9. 証の水晶花
「あの、皆さんはどうしておれに良くしてくれるんですか? わざわざ迷宮まで助けに来てくれたりして……。自分で言うのもなんですが、おれはそんなに価値のある人間ではないです」
肩を落としながらそう言うと、ソファの上に胡座を掻いたフォルスと、テーブル脇に控えていたアイーダは顔を見合わせた。
アイーダはジト目でフォルスを見下ろし、くいっと顎で何やら促す。
対するフォルスは苦々しげに彼女を睨み返していたが、すぐに屈して開き直った。
ディーノには分からない攻防が繰り広げられていたようである。
「迷宮でも言ったが、昨日の俺はちょっと、その、正気ではなかったのだ。だからほら、お詫びというか、罪滅ぼしをだな」
「ハッキリ言いなさい。酔っていたんです、と」
「酔った勢いで追い返しました! ごめんなさい!」
涙目で謝罪するフォルス。見た目が子供なだけに、なんだか可哀相に思えてきた。
彼の言葉になるほどと納得しかけたディーノだが、それでもまだどこか、うまく噛み合わないような気がする。
その程度のことで? と思ってしまうのだ。
以前のディーノならすんなりと信じていただろう。それができないのは、ほんのひと月とは言え、誹りや嘲りの視線を浴び続け、慣れてしまったからなのか。
たぶん――。
(人が好いんだろうな。この人達)
キャイキャイと言い合っている彼らを見て、ディーノは胸の奥がほんのり温かくなるのを感じた。
「酔ってたって、お酒にですか?」
「うむ。酒と言えば酒と言える」
微妙な言い方だ。だんだん慣れてきたディーノは、アイーダに視線で問う。
「聖酒だよ」
「聖酒? って、あの聖酒ですか?」
「そう。その聖酒」
ディーノは驚いたというより不可解で無言になった。
五聖教会が配る聖酒は、ディーノも口にしたことがある。創造神である女神の神像が掲げた壺から湧き出るそれには、女神の恩恵が宿っているとされ、新年の祝いで子供から老人にまで振る舞われるのが一般的だ。
飲めば一時的にだが女神の加護が得られると言われ、戦士が欠かさず持ち歩く物の一つである。
魔物に追い詰められたが、ギリギリのところで攻撃が弱点に当たって勝てたとか。
迷宮内で食料が尽きて死にそうになったが、ギリギリのところで別のクランに助けられたとか。
仲間内で喧嘩になり、同士討ちが始まりかけたが、ギリギリのところで解決策が見つかって事なきを得たとか。
いずれもギリギリな状況の上、一部アウトに片足突っ込んでいるような実例もあるが、偶然か否かこうして救われた者も多く、聖酒を信奉する戦士は結構いる。
だが成分上はただの水。アルコールは一切入っていない。酔うはずがないのである。
「えっと、お酒と思い込んで飲んだとか?」
「ううん。違うよ。マスターは聖酒で酔える稀有なカラダなの」
ディーノはちょっと反応に困った。
「それは、その、すごい特技ですね」
「正直にザンネンだって言っていいよ。うちじゃ聖酒は仕入れてないんだけど、どこからか手に入れて気づいたら酔ってるんだから。気を使う必要ないの」
「だって、好きなんじゃあ! 堪らんのじゃあ! 本物の酒には手をつけてないのだから、いいじゃろ!」
イヤイヤと駄々をこねる姿は、先ほど大勢を圧倒した人と同一人物とは思えない。別の人格だと言われたら信じるかもしれない。ついつい呆れた眼差しを送ってしまうディーノだった。アイーダに至っては、蔑みの色が見え隠れ。完全無視のジーンが優しく思える。
けれど、二人の間にはやはり深い親しみを感じる。だからこその遠慮のない態度なのだろう。でなければ、フォルスを侮辱した例の男に対し、武器を抜くほどの怒りは向けない。
「ま、こんなんだけど、これがうちのマスター。これでもまだうちに入りたい気持ちはある? ディーノくん」
「はい、あります。……えっ?」
唐突な質問にもかかわらず、反射的に答えていた。そのことに、誰よりもディーノ本人がびっくりする。
思わず口を開いたまま唖然とする彼に、アイーダは可笑しそうに笑った。
「あははっ。気持ちのいい即答だね。さすがに予想してなかったよ」
「えっと、その……」
おれもです、と小さく呟く。頬が少し熱い。こんなにハッキリと自分の意志を誰かに伝えるのは、本当に久しぶりのことだった。
しかし、すぐに体に緊張が漲る。
入団できるか否かはマスターであるフォルスの意思にかかっているからだ。
膝に置いた拳に力を込めて彼を見つめる。唾を呑みたいのを我慢すると、喉の奥がクッと鳴った。
アイーダやジーンまでもが、一人の発言を待っているのが分かった。
そうして数十秒経った頃、フォルスがふっと肩から力を抜いた。
「ま、いいじゃろ。入団を認めよう。しぶといヤツは嫌いではない」
「…………っ!」
張り詰めていた空気が、たわんと緩んだ。
熱いものが胸の奥から込み上げ、ディーノの視界を滲ませる。おめでとう、と自分のことのように喜んでくれるアイーダの声が、これが夢や聞き間違いではなく現実なのだと教えてくれる。
ディーノは両目から大粒の涙を零しながら、がばあっとテーブル越しにフォルスに詰め寄った。ぎょっとして半身を反らされたが、気にすることはない。
