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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第八十五夜 名誉争議

第八十五夜 名誉争議


 朝、学院長府連絡窓口から、三つの文書が動いた。


 一つ目は、ジークフリート・オーラム・アレーナとステファニア・レーヴェンハイトの婚約解消協議に関する、王家儀礼局からの確認受領。


 二つ目は、レーヴェンハイト侯爵家から王家儀礼局へ送られた、協議開始に関する家門側受領。


 三つ目は、学院長府から関係者へ置かれた、協議範囲と公開発言制限の再確認だった。


 どれも、短い。


 どれも、硬い。


 そして、どれも必要なものだった。


 リシアは貸与邸の小応接で、それらの写しを見ていた。


 前日までなら、硬い文面を見るだけで胸の奥が詰まったかもしれない。


 けれど、今朝は少し違った。


 硬い文は、冷たいだけではない。


 誰かが勝手に意味を足せないよう、余計な柔らかさを削っている。


 ステファニアは、その文面を一つずつ読み終え、静かに息を吐いた。


「王家儀礼局も、受けましたね」


「はい」


 クラウディアが答える。


「婚約解消協議の正式開始について、王家儀礼局は受領しました。現時点では、協議手順、日程、立会い範囲の整理に入るとのことです」


「つまり」


 リシアは、言葉を選んだ。


「もう、戻らないのですね」


 ステファニアは、リシアを見た。


 悲しそうではない。


 けれど、何も痛くない顔でもない。


「はい」


 短い返事だった。


「戻しません」


 戻らない、ではなく。


 戻しません。


 そこに、ステファニアの意思があった。


 アリシアが満足そうに頷く。


「よろしいですわ」


「よろしい、ですか」


「ええ。流されて後ろへ下がるのではありませんもの。ご自分で置き場所を戻す。その言葉でよろしいのです」


 ステファニアは、小さく礼をした。


「ありがとうございます」


 リシアは、胸の奥に少しだけ熱が入るのを感じた。


 これは悲しい話だ。


 けれど、ただ悲しいだけではない。


 ステファニアは、自分の名を自分の手に戻している。


 ジークフリートも、逃げずに受けた。


 それでも、婚約は続けられない。


 嫌いになったからではない。


 好きか嫌いかだけでは、もう名を守れないからだ。


「殿下側の反応は」


 アインが問う。


 窓際の椅子に座り、片膝を立てている。


 その姿勢だけを見ると、学院の一室にいる少年にしか見えない。


 だが、短い問いが入るだけで、部屋の空気が一段整理される。


「ジークフリート殿下本人署名で、王家儀礼局の受領を確認。異議なし」


 クラウディアが言った。


「ただし、同時にラディム・クライン様の補正再提出に関する照会が、王家儀礼局側へも上がっています」


「王家儀礼局へ」


 ステファニアの声が、わずかに低くなった。


「はい。王家名誉確認要求の扱いについて、学院長府から照会されています」


 リシアは、昨日の文面を思い出した。


 ジークフリート本人が、外部要因による強制を否定しても、そう書かざるを得ない立場に置かれている可能性が残る。


 ステファニアに、公開の場で殿下の自由意思を損なっていないことを明言するよう求める。


 ファーランド大公家関係者にも、影響がないことの確認を求める。


 あの文は、まだ終わっていない。


「王家儀礼局は、どう返しますか」


 リシアが問うと、クラウディアは表示を切り替えた。


「まだ未確定です。ただ、文面上はラディム様の要求に難点が多い」


「難点」


「第一に、本人署名文書を本人の意思として扱わない根拠がない。第二に、ステファニア様へ、殿下の自由意思を損なっていないことを証明せよと求めている。第三に、ファーランド大公家関係者という曖昧な対象を公開確認へ呼び出そうとしている」


