第15話 運命という仮説
王城の書庫は、静かだった。
高い天井まで届く本棚に、無数の書物が整然と並ぶ。古い紙の匂いと、わずかな埃の気配。外界から切り離された、思考のための空間。
「……“運命”に関する記述は、概ね三系統に分かれます」
エルドが一冊の古書を閉じながら言った。
「一つ、未来は既に定まっているとする決定論。二つ、無数の可能性が同時に存在するとする多分岐論。三つ、観測や意思によって結果が確定する観測論」
「なるほど」
セレスティアは頷く。
机に広げられた図表を、興味深そうに見つめる。
「どれが正しいのでしょう?」
「証明はされていません」
エルドは肩をすくめた。
「どの理論も、一定の整合性はありますが……決定打に欠けます」
「つまり」
セレスティアは、図の線を指でなぞる。
「まだ“確定していない”のですね」
「……そうなります」
「では」
一拍。
「確認できますね」
エルドは目を閉じた。
(来ましたね)
リゼットは静かに周囲を警戒しながら、一歩後ろに下がる。
この距離が、安全圏である保証はどこにもない。
だが、意味はある。
「お嬢様」
「はい?」
「対象の定義を」
リゼットの問いは、端的だった。
「“運命”とは何を指すと仮定されますか」
「そうですね」
セレスティアは少しだけ考える。
「“結果が決まっている状態”でしょうか」
「決定論の前提ですね」
エルドが補足する。
「はい」
セレスティアは頷く。
「では、その“決まっている”部分を」
ゆっくりと、剣に手をかける。
「分けてみましょう」
静かな言葉。
だが、意味は重い。
「分ける、ですか」
「はい」
セレスティアは穏やかに微笑む。
「斬る、というよりは」
一拍。
「“分離する”方が近いかもしれません」
エルドは、思考を切り替えた。
(“対象の再定義”……)
この方は、いつもそうだ。
斬ること自体が目的ではない。
斬ることで、“何が成立するか”を確認している。
「……準備はよろしいですか」
リゼットが低く問う。
「はい」
セレスティアは頷く。
そして。
ゆっくりと、剣を抜いた。
刃は、光を反射しない。
ただ、そこに“ある”だけ。
その存在が、周囲の空気をわずかに歪める。
「では」
セレスティアは目を閉じる。
集中。
対象は、目に見えない。
だが、確かに“ある”。
――選択の瞬間。
未来へと収束する分岐点。
「……ここですね」
小さく呟く。
エルドの背筋が、凍る。
(“位置”を特定した……?)
「失礼します」
いつもの一礼。
そして。
剣が、振られる。
音はない。
衝撃もない。
だが。
“選択”が、ずれた。
「……?」
エルドが顔を上げる。
違和感。
ほんのわずかな、確率の変化。
あり得るはずの未来が、消えている。
「今のは……」
リゼットが低く呟く。
「分岐が、減少しています」
「はい」
セレスティアは、目を開けた。
「少しだけ、分かりました」
その瞳には、明確な“理解”があった。
「“運命”というのは」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「決まっているのではなく」
一拍。
「収束しているだけですね」
沈黙。
エルドは、完全に言葉を失った。
理論が、書き換えられる。
目の前で。
「では」
セレスティアは、再び構える。
「収束の途中を」
ほんのわずかに、笑みを浮かべる。
「切り分ければ」
その動作は、変わらない。
優雅で、正確で。
そして――
不可逆的だった。
剣が、振られる。
その瞬間。
“未来”が、分かれた。
同時に存在していた可能性が、意図的に切断される。
選ばれるはずだった結果が、別の方向へと逸れる。
「……!」
エルドが息を呑む。
「結果が……変わっている……」
「はい」
セレスティアは穏やかに答える。
「少しだけ、ずらしてみました」
その言葉は、あまりにも軽い。
だが。
その意味は、決定的だった。
“運命”は。
変えられる。
いや。
“斬れる”。
「……理解不能」
エルドは、呟くしかなかった。
リゼットは、静かに頷く。
そして。
セレスティアは。
「もう少しで、完全に分かりそうですね」
嬉しそうに言った。
その笑顔は、やはり美しく。
やはり穏やかで。
そして――
世界にとっては、致命的だった。
その日。
ひとつの仮説が、証明された。
――運命は、斬れる。
ただし。
それを“選択できる者”がいる場合に限る。




