第3話 禁域という名の入口
北へ向かうにつれ、景色は徐々に変わっていった。
木々はまばらになり、土の色は灰に近づく。風は冷たく、どこか乾いていた。
――生き物の気配が、薄い。
「典型的な“禁域”の兆候ですね」
エルドが淡々と告げる。
「生命活動の低下、魔力の偏在、そして――」
「人がいない」
セレスティアが静かに言った。
「はい。通常、人は“ここに居てはいけない”と本能的に判断します」
「なるほど」
セレスティアは頷く。
「では、正しい場所ですね」
「結論がおかしい」
反射的にエルドが突っ込んだ。
だがセレスティアは気にした様子もなく、前方を見据えている。
その横顔は、やはり美しかった。
荒れた景色の中で、そこだけが別の世界のように整っている。
「空気が違いますね」
「魔力濃度が異常に高いです」
リゼットが短く報告する。
「視界も歪んでいます。結界、あるいはそれに類する何かかと」
「結界ですか」
セレスティアは一歩踏み出す。
その瞬間、空間がわずかに軋んだ。
見えない壁に触れたような、そんな違和感。
「……ここですね」
「お嬢様」
リゼットが声をかける。
「内部の構造は不明です。侵入は危険かと」
「危険、ですか」
セレスティアは少しだけ考えた。
「どの程度でしょう?」
「推定不能です。ただし――」
一瞬、間を置く。
「これまでの事例から、常識は通用しないと判断します」
「それは困りましたね」
セレスティアは小さく息をつく。
「常識がないと、判断基準が曖昧になります」
「今まで常識を基準にしていたのですか?」
エルドが思わず聞き返した。
「ええ、一応は」
さらりと返される。
エルドは黙った。
それ以上の追及は無意味だと知っている。
「では」
セレスティアは剣の柄に手をかけた。
「入ってみましょうか」
「“入る”というより“壊す”のでは?」
「いえ、今回は丁寧に」
そう言って、彼女は一歩前に出る。
見えない壁に、そっと触れるように剣を当てた。
「……失礼します」
次の瞬間。
音もなく、空間が裂けた。
ガラスのように、世界の一部がひび割れ、崩れ落ちる。
その向こうに、別の“何か”が広がっていた。
「……結界を、斬りましたか」
エルドが呟く。
「通れるようになりましたね」
セレスティアは満足げに頷く。
まるで扉を開けただけのような軽さだった。
「お嬢様」
「はい、リゼット?」
「内部、視認できません」
裂け目の向こうは、黒に近い灰色で満たされていた。
空間そのものが曖昧で、距離感が狂う。
「では、確認しましょう」
セレスティアは迷いなく踏み込んだ。
次の瞬間。
景色が変わる。
空はなく、地面も曖昧で、上下の感覚すら揺らぐ。
それでも、セレスティアは動じない。
「不思議な場所ですね」
「空間が固定されていません」
エルドが周囲を見渡す。
「通常の物理法則が適用されていない可能性があります」
「なるほど」
セレスティアは軽く頷く。
「では、壊れやすいかもしれませんね」
「発想が逆です」
エルドのツッコミは、もはや習慣だった。
「何か、来ます」
リゼットが低く告げた。
次の瞬間。
“それ”は現れた。
人の形をしているが、明らかに人ではない。
輪郭が揺らぎ、顔らしき部分は判別できない。
ただ、そこに“存在している”だけで空間が軋む。
「……侵入者」
声ともノイズともつかない音が、直接脳に響いた。
「ここは、禁域」
「立ち入りを、許可しない」
セレスティアは一歩前に出る。
「失礼します」
丁寧に一礼する。
「少しお聞きしたいことがありまして」
“それ”は沈黙した。
理解できていないのか、あるいは――
「あなたは」
ゆっくりと、言葉が形を持つ。
「何だ」
セレスティアは首をかしげた。
「旅人、でしょうか?」
エルドが小さく天を仰ぐ。
(この状況でそれを名乗りますか)
「……違う」
“それ”の声が低くなる。
「お前は、“異常”だ」
「そうなのですか?」
心底不思議そうな顔だった。
そのやり取りの最中にも、空間の歪みは増していく。
“それ”の存在自体が、この場所のルールを体現しているかのようだった。
「排除する」
次の瞬間。
空間が歪み、見えない圧力が三人を押し潰そうとする。
だが。
「――あ」
セレスティアが、小さく声を漏らした。
その瞳が、わずかに輝く。
「もしかして」
剣に手をかける。
「あなたが、この場所の“神様”ですか?」
空気が、止まった。
“それ”の動きが、一瞬だけ鈍る。
「……違う」
だが、すぐに否定が返る。
「私は、ただの管理者」
「管理者」
セレスティアはその言葉を繰り返した。
「では、その上にいらっしゃるのですね」
嬉しそうに微笑む。
「よかったです」
剣を、ゆっくりと抜く。
「それなら、安心して試せます」
“それ”が、初めて明確な敵意を示した。
「何を――」
「少しだけです」
セレスティアは、変わらぬ丁寧さで言う。
「斬れるかどうか、確認するだけですので」
そして。
剣が、振られた。
次の瞬間。
“管理者”は、消えていた。
痕跡すら残さず、完全に断ち切られて。
空間の歪みが、一気に収束する。
「……弱いですね」
セレスティアは首をかしげた。
「これでは、参考になりません」
エルドは、何も言えなかった。
リゼットは、静かに周囲を確認する。
「反応、ありません」
「そうですか」
セレスティアは剣を収める。
「では、先に進みましょう」
その言葉は、あまりにも自然だった。
まるで道に落ちていた石を避けた程度の認識。
だが。
(今、何を斬った)
エルドの思考が、ようやく追いつく。
あれは“管理者”と言った。
この空間の、維持装置の一部。
つまり――
「……セレスティア様」
「はい?」
「今のは」
言葉を選ぶ。
だが、結論は一つしかない。
「世界の一部だった可能性があります」
セレスティアは、少しだけ考えた後、
いつものように微笑んだ。
「では、少し壊れてしまいましたね」
軽い調子で言う。
「……ええ、“少し”どころではありませんが」
エルドの呟きは、やはり届かない。
三人は、さらに奥へと進む。
禁域の、さらに深くへ。
その先にあるものを求めて。
――本物の“神”を。