 アリシアが、静かに扇を閉じた。


 音は小さい。


 けれど、リシアには妙にはっきり聞こえた。


「三つ目も非礼ですが」


 アリシアは微笑んでいる。


「二つ目が、最も悪いですわね」


 その微笑みで、リシアは背筋を伸ばした。


 怒っている。


 アリシアは、かなり怒っている。


「女性に、ご自分が殿方を害していないことを公開の場で証明せよ、と求める。しかも、相手は婚約解消協議中の令嬢ですわ」


 声は乱れない。


 むしろ、いつもより丁寧だった。


「礼を知らないにも程があります」


 ステファニアは、何も言わなかった。


 ただ、膝の上で重ねた指に、少しだけ力が入っている。


 リシアはそれを見て、胸の奥が痛くなった。


 本人は黙っている。


 黙って、耐えている。


 だからこそ、周囲が怒る。


 ただし、怒り方を間違えれば、また名が混ざる。


「学院長府の判断を待ちます」


 ステファニアが言った。


 声は静かだった。


「私から場は求めません」


「はい」


 クラウディアが答える。


 アリシアは、何も言わなかった。


 その沈黙が、いちばん怖い。


     ◇


 午前の講義は、ほとんど頭に入らなかった。


 リシアは、それを自覚していた。


 教師の声は聞こえている。


 板書も見えている。


 けれど、言葉の奥がすり抜けていく。


 隣のステファニアは、いつも通り姿勢を崩さない。


 筆記もしている。


 その横顔だけを見れば、平静に見える。


 だが、リシアにはもう分かっていた。


 平静に見えることと、痛くないことは違う。


 講義が終わると、学院長府の使いが教室の入口に立っていた。


 記録官ではない。


 連絡官だった。


 その時点で、周囲が少しざわつく。


 連絡官は、礼をした。


「ステファニア・レーヴェンハイト様。リシア・ファーランド様。学院長府より、確認席への同席要請がございます」


 リシアは、息を止めた。


 来た。


「確認席の議題は」


 ステファニアが問う。


「王家名誉確認要求の補正再提出に関する、関係者確認です」


 教室のざわめきが、さらに広がる。


 王家名誉。


 その語は、よく響く。


 よく響くから、危ない。


「出席対象は」


「学院長府立会人、王家儀礼局代理官、ジークフリート殿下側代表、ラディム・クライン様および同一争点署名者、ステファニア・レーヴェンハイト様。リシア・ファーランド様については、ファーランド大公家関係者の名が文面に含まれたため、確認権者として同席可、同席拒否可です」


