第25話:空洞を埋める温もり
第25話:空洞を埋める温もり
駅に着いたというサオリからのLIMEが通知音を鳴らしたが、スマートフォンの画面を指でなぞる気力さえ湧かなかった。
液晶が放つ無機質な光が、今の僕には眩しすぎた。既読をつけたまま放置された画面は、数秒後、静かに闇へと沈んでいった。
数分後、夜の静寂を切り裂くように、アパートの階段を駆け上がる足音が聞こえてきた。迷いのない、一直線な足音。ガチャリとドアノブが回る。僕は鍵をかけていなかった。
明かりもつけず、ただベッドの端に腰掛け、暗闇の中で自分の呼吸の音だけを数えていた。
パッと、蛍光灯が暴力的なまでの明るさで部屋を照らした。
「うわぁっ!! ……なによ、いたなら返事くらいしなさいよ!」
サオリの驚愕の声が響いた。だが、僕が力なく顔を上げた瞬間、彼女の言葉は凍りついたように止まった。
幽霊のように生気を失った僕の瞳。そこには、言葉にするまでもない絶望が張り付いていた。
サオリは鋭い洞察力を持つ。僕が何も語らずとも、これがエミとの間に起きた決定的な「何か」の結末であることは、痛いほど察していたはずだ。
しかし、サオリはそこに触れなかった。いつもなら飛んでくるはずの毒舌も、エミへの執着をなじる言葉も、今は一言も発せられない。
彼女はただ、ゆっくりと僕のそばに歩み寄り、静かに告げた。
「ねえ……来たわよ」
「あ……うん」
絞り出した僕の声は、自分でも驚くほど掠れていた。サオリは小さく息を吐くと、僕の隣に腰を下ろした。彼女からは石鹸の清らかな香りがした。
ここに来る前に、すべての汚れを落としてきたかのように。
サオリの手が僕の肩に触れる。彼女は迷うことなく僕を押し倒し、唇を重ねてきた。僕は抵抗しなかった。
拒絶する理由も、受け入れる理由も、今の僕にはどちらも持ち合わせていなかった。
ただ、今の自分の中に広がる巨大な空洞を、自分以外の誰かの体温で埋めてしまいたかった。
彼女が僕のブラウスに手をかけ、上着を脱がせたとき、その動きがわずかに止まった。
僕の上着からは、夜の風に混じったオイルの匂い……そして、それとは別の、甘く繊細なフレグランスの香りが漂っていた。エミの香りだ。つい先ほどまで、僕の背中にしがみついていた彼女の残り香。
サオリはわずかに目を細め、その匂いを肺の奥まで吸い込むように、僕の胸元に深く顔を埋めた。彼女は何も聞かなかった。どんな真実を聞くよりも、今この瞬間に僕の肌に触れているという事実だけを、彼女は選び取ったようだった。
僕たちは言葉を捨てた。服を脱ぎ捨て、お互いの肌の熱だけを確認し合う。サオリの細い腕が僕の背中に回る。その感触を確かめながら、僕は以前彼女に言われた言葉を思い出していた。
(好きな人と、特別なことができるなんて思わないことね……)
皮肉なものだ。誰でもよかったと言えば、サオリに対してあまりに失礼だろう。だが、完璧にエミを忘れ去るためには、僕は他人の温もりに縋り、自分を摩耗させるしかなかったのだ。
窓の外が白み始め、朝の気配が部屋に忍び込んできた。
鏡に映る自分の顔は、かつての「純朴な看護学生」の仮面が剥がれ落ち、ひどく荒んだヤンキー時代のそれに戻っているように見えた。
「行くわよ」
「ああ」
交わした言葉はそれだけだった。
僕は申請していたバイク通学の許可を使い、駐輪場でゼファーのエンジンをかけた。ドウルン、という重低音が朝の冷たい空気を震わせる。
後ろに跨るサオリの腕には、昨日まで感じていたエミの柔らかな感触はない。代わりに、僕のすべてを許容し、逃がさないという強い執着がこもっていた。
校門をくぐり、実習室の前にバイクを停める。周囲の生徒たちが、バイクで登校してきた僕たちを物珍しそうに、あるいは疑いの眼差しで見ているのが分かった。だが、今の僕にはそんな視線はどうでもよかった。
心の傷になるほどの失恋は、吐き出すことも、言葉にすることもできない。
僕はただ、サオリという深い闇の中に自分を沈め、その温もりに甘え続けることを選んだ。それが彼女を「穴埋め」に使うという残酷な行為だと自覚しながら。




