第八十四夜 割れる旗
第八十四夜 割れる旗
翌朝、学院は静かだった。
静かすぎた。
リシアは、貸与邸の朝食卓で、その静けさを見ていた。
装身型端末の淡い表示には、公開連絡板の語彙推移が細く流れている。
書き込みの数は、昨日より少ない。
大きな叫びもない。
露骨な名指しも、学院長府の周知以降は減っている。
けれど、だから安心できるとは思えなかった。
言葉の数が減る時は、二つの場合がある。
本当に鎮まった時。
それから、言葉が次の場所へ移った時。
「減っていますね」
リシアが言うと、クラウディアは即座に頷いた。
「公開連絡板上の可視発言数は減っています」
「可視発言数」
ステファニアが静かに繰り返す。
「はい。限定連絡、私的連絡、廊下での会話、昼食席の同席範囲など、公開されない場所での語彙移動は増えています」
表示が切り替わる。
旗。
守る。
王家。
婚約者。
礼。
裏切り。
ファーランド。
信仰。
外圧。
リシアは、昨夜アリシアが言った言葉を思い出した。
旗は、同じ風を受けても同じ方向へは向かない。
今、表示に出ている語は、まさに旗だった。
誰かがそれを掲げれば、その下に人が集まる。
同じ殿下を守るという言葉でも、集まる者によって向きが違う。
殿下を守るために、ステファニアを責める者。
殿下を守るために、周囲の暴走を止めようとする者。
殿下を守るために、ファーランドの影響を疑う者。
殿下を守るために、信仰への圧力を訴える者。
同じ旗のように見えて、中身が違う。
「割れ始めましたわね」
アリシアが、朝の茶を置きながら言った。
声は穏やかだった。
穏やかすぎて、リシアは少しだけ怖い。
「ジークフリート殿下の周囲が、ですか」
「ええ。殿下ご本人の言葉を基準にする者と、殿下への忠誠を基準にする者。それから、殿下を名目に自分の不満を置く者」
アリシアは扇を開かない。
開かない時の方が、かえって厳しく見えることがある。
「旗は三つですわ」
「三つ」
リシアは、表示を見た。
守る。
忠誠。
外圧。
言葉だけでは、どれがどれか分からない。
けれど、誰がどの名と並べたかを見れば、違いが出る。
「第一は、殿下ご本人の言葉へ戻ろうとする旗」
アリシアが言う。
「第二は、殿下のためという名で、殿下ご本人の言葉を越えようとする旗」
ステファニアが小さく息を吐いた。
「第三は」
「殿下もステファニア様も見ていない旗ですわ。王家、信仰、ファーランド、帝国戦火。大きな言葉を並べ、自分がどこへ立てば強く見えるかを探している」
リシアは、手元の杯を見下ろした。
茶の面は静かだった。
けれど、胸の奥は静かではない。
「それは、誰の周囲にもあり得るものですか」
「もちろん」
アリシアは即答した。
「人は旗を好みますもの。自分一人の名で立つより、何か大きな名の下に立った方が、強くなった気がいたしますから」
「気が、する」
「実際に強くなることもありますわ。だから厄介なのです」
クラウディアが表示を一つ広げた。
「ジークフリート殿下側の限定連絡が確認されました」
「内容は」
アインが問う。
それまで黙っていた声が入ると、場が少し締まった。
「周辺者内意見集約会合の招集です。発信者はアルヴィン・ラーデン様。ジークフリート殿下本人承認あり」
「場所は」
「学院本館、第三小会議室。学院長府立会人一名。議題は、婚約解消協議に関する周辺者発言の整理と、以後の発言範囲確認」
リシアは、思わずステファニアを見た。
ステファニアは静かに表示を読んでいる。
「こちらへ写しは」
「ありません」
クラウディアが答えた。
「適切です。ジークフリート殿下側の周辺整理ですので、ステファニア様側へ直接写しを置く必要はありません」
「そうですね」
ステファニアは頷いた。
「こちらが受け取るべきものではありません」
リシアは、少しだけ息を吐いた。
分かってきた。
見たいから見る。
知りたいから受け取る。
それがいつでも正しいわけではない。