 同席可。


 同席拒否可。


 その言い方に、リシアは少し救われた。


 学院長府は、引きずり出してはいない。


 選べる形にしている。


 セラが、リシアの半歩前へ出た。


 何も言わない。


 ただ、そこにいる。


 ステファニアはリシアを見た。


「リシア様」


「行きます」


 リシアは答えていた。


 自分でも、驚くほど早かった。


「ファーランドの名を文面に置いたのなら、私は聞きます。ですが、私から混ぜには行きません」


 ステファニアの目が、少しだけ柔らかくなる。


「ありがとうございます」


「私も、側で見ますと言いましたから」


 セラが頷いた。


「護衛として同行します」


 当然のように言う。


 アリシアは、教室の後方にいた。


 いつからそこにいたのか、リシアには分からない。


 彼女は、にこりと微笑んだ。


「では、参りましょう」


 クラウディアの姿は見えない。


 けれど、リシアの装身型端末の端に、短い表示が出た。


 記録補助、起動済み。


 その一文で、少しだけ息がしやすくなった。


     ◇


 確認席は、学院本館の大記録室だった。


 小応接でも、小会議室でもない。


 壁の高い部屋で、中央に長い卓が置かれている。


 卓の上には、記録符が三つ。


 学院長府。


 王家儀礼局。


 そして、双方確認用。


 窓の外は明るい。


 けれど部屋の中は、光が少し硬く見えた。


 ジークフリートは、既に来ていた。


 隣にアルヴィン。


 少し後ろにオスカーとミリア。


 イレーネ・バルシュもいる。


 今日は、立っている。


 顔は青いが、視線は逃げていない。


 ラディム・クラインは反対側にいた。


 彼の後ろに五名。


 騎士家の学生が二名。


 王都官僚家に連なる学生が一名。


 神殿系の家と縁がある学生が一名。


 そして、もう一人。


 柔らかな笑みを浮かべた青年。


 リシアは、その青年を知らない。


 だが、クラウディアの補助表示が、端に小さく名を置いた。


 ノルベルト・サイラス。


 第二王子派と接点あり。


 リシアは、指先が冷えるのを感じた。


 第二王子。


 カスパール・ヴェノム・アレーナ。


 名前だけは知っている。


 アレーナ王国第二王子。


 ジークフリートの弟。


 その名が、ここで初めて、薄く影として出た。


 クラウディアの表示は、すぐに消える。


 今は口に出す段階ではない。


 けれど、見えてしまった。


 アリシアは、驚いた様子を見せなかった。


 むしろ、少しだけ目を細める。


 待っていたものが来た、という顔だった。


 学院長府の立会人が席に着く。


 王家儀礼局代理官も、短く礼をした。


「本確認席は、ラディム・クライン殿より提出された王家名誉確認要求および補正再提出について、学院規律上の扱いを確認するためのものです」


 立会人が告げる。


「本席は婚約解消協議そのものを審理する場ではありません。ジークフリート殿下およびステファニア・レーヴェンハイト様の協議は、王家儀礼局および関係家門の正式手続きで扱われます」


