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狼の生贄 -伊豆高原殺人事件-  作者: 青木 地平
26/32

始動

警察庁

「いよいよ来たな!」と警察庁長官の太田は言った。

「はい」と側近が答える。

「よし、すぐに静岡県警に対し早急に捜査方針を変更し、態勢を立て直して真犯人逮捕に向け全力を挙げるよう命じるんだ!」

「はっ!、かしこまりました」


静岡県警察本部

 「うん…。どうやらその時が来たようだな。よし、捜査をしたくて仕方がない所轄の連中を呼び戻せ!。新聞によると独自捜査をしていた者がいたそうじゃないか。今となっては頼もしい限りだ。うん、児玉だったか、あいつが署内では一番切れると言われているらしいからな、多分そいつだろう。フッ…あいつは我々にとって都合の悪い証拠もしっかり掴んでくれたしな…。たしか今はその証拠のリークの件で処分保留だが署内で冷や飯を食わされているはずだ。うん…、構わんそいつを捜査の最前に出せ!」と本部長の山岡は力を込めて言った。

「はっ!、ただちに伊東にある捜査本部に命じます」とすかさず側近の山谷刑事部長が応じた。


静岡県警伊豆東警察署

「やっと、うちらの出番ですか。倉庫整理のあいつらもやっと日の目を見れますね。これまでさんざん冷や飯を食わされてきましたから…」と松平は待ちくたびれたというように言った。

「ああ、まあ、良かったんじゃないか。このままだったら奴ら、警察ここにいられなかったんだし」と署長の大木は他人事のように呑気に話す。

「まあ、元々がひどい話ですがね」と松平は大木の反応に半ば呆れながら「警務課の倉庫係にも伝えてきます」と言った。

「ああ、そうしてくれ」と大木はあくまで呑気だ。


伊豆東署警務課倉庫

 「おお、頑張ってやってるな。どうだ捗ってるか?」といつになく陽気な声で今日も倉庫整理にいそしむ左遷組の二人に刑事課長の松平は声をかけた。

「あっ、課長、今日は何ですか?。冷やかしなら休み時間にお願いしますよ。それとも手伝ってくれるんですか?。まさか課長もここに配属ですか?」と丸山が冗談半分にそれでいてブスッとした表情で応じる。

「そうだな、たまには俺もこんなところに配属されてもいいかもな。もっとも一日だけならな。それ以上はごめんだ」と言った後、松平は急に厳しい顔つきになり威儀を正して直立し、「いまから辞令を言い渡す。二人とも整列!」と大声で号令をかけた。

 それまで緩慢な動きをしていた二人は何かに弾かれたように、即座に松平の前に整列し、直立不動の気をつけの姿勢をとる。

「児玉修司警部補並びに丸山辰雄巡査部長の両名は本日付で伊豆東署刑事課に復帰し、伊豆高原殺人事件の捜査に加わるよう命ずる。以上!」

児玉の全身に電流が走った。そして反射的にキッと敬礼をし、

「はっ、承知いたしました。本日から、捜査に復帰いたします」と張りのある声で応えた。丸山も敬礼をし「右に同じです」と神妙な面持ちで言う。

「うん、頼むぞ!。そこでだ、おまえらが捜査に復帰するに当たって今までどう行動し、どのような情報を掴んできたのか包み隠さず話してもらいたい」と今度は厳しい表情を一転させ松平は笑みをたたえた柔和な顔つきで話しかけてきた。

 二人は、初めは少し戸惑ったが、捜査に復帰できるなら問題はないだろうと、これまでのいきさつを正直に全て松平に話した。

 話を聞き終えた松平は「よし、分かった。準備を整えて、30分後に捜査本部に出頭せよ」とだけ言い残しすぐに捜査本部のある3階の講堂に戻っていった。

再び倉庫は二人だけになった。ここに左遷されて約2週間、いい加減家族にも大体の事情を悟られ白い目で見られ始めていた二人はようやく捜査に復帰できることになった。その気持ちの楽さからか今となってはここの静寂も結構心地いいものに変わっている。

「やりましたね!」

「ああ、形勢逆転だな!。これからは一気にいきたいな」

「ですよね‼︎。これまで散々な目に遭わされてますから」


東京地検特捜部

「村田が事件について話したいと言っている」と笹田特捜部長は上川に言った。

「談合事件についてですか?」

「いや、それが伊豆高原での殺人事件だというんだ」

「伊豆高原?」

「どうも官邸の意向らしい…」

「官邸の?」

「中国側も陳麗華が伊豆高原殺人事件での被害者ではないかと疑い始めたらしく外交ルートを通じて正式に日本政府に対しこの事件について真相究明するよう強く迫っているというんだ」

「なるほど…、事件について話したいというこの村田の動きは宮坂政権が中国との関係を重視した結果だと…」

「ああ、そういうことだ。そして、このことは日本政府が伊豆高原殺人事件を解決すべく舵を切ったということを端的に示すものだ」


伊豆東署捜査本部

 児玉と丸山が捜査本部のある講堂に入っていったとき、周囲から万雷の拍手を浴びて迎えられた。例えは悪いがまるでヤクザの出所祝いのようである。その拍手の渦の中には途中で別れた磯崎達もいた。児玉はその姿を認め、