受け取るだけで、こちらが相手の内側へ手を入れた形になることがある。
アリシアが、リシアへ目を向ける。
「良い顔になりましたわね」
「顔、ですか」
「ええ。手を出したいのに出さない顔」
リシアは返答に困った。
困ったが、否定もできない。
その通りだった。
◇
学院本館の第三小会議室には、重い空気が落ちていた。
リシアはそこにいない。
ステファニアも、アリシアもいない。
だが後に共有された記録には、会議室の沈黙まで残っていた。
長机の正面に、ジークフリートが座っている。
その右にアルヴィン。
左にオスカー。
少し離れてミリア。
そして、イレーネ・バルシュ。
彼女は発言資格を一時停止されている。
だから、今日は周辺発言者としてではなく、確認対象者として座っていた。
その位置の違いが、部屋の空気をさらに硬くしている。
学院長府の立会人が、卓上に記録符を置いた。
「本会合は、ジークフリート・オーラム・アレーナ殿下周辺者による発言範囲整理のための確認会合です。議題外の婚約解消協議そのもの、信仰団体への史料照会、ファーランド大公家の判断、帝国との戦火に関する論評は扱いません」
最初に枠が置かれる。
ジークフリートは、それを待ってから口を開いた。
「昨日、私は正式協議開始を受けた」
声は低い。
疲れてはいる。
だが、逃げてはいない。
「これは私とステファニア・レーヴェンハイトの間の協議であり、互いの家門、王家儀礼局、学院長府を通じて礼を整えるものだ」
誰も口を挟まない。
「私への忠誠、同情、心配、または怒りを理由に、ステファニアの名、レーヴェンハイト侯爵家の名、ファーランド大公家の名へ圧力をかけることを禁ずる」
アルヴィンが、卓上の文面を確認する。
オスカーは腕を組んで黙っていた。
ミリアは、膝の上で手を握っている。
イレーネだけが、まっすぐジークフリートを見ていた。
「殿下」
立会人が目を向ける。
イレーネは、その視線を受けてから言った。
「私は、発言を許されていますか」
「確認対象者としての発言は認める」
ジークフリートが答える。
「私の意向を含むものとして外へ出す発言は、まだ認めない」
イレーネは、少しだけ唇を引き結んだ。
「承知しました」
そこで止まれるなら、まだいい。
リシアが記録を見た時、そう思った。
けれど、記録の中のイレーネは止まらなかった。
「では、私個人として申し上げます」
「言え」
「殿下は、御自身の名を守ることを、あまりに軽く扱っておられます」
ミリアが息を呑んだ。
アルヴィンの眉が、わずかに動く。
ジークフリートは表情を変えなかった。
「続けろ」
「殿下がご自身を責め、周囲を止められるほど、周囲は殿下が何かに追い込まれているのではないかと感じます。殿下が礼を尽くされるほど、相手方はより強く見える。殿下が沈黙されるほど、殿下だけが責を負われているように見える」
「だから私の制止を越えてよいと」
「いいえ」
イレーネは首を振った。
「越えてはならないと、頭では理解しています」
頭では。
その言葉が、部屋に落ちた。
「ですが、納得はしておりません」
ジークフリートは、しばらく黙った。
怒ったのではない。
考えている顔だった。
「納得していなくても、従えるか」
イレーネの目が揺れた。
「殿下の御命令であれば」
「私の命令だから従うのか」
「はい」
「ならば、私の意思ではなく命令だけを見ている」
イレーネの顔から、色が少し引いた。
ジークフリートは、続ける。
「私は、命令に従う者が欲しいのではない。私の名を、私の言葉を越える道具にしない者が必要だ」
会議室が静かになった。
オスカーが、低く息を吐く。
「殿下」
「何だ」
「今のは、初めて通った気がします」
ジークフリートが、オスカーを見る。
「褒めているのか」
「少しだけ」
空気が一瞬だけ緩んだ。
だが、すぐに戻る。
アルヴィンが記録符へ目を落とした。
「殿下。問題は、ここにいる者だけではありません」
