩には関与しない」
「薄情者ばかりだな、この城は」
「話を始めてください」
アリアは机上の提案書に目線を落した。
蒼光神教団。
クラウディア領。
サーハル家。
三者が互いに一歩ずつ引き、その間を教団が取り持つ案。
「これは、あなたが考えたのですか」
アリアが尋ねた。
「半分は俺」
「残り半分は?」
「ヨハン」
リーフェルの眉が露骨に動いた。
「却下です」
「まだ内容を聞いてないだろ」
「あの生臭司祭が関わっている時点で、碌なものではない」
「そこは俺も否定しない」
「ならば、なぜ持ってきた」
「使えるからだよ」
ミシェルは机の上へ、三つの杯を置いた。
一つをアリア側。
一つをサーハル側。
もう一つを中央へ。
「お姫ちゃんは、ライン殿下を保護している」
クラウディア側の杯を指す。
「オーウェンは、王子が傀儡にされていないか確かめたい」
サーハル側。
「蒼光神教団は、どちらにも敵と思われたくない」
中央。
「それぞれが一歩ずつ引く」
ミシェルは左右の杯を少し下げた。
「その間に教団を入れる」
中央の杯を前へ進める。
「教団立会いのもとで、ライン殿下本人に意思を表明してもらう」
「教団を信用しろと?」
リーフェルの声音は冷たい。
「信用しなくていい」
「では、なぜ」
「利用する」
アリアが答えた。
ミシェルが笑う。
「さすがお姫ちゃん。話が早い」
「誰がお姫ちゃんですか」
「今そこか?」
アリアは提案書へ視線を戻した。
「教団の通信網を使えば、帝国各地へライン殿下の生存を知らせられる」
「ただし、勤王を直接呼びかけるわけではない」
ミシェルが続ける。
「教団は事実を伝えるだけ。王子が無事で、クラウディアにいる。その知らせを受けて兵を挙げるかどう
かは、各地の貴族や騎士の判断だ」
「責任を負わずに、こちらの檄文を広げると」
「ヨハンの得意技だ」
「胡散臭いな」
タナトスは窓の外を眺めた。城下には子供たちが学び舎に向っている。
「兄貴に言われたくないと思うぞ、あいつも」
「教団側の見返りは?」
アリアが尋ねる。
「城内に礼拝所と施療所を置く」
「認められません」
リーフェルが即答した。
「姫さまのお膝元へ教団を入れるなど」
「施療所には教団の印を掲げない」
ミシェルが言う。
「治療を受ける避難民に信仰は強制しない。ヨハンが本部を押し切るそうだ」
「信用できるのですか」
「野心は信用できる」
「信仰ではなく?」
「ヨハンが教皇になりたいって野心だ」
リーフェルは露骨に嫌そうな顔をした。
「最低ですね」
「だから使えるんだ」
ミシェルは肩をすくめる。
「善意だけで動く奴は、疲れたらいなくなる。野心で動く奴は、得がある限り働く」
「なるほど」
アリアは小さく頷いた。
「姫さま」
「リーフ。彼を好きになる必要はありません」
「なる予定もありません」
「働かせればよいのです」
アリアは提案書の一部へ指を置く。
「ただし、この案には大きな問題があります」
「ライン殿下だろ」
ミシェルが答える。
「ええ」
部屋の空気が少し変わった。
これまで誰もが、ラインを王子として見ていた。
帝国第四王子。
王家の正統性。
勤王の旗。
だが、彼は亡命してきたばかりの一人の青年でもある。
家族を失い、護衛を失い、国を追われた。
「殿下本人が何を望んでいるのか、私たちはまだ聞いていません」
アリアが言った。
「受け入れた時に聞かなかったのですか」
リーフェルが尋ねる。
「帝国を取り戻したいとは言いました」
「それが答えでは?」
「帝位を望むことと、帝国を取り戻したいことは同じではありません」
ミシェルは椅子へ腰を下ろした。
「ヨハンも同じことを言ってた」
「珍しく正しいですね」
「珍しくは余計だ」
「本人がいないところで庇うのですか」
「悪友だからな」
タナトスが腕を組んだ。
「聞けばよい」
「簡単に言いますね」
「答えなければ、答えるまで待つ」
「帝国は待ってくれません」
「だからといって、答えを作ってやるのか」
タナトスの言葉に、アリアは黙った。
彼の言う通りだった。