 最初に枠が置かれる。


 リシアは、少しだけ安心した。


 だが、ラディムは動じない。


「承知しております」


 彼は礼をした。


「私が求めるのは、協議そのものの停止ではありません。王家名誉に関わる疑義の確認です」


 言葉は整っている。


 整っているから厄介だ。


 立会人が問う。


「疑義とは」


「ジークフリート殿下が、自由意思により婚約解消協議を受けたことは、本人署名文書で確認されました」


 ジークフリートが、わずかに眉を動かした。


 ラディムは続ける。


「しかし、殿下がそのように書かざるを得ない立場に置かれていた可能性は、なお残ります」


 部屋の空気が硬くなる。


 ジークフリート本人の言葉が、また本人の言葉として扱われていない。


「その可能性の根拠は」


 王家儀礼局代理官が問う。


「婚約解消協議の申入れが、学院内での信仰問題、ファーランド大公家の影響、帝国戦火への対応、殿下周辺者統制の混乱と同時期に進行していることです」


 ラディムの背後の一人が、静かに頷いた。


 リシアは、それを見逃さなかった。


 誰が、どの語に頷いたか。


 見る場所は、そこだ。


「同時期であることは、因果の根拠ではありません」


 アルヴィンが言った。


 声は硬い。


「私は因果を断定していません」


 ラディムは返す。


「だからこそ、確認を求めています」


「確認対象は」


 学院長府立会人が問う。


「第一に、ステファニア・レーヴェンハイト様が、ジークフリート殿下の自由意思を損なう形で協議を進めていないこと」


 ステファニアは、表情を変えなかった。


 リシアは、膝の上で手を握る。


「第二に、ファーランド大公家関係者が、本件協議を通じて王家判断へ影響を与えていないこと」


 ラディムの視線が、一瞬だけリシアへ向いた。


 それから、アリシアへ。


 リシアは、その目の動きを見た。


 ぼかした名が、誰へ向けられているのか。


 やはり、見れば分かる。


「第三に、信仰団体への史料照会と本件協議が、王家名誉を損なう外圧として働いていないこと」


 アリシアの扇が、静かに閉じた。


 ぱちり。


 小さな音だった。


 だが、部屋の全員が聞いたような気がした。


「確認方法は」


 王家儀礼局代理官が問う。


「公開の場での明言を求めます」


 ラディムは言った。


「ステファニア・レーヴェンハイト様ご本人に」


 空気が、凍った。


 ジークフリートが立ち上がりかける。


 アルヴィンが小さく手を動かした。


 止めたのではない。


 今は、記録させるためだ。


 ラディムは続けた。


「ご本人に疚しいところがないのであれば、証明できるはずです」


 その瞬間。


 アリシアが、花が咲くように微笑んだ。


 美しい笑みだった。


 怖いほどに。


「ラディム様」


 声は柔らかい。


「今の言葉が、どれほど失礼なものか、お分かりですか」


 ラディムは、一瞬だけ怯んだ。


 だが、すぐに姿勢を戻す。


「私は、王家の名誉を」


「いいえ」


 アリシアは、静かに遮った。


 笑みは消えない。


「あなたは今、ステファニア様へ、ご自分が殿下を害していないことを、公開の場で証明せよと求めました」


 部屋が沈黙する。


「婚約解消協議中の令嬢に対し、相手方の殿方を追い込んでいないと、衆目の前で明言せよと」


 ラディムの顔色が、少し変わった。


「そのような意図では」


「意図の話ではありませんわ」


 アリシアの扇が、ゆっくり開く。


「あなたが置いた言葉の形の話です」


 ステファニアは黙っていた。


 リシアは、隣で立っていることしかできない。


 けれど、その沈黙を恥じる必要はないと分かった。


 今、言葉を置くのはアリシアだ。


 そしてアリシアは、決して逃さない。


「ラディム様。あなたは、王家名誉を掲げました。ファーランド大公家を名指しではなく範囲で呼ぼうとしました。信仰への照会を、婚約解消協議と同じ文に置きました」


 扇の先が、机上の文書を示す。


「そのうえで、ステファニア様へ証明を求めた」


 アリシアは微笑む。


「これは、もはや文書確認ではありませんわ」


 学院長府立会人が、わずかに身を起こした。


 アリシアは、その前に言った。


「名誉争議です」


 その言葉が、部屋に落ちた。


 名誉争議。


 リシアは、息を呑んだ。


 聞いたことはある。


 古い学院規律に残る、貴族子弟間の名誉を巡る争いの処理制度。


 公開討論。


 証人審問。


 そして、決闘形式。


 ほとんど使われなくなったはずの制度。


 それが、今、ここに置かれた。


「学院規律第七十二条」


 アリシアは、まるで手元に規律書があるかのように続ける。