「分かっている」
「昨日から、イレーネ様の名を使う者が増えています」
イレーネが顔を上げた。
「私の名を」
「はい」
アルヴィンは、表示を開く。
そこには限定範囲の写しが並んでいた。
イレーネ様は殿下を案じすぎただけだ。
殿下を守る者を外すほど、殿下は孤立されている。
忠誠を罰するなら、残る者は沈黙しかできない。
ステファニア様は、これを見ても何も感じないのか。
イレーネの顔が、明らかに強張った。
「私は、そのようなことを」
「言っていない」
オスカーが言った。
「だが、使われている」
短い。
だから刺さる。
イレーネは、拳を握った。
「訂正します」
「あなたが訂正すれば、またあなたの名が立つ」
アルヴィンが止める。
「今、殿下が止めるべきです」
ジークフリートは頷いた。
「私の名で出す」
「はい」
「イレーネ」
「はい」
「お前の名を使わせるな、と言いたいところだが」
ジークフリートは、一度だけ目を伏せた。
「私も、できていなかった」
イレーネの表情が、また揺れた。
「殿下」
「だから今、やる」
ジークフリートは顔を上げた。
「お前のためにも、私のためにも、ステファニアのためにも」
その言葉に、イレーネはすぐには答えなかった。
やがて、深く頭を下げる。
「承知しました」
今回は、最後の母音が硬くなかった。
少なくとも記録の中では、そう聞こえた。
◇
午前の講義後、廊下の空気はさらに変わっていた。
リシアたちは、次の講義室へ移動していた。
セラが半歩前。
ステファニアがリシアの右。
アリシアは少し後ろを歩いている。
クラウディアは姿を出していないが、装身型端末の端に淡い記録補助が入っていた。
廊下の向こうに、数人の学生が立っている。
中心にいるのは、ラディム・クラインだった。
以前、複数の名を一つの問いへ混ぜた学生。
その時より、顔つきが硬い。
緊張している。
だが、退く気はなさそうだった。
セラが、歩調を少し落とした。
遮るほどではない。
けれど、リシアとステファニアの前に入れる位置だ。
ラディムが礼をした。
「ステファニア・レーヴェンハイト様」
声は大きくない。
周囲に聞こえる程度に整えられている。
それが、かえって意図を感じさせた。
「何でしょうか」
ステファニアが応じる。
立ち止まったのは、彼女の判断だった。
逃げた形にしないため。
だが、近づきすぎない。
セラの肩越しに、距離が保たれている。
「婚約解消協議について、一学生として確認したいことがあります」
「一学生として」
ステファニアが静かに返す。
「はい」
「その確認は、学院長府の定めた範囲を理解した上でのものですか」
ラディムは、一瞬言葉を詰まらせた。
だが、すぐに戻る。
「未確認の流布をするつもりはありません」
「では、何を確認なさいますか」
「殿下の名誉です」
廊下が、わずかに静かになった。
リシアは、胸の奥が冷えるのを感じた。
そこへ来る。
やはり、そこへ来る。
「殿下の名誉については、殿下ご本人、王家儀礼局、学院長府が扱うべきものです」
ステファニアは言った。
「私が廊下でお答えするものではありません」
「ですが、殿下は正式協議を受けられた」
「はい」
「それは、ステファニア様の申入れを受け入れたということです」
「はい」
「では、殿下は受ける側に立たされた」
言い方が変わった。
受け入れた、ではない。
立たされた。
リシアは、そこを聞き逃さなかった。
ステファニアも聞き逃していない。
「立たされた、という表現の根拠は」
「殿下が拒めば、周囲からまた責められる。受ければ、婚約解消へ進む。どちらにしても殿下は不利です」
「殿下ご本人は、正式協議開始を受けると本人署名で返されました」
「それでもです」
ラディムの声に、熱が入る。
「王国第一王子が、婚約者側の手続きと、ファーランド大公家の影と、信仰問題への圧力の中で、受けざるを得ない形に置かれたのではないか。それを問うことまで禁じられるのですか」
