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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第八十六夜 枝一本

第八十六夜 枝一本


 第三決闘場は、学院北庭の奥にあった。


 石造りの低い観覧席に囲まれた、楕円形の広場。


 地面は固く締められた砂で、中央には白い線が引かれている。


 周囲には、古い木々が立っていた。


 学院が建つ前からそこにあったのか、それとも学院と共に植えられたものなのか、リシアには分からない。


 ただ、どの木も大きく、静かだった。


 人の争いなど、何度も見てきたような顔で立っている。


 第二鐘の少し前。


 観覧席には、学院長府が許可した者だけが入っていた。


 学院長府の立会人。


 王家儀礼局代理官。


 記録官。


 ジークフリート側の関係者。


 ラディム・クライン側の立会人。


 そして、リシアたち。


 一般学生の観覧は認められていない。


 それでも、遠い回廊や上階の窓には、人の気配がある。


 見えない場所から、学院全体が息を潜めているようだった。


 リシアは、指定された観覧席に座っていた。


 隣にステファニア。


 少し離れてアリシア。


 セラは背後に立つ。


 クラウディアは、記録官席の近くにいる。


 あまりにも自然にそこにいて、誰も疑問を持っていないように見えた。


 それが少し怖い。


 ステファニアは、前を見ていた。


 昨日、アインに言われた通りに。


 アインを見るのではなく。


 相手を見る。


 誰が、どの名で、どこまで来たか。


 そのための場だ。


 リシアも、同じように相手側を見た。


 ラディム・クライン。


 ノルベルト・サイラス。


 エドヴィン・ライヒ。


 ベルト・ハーゲン。


 ソフィアン・メルク。


 ユスト・カーレン。


 六名。


 全員が学院規定の模擬剣を携えている。


 木剣ではない。


 刃は潰され、魔力反応も抑えられているが、形は剣だった。


 それぞれが防護具をつけている。


 胸当て。


 腕当て。


 首元を守る高い襟。


 学院規律に沿った、正式な模擬決闘装備。


 リシアには、それが少し重く見えた。


 彼らは遊びに来たのではない。


 少なくとも、本人たちはそう思っている。


 王家名誉。


 自由意思。


 外部影響。


 ファーランド。


 彼らは、その言葉を掲げてここに立っている。


 そして、その言葉の重さに、自分たちが耐えられると思っている。


 ジークフリートは、観覧席の別枠に座っていた。


 アルヴィン、オスカー、ミリア、イレーネも近くにいる。


 ジークフリートの表情は硬い。


 昨日よりも、さらに硬い。


 この場を望んでいない。


 けれど、目を逸らしていない。


 それだけは分かった。


 学院長府立会人が、中央へ進み出る。


 記録符が三つ、場の端で淡く光った。


「本件は、学院規律第七十二条に基づく名誉争議処理である」


 声が、決闘場に響く。


「争点は、王家名誉確認要求に伴う人格的信用および家門関与の公開確認要求の非礼性。形式は模擬決闘。殺傷を禁ずる。勝敗は、降参、制圧、審判停止、または争点撤回により判定する」