王子が迷っているからといって、周囲が望む答えを与えてしまえば、それは傀儡と変わらない。
しかし今のクラウディアに操れる傀儡かどうか。
「セトを呼びます」
アリアが言った。
「診察は必要です」
「医者まで入れるのか」
「判断できる状態か、確認してもらいます」
ミシェルが机へ突っ伏しそうになりながら笑った。
「王子一人に、領主、近衛、傭兵、将軍、医者、司祭、選帝侯か」
「何か問題が?」
「本人が逃げたくなる気持ちは分かる」
◇
ライン・ネーヤは、城の東塔に与えられた部屋にいた。
王族を迎える部屋としては、質素だった。
大きな寝台。
机。
暖炉。
窓から見えるのは、雪に覆われたクラウディアの町並みである。
ラインは窓辺に立ち、城下を見ていた。
避難民が倉庫から薪を運んでいる。
兵士が子供たちへ粥を配っている。
人間の隣でゴブリンが働き、遠くではワイバーン族らしき者が荷車を引いていた。
帝都ではまず見ない光景だった。
扉が叩かれる。
「どうぞ」
入ってきたのは、セト・バスジェナーレだった。
手には黒革と金属で作られた蒸気式の医療鞄。
「診察に来ました」
「私は病人ではない」
「病人は皆、最初にそう言います」
「王子への口の利き方ではないな」
「病状に身分はありません」
セトは椅子を一つ、ラインの前へ置いた。
「座ってください」
「命令か」
「診察です」
ラインは少し笑い、椅子へ座った。
「アリア侯に言われて来たのか」
「はい」
「私は正常か。それとも、政治判断に耐えないほど弱っているか。それを測りに?」
「概ね、その通りです」
「正直だな」
「嘘をつく必要がありません」
セトはラインの脈を測った。
「眠れていますか」
「眠っている」
「何時間」
「二、三時間ほど」
「食事は」
「口にしている」
「量は」
ラインは答えなかった。
「ほとんど食べていませんね」
「食欲がないだけだ」
「護衛が亡くなったことを考えていますか」
ラインの手が、わずかに動いた。
「診察に必要な質問か」
「必要です」
「医者は心まで診るのか」
「身体は心と別々には壊れません」
セトは脈から手を離した。
「あなたは疲労している。睡眠不足。軽い脱水。食欲不振」
「それだけか」
「罪悪感」
ラインの表情が止まった。
「何を根拠に」
「護衛の話をした時だけ、呼吸が変わりました」
「医師というのは、随分と無礼だな」
「政治家よりは控えめです」
セトは医療鞄から小さな瓶を出した。
「眠る前に飲んでください」
「眠り薬か」
「違います。身体を温め、呼吸を整える薬です」
「判断力を鈍らせるものではない?」
「そんなものを渡せば、アリア侯が利用すると思いますか」
「思わないと言えば嘘になる」
セトは瓶を机へ置いた。
「それなら、飲まなくて構いません」
「怒らないのか」
「患者が医師を信用しないのは、珍しいことではありません」
「私は患者ではない」
「では、食事を取り、眠り、顔色を戻してください」
「そうすれば王子に戻れると?」
セトは一瞬、ラインを見た。
「王子であることと、健康であることは関係ありません」
「皆、そうは思っていない」
「皆とは?」
「アリア侯。サーハル公。教団。帝国の貴族」
ラインは窓の外を見た。
「彼らが見ているのは、私ではない。王家の血だ」
「それは事実でしょう」
セトは否定しなかった。
「否定しないのか」
「王族の血に価値があるから、あなたは追われた」
「慰めにもならない」
「慰めるために来たのではありません」
セトは椅子へ座った。
「明日、あなたは自分の意思を問われます」
「聞いている」
「答えられますか」
「答えなければならない」
「質問が違います」
ラインがセトを見る。
「答えなければならないかではない。答えられるかです」
部屋の中に、暖炉の音だけが響いた。
ラインは長く黙った。
「分からない」
それは、王子らしくない答えだった。
「帝国を取り戻したい」
「はい」
「だが、皇帝になりたいとは思わない」
「それも答えです」
「皇帝にならずに帝国を取り戻せると思うか」