「貴族子弟間において、本人の名誉、家門の名誉、または婚姻に関わる人格的信用を公開で問う場合、問われた側は名誉争議として処理を求めることができる」


 王家儀礼局代理官が、黙っている。


 否定しない。


 学院長府立会人も、否定しない。


「違いまして?」


 アリシアが問う。


 学院長府立会人は、短く答えた。


「条文上は、相違ありません」


 ラディムの背後の五名が、ざわついた。


 だが、ラディムは退かなかった。


「私は、名誉を損なうつもりではありません」


「では、取り下げますか」


 アリシアが問う。


 即座だった。


 ラディムは、答えられない。


 取り下げれば、王家名誉を掲げた自分の旗が折れる。


 取り下げなければ、名誉争議になる。


 その二つの間で、彼は揺れた。


 その背後から、柔らかな声がした。


「取り下げる必要はないでしょう」


 ノルベルト・サイラスだった。


 第二王子派と接点あり。


 その表示が、リシアの記憶の奥で光る。


「王家名誉に関わる確認を求めたことが、ただちに非礼とされるなら、それこそ王家の名誉はどこで守られるのです」


 言葉は穏やかだ。


 穏やかなのに、刃がある。


 アリシアは、ノルベルトを見た。


「あなたのお名前は」


「ノルベルト・サイラスと申します」


「そう」


 それだけだった。


 だが、リシアには分かった。


 記録された。


 今、アリシアの中で、確実に。


「同一争点へ署名された方は」


 クラウディアの声が、部屋の端からした。


 いつの間にか、そこにいた。


 学院長府の記録補助員のように、何の違和感もなく。


 立会人が、確認する。


「ラディム・クライン殿の補正再提出には、同一争点賛同者として五名の本人署名があります」


「つまり、六名です」


 クラウディアが言った。


「名誉争議として扱う場合、申立人側全員が同一争点に本人署名を置いたものと見なしてよろしいですね」


 ラディムが、クラウディアを見る。


「あなたは」


「記録補助です」


 淡々とした答えだった。


 嘘ではない。


 たぶん、必要な手続きは済ませてある。


 そういう人だ。


 ラディムは、わずかに迷った。


 だが、背後の五名が見ている。


 もう、一人の問いではない。


 旗の下に集まった者たちの問いになっている。


「はい」


 ラディムは言った。


「六名全員が、同一争点に立ちます」


 クラウディアが頷く。


「記録しました」


 リシアは、胸の奥が冷えるのを感じた。


 戻れない音がした。


 紙を閉じる音ではない。


 扉が閉まる音でもない。


 名が、記録に置かれた音だった。


     ◇


 ステファニアが一歩前へ出ようとした。


 リシアは、止めなかった。


 止めたくなった。


 けれど、止めなかった。


 ステファニアが、自分の名を自分で持とうとしているからだ。


 その瞬間、アインが立った。


「俺が受ける」


 短い声だった。


 あまりにも短くて、部屋の方が少し遅れて反応した。


 ラディムが眉を寄せる。


「あなたが」


「ああ」


「これは、ステファニア様に対する確認です」


「だから受ける」


 アインは、ステファニアの前に出た。


 大きな動きではない。


 ただ、一歩。


 それだけで、ステファニアが証明台に上げられる線が切れた。


「ステファニアは婚約解消協議の当事者だ。これ以上、証明台に立たせる必要はない」


 部屋が静まる。


「ファーランドを呼ぶなら、俺が受ける」


 ラディムの顔に、困惑が浮かぶ。


「あなたは、ファーランド大公家の者ではない」


 アインは、少しだけ首を傾けた。


「アリシアの婚約者だ」


 その一言で、空気が変わった。


 リシアは、息を止めた。


 アリシア。


 初代大公ガルフ・ファーランドの娘。


 ファーランドの礎に繋がる、千五百年前の姫。


 その婚約者。


 しかも、ただの婚約者ではない。


 ベルカ魔導帝国の皇族。


 アークライトの主。


 ファーランドが今も墓前で慰霊した、あの歴史の側に立つ者。


 ラディムは、その全てを理解しているわけではない。


 だが、何かとんでもない線を踏んだことだけは感じたのだろう。


 顔が、少し強張った。


 ノルベルト・サイラスが、穏やかに言う。


「しかし、学院規律上、代理人資格の確認が必要では」


「確認しましょう」


 アリシアが言った。


 笑顔だった。


「アイン・ジ・アークライト・ベルカ殿下は、わたくしアリシア・ファーランドの婚約者です。ファーランド大公家の名を、曖昧な範囲で呼び出そうとした争点に対し、わたくしの代理権を付与いたします」


