第八十三夜 返す名
第八十三夜 返す名
通信の準備が整うまでの時間は、ひどく短かった。
けれど、リシアには長く感じられた。
貸与邸の小応接には、前話の面談記録がまだ薄い表示として残っている。
周辺者統制。
婚約者名の扱い。
今後の発言責任。
ジークフリートは、逃げなかった。
だが、止められなかった。
そして、今後も完全には止められないと認めた。
それは、責めるための結論ではない。
けれど、続けるための結論でもなかった。
ステファニアは、表示を見ていない。
椅子にまっすぐ座り、両手を膝の上に重ねている。
背筋は伸びている。
顔色も、昨日ほど悪くない。
それでもリシアには分かった。
今、ステファニアは気持ちを支えているのではない。
言葉の順番を支えている。
父へ何をどう伝えるか。
どこまでを事実として置き、どこからを自分の意思として告げるか。
それを間違えないように、彼女は自分の内側を静かに整えている。
「接続します」
クラウディアが言った。
表示が変わる。
淡い光の向こうに、レーヴェンハイト侯爵家の応接室が映った。
ウィリアム・レーヴェンハイト侯爵は、すでに席についていた。
傍らには夫人の姿もある。
表情は落ち着いている。
だが、目だけが違った。
父の目だった。
娘が何か重いものを持ってくると知っている者の目だった。
「ステファニア」
「お父様」
ステファニアが頭を下げる。
「お母様」
「よく、顔を見せてくれました」
夫人の声は柔らかかった。
それだけで、リシアは少し胸が詰まった。
ステファニアは、ほんの一呼吸置いてから口を開く。
「本日、ジークフリート殿下と記録付き面談を行いました」
「聞こう」
ウィリアムは短く言った。
急かさない。
遮らない。
ただ、聞く姿勢を置く。
「話題範囲は、周辺者統制、婚約者名の扱い、今後の発言責任に限定しました。信仰団体への史料照会、帝国との戦火、ファーランド大公家に関する個別判断は別事案として扱っています」
「よい切り分けだ」
「ありがとうございます」
ステファニアは続ける。
「殿下は、ご自身の名、忠誠、守るという語を用いて第三者が私や私の周囲へ圧力をかけることを望まないと確認されました。イレーネ・バルシュ様の発言資格停止についても、私からの要請や私への配慮ではなく、殿下ご本人の発言統制上の判断であると確認されました」
そこまでは、記録の読み上げだった。
ウィリアムは黙って聞いている。
「そのうえで、今後、殿下の周囲が殿下の名を用いて私の名を扱うことを止められるかを問いました」
夫人の指先が、わずかに動いた。
ウィリアムの目も細くなる。
「殿下は、完全には止められないとお答えになりました」
沈黙が落ちた。
怒りの沈黙ではなかった。
悲しみとも少し違う。
父が、娘の置いた事実を受け止めている時間だった。
「ステファニア」
「はい」
「殿下は、嘘を言わなかったのだな」
「はい」
ステファニアは即答した。
「逃げずに、そうお認めになりました」
「そうか」
ウィリアムは、静かに息を吐いた。
「そこは、記録に残すべきだ」
「はい。私もそう考えています」
「そして、それでも足りないのだな」
「はい」
ステファニアの声は震えなかった。
「殿下が動かれたことと、私の名を守れることは別です」
ウィリアムは目を閉じた。
長くはない。
開いた時、その目は侯爵のものに戻っていた。
「お前の意思を聞こう」
「はい」
「家の判断ではなく、お前の意思だ」
ステファニアは、少しだけ背筋を伸ばした。
「婚約解消協議を始めたいと考えています」
言葉が、部屋に置かれた。
それは破裂しなかった。
怒鳴り声もない。
誰かが泣き崩れることもない。
ただ、重い名が一つ、丁寧に置かれた。
「理由は」
「この婚約が続く限り、私の名は殿下を守るためにも、殿下を責めるためにも、殿下の孤立を語るためにも使われ続けます」
ステファニアは言った。
「同時に、殿下の名も、私を押すために使われます。殿下が止めようとしても、周囲はそれを殿下の優しさ、苦渋、孤立として再解釈します」
「つまり」
「続けることが、互いの名を守る形になっていません」
ウィリアムは頷いた。
「殿下への感情は」
その問いは、父のものだった。
侯爵としてではない。
娘が傷ついていないかを知りたい者の問いだった。
ステファニアは、すぐには答えなかった