第7話:マズローの欲求と、招かれざる客
第7話:マズローの欲求と、招かれざる客
今日の座学は「心理学」。白衣に眼鏡をかけた、いかにも知的な講師が、黒板にピラミッドの図を書きながら穏やかに話し始めました。
「人間には五段階の欲求があります。まずは食欲や睡眠などの『生理的欲求』、次に身の安全を守る『安全の欲求』。これらが満たされて初めて、人は『所属と愛の欲求』を求めるようになるのです」
看護の場面では、苦痛を取り除くことが最優先。講師の言葉は理路整然としていましたが、僕の頭には別のことが渦巻いていました。
(生理的欲求、か……。健康な僕らにはピンとこないけど、今の僕を支配しているのは間違いなく『所属と愛の欲求』だ。エミさんに恋をして、秒速で失恋した。だけど、人を好きになるのは人間として当たり前の欲求じゃないのか!?)
エミさんは、僕のことをどう思っているんだろう。悶々とする僕の肩を、不意に誰かが叩きました。
「ねえねえ、タカシィ!一人暮らししてるんだって?」
声をかけてきたのは、クラスメイトのリサ。派手なメイクに明るい髪色、いかにも「遊び慣れてます」という空気を纏った彼女が、ぐいっと距離を詰めてきました。
「家、近いの?」
「……まあ、電車で一駅の駅近だけど」
「オッケー、ナイス! 明日土曜だし、みんなで家飲みしに行ってもいい? けど、期待すんなし?本当にみんなで宅飲みだけだからね!」
(期待……ハッ! もしかして、エミさんも来るのか!?)
期待に胸を膨らませ、チラリとエミさんの方を見ました。目が合い、声をかけようとしたその瞬間。
「あ、そういえばエミ、明日はバイトだよね?」
またしてもサオリさんです。彼女は僕を牽制するように、わざとらしいほど大きな声で続けました。
「毎週金土はバイトだもんねー。終わったらそのまま彼氏とデートかな?」
ズキッ、と胸の奥が痛みました。
(痛い……所属と愛の欲求が、粉々に砕けていく……)
エミさんも困ったように僕をチラリと見ましたが、僕は顔を上げることができませんでした。結局、エミさんのいない「リサたちグループ」との飲み会だけが決まってしまいました。
「じゃあ、後で酒持ってってやるから、九時に駅まで迎えに来いよ!」
リサたち女子四人とLIMEを交換しながら、僕は放心状態でした。今頃エミさんはバイトをして、その後に……。わかってはいたことだけど、想像するだけで意識が遠のきそうです。
夜。僕のワンルームマンションは、驚くほど綺麗に整頓されています。
万が一に備え、特攻服は実家に置き去り。地元の悪友たちとの写真も一枚もありません。ただ、便利だと思って持ってきた愛車「カワサキ・ゼファー750」だけは隠しようがありませんでしたが、今はカバーをかけて沈黙しています。
九時。約束通り、僕は駅の改札前で待っていました。
「おーい、タカシ!」
リサが三人の女子を引き連れてやってきます。……ですが。
「……え、サオリさん!?」
そこには、なぜか一番いてほしくない人物――サオリさんが、不機嫌そうな顔をして立っていました。
「……何よ。私が来ちゃ悪いわけ?」
「いや、そうじゃなくて……リサたちと一緒だったの?」
「たまたま会ったのよ! 放っておいたら、あんたがエミに報告できないような不純なことしそうだから、監視に来てあげたの!」
エミさんはいないのに、なぜか最強の刺客が僕の家へやってくる。
僕の「愛の欲求」は満たされないどころか、今夜、別の意味で限界を迎えそうな予感がしました。