「私に聞くことではありません」
「医師は便利だな。答えたくない質問を専門外と言える」
「政治家になりたくない理由の一つです」
ラインは小さく笑った。
疲れた笑いだった。
「私は逃げた」
「はい」
「兄たちは死に、護衛も死んだ。私だけが生き残った」
「生き残ったことは罪ではありません」
「それを決めるのは誰だ」
「少なくとも、死んだ者ではない」
ラインの目が鋭くなる。
「分かったようなことを」
「分かりません」
セトは静かに答えた。
「私は家族を目の前で失ったことも、国を背負ったこともない」
「では、何が言える」
「判断を急がない方がよい、と」
「皆が待っている」
「待たせればよい」
「戦争になる」
「あなたが無理に答えを出しても、戦争にはなります」
ラインは黙った。
「ならば、せめて自分の言葉で始めるべきです」
セトは立ち上がる。
「明日の会談で、皇帝になるかどうかを決める必要はありません」
「それで皆が納得するか」
「納得しないでしょう」
「では意味がない」
「納得させるのは、あなたの役目ではありません」
セトは医療鞄を持ち上げた。
「あなたの役目は、今何を望み、何を望まないかを話すことです」
「望まないこと?」
「それなら、言いやすいでしょう」
ラインは考えた。
皇帝になりたいか。
分からない。
帝国を取り戻したいか。
取り戻したい。
では、何を望まないのか。
答えは、すぐに浮かんだ。
「誰かの旗にはなりたくない」
セトが扉の前で止まる。
「十分です」
「それだけで?」
「そこから始めればよい」
◇
城内の小礼拝堂では、ヨハン・ドーレスが祭壇の前に立っていた。
祈ってはいない。
祭壇に置かれた葡萄酒の瓶を見ている。
「それは儀式用です」
背後からリーフェルの声がした。
「知っています」
「なぜ手に取っているのです」
「品質を確認しようかと」
「戻せ」
ヨハンは素直に瓶を置いた。
「近衛殿は相変わらず厳しい」
「お前が相変わらず不真面目なのだ」
その後ろから、アリアとミシェルが入ってくる。
「来たか、お姫ちゃん」
「誰がお姫ちゃんですか」
「今日は訂正が早いな」
「毎日言わせないでください」
ヨハンは祭壇脇の長椅子へ腰を下ろした。
「提案は聞いたか」
「ええ」
「採用は?」
「条件付きで」
「条件とは」
「教団の施療所では、信仰を強制しない」
「承知している」
「亜人種を拒まない」
「当然だ」
「治療と引き換えに布教記録を取らない」
ヨハンの笑みが少し固まった。
「そこまで疑うか」
「あなたですから」
「信頼されていないな」
「信頼されるような行動をしてきましたか」
「ない」
「即答するな」
ミシェルが横から言った。
アリアは続ける。
「そして、ライン殿下の意思を教団の都合で解釈しない」
「私は事実を各地へ伝えるだけだ」
「どの事実を選ぶかで、意味は変わります」
ヨハンはアリアを見つめた。
しばらくして、笑みを消す。
「なるほど」
「何です」
「お前が少女だから、教団の老人どもは侮るだろう」
「でしょうね」
「損をするのは向こうだ」
ヨハンは立ち上がった。
「条件は飲む」
「随分と簡単ですね」
「今、教団が拒めば、サーハルにもクラウディアにも席を失う」
「教皇候補としては困る?」
「大いに」
「正直でよろしい」
「司祭は告解を尊ぶ」
「自分の告解だけは軽いですね」
ヨハンは肩をすくめる。
「それで、ライン殿下は何と」
「まだ聞いていません」
「明日、初めて聞くのか」
「ええ」
「準備した答えは?」
「ありません」
ヨハンは少し驚いた顔をした。
「お前なら、先に王子へ筋書きを渡すと思った」
「渡せば、サーハル公が懸念する傀儡になります」
「だが、王子が帝位を拒めば、お前の勤王策は崩れる」
「別の策を考えます」
ヨハンは楽しそうに笑った。
「良い」
「何がです」
「権力へ執着しながら、一つの筋書きには執着しない。政治家として扱いやすい」
「私を評価しないでください」
「侮辱ではない。評価だ」
リーフェルの目が鋭くなる。
