第26話:アセスメントの果てに
第26話:アセスメントの果てに
ゼファーの低く唸る排気音が、静寂を切り裂く。
学校前の急な坂道を、僕はサオリを背に乗せて駆け上がっていた。
視界の端に、慣れ親しんだ小さな後ろ姿が映る。エミだ。
だが、今の僕は迷うことなくギアを上げ、彼女を置き去りにした。
バックミラー越しに、エミが僕たちを、あるいは僕の背中に回されたサオリの腕を見つめるのが分かった。
サオリもまた、ヘルメット越しに彼女を冷ややかに見下ろしている。その視線が交差した瞬間、かつての「親友」という絆は、音を立てて崩れ去った。
駐輪場にバイクを放り投げ、ヘルメットを脱ぐ。鏡を見るまでもなく、自分の目つきが以前の鋭さを取り戻しているのが分かった。純朴な看護学生の皮を被り続ける気力は、もう一滴も残っていない。
遅れて教室に入ってきたエミの顔には、後悔ともどかしさが泥のように沈んでいた。彼女は僕と目が合うのを避けるように、足早に自分の席へ向かった。
昼休み、リサが不意に「席替え」を提案した。彼女の意図は明白だった。停滞したクラスの空気をかき回し、僕とエミの不自然な距離を物理的に引き離そうというのだ。
今回は細工も、イカサマもない。クジの結果、エミとの席は絶望的なほど離れた。そして偶然か、あるいは運命の皮肉か、僕の隣にはサオリが座ることになった。
サオリはもう、エミに話しかけようとはしない。挨拶すら交わさないその徹底した拒絶を、僕はどこか他人事のように眺めていた。
窓際の最後列。そこが僕の新しい居場所だった。
五階の最上階から見下ろす神戸の街並みは、暴力的なまでの輝きを放っている。太陽の光を反射してキラキラと踊る神戸港の海面が、今の僕にはひどく鬱陶しく、そして残酷に見えた。
午後の講義は「看護計画のアセスメント」だった。
提示された事例は、皮肉にも交通事故で救急搬送された高齢女性のものだ。頭部外傷と大腿骨頸部骨折。緊急手術を経て、現在は療養病棟にいるという。
グループワークが始まると、周囲からは優等生らしい意見が飛び交った。
「高血圧があるから日々のバイタルサイン測定は必須ね」
「清潔保持と感染予防も優先順位が高いわ」
サオリが僕を見つめ、優しく、そしてどこか勝ち誇ったように微笑む。その笑顔を見るたびに、僕は無意識にエミの笑顔を重ね、そして胸の奥が軋むのを感じた。諦めたはずなのに、サオリという存在そのものが、エミの不在を強調し続ける。
「タカシ、他には何かある?」
サオリの声に引き戻され、僕は資料に目を落とした。
「……入院から1ヶ月。リハビリの進捗は歩行器レベルだ。このまま自宅へ戻れるのか? 転院や施設入居を含めた退院調整が必要じゃないか。この患者が、病室を出た後にどこで、どう生きていくのかを考えるべきだ」
鬼軍曹の鋭い視線が僕を射抜いた。
「退院後の生活を見据えるのは良い視点ね。残された2ヶ月でどこまで機能を回復させられるかは、あなたたちの看護次第よ。医師やリハビリスタッフとカンファレンスを開き、日常生活動作の維持を検討しましょう」
アセスメントから課題を分析し、患者の未来をポジティブに構築していく。それが看護だ。
だが、今の僕にはその「未来」という言葉が空虚に響いた。
患者の人生を立て直そうと議論しながら、僕は自分自身の未来を、自らの手で粉々に叩き壊してしまったのだから。
「そうね……未来、考えなきゃね」
サオリが僕の手を、机の下で強く握りしめた。
その熱は確かにあるのに、僕の心の空洞を埋めるには、あまりにも冷たすぎた。




