8
ながい夜を過ごし、明け方近くになって眠りについたものの、ごく浅いものだった。
朝方の騒がしい時間帯。
鏡の中の私は、いつにもましてひどい顔で。
虫の這いずったような傷痕は、これでもかと存在を主張する。
――見たくはないのに。
消えてはいないか?
せめて目立たぬようになってはいないか。
そんな淡い期待はむしろ、目覚めた後の悪夢として毎朝私を苦しめた。
「いってっらっしゃい」
施設の方に見送られて玄関を出ると、頭上には憎らしいほどの朝日。通い慣れてしまった道で、良くないことばかりが浮かんでは消えて行く。
「渡良瀬さんの出身中学は?」
あの後、彼はそう訊ねてきた。不安が募る。考えていることが読めなかった。
戦うしかない……、か。
彼の言葉。その通りだと思う、だけど。
出来るのか――?
私に。
負け犬根性が染み着いた私に?
たった三年じゃないか。
その間、私が耐えればいいだけ。
大事にさえせずにいれば、根掘り葉掘り聞かれることもない。傷痕に触れず、好奇の目に晒されることもない。
簡単なことのはずだ。
ふふっ。
マスクの下で笑いが漏れる。
強がりか、自嘲か。
どれも違う。強いてこの笑いに名前をつけるとするならば。
それは、そう。きっと――、諦め。
雛坂の向こうに広がるのは、さらさら揺れる木々と早朝の薄い青。雲は少し厚くなって、夏のそれに近い。
なだらかな弧を描いた坂の上から校舎が顔を出し、歩みを進めるごとに姿を現してゆく。
正門を潜り、その巨大な体内へと。
胸ポケットに忍ばせてあるのは、小さな頃から肌身離さず持っているお守り。
お守りとは名ばかりで、木綿生地であつらえた粗末な手作りの小袋。
「大丈夫」
――平気だ。
竦むほどじゃない。
自分にそう言い聞かせ、靴箱の前へ歩みを進める。
……何もない。
拍子抜けするほど、何もなかった。
これで終わりとは思えないけれど、先のことを考える余裕なんてない。今日、明日を乗り切るだけで……。
教室で腰を落ち着かせると、猛烈な眠気に襲われる。
それは、夢だったのか。
意識の片隅に眠っていた記憶の断片。
私はトイレの扉を空けていた。
目の前には、クラスメイトがひとり。
中学生当時の制服を着ていた。
「ごめんね」
そのまま、背を向け足早に立ち去ってゆく。
何のことだろう?
彼女は積極的でなかった。
私が蔑まれている時には、眉を八の字にして、遠巻きに眺めていた。
同意を求められ、仕方なしに軽く笑う程度。
……罪悪感だ。
彼女は罪悪感に耐えられなくなって、私に赦しを乞うたんだ。
彼女は悪くない。
寄り添ってくれようとしたのだろう。
真実、それは優しさだったと思う。
私は勇気を出して彼女に声をかけた。
向けられたのは困ったような顔。
クラス中の見えない視線が集まる。
見物客のような。
対象は私ではなく、彼女の方だった。
「ごめん。トイレに行ってくる!」
耐えきれなくなった彼女は飛び出して行く。
ああ、そうだ。そんなこともあった。
あの時、私は悟ったんだ。
差し出された手に、縋ってはいけない。
握り返す私の手は、奈落へと引き摺り込むのだと。
夢うつつの中で、チクリと胸が痛む。
許容出来ないほどではないが、過去のことと割りきれるほど、寛容にもなれない。
その日は、昼前から翳り始めていた。
気温も高く、蒸し暑い。
予期していたのか、お弁当を開くと小さな保冷剤が添えてあった。
蓋を開くと、桜でんぶで彩られたご飯。
可愛らしい、鯉のぼりを模していた。
……もう、五月の終わりに差し掛かっているというのに。ついでに私は女子高校生なのに。
調理担当の方のおっちょこちょいは、今に始まったことじゃない。
許してあげよう。
心遣いは、素直にうれしい。
マスクを外し、有り難くいただく。おかずは、冷凍品ばかり。
遊び心に時間を掛けすぎたのだろう。
小さな心遣いを崩さないように、気を付けながら食べ進める。
ミートボールと鯉のぼりを残し、大半を食べ終わった時、金属の重い音が響いて、扉が開かれる。
彼は扉を後ろ手に閉め、そのまま歩いて――、いかない。
足を止め私を見上げた。
「ちょっと、いい?」
端的にしか発しない彼の言葉は、時に迷うことがある。
「食べながらでいいから」
私の隣を指差す。
昨日の今日で気まずさから、私は断ることが出来なかった。
二階へと続く階段を登り、私の一段下に腰を下ろす。
居心地が悪い。
昨日の件も勿論だが、マスクを外し素顔を見られてしまうことも。
さりげなく、右側に寄って死角に入る。
もう見られてるし今更ではあるけども、体の反応はコントロール出来ない。
彼は、黙々とお弁当を広げる。
「一組のリスト」
口の中に目いっぱい、白米を詰め込んで四つ折りに畳まれた一枚の紙を手渡してきた。
開くと男女三人の名前。
見覚えはない。
「君と同じ中学出身の生徒」
「調べたの?」
咀嚼しながら彼は頷く。
「一組の友達に頼んだ」
雛坂台高校の一年は三クラスあって、私たちは一年二組。正直顔も名前もうろ覚えで自信はないが、二組にも同じ中学出身者が一人居たはず。
――ひどいもんだな。
そんなに私は覚えていないのか。あの頃のこと。
「居たんだ……。友達」
口にした後で、しまったと思う。
過去の記憶にとらわれて、ずいぶん失礼な本音が出てしまった。
「――知人だった」
勢いよく振り返って、暫しの沈黙のあと彼は訂正した。