来た。
リシアは、指先が冷えるのを感じた。
殿下。
婚約者。
ファーランド。
信仰。
同じ文に置かれた。
アリシアの言った別枠。
そのままだった。
「その問いは、すでに複数の事案を混ぜています」
ステファニアの声は、乱れなかった。
「婚約解消協議は、私とジークフリート殿下の婚約についての手続きです。信仰団体への史料照会、ファーランド大公家の判断、帝国との戦火は別事案です」
「別々に扱うことで、全体が見えなくなることもあります」
「全体、とは何ですか」
ステファニアが問う。
その声は柔らかい。
柔らかいが、逃げ場を与えない。
ラディムは、ほんの少し顔を強張らせた。
「殿下が追い込まれているという事実です」
「追い込んでいる者は誰ですか」
リシアは、息を止めた。
ステファニアが先に問うた。
名前を置かせるための問いだった。
ラディムは、すぐには答えない。
「私は、特定の誰かを責めているのではありません」
「では、殿下が追い込まれているという事実の確認主体はどなたですか」
「見れば分かります」
「私には、見ただけでは分かりません」
ステファニアは、まっすぐラディムを見る。
「記録と本人確認で分けてください」
ラディムの後ろにいた一人が、小さく舌打ちした。
セラの目が、その者へ向く。
その瞬間、舌打ちした学生は一歩引いた。
ラディムは、まだ退かない。
「では、学院長府へ正式に確認要求を出します」
「それは自由です」
「ステファニア様にも、公開の場でお答えいただきたい」
「内容によります」
「殿下の名誉についてです」
「殿下の名誉について、私が殿下に代わって答えることはありません」
ラディムの顔が、苦く歪んだ。
「そうやって、常に分ける」
「はい」
ステファニアは頷いた。
「分けます」
それは、宣言だった。
「分けなければ、誰の名で誰を傷つけたのか分からなくなります」
「殿下が傷ついていることは」
「殿下ご本人が、私へそう確認を求めたのですか」
沈黙。
ラディムは答えられない。
答えれば、本人確認の有無を問われる。
答えなければ、自分の名で言うことになる。
廊下が、じりじりと熱を帯びていく。
アリシアが、後ろで扇を開いた。
ぱちり、と小さな音がした。
それだけで、リシアは背筋を伸ばした。
まだだ。
まだ、踏み越えてはいない。
ラディムは、深く礼をした。
「失礼しました。正式経路で申し入れます」
「承知しました」
ステファニアも礼を返す。
廊下でのやり取りは、それで終わった。
だが、終わっていない。
リシアには分かった。
ラディムは退いたのではない。
場所を移すことを選んだのだ。
◇
昼前、ジークフリート側から訂正が出た。
表題は、イレーネ・バルシュの名を用いた周辺発言に関する確認。
文面は短い。
イレーネ・バルシュの名を用い、殿下を守るため、忠誠を罰してはならない、周囲を切り捨ててはならない等の発言を行うことを禁ずる。
当該発言は、イレーネ・バルシュ本人の意思とも、ジークフリート殿下の意向とも扱わない。
イレーネ・バルシュ本人は、現在、確認対象者として学院長府立会いのもと発言範囲を整理中である。
本人の名誉を守るためにも、本人確認なき代弁を行わないこと。
リシアは、その文面を読んで息を吐いた。
「出ましたね」
「はい」
クラウディアが頷く。
「ただ、先ほどの廊下の件とは別です」
「ラディム様の」
「はい。あちらはイレーネ様の名ではなく、殿下の名誉、ファーランド、信仰問題を混ぜています」
ステファニアは、静かに目を閉じていた。
疲れている。
そう見えた。
けれど、折れている顔ではない。
「ラディム様は、学院長府へ申し入れると言いました」
「既に動いています」
クラウディアが表示を切り替える。
学院長府連絡窓口。
受付欄に、ひとつの印が灯っていた。
表題。
婚約解消協議に伴う王家名誉および外部影響確認要求。