 アリシアは、そこで一度だけステファニアを見る。


「また、ステファニア様が証明台へ立たされる非礼に対し、同席者として代理処理を求めます」


 ステファニアは、静かに礼をした。


「お願いいたします」


 その声に、迷いはなかった。


 アインが、少しだけ嫌そうな顔をした。


「こういう時だけ丁寧に押し付けるな」


「適任ですもの」


 アリシアは、にっこり笑う。


 緊張で固まっていた空気が、一瞬だけ妙な形に緩んだ。


 だが、すぐに戻る。


 学院長府立会人が、王家儀礼局代理官と短く確認を交わした。


「代理人資格について、学院規律上の異議は現時点で認められません」


 ラディムが、唇を結ぶ。


「ただし」


 立会人は続けた。


「申立人側は六名。代理人一名に対し、複数名が同一争点へ立つ場合、全員の本人署名および争点一致確認が必要です」


「置きます」


 ラディムが言った。


 背後の五名も、順に頷く。


 クラウディアが、淡い表示を開いた。


「本人署名欄を用意しました」


 早い。


 あまりにも早い。


 リシアは、クラウディアを見た。


 クラウディアは、何事もなかったように立っている。


 アリシアが、少しだけ楽しそうに目を細めた。


 ラディムたち六名は、一人ずつ署名を置いた。


 ラディム・クライン。


 ノルベルト・サイラス。


 エドヴィン・ライヒ。


 ベルト・ハーゲン。


 ソフィアン・メルク。


 ユスト・カーレン。


 六つの名が、同じ争点に並ぶ。


 王家名誉確認要求。


 婚約解消協議における自由意思および外部影響の確認。


 リシアは、その並びを見つめた。


 これで、旗の下に立つ者が見えた。


 もう、誰かが言っている、ではない。


 六人の名がある。


 六人の署名がある。


 六人が、同じ争点に立つと決めた。


 アインは、それを見て、短く言った。


「なら、まとめてでいい」


 ラディムの目が見開かれた。


「まとめて」


「六人だろ」


 アインは、特に怒っているようには見えない。


 それが、かえって怖かった。


「一人ずつやる理由がない」


 学院長府立会人が、さすがに口を開く。


「代理人アイン殿。学院規律上、複数名同時の名誉争議処理は可能ですが、危険度が上がります。形式は公開討論、証人審問、模擬決闘の三種から選択されます」


「模擬決闘」


 アインは即答した。


 早い。


 あまりにも早い。


 リシアは、思わずアインを見た。


 アインは、こちらを見ない。


「討論は向かない。証人審問はステファニアを引きずり出す。なら、決闘でいい」


 言い方は乱暴ではない。


 ただ、余分がない。


 ステファニアが、小さく息を吸った。


「殿下」


「大丈夫だ」


 アインは、それだけ言った。


 大丈夫。


 何が、どこまで大丈夫なのか。


 リシアには分からない。


 けれど、アリシアは笑っていた。


 クラウディアは、頭を抱えていた。


 本当に、片手で額を押さえている。


「……殿下」


「何だ、クラウ」


「学院規律上は可能です」


「ならいい」


「良くはありません」


「可能なんだろ」


「可能です」


 クラウディアは、深く息を吐いた。


「……可能です」


 アリシアが、とても楽しそうに扇を開いた。


「では、決まりですわね」


 学院長府立会人は、しばらく沈黙した。


 たぶん、止めたかったのだと思う。


 だが、止める根拠がない。


 問われた側が名誉争議として処理を求めた。


 代理人資格は確認された。


 申立人側六名は同一争点へ本人署名を置いた。


 形式は、学院規律に残る模擬決闘。


 全て、手続きの上にある。


 だから、止められない。


「では、学院長府は、本件を名誉争議として受理します」


 立会人が言った。


「形式は、模擬決闘。争点は、王家名誉確認要求に伴う人格的信用および家門関与の公開確認要求の非礼性。代理人はアイン・ジ・アークライト・ベルカ殿。申立人側は、ラディム・クライン殿以下六名」