「その言い方をする者が、また増えたな」
◇
翌朝。
クラウディア城の会議室には、三つの紋章が掲げられた。
翼を広げた大烏。
サーハル家の銀狼。
蒼光神教団の蒼星印。
卓の一方にはアリア、リーフェル、セト、ミシェル、ヨハン。
反対側にはオーウェンと家老のバルガス。
ヴォルフガングはオーウェンの影に立った。後ろの窓を遮るように。
タナトスは壁際に立ち、オーウェンの龍骨槍を見ている。
バルガスが立ち上がろうとした。
「それでは、神代より連綿と続く――」
「爺」
オーウェンが即座に止める。
「今日は客人が主役だ」
「では、客人を迎える由緒ある口上を」
「不要だ」
「わずか四半刻で」
「不要だ」
老家老は残念そうに座った。
ミシェルが小声で言う。
「短くなっても四半刻なのか」
「若い時より改善しています」
ヨハンが答えた。
扉が開く。
ライン・ネーヤが入ってきた。
まだ顔色はよくない。
だが、昨日より背筋は伸びていた。
全員が立ち上がる。
ラインは卓の中央へ進み、左右を見た。
「座ってくれ」
王子の言葉で、一同が着席する。
ラインだけは立ったままだった。
「私のために、随分と多くの者が集まったようだ」
誰も答えない。
「アリア侯は、私を保護した」
「はい」
「サーハル公は、私の安全を確認しに来た」
「その通りです」
「教団は、私の言葉を各地へ伝えるという」
ヨハンが穏やかに頭を下げる。
「殿下が望まれる範囲で」
「皆、私の意思を尊重すると言う」
ラインは一度、言葉を切った。
「ならば、最初に言っておく」
その視線が、アリアへ。
オーウェンへ。
ヨハンへ移る。
「私は、誰かの旗になるつもりはない」
会議室の空気が止まった。
リーフェルの目がアリアへ向く。
オーウェンの表情がわずかに動く。
ヨハンだけが、静かにラインを見ていた。
「帝位を拒否なさるのですか」
バルガスが尋ねる。
「まだ決めていない」
「では、何を」
ラインは卓上に置かれたネーヤ半島の地図を見る。
「帝国を取り戻したい」
「ならば、王家の旗を掲げるべきです」
オーウェンが言った。
「その旗の下へ、誰が集まる」
「王家に忠誠を持つ者です」
「王家が正しかったからか。それとも、王家だからか」
オーウェンは答えなかった。
ラインは続ける。
「私の父の帝国で、亜人種は虐げられた。教団は腐敗し、貴族は領地を奪い合った。反乱軍が生まれたの
は、全て敵の陰謀ではない」
雪男の老家老の顔が険しくなる。
「殿下、それは王家を貶めるお言葉」
「事実だ」
ラインの声は震えていなかった。
「王家の過ちを認めずに帝国を取り戻すなら、同じ戦争を繰り返す」
アリアは黙って聞いていた。
「では、どのような帝国を望まれるのです」
ヨハンが尋ねた。
「まだ分からない」
ラインは正直に答えた。
「だが、望まないものは分かる」
地図の中央へ手を置く。
「人間だけの帝国」
「神の名で異なる種族を殺す帝国」
「王家のために民が死ぬ帝国」
リーフェルの瞳が、ほんのわずかに揺れた。
ファイン族を滅ぼした教義。
彼女の失われた翼。
ラインはそれを知らない。
だが、言葉は彼女の傷へ届いていた。
「私は皇帝になるかもしれない」
ラインは言う。
「ならないかもしれない」
バルガスが身を乗り出す。
「それでは帝国が――」
「だが、王家の名を使って戦うなら、条件がある」
一同の視線が集まる。
「私の名を掲げる軍は、亜人種を同じ帝国臣民として扱うこと」
アリアの赤い目が細くなる。
「降伏した兵を虐殺しないこと」
タナトスが壁際で腕を組む。
「教団は、異なる信仰を敵としないこと」
ヨハンの笑みが消える。
「そして」
ラインはアリアとオーウェンを交互に見る。
「私の決定に従うのではなく、間違っている時は止めること」
ミシェルが小さく笑った。
「面倒な王子だな」
「ミシェル」
アリアが咎める。
「褒めてるよ、お姫ちゃん」
ラインの口元にも、少しだけ笑みが浮かんだ。
「以上が、今の私の意思だ」
「帝位については?」
オーウェンが尋ねる。