 淡々としている。


 だからこそ、逃げ場がない。


 言葉が、全部記録になる。


「申立人側、ラディム・クライン殿以下六名」


 六人が礼をする。


「被申立側代理人、アイン・ジ・アークライト・ベルカ殿」


 その名が置かれた瞬間、決闘場の空気が少し変わった。


 アイン・ジ・アークライト・ベルカ。


 昨日も聞いた。


 けれど、こうして学院長府立会人の声で読み上げられると、また違う。


 アイン。


 アークライト。


 ベルカ。


 その三つが、一つの名として、王家儀礼局と学院長府の記録に載る。


 ラディムたちの表情にも、わずかな揺れがあった。


 リシアは、その揺れを見た。


 名は、ただの音ではない。


 誰の前で、どの場で、どう置かれるかで重さが変わる。


 アインは、決闘場の入口から歩いてきた。


 防護具はない。


 礼装でもない。


 学院内でいつも着ている、動きやすい服。


 腰に剣も下げていない。


 手には何も持っていない。


 ラディム側の一人が、小さく息を呑む。


 侮辱と受け取ったのかもしれない。


 油断と見たのかもしれない。


 立会人が眉をひそめた。


「代理人アイン殿。得物の選択を」


「いらない」


 即答だった。


 決闘場の空気が、少し揺れる。


 ラディムが顔を上げた。


「それは、こちらへの侮辱ですか」


「違う」


 アインは、相手を見ていない。


 決闘場の端に立つ古い木を見ていた。


 幹の太い木だった。


 枝は高く広がり、葉は朝の光を受けて薄く光っている。


 アインは、そちらへ歩いた。


 誰も止めない。


 止める理由がない。


 リシアは、息を詰めて見ていた。


 何をするのだろう。


 アインは木の下で足を止める。


 見上げる。


 ほんの少しだけ、口元が動いた。


 声は、ほとんど聞こえなかった。


 けれど、リシアには分かった気がした。


 少し借りる。


 そう言ったように見えた。


 風はなかった。


 枝葉は揺れていない。


 それなのに。


 ぱき、と小さな音がした。


 一本の枝が、上から落ちてきた。


 まっすぐではない。


 乱暴に折れたのでもない。


 まるで、手渡されるように。


 長さは、四十センチほど。


 太すぎず、細すぎず、握ればそのまま短い木剣になる。


 アインは、それを受け取るように拾った。


 軽く振る。


 重さを確かめる。


「これでいい」


 決闘場が、静まり返った。


 偶然ではない。


 リシアには、そう見えた。


 木が枝を落としたのではない。


 枝が、呼ばれて降りたように見えた。


 アリシアが、観覧席で微笑む。


「相変わらず、好かれていらっしゃいますこと」


 クラウディアが、記録官席の近くで淡々と言った。


「周辺精霊反応、微弱上昇。記録しました」


 アインが、ちらりとそちらを見る。


「記録するな」


「既に」


 リシアは、場違いにも少し笑いそうになった。


 だが、すぐに表情を戻す。


 ラディム側は笑っていない。


 怒っている者もいる。


 困惑している者もいる。


 ノルベルト・サイラスだけは、笑みを保っていた。


 だが、その笑みの奥が少し硬い。


 アインが枝一本を持って中央へ戻る。


 立会人は、しばらく黙っていた。


 それから、確認する。


「その枝を、得物として登録しますか」


「ああ」


「殺傷性は」


「俺が殺す気なら、何でも同じだ」


 立会人の顔が、少し引きつった。


 クラウディアがすぐに補足する。


「殺傷禁止規定は理解しています。殿下は遵守します」


「最初からそう言え」


「殿下が余計なことを仰るからです」


 アインは、面倒そうに枝を肩へ乗せた。


 アリシアは楽しそうだった。


 リシアは、隣のステファニアを見た。


 ステファニアは、相手側を見ている。


 アインではなく。


 言われた通りに。


 ラディムたち六名を。


 リシアも、そちらを見た。


 枝一本を侮辱と受け取った者。


 意味が分からず苛立つ者。


 顔色を変えないようにしている者。


 ノルベルトのように、笑みを残しながら計算している者。


 全員が違う。


 同じ署名を置いた。


 同じ争点へ立った。


 けれど、同じ顔ではない。


 それを見るための場なのだ。


 リシアは、ようやく分かった。


     ◇


 開始前の確認が終わると、観覧席の空気がさらに張り詰めた。


 ラディム側六名が、白線の向こうに並ぶ。


 全員が剣を抜いた。


 模擬剣の鈍い光が、朝の空気に並ぶ。


 対するアインは、枝を片手に持っているだけだった。


 あまりにも軽い。


 あまりにも自然。


 その軽さが、逆に怖い。