差出人。
ラディム・クライン。
本人署名あり。
リシアは、表題を見ただけで、胸の奥が重くなった。
王家名誉。
外部影響。
その二つが、婚約解消協議と同じ行に置かれている。
「内容は」
アインが問う。
クラウディアが読み上げる。
「本件婚約解消協議について、ジークフリート殿下が自由意思に基づいて協議を受けたのか、ファーランド大公家、信仰団体への照会問題、帝国戦火への配慮等の外部要因によって受けざるを得ない形に置かれたのか、学院長府に確認を求める」
部屋の空気が、硬くなる。
「また、王国第一王子の名誉に関わる事案である以上、学院内の関係者による公開確認の場を設けることを求める」
クラウディアは、少しだけ間を置いた。
「公開確認の場においては、ステファニア・レーヴェンハイト様、ジークフリート殿下、必要に応じてファーランド大公家関係者の出席を求める、とあります」
「ファーランド大公家関係者」
リシアは、思わず声に出してしまった。
自分の名だ。
リシア・ファーランドと書かれていない。
だが、明らかに自分が含まれている。
アリシアも含まれる。
ガリウス大公も含まれ得る。
名をぼかすことで、範囲を広げている。
「ずいぶん欲張りましたわね」
アリシアが言った。
笑っている。
笑っているが、目は笑っていなかった。
「これは、決闘状ですか」
リシアが問う。
「まだ違います」
アリシアが答えた。
「ただ、よく似ていますわ」
クラウディアが、淡々と補足する。
「学院規律上は、公開質疑要求に分類されます。ただし、王家名誉、外部影響、ファーランド大公家関係者の出席要求が含まれるため、受理された場合、非常に扱いが重くなります」
「受理されますか」
ステファニアが問う。
「そのままでは難しいです」
クラウディアは即答した。
「理由は」
「本人確認のない外部影響推定が含まれています。信仰団体への史料照会、帝国戦火、ファーランド大公家の判断を婚約解消協議へ接続する根拠が提示されていません。学院長府は、まず補正を求めるでしょう」
「補正」
リシアが言う。
「書き直せ、ということですか」
「はい」
クラウディアは頷いた。
「ただし、補正を求められたことで、差出人側が『問いそのものを封じられた』と主張する余地が生まれます」
「そこまで含めて」
ステファニアが言いかける。
アリシアが、先に言った。
「ええ。含めて置いたのでしょうね」
リシアは、ラディムの顔を思い出した。
緊張していた。
だが、言葉は整えていた。
誰かに言わされているだけではない。
自分で考えている。
だから、余計に厄介だ。
「ラディム様は、殿下の側ですか」
リシアが問うと、アインが答えた。
「旗の側だ」
短い。
それだけで、分かった。
ジークフリート本人の側ではない。
ステファニアの敵というだけでもない。
ラディムは、自分が掲げた旗の側に立っている。
王家名誉。
外部影響。
信仰。
ファーランド。
それらを並べた旗の下に。
「殿下に知らせますか」
リシアが問う。
「学院長府から行く」
アインが言った。
「こちらが先に動く必要はない」
「ですが」
「動けば、巻き込まれた形ではなく、入った形になる」
リシアは口を閉じた。
分かっている。
分かっているが、何もしないのは難しい。
ステファニアが、リシアへ視線を向けた。
「リシア様」
「はい」
「私も、動きたいです」
その言葉に、リシアは少し驚いた。
ステファニアは、穏やかな顔をしていた。
「誤りは誤りです。混ぜられたものは、分けたい。私の名で殿下を追い詰めるなと言いたい。殿下の名で私を問うなと言いたい。ファーランドの名を、この協議の圧力にするなと言いたい」
一つずつ、静かに置かれる。
「ですが、今ここで私が動けば、相手の求めた場に入ることになります」
「はい」
「だから、待ちます」
ステファニアは言った。
「待つことも、今は私の役目です」
リシアは、胸の奥がぎゅっとなった。