 言葉が記録される。


 一つずつ。


 逃げ道を塞ぐように。


「実施は、明日。学院北庭、第三決闘場。武器は学院規定の模擬武器。殺傷禁止。勝敗は、降参、制圧、審判停止、または争点撤回により判定」


 リシアは、喉が乾くのを感じた。


 決まった。


 本当に、決まってしまった。


 ラディムたち六名は、引けない顔をしていた。


 ジークフリートは、立ったまま目を閉じている。


 彼の手は、わずかに震えていた。


 怒りか。


 悔しさか。


 それとも、自分の名で始まったものが、自分の手から離れて決闘へ進んでしまったことへの痛みか。


 リシアには分からない。


 ただ一つだけ分かる。


 これは、ジークフリート本人が望んだものではない。


 それでも、ジークフリートの名を掲げた旗が、ここまで来た。


     ◇


 確認席が終わった後、リシアたちは貸与邸へ戻った。


 誰もすぐには話さなかった。


 扉が閉まる。


 外の気配が遠くなる。


 そこで、ようやくステファニアが深く息を吐いた。


「申し訳ありません」


「謝るな」


 アインが即答した。


 ステファニアは、顔を上げる。


「ですが」


「お前が謝ることじゃない」


 短い。


 強い。


 ステファニアは、それ以上言えなくなった。


 アリシアが、扇で口元を隠す。


「そうですわ。謝るべき方は別にいらっしゃいますもの」


「アリシア」


 アインが少しだけ睨む。


 アリシアは、涼しい顔だった。


「わたくし、落ち着いておりますわ」


「それは落ち着いてない時の言い方だ」


「存じております」


 リシアは、思わず息を漏らしそうになった。


 笑いではない。


 緊張が、少しだけ別の形に変わったのだ。


 セラは、扉の横で腕を組んでいる。


「六名ですか」


「ああ」


 アインが答える。


「多いですね」


「そうか」


「はい」


 セラは真面目に頷いた。


「ですが、殿下なら問題なさそうです」


 あまりにも普通に言う。


 リシアは、少しだけ肩の力が抜けた。


 クラウディアは、まだ額に手を当てている。


「問題は、殿下が勝つかどうかではありません」


「なら何だ」


「どう勝つかです」


 アインは、少しだけ面倒そうな顔をした。


「倒せばいいだろ」


「学院規律、王家儀礼局、婚約解消協議、ファーランド大公家、信仰問題、第二王子派に近い節点、全てが見ています」


 リシアは、最後の言葉に反応した。


「第二王子派」


 クラウディアは、ちらりとリシアを見る。


「現段階では、断定しません」


「ですが、接点はある」


「はい」


 アリシアが、静かに笑った。


「やはり、出てきましたわね」


「アリシア様は」


 リシアは、思わず問うていた。


「もっと早く、止められたのではありませんか」


 ステファニアが、わずかに目を見開く。


 少し踏み込んだ問いだった。


 だが、リシアは聞かずにいられなかった。


 アリシアは否定しなかった。


「止められましたわ」


「では、なぜ」


「止めれば、ただの誤解で終わりますもの」


 扇が、静かに閉じる。


「誰が、どの名を、何のために掲げたのか。そこまで見えなければ、次も同じことが起きます」


「ラディム様は」


「火元ではありませんわ」


 アリシアは言った。


「火に手をかざして、自分が暖を取れると思っている方です」


 リシアは、その表現にぞっとした。


 火元ではない。


 けれど、火の近くにいる。


 自分が燃えるとは思っていない。


 周囲を焼くとも思っていない。


 ただ、暖かい場所に立っているつもりでいる。


「では、火元は」


「まだ名を置く段階ではありませんわ」


 アリシアは、にこりと微笑んだ。


「けれど、油を注いだ方の袖は、少し見えました」


 クラウディアが頷く。


「王都側の節点が一つ浮きました。第二王子派に近い窓口です」


「カスパール殿下」


 リシアは、名前を口にした。


 アインが視線を向ける。


「第二王子か」


「はい。アレーナ王国第二王子、カスパール・ヴェノム・アレーナ殿下です」


 クラウディアが淡々と説明する。


「これまでの外圧語彙、王家名誉語彙、第一王子失点化の語彙の一部が、王都側の同じ社交節点を経由しています」


「まだ断定ではない」


 アインが確認する。


「はい。ですが、偶然として処理するには重なりが多い」


 アリシアが楽しそうに目を細めた。


「第一王子を直接倒すのではなく、王家を守る名目で足場を崩す。分かりやすくて結構ですわ」


「楽しそうに言うな」


「楽しくはありませんわ。少し、懐かしいだけです」


 その言葉に、部屋が少し冷えた。