 リシアは、気づけば低く言っていた。


「やれ」


 自分の声とは思えないほど低かった。


 隣でステファニアが、わずかに目を見開く。


 だが、否定しなかった。


 アリシアは、笑顔のまま扇を持ち上げた。


 そして、首を刈るような仕草をした。


 その所作がどれほど非礼かを、この場で一番よく知っているのは、おそらく彼女自身だった。


 ステファニアが、深くため息をつく。


「……やれ」


 クラウディアが、記録官席の近くで片手を額に当てた。


 しばらく黙る。


 そして、諦めたように言った。


「……やれ」


 セラだけが、真面目に頷いた。


「はい」


「セラは行かなくていいです」


 ステファニアが即座に言った。


「承知しました」


 セラは素直に引いた。


 リシアは、今度こそ少し笑ってしまいそうになった。


 だが、立会人の声が場を戻す。


「双方、構え」


 六名が構える。


 ラディムは正面。


 左右に二名ずつ。


 ノルベルトは少し後ろ。


 ユスト・カーレンがさらに外側へ回る。


 囲むつもりだ。


 六名で一名を相手にする以上、当然の形。


 卑怯ではない。


 本人署名を置いた同一争点者六名として、認められた形だ。


 だが、形を取った瞬間、リシアには別のものにも見えた。


 一つの旗の下に立った者たちが、実際には別々の距離を取っている。


 中心に立つ者。


 支える者。


 様子を見る者。


 逃げ道を残す者。


 六名は、もう同じではない。


 アインは構えなかった。


 枝を、右手で軽く持つ。


 左手は下げたまま。


 足も、ほとんど自然に立っている。


 ラディムの眉が動いた。


「構えないのですか」


「構えてる」


 アインは答えた。


 ラディムには分からなかったようだ。


 リシアにも、分からない。


 けれど、アリシアは分かっている顔だった。


 ステファニアも、何かを見ようとしている。


 ジークフリートは、硬い顔で黙っている。


「開始」


 立会人の声が落ちた。


 最初に動いたのは、左右の二名だった。


 正面のラディムではない。


 両側から距離を詰め、アインの退路を削る。


 同時に、後方のノルベルトが少し下がる。


 見ている。


 まずは測るつもりだ。


 アインは、動かなかった。


 いや。


 動いた。


 ほんの少し。


 右足の向きが変わる。


 枝の先が、朝の光を受けて一瞬だけ細く光った。


 左から来た剣が、空を切る。


 アインの枝が、剣の腹に触れた。


 打ったようには見えない。


 ただ、置いた。


 その瞬間、剣の向きがずれた。


 左の学生の手首が流れ、隣の進路を塞ぐ。


 右から来た学生が、一瞬だけ足を止めた。


 その足元へ、アインの枝が入る。


 すねを打たない。


 足首も狙わない。


 ただ、踏み込みの先に枝を置く。


 右の学生は、自分の勢いで足を取られた。


 膝が砂につく。


 一人目。


 リシアは、息を呑んだ。


 倒した、というより。


 倒れる場所に、先に枝があった。


 アインは、もうそこにいない。


 ラディムが正面から踏み込む。


 剣筋は素直だった。


 悪くない。


 まっすぐで、訓練の跡がある。


 アインは枝で受けない。


 半歩だけ外れる。


 ラディムの剣が、アインの肩口を通り過ぎる。


 その瞬間、枝の端がラディムの鍔元に触れた。


 軽い音。


 剣が跳ね上がる。


 ラディムの両手が、一瞬だけ空になる。


 アインは、柄尻を押した。


 剣はラディムの手から離れ、砂の上へ落ちる。


 二人目。


 ラディムは、目を見開いた。


 だが、すぐに拾おうとする。


 アインは拾わせなかった。


 枝の先が、ラディムの喉元で止まる。


 触れてはいない。


 だが、動けば当たる距離だった。


「まだ終わりじゃない」


 アインが言う。


 枝先が離れる。


 ラディムは、動けない。


 降参ではない。


 だが、前へ出る資格を一度失った。


 その隙に、別の二名が来る。


 エドヴィン・ライヒとベルト・ハーゲン。


 二人は、連携していた。


 片方が上段。


 もう片方が胴。


 学院の模擬決闘としては十分に鋭い。


 だが、アインの前では、二本の線にしか見えなかった。


 枝が上へ跳ねる。


 上段の剣の軌道が少しだけ変わる。


 変わった剣が、胴を狙った剣の上を塞ぐ。


 二人の剣が、軽くぶつかった。


 音。


 その音が終わる前に、アインは二人の間へ入っていた。


 枝の端が、片方の肘裏へ触れる。


 もう片方の膝の外へ、足が置かれる。


 力ではない。


 角度。


 流れ。


 自分たちの動きが、自分たちの邪魔になる。


 二人が同時に崩れた。