ステファニアは強い。
けれど、強いから痛くないわけではない。
痛いまま、立っている。
それが見える。
「側で見ます」
リシアは言った。
「混ぜません。ですが、見ます」
ステファニアは、少しだけ微笑んだ。
「ありがとうございます」
◇
学院長府の補正要求は、予想より早かった。
夕刻前。
短い正式連絡として、ラディム・クラインへ返された。
公開確認要求は、現段階では受理しない。
理由。
婚約解消協議と、信仰団体への史料照会、ファーランド大公家、帝国戦火を接続する根拠が提示されていない。
王家名誉に関する確認は、王家儀礼局またはジークフリート殿下本人の窓口を通すこと。
ファーランド大公家関係者の出席を求める場合、出席対象者、理由、確認範囲を明示すること。
本人確認なき推定を公開質疑の前提としてはならない。
必要であれば、根拠、範囲、対象者を整理したうえで再提出すること。
リシアは、その返答を読んで少しだけ安心した。
学院長府は、止めている。
少なくとも、混ざったものをそのまま場に上げてはいない。
だが、アリシアは安心していなかった。
「次が来ますわ」
「補正して、ですか」
「ええ。あるいは、補正を求められたこと自体を使って」
クラウディアの表示が淡く光る。
「公開連絡板に反応が出ました」
早い。
早すぎる。
リシアは表示を見た。
根拠不十分として退けられた、という一点だけが、すでに別の旗へ結び直されていた。
リシアは、息を止めた。
早い理由が分かった。
補正要求そのものを待っていたのだ。
受理されれば、公開の場を求める。
受理されなければ、問うことを封じられたと言う。
どちらでも旗を立てられる。
「これは」
ステファニアが言った。
「殿下側の周辺者ではなくなっていますね」
「はい」
クラウディアが答える。
「殿下本人の意向、周辺者整理、婚約解消協議の手続きから離れ、王家名誉と外部影響の旗へ移っています」
「割れましたわね」
アリシアが言った。
扇が、ぱちりと閉じる。
「殿下を守る旗から、王家を守る旗へ。王家を守る旗から、ファーランドを疑う旗へ。ファーランドを疑う旗から、信仰と外圧を語る旗へ」
リシアは、その言葉を聞きながら、公開連絡板の文字を見ていた。
もう、一つの旗ではない。
同じ布から裂けた複数の旗が、それぞれ別の風を受けている。
ジークフリート本人がどれほど止めても、別の旗の下へ移った者には届かない。
なぜなら、その者たちはもうジークフリートの言葉を聞いていない。
ジークフリートの名を使っているだけだ。
◇
その夜、ジークフリート側から再び限定連絡が出た。
宛先は、学院長府連絡窓口。
控えとして、王家儀礼局、アルヴィン、オスカー、ミリア、イレーネ。
そして、今回はステファニアにも写しが置かれていた。
表題は、王家名誉を名目とする外部確認要求について。
文面は、短く、重かった。
私、ジークフリート・オーラム・アレーナは、婚約解消協議に関し、私の名誉、王家の名誉、私への忠誠を名目として、ステファニア・レーヴェンハイト、レーヴェンハイト侯爵家、ファーランド大公家、信仰団体関係者、学院関係者へ公開確認、釈明、謝罪、出席要求を行うことを望まない。
私が正式協議開始を受けたことは、本人署名に基づく私の判断である。
これを、外部要因による強制、屈服、王家名誉の毀損として扱うことを認めない。
私の名誉は、私の言葉を越えて誰かを場へ引き出す理由ではない。
リシアは、文面を読み終えて、ゆっくり息を吐いた。
強い。
ジークフリートは、また踏み込んだ。
だが、これで止まるかは分からない。
いや。
たぶん、止まらない。
「殿下は、動いています」
ステファニアが言った。
声は静かだった。
「はい」
リシアは答える。
「動いています」
「それでも、届かない場所がある」
ステファニアは、表示を見つめたまま言った。
「そこが、限界なのですね」
その言葉に、誰もすぐには答えなかった。