「二日で決められることではない」
「帝国には時間がありません」
「だから急いで、誤った皇帝を立てるのか」
オーウェンは黙った。
長い沈黙の後。
アリアが立ち上がった。
「クラウディア領は、その条件を受け入れます」
リーフェルが彼女を見る。
「姫さま」
「私たちの領地は、もともと亜人種との共存によって成り立っています」
アリアはラインへ頭を下げた。
「殿下が帝位を望むかどうかにかかわらず、クラウディアはあなたの安全を守ります」
「見返りなく?」
「貸しにはしておきます」
ラインが少し笑った。
「正直だな」
「返せる時に返してください」
次にオーウェンが立つ。
「サーハル家も、殿下の条件を受け入れます」
老家老が驚いた顔をする。
「殿下」
「爺。サーハル家は帝国の守護者だ」
「されど」
「帝国を守るとは、王家の面目だけを守ることではない」
ラインはオーウェンへ一礼した。
「ただし、オレが危険な道を選んだ時には、兄が止めてくれ」
「望むところだ」
ヨハンも立ち上がる。
「蒼光神教団を代表し――」
リーフェルが冷たい目を向ける。
「本当に代表できるのか」
「南方布教責任者として、できる範囲で」
「急に弱くなりましたね」
「政治的誠実さだ」
ヨハンは咳払いをした。
「教団は、殿下の御言葉を改変せず、各地の聖堂へ伝えます」
「異なる信仰を敵としない条件も?」
「伝えます」
「本部が反発するぞ」
ミシェルが言う。
「するだろうな」
「平気なのか」
「反発されなければ、改革とは呼ばない」
ヨハンは穏やかに微笑んだ。
「それに、教皇になるには敵が必要だ」
「やっぱり野心か」
「信仰と野心は両立する」
「お前、信仰心ないだろ」
「細かいことを言うな」
会議室に、わずかな笑いが生まれた。
帝位は決まらなかった。
皇帝も選ばれなかった。
だが、その日。
ライン・ネーヤは初めて、自分の名で条件を示した。
誰かに掲げられる旗ではなく。
自ら進む者として。
◇
会議の後、ヨハンは城の通信室へ向かった。
教団の印が押された書簡が、机の上へ並べられている。
宛先は帝国各地の聖堂、修道院、施療所。
文面の冒頭には、こう記されていた。
帝国第四王子ライン・ネーヤ殿下は、クラウディア領にて御無事である。
続いて、会議で語られた条件。
亜人種を帝国臣民として扱うこと。
降伏者を虐殺しないこと。
異なる信仰を敵としないこと。
王子自身が、帝位を即座に望んではいないこと。
ヨハンは筆を止めた。
「本当に、このまま送るのですか」
若い僧侶が尋ねる。
「何か問題が?」
「教団への批判とも受け取られます」
「受け取られるだろう」
「本部から処分を受けるかもしれません」
「その時は、南方の現実を報告しただけだと言う」
「通りますか」
「通らせる」
ヨハンは最後の書簡へ印を押した。
「司祭様は、殿下を皇帝にしたいのですか」
若い僧侶が尋ねる。
「分からない」
「では、なぜ」
「帝国に、選択肢が必要だからだ」
ヨハンは窓の外を見る。
雪の向こうに、サーハル軍の銀狼の旗が遠ざかっている。
城内では、クラウディア兵が予備隊へ食事を配っていた。
「選択肢が一つしかない時、人はそれを運命と呼ぶ」
ヨハンは笑った。
「二つ以上あれば、政治になる」
書簡を封じる。
「私は、運命より政治の方が好きだ」
その日の夕刻。
蒼光神教団の通信網を通じて、帝国第四王子生存の報が、ネーヤ半島各地へ放たれた。
それは勤王を命じる檄文ではなかった。
誰にも兵を挙げろとは書かれていない。
だが、知らせを受け取った者たちは、必ず考える。
帝国には、まだ王子がいる。
その王子は、従来とは異なる帝国を語った。
ならば。
自分は、どちら側に立つのか。
そして最初に動いたのは、貴族でも将軍でもなかった。
帝国北西部。
反乱軍に領地を奪われた、一人の老騎士だった。
彼は書簡を読み終えると、壁に掛けていた古い剣を取った。
「馬を出せ」
従者が驚いて顔を上げる。
「どちらへ」
老騎士は、雪に覆われた東の空を見た。
「クラウディアへ」