 三人目。


 四人目。


 観覧席のどこかで、誰かが息を呑む。


 リシアも、息をしていなかった。


 速いのではない。


 いや、速い。


 けれど、それだけではない。


 相手が動こうとした先に、もう答えが置かれている。


 だから、動いた瞬間に負ける。


 残ったのは、ノルベルトとユストだった。


 ユスト・カーレンは、ここで初めて顔色を変えた。


 自分の役割が、逃げ道を押さえることだったからだろう。


 だが、押さえるべき逃げ道がない。


 アインは、逃げていない。


 ただ、そこに立っている。


 ノルベルトは、笑みを消した。


 ようやく。


 リシアは、そこを見た。


 彼は、ここまで計算している顔を保っていた。


 だが、今、その顔が消えた。


 予想の範囲を越えたのだ。


「続けるか」


 アインが問う。


 ノルベルトは答えない。


 代わりに、剣を構え直した。


 ユストも、それに合わせる。


 二人で来る。


 ラディムは、まだ動けない。


 剣は砂の上。


 喉元に枝を置かれた記憶が、身体を止めている。


 ノルベルトが先に動いた。


 意外なほど、剣筋は綺麗だった。


 ただの口先の人間ではない。


 リシアは、そう思った。


 アインも、ほんの少しだけ目を細めた。


 枝が初めて、はっきり音を立てた。


 ぱん、と乾いた音。


 ノルベルトの剣の腹が打たれる。


 剣先が下がる。


 そこへ、ユストが入る。


 挟むつもりだった。


 だが、アインはノルベルトの剣を下げたまま、その剣身を踏んだ。


 ノルベルトが動けなくなる。


 ユストの剣が迫る。


 アインは、枝を持ち替えた。


 短い。


 四十センチほどの枝が、急にもっと短く見えた。


 懐へ入る。


 ユストの剣は長い。


 長いから、近すぎる。


 枝の端が、ユストの手首に触れる。


 次の瞬間、模擬剣が落ちた。


 五人目。


 アインは、踏んでいた剣から足を離す。


 ノルベルトが剣を引こうとした。


 その動きに合わせて、枝が喉元へ伸びる。


 ノルベルトの喉元で止まった。


 触れない。


 だが、言葉が止まる距離。


 六人目。


 立会人が、手を上げる。


「制圧。被申立側代理人の勝ち」


 決闘場は、しばらく無音だった。


 あまりにも早かった。


 あまりにも静かだった。


 六名は生きている。


 怪我も、ほとんどない。


 だが、全員が動けない形で止められていた。


 剣を落とした者。


 膝をついた者。


 自分の剣に動きを封じられた者。


 喉元に枝を置かれた者。


 それぞれが、自分の署名した争点の重さを、その身体で受け取っていた。


 アインは、最後にラディムの前へ戻った。


 ラディムは、まだ砂の上の剣を見ている。


 拾えない。


 拾わないのではない。


 拾えない。


 アインは、枝先をラディムの喉元へ置いた。


 今度も触れない。


 だが、誰にも見える。


 ここで終わりだ、と。


「名誉は、誰かを引きずり出すための紐じゃない」


 アインは静かに言った。


「自分で持て」


 ラディムは、何も言えなかった。


 言い返す言葉を失ったのではない。


 自分の名で立つことの意味を、初めて身体で理解したように見えた。


     ◇


 観覧席で、ステファニアはずっと相手を見ていた。


 アインではなく。


 ラディムを。


 ノルベルトを。


 六名それぞれを。


 誰が最初に動いたか。


 誰が最後まで顔を保とうとしたか。


 誰が剣を落とした瞬間、怒ったか。


 誰が、ほっとしたか。


 リシアも、見ていた。


 アインの動きに目を奪われそうになるたび、ステファニアの横顔を見て、相手へ視線を戻した。


 それが今日の役目だった。


 勝つかどうかを見る場ではない。


 誰がどの名で立ち、負けた時に何を見せるかを見る場。


 ラディムは、膝をつかなかった。


 ただ、剣を拾えなかった。


 ノルベルトは、笑みを戻そうとして、戻せなかった。


 ユストは、落とした剣を見たまま唇を噛んでいる。


 エドヴィンとベルトは、互いの剣がぶつかった瞬間を何度も思い返しているようだった。


 ソフィアンは、胸当ての上から自分の呼吸を押さえていた。


 六人とも、違った。


 同じ旗の下に立った者たちが、同じ負け方をしなかった。


 そのことが、リシアには妙に重く感じられた。


 立会人が、記録符へ向かって結果を読み上げる。


「名誉争議、模擬決闘形式。被申立側代理人、アイン・ジ・アークライト・ベルカ殿の勝利。申立人側六名、制圧により敗北。争点に関し、ステファニア・レーヴェンハイト様およびファーランド大公家関係者に対し、公開確認を求める根拠は認められない」