アインも、アリシアも、クラウディアも。
答えを出すには、少し残酷な言葉だった。
やがて、アインが短く言った。
「届かない旗は、別の手で下ろすしかない」
リシアは、アインを見た。
「別の手」
「礼で下りないなら、規律。規律で下りないなら、責任。責任でも下りないなら」
アインは、そこで一度言葉を切った。
アリシアが、微笑む。
「名誉ですわね」
その響きは、穏やかではなかった。
リシアは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
決闘。
その言葉は、まだ誰も口にしていない。
けれど、もう部屋の中にあった。
◇
夜半前。
学院長府連絡窓口の受付欄に、もう一つの印が灯った。
差出人は、ラディム・クライン。
補正再提出。
表題は変わっていた。
王家名誉確認要求。
副題。
ジークフリート殿下本人署名文書に対する見解確認。
クラウディアが、淡々と読み上げる。
「先ほどのジークフリート殿下本人署名により、殿下が外部要因による強制を否定されたことは確認した。しかし、殿下がそのように書かざるを得ない立場に置かれている可能性は残る」
リシアは、言葉を失った。
本人が否定しても、本人が否定せざるを得ない立場だからだと言う。
これでは、どこにも戻れない。
本人の言葉が、本人の言葉として扱われない。
クラウディアは続ける。
「よって、王家名誉を守る立場から、ステファニア・レーヴェンハイト様に対し、婚約解消協議が殿下の自由意思を損なうものではないことを、公開の場で明言するよう求める」
ステファニアの顔が、わずかに白くなる。
だが、目は逸らさない。
「また、ファーランド大公家関係者が本件協議に影響を与えていないことを、同席者によって確認することを求める」
リシアは、手を握った。
同席者。
またぼかしている。
それなのに、誰を指しているかは分かる。
「最後です」
クラウディアが言った。
「本要求が再び退けられる場合、私は王家名誉を守る者として、学院規律の許す範囲で、公開の場における名誉確認の手段を求める」
部屋が静まり返った。
学院規律の許す範囲で。
公開の場における名誉確認。
リシアでも分かった。
これは、もうほとんど決闘の入口だ。
言葉だけは、まだ整えている。
剣を抜いたとは書いていない。
だが、柄に手をかけた。
いや。
半分、抜いた。
アリシアが、ゆっくり扇を開いた。
「よろしいですわ」
その声は、静かだった。
静かすぎて、怖かった。
「これで、旗の持ち主が見えました」
リシアは、表示を見る。
ラディム・クライン。
王家名誉。
公開確認。
ファーランド大公家関係者。
本人署名文書に対する見解確認。
言葉はまだ文書の形をしている。
だが、もう刃の影がある。
ステファニアは、静かに目を閉じた。
そして、開く。
「明日、学院長府へ確認します」
「はい」
クラウディアが答える。
「ただし」
ステファニアは続けた。
「私から名誉確認の場を求めることはありません。求められた時、どの範囲で受けるかを確認します」
アリシアが、満足そうに頷いた。
「よくできましたわ」
リシアは、ステファニアの横顔を見た。
怖いはずだ。
痛いはずだ。
けれど、彼女は自分から刃を取りに行かない。
向けられた刃の形だけを見る。
誰が。
どの名で。
何を求めたのか。
それを分ける。
リシアは、ようやく理解した。
割れる旗とは、ただ周囲が騒ぐことではない。
旗が割れた時、その下に立つ者の名が見えるということだ。
その名が、いま一つ、記録へ置かれた。
ラディム・クライン。
王家名誉を掲げた者。
ファーランドを巻き込もうとした者。
そして、まだ自分が刃を抜いていないと思っている者。
アリシアは扇を閉じた。
「明日は、少し忙しくなりますわね」
誰も笑わなかった。
外の夜は静かだった。
けれど、リシアには分かった。
静けさの中で、旗が裂ける音がしている。