 懐かしい。


 千五百年前にも、似たものを見たのだろうか。


 大きな名の下で、誰かの足場を崩す者たちを。


 リシアは、それ以上聞けなかった。


     ◇


 夕刻、名誉争議の実施告知が学院内へ掲示された。


 文面は短い。


 王家名誉確認要求に伴う名誉争議。


 申立人側、ラディム・クラインほか五名。


 被申立側代理人、アイン・ジ・アークライト・ベルカ。


 争点、婚約解消協議に関わる人格的信用および家門関与の公開確認要求の非礼性。


 形式、模擬決闘。


 実施、明日。学院北庭、第三決闘場。


 殺傷禁止。


 観覧は、学院長府が許可した範囲に限る。


 リシアは、その掲示を見ていた。


 周囲の学生たちは、遠巻きに見ている。


 誰も大声では話さない。


 だが、小さな声がいくつも落ちる。


 六名。


 代理人。


 アークライト。


 ベルカ。


 王家名誉。


 ファーランド。


 決闘。


 また言葉が歩き始める。


 けれど、今日は少し違う。


 どの言葉にも、記録がついている。


 誰が署名したか。


 誰が争点へ立ったか。


 誰が代理を受けたか。


 もう、誰かが言った、ではない。


 名前がある。


 リシアは、それを見て、少しだけ息を吸った。


 怖い。


 それは変わらない。


 だが、怖いものの形が見えている。


 見えない圧より、まだましだ。


 隣で、ステファニアが掲示を読んでいた。


 表情は静かだった。


「ステファニア様」


「はい」


「明日」


「はい」


 ステファニアは、リシアを見る。


「見届けます」


 逃げない声だった。


 リシアも頷いた。


「私も」


     ◇


 夜、貸与邸の小応接で、明日の配置確認が行われた。


 学院長府から送られた観覧席配置案には、リシア、ステファニア、アリシア、セラ、クラウディアの席が分けて置かれている。


 アインはそれを見て、短く言った。


「近すぎる」


「安全距離内です」


 クラウディアが答える。


「相手が六人だ」


「殿下が近づけさせなければ問題ありません」


「雑だな」


「事実です」


 セラが、真面目に頷いた。


「私も観覧席側を見ます」


「助かる」


 アインが言うと、セラは少しだけ嬉しそうにした。


 ステファニアは、配置案を見つめている。


 その指が、席の一つで止まった。


 自分の席。


 証明台ではない。


 観覧席。


 けれど、そこに座ることもまた、簡単ではない。


 自分の名を巡る争いを、自分ではなく代理人が受ける。


 それを見届ける。


 痛くないはずがない。


「ステファニア」


 アインが呼んだ。


 敬称はなかった。


 けれど、軽んじた呼び方ではない。


 むしろ、余計な距離を置かない声だった。


「はい」


「明日、俺を見るな」


 ステファニアは、少しだけ目を見開いた。


「では、何を」


「相手を見ろ」


 アインは言った。


「誰が、どの名で、どこまで来たか。そこを見るための場だ」


 ステファニアは、しばらく黙った。


 そして、ゆっくり頷く。


「承知しました」


 アリシアが、満足そうに微笑んだ。


「本当に、困った方ですわ」


「何がだ」


「そういうところです」


 アインは、分からないという顔をした。


 たぶん本当に分かっていない。


 リシアは、少しだけ笑いそうになった。


 笑える状況ではない。


 それでも、少しだけ呼吸が戻る。


 クラウディアが最後の確認を置いた。


「明日、第三決闘場。開始は第二鐘後。学院長府、王家儀礼局、争点署名者、被申立側代理人、関係者観覧席。記録符は三系統」


「了解」


 アインが答える。


「得物は」


 クラウディアが問う。


「明日決める」


「嫌な予感がします」


「気のせいだ」


「殿下がそう仰る時は、だいたい気のせいではありません」


 アリシアが、くすりと笑った。


「楽しみにしておりますわ」


「楽しみにするな」


「無理ですわ」


 そのやり取りを聞きながら、リシアは窓の外を見た。


 学院の夜は静かだった。


 明日、第三決闘場で何が起きるのか。


 まだ分からない。


 ただ一つ、分かることがある。


 名は、返された。


 旗は、割れた。


 そして今度は、割れた旗の下から出てきた者たちが、自分の名で立つ。


 それを、アインが受ける。


 リシアは、胸の奥で小さく呟いた。


 見届けます。


 混ぜずに。


 逃げずに。


 誰が、どの名で、何をしたのか。


 その全部を。


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