 言葉が置かれる。


 一つずつ。


 少なくとも今日、この場では。


 ステファニアは、証明台へ上げられなかった。


 ファーランドは、曖昧な範囲で呼び出されなかった。


 六名は、自分の名で立ち、自分の名で負けた。


 その事実だけは、記録に残った。


 アインは、枝を見た。


 少しだけ考える。


 それから、決闘場の端の古木へ歩いた。


 木の根元に、枝をそっと置く。


「助かった」


 小さな声だった。


 リシアには、かろうじて聞こえた。


 風が、少しだけ吹いた。


 今度は本当に、葉が揺れた。


 アリシアが、観覧席で静かに微笑む。


 クラウディアが、また何かを記録しようとして、アインに見られた。


「記録するな」


「既に」


「二度目だぞ」


「二度目も既に」


 アインは、諦めたように息を吐いた。


 リシアは、今度は少し笑った。


 ステファニアも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 笑えるほど軽い話ではない。


 けれど、笑わなければ息が詰まる。


 そういう時もある。


     ◇


 決闘場を出る前、ジークフリートがアインの前へ来た。


 ラディムたち六名は、学院長府の指示で別室へ移されている。


 記録確認と、争点撤回文の整理。


 それから、今後の発言制限。


 まだ処理は続く。


 ジークフリートは、しばらく言葉を探していた。


 アインは待った。


 急かさない。


「礼を言うべきなのだろうな」


 ジークフリートが言った。


 声は、苦かった。


「だが、私が礼を言うこと自体が、また何かを混ぜる気がする」


「なら言うな」


 アインは即答した。


 ジークフリートは、少しだけ目を見開いた。


 それから、苦く笑った。


「あなたは、本当に」


「何だ」


「いや」


 ジークフリートは首を振る。


「今は、記録だけを残す」


「そうしろ」


 短い。


 けれど、リシアには分かった。


 ジークフリートは、礼を言わなかった。


 言いたかったのに、言わなかった。


 それもまた、今の彼にできる整理だった。


 ステファニアは、それを見ていた。


 何も言わない。


 ただ、見ていた。


 アインが言った通りに。


 相手を。


 誰が、どの名で、どこまで来たか。


 そして、どこで止まったか。


     ◇


 貸与邸へ戻る道で、リシアは空を見上げた。


 学院の空は、いつも通りだった。


 高く、淡く、何も知らないような顔をしている。


 だが、今日のリシアには少し違って見えた。


 名誉争議は終わった。


 けれど、旗の根はまだ残っている。


 そして、アリシアはきっと、もう次を見ている。


 リシアは隣を歩くステファニアを見た。


「ステファニア様」


「はい」


「相手を、見られましたか」


 ステファニアは少しだけ考えた。


「はい」


 そして、静かに言った。


「殿下を見るより、痛かったです」


 リシアは、胸が詰まった。


 それでも、ステファニアは続ける。


「ですが、見るべきものだったと思います」


「はい」


 リシアは頷いた。


 見届けるとは、勝利を見ることではない。


 相手の名前を見ることだ。


 自分の名をどこへ置いたのか。


 負けた時、その名をどう扱うのか。


 そこまで見ることだ。


 前方で、アインが歩いている。


 手にはもう枝はない。


 ただ、何も持たずに歩いている。


 その背中は、いつもと変わらない。


 けれど、リシアには少しだけ違って見えた。


 この世界のどこかに、彼を覚えているものがある。


 古い木が、枝一本を差し出すほどに。


 今日、目の前で起きたことだった。


 リシアは、静かに息を吸った。


 枝一本。


 ただそれだけで、六人の旗は下ろされた。


 けれど、旗を立てた風は、まだ止んでいない。


 だから、次も見なければならない。


 混ぜずに。


 逃げずに。


 誰が、どの名で、何をしたのか。


 その全部を。


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