7
不安は影のように私につきまとう。光が増せば増すほど、濃くはっきりと輪郭を成して。
考えが甘かったんだ。
現実から、目を逸らしていた。
世の中は、悪意に満ちているのに。
靄がかった思考は迷子のように堂々巡りし、鮮烈な赤が脳裏に焼き付いて離れてはくれない。
気付けば、正午を知らせるチャイムがなっていた。
食欲はなかったが、機械のように非常階段へ向かう。楽しげに会話しながら昼食をとるクラスメイトたち。そのなかに、ひとりで居座る勇気はなかった。
薄暗い廊下の突き当たり。昼休みの喧騒を背中に残しゆっくりと。
扉は少しだけ開いていた。
ドアノブを掴み押し開くと、いつもと同じように座り込む彼の姿。
――無性に腹が立った。
「あなた。誰かに言ったの?」
自分でも驚くほど抑揚のない声。
「約束、破ったんでしょう?」
振り返った顔に表情はない。昏い目がそこにあるだけ。
「破ってない。俺は誰にも言ってない」
「だったら、あなたがやったのね」
ティッシュに包んだ口紅を差し出す。
触れることも躊躇われる、醜悪な塊。
「口紅……?」
呟くように。しかし、それはすぐに風に流され掻き消えた。
「それが、どうしたの?」
「私の靴箱に置いてあった。あなたなんでしょう?」
彼は一瞬、驚いたように目を見開いたが顔を横に振る。
「知らない。俺じゃない」
「じゃあ、誰なの! あなた以外に……」
続く言葉が出なかった。
自分でも分かっている。証拠などなにもない。仮に彼が犯人だとしても認めるはずはないし、違っていたとしても誰がやったかなど答えられる訳がない。
信じたかっただけだ。
「ちょっとした悪ふざけだった」と「もうしない」そう言って欲しかった。でないと見えざる悪意は他に居て、今も私に向けられていることになる。それはとても恐ろしいものだ。
「――たとえば」
沈黙を破ったのは、彼の方だった。
「渡良瀬さんと同じ中学出身の生徒は何人居る?」
私が考えの外に追いやったもの。
「傷痕のことを知っている者は?」
まるで、見透かしたように彼は言葉を連ねる。逃がしてはくれなかった。
「先生には?」
首を振る。
「大袈裟にしたくないんだね」
私が口を開く前に彼が代弁した。
返す言葉が見当たらない。
終わったのではなくて、過去から地続きで現在へと繋がっている。
向き合いたくはなかった事実。
彼を完全に信じることは出来ない。
けれども、彼の言うことも否定できない。
雁字搦めに囚われて、何を信じればいいのか。
「戦うしかないよ……」
うっかりすれば、聞き逃してしまいそうな細い声で。
こういった手合いの奴らは、目敏く弱者の心理をついてくるから。
そう、聞こえた。
それきり、彼は黙りこくってしまう。
音のない非常階段で……。
五月の風はどこまでも爽やかに、私たちの間を駆け抜ける。
痛いほど虚しく。