「おう、磯崎、おまえらも復帰したか?」と児玉は陽気に声をかけた。

「ええ、もう左遷捜査はごめんですよ」と磯崎も声を弾ませ陽気に応える。

 程なく、松平伊豆東署刑事課長と中島県警捜査一課長が講堂内に入ってきて、壇上に上がる。すると、忘れかけていたピリピリした空気が捜査本部のある講堂を支配し私語がピタッと止んだ。その瞬間、児玉は第一線に復帰した喜びを覚え胸が高鳴った。待ちに待ったこの瞬間…、『あゝ、懐かしいこの緊張感が心地いい…』。児玉は心底そう思った。

 松平課長が「捜査会議を始める」と厳粛な雰囲気を醸しながら言う。久しぶりの本格的な捜査会議である。皆これまでの会議で見せていた緩慢な顔つきではなく、やる気を帯びた精悍な顔つきに変わっている。

 松平が口を開き、「本件、伊豆高原殺人事件は、当初、被害女性の身元が被害男性の元愛人と断定されたことから、これまで、過去の怨恨の線で捜査してきたが捜査本部がこれまで得た種々の情報から判断するに遺憾ながらそうではない可能性が高まってきた。各種の捜査情報から分析するに被害女性は被害男性の職務上のパートナーであった中国籍の陳麗華なる人物である可能性が濃厚となった。よってこれからは抜本的に捜査方針・捜査態勢を見直し、一から捜査を立て直す」と言い切った。

 場内が少しざわめく。そこへ…一人の係官が伝言を伝えるべく扉から首を突き出した。松平が「構わん入れ」と言って手招きする。係官が松平の耳元で何やら囁く。「うん、うん」と松平が頷いた。そしてマイクを握り、「児玉、丸山、おまえらは署長のところへ行け」と言った。

「あっ、はい」

「何か話があるそうだ」

「分かりました」

 二人はざわめく捜査本部を後にし一階にある署長室に向かう。そして署長室に着くとドアをノックした。

「児玉と丸山です」

「おう、入れ」と中から声が返ってくる。少し声が弾んでいた。

「失礼します」と児玉は言って中に入り、それに丸山が会釈をして続く。

「うん、元気そうだな。倉庫整理でだいぶ体力がついたんじゃないか」と署長の大木はいきなり皮肉を言ってきた。

それに動じることなくにこやかに「ええ、おかげさまで、この歳でだいぶ体力がつきました」と児玉も返す。大木は思わず苦笑した。

「うん、まあそれはさておきだ、おまえらに呼び出しがかかってな」

「えっ、呼び出し?。どこからですか?」

「驚くなよ。東京地検特捜部だ」

「特捜部からですか…?」と児玉は言い一瞬あっけにとられる。

「ああ、そうだ。おまえら、村田孝一前経産大臣が特捜部に逮捕されたことは知っているな?」

「あ、はい」

「その村田前大臣が伊豆高原殺人事件について供述する用意があると言ってきているんだ。おそらく何か関係があるんだな…。うん、そこでだ、君らはこれから東京地検まで出向きその事情聴取を行なってきてもらいたい。残念ながらと言うべきか…、とにかく県警内では村田関与というか小林園関与の線で捜査していたのは君ら以外におらんのでな…。それに何と言っても向こうからの、天下の東京地検特捜部様からの御指名だ。うん…、おまえらその特捜部の検事と組んで何かやっていたらしいな?」と言って大木は横目で二人を睨んだ。

「え、いや、それは…」

「まあ、いい、これまでのことは全て不問に付す。これからは何も躊躇することはない。持てる知識・能力を最大限使って事件解決に当たってくれ」と大木は言った。

「はっ、承知いたしました。捜査に全力を挙げます」と児玉と丸山も声を揃えて応える。

「あ、それと署長、自分は陳麗華、正確には彼女が日本国内で使用していた偽名、『水嶋麗子』と記された名刺を所持しているのですが、その名刺に付いているであろう水嶋麗子の指紋と被害女性の指紋とを照合したいのですが…」と児玉が急に思い出して言った。

「うん、分かった。遺体の情報もこの捜査本部に集中させている。行きがけに鑑識へ寄って…、いや、俺が持っていこう。おまえらはとにかくすぐ東京地検に向かうんだ」

「はっ、分かりました。ではすみませんがこちらを…」と言って児玉は名刺を署長に手渡す。

「うん、分かった。では行ってきてくれ。聴取の成功を祈っている」

「はっ、ご期待に添えるよう全力を挙げます。失礼いたします」と児玉は言って丸山を伴い署長室を出た。


 二人は『それにしても…、これまでのことは一言もなく、署長は少しムシがいい』と一瞬思ったが、そこは下っ端の悲しい性で他でもない児玉らにとっては雲の上の存在とも言える『警視』の階級で、しかも捜査本部長でもある大木署長から直々に指令・激励されたことでこれまでのことは情けないかな結構きれいに忘れてしまい、それどころか新たに勢いを得て伊豆東署を後にしたのだった。

無論児玉も自身が警察人生を絶たれそうになったにも拘らず何も言えず、少しお人好し…いや、結構情けないとも思ったが同じ宮仕えの身として署長の立場上の苦しさも理解できなくもないと思えた…。このことも『結構きれいに忘れてしまう』ことに少なからず貢献したのだった…。

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