「でっ、でも、おれ弱いんですよ! すっごく弱いんです! 迷宮1階だって満足にクリアできないくらいなんですっ。こんなんじゃ皆さんのあ、足手まといに……っ」
「ちょ、落ち着け。泣くほどのことか。妙なヤツじゃな」
「あはは、それくらい嬉しいってことでしょ。いいじゃない、喜んでくれてんだから」
机の上にはもう涙の湖が出来上がっている。
確かにこれは喜びの感情以外の何物でもなさそうだ。
フォルスはえぐえぐとしゃくりを上げるディーノをむすっとした顔で見つめ、口を開く。
「まずお前が弱いということだがな、それはどうでもいい。ここに居続けるなら、嫌でも強くなるからな」
「ど、どういう意味ですか?」
「そのうち分かる。強いに越したことはないが、それ以上に大事なのは死なないことだ。たとえ勝てない相手と戦うことになっても、生き残ればそれでいい。お前が勝てない魔物は、勝てるヤツが倒すだろうさ。ま、実行するのは言うほど簡単ではないがな。……その点、今日のお前はよう頑張った。俺たちが行くまで生き延びたこと。お前を認める理由としては十分だ」
ディーノはゆっくりと瞬きする。その拍子にまた一粒、雫が落ちる。
――死ななくてよかった。心からそう思った。
真剣な眼差しを向ける彼に、フォルスは三本の指を突きつける。
「次に当クランの掟を教える。一つ、犯罪に手を染めぬこと。一つ、仲間の危機を見過ごさぬこと。一つ、さっき言ったように、死なぬこと。とりあえずこの三つを守れ」
犯罪を犯さないこと。
仲間を助けること。
死なないこと。
胸に刻みこみ、力強く頷く。
「よろしい」
フォルスはにやりと笑い、五本全ての指を開き、掌を上へ向ける。
――一体何だろう?
不思議そうなディーノに見せつけるように、フォルスの掌に蒼い燐光が集まった。
「!」
光は次第に形を変え、蒼く透き通った水晶の花を咲かせる。いくつもの花弁が折り重なり、中央には一際濃い蒼の水晶玉。拳に隠れてしまうくらいの小ささだが、まるで本物の花のように精巧な作りだ。
屋敷前のロータリーに咲いている花と似ている気がする。
「これは……?」
「〈千年氷柱〉のメンバーである証だ。俺の魔力が宿っておる。いざという時、これがお前を守るだろう。自由に加工なりして、外に行くときは必ず持て」
ディーノはゆっくりと、しかし躊躇わずにそれを受け取った。
触れた瞬間、寒々とした魔力が水晶花から這い上がってきた。ぶるりと震えが走る。
迷宮案内所で見せたのも氷の術だったし、フォルスは氷属性の魔道士なのかもしれない。
いや。人間ですらないのかも。
それでも構わない。怖くもない。ようやく居場所を見つけた高揚感が、ディーノの心を補強していた。
「ああ、そうそう。守ると言っても身代わりになってくれるわけではないぞ。しぶとく生き残る努力を怠るな」
人は脆いからのう。
そう言って、フォルスは酷薄な笑みを浮かべた。
――なんとなく察した。彼の本意を。笑みに隠れた気遣いを。
恐ろしければ、引き返せ。
そう言いたいのだ。
だからディーノは笑い返し、いや、笑い飛ばした。
「もちろんです。絶対に強くなって、たくさん魔物を倒します!」
「よく言った、ディーノくん!」
直後、アイーダの逞しい腕ががっしと首をロックする。
「ぐえっ」
「だーいじょうぶ! あたしがバッチシ鍛えたげるからね。すぐ強くなれるよ!」
「それはやめた方がいい。アイーダに任せると、危険な方向に成長しかねない」
「ああん? 何よ、ジーン。方向音痴のあんたが方向性を語るわけ?」
「? 俺は方向音痴ではない。しかし新人教育において、お前は確実に方向音痴だ」
「……すっごい腹立つんですけど」
「あの……ぐ、ぐるじ……」
アイーダが静かに怒気をたぎらせると、ディーノの首に回した腕にも力が篭もる。必死でバンバンと腕を叩くが、怒りで視野が狭くなった彼女にディーノの苦しみは伝わらない。
「うっしゃ、分かった。喧嘩売ってんだね? 買ってやろうじゃないの。表出ろ脳筋!」
「脳筋はお前だ、と言っておこう」
アイーダの挑発にジーンは余裕を持って立ち上がり、傍らの剣を担ぐ。迷宮1階で見た時よりもはるかに高い闘志が、彼の全身を包んでいる。アイーダもそうだ。肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべ、低く腰を落として完全に獲物を狙う姿勢。
思い出されるのは、ダスティ・スライムと大骸骨を葬った破壊力抜群の一撃。
――やばい。このままじゃ屋敷が壊れる。
どさくさに紛れて解放されたディーンは、救いを求めて二人を止められる人物――フォルスを振り返る。
「って、寝てるぅぅ!?」
お行儀よく揃えた足に両手を置き、こっくりこっくりと舟を漕いでいるのだった。
「ちょっ! 起きてください、フォルスさんっ。あの人たちを止められるの、あなたしかいないんですよっ」
「うむぅ……喧嘩するなら……街の外でな……」
「そういう問題じゃなーい! 起きて、お願い! フォルスさん――マスターっ!」
――舞台はトラン王国首都グラムウェル。
五人の勇者が女神より授かった神器で魔物の軍勢を退けて後、実に1000年。
この日、最強集団と名高い〈千年氷柱〉に、新たに小さな水晶の花が咲いたのだった。
第一話 少年戦士の水晶花 (終)