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恐る恐る顔を上げる。
彼は、眉間に深いしわを寄せていて。
「二度寝してしまって。本当にごめんなさい」
もういちど頭を下げる。
「そんなことより」
固い声。
「どうしたの。それ」
彼が指さした先――、私の足元。
白いワンピースの裾に茶色い染みが無数に。
それだけじゃない。髪もマスクも。全身ずぶ濡れでなんて情けない姿。
「今日は中止だね」
「……ごめんなさい」
繰り返し謝る。
私は何をやっているだろう。気乗りのしない約束だった。それでもこうやって、ここまで来たのに。
「風邪ひいちゃうから、急いだほうがいい。送ってゆくよ」
「ひとりで大丈夫だから」
どういうわけか休日に彼と約束をし、誕生日を理由にご馳走になることになった。
遅刻をしてしまい、急遽取りやめて彼に無駄な時間を浪費させてしまった。断り切れず、複雑な気持ちでここまで来てしまった。
すべて私の失態。
罪悪感もあった。その上、送ってもらうなど。
「いや、そうじゃなくて……」
彼は、晴れ間がのぞく空を見やって。
「あの家に帰りたくないんだ。まだ」
さしていた傘をたたみながら「これは、俺のわがまま」と呟く。
落ち着ける空間ではないのだろうか。彼にとっての自宅は。
もしかしたらアルバイトも、お金の為だけではないのかも知れない。
「日曜日は、父さんもいるし。俺が居るとケンカの原因になるんだよ」
この訴えを、私はどう受け取ればいいのか。今日この日も彼は家に居たくなくて――。それで。
「じゃあ。途中まで……」
駐輪場の自転車のハンドルは、彼が握ってくれた。
二人並んで歩き始める。
自転車を運ぶ彼に歩調を合わせ、ゆったりと。
取り留めのない会話。
雛坂台高校を突っ切り、雛坂まで。
雨上がりの雛坂は、いつもと違って見えた。赤や青。ねずみ色のカラフルな屋根がモザイク画のように広がり、この街を作り上げている。
梅雨時期の、わずかな晴れ間。
視線を空に移せば、地平線は霞がかり高層マンションやビルはまるで、空から逆さまに生えているかのよう。
「自転車で行こう。乗って」
彼は既にサドルに跨がり、ハンドルを握りしめていた。
「ダメだよ」そう言おうと……。
「誰も居ないから」
振り向いた彼は悪い顔で、微笑んで――。
何がそうさせたのか。
気がつけば、私は後ろに飛び乗っていた。
私たちを乗せた自転車はカラカラと軽い音を立てて、ゆっくり蛇行しながら降ってゆく。
鬱屈した毎日。
ままならない日々。
自分をひたすらに押し殺し、声にならない叫びがもう喉元まで。
きっと、彼も私も。
高校という、逃れられない箱の中に身を置きながら、馴染めずに居るもどかしさ。
何の武器も持たずに、見えない何かに抗い続けて。
非常階段のちいさな隙間で、窒息しそうな私たちは、あの場所でいまも必死にもがいている。
――いったい、それは誰のせい?
「もっと……」
声に応じて彼は、ブレーキを緩める。徐々に速度を増しながら。押し寄せるのは、むせ返るほど息苦しい六月の風。
怖いほどに加速してゆく私たち。
一瞬で流れゆく景色。
合わせて高鳴る鼓動。
限界だったのかも知れない。
積もり積もった、何もかもが。
「もっと……!」
彼の肩を握りしめながら、私はマスクを剥ぎ取って。
「もっと、行けえっ!」
すべてを背後に置きざりにするように。
呼び名の無い、閉じ込め続けたものを解放するように。
彼の頭越し。雨上がりの街並みに向かって。私は、心のままに叫んでいた。
第一章 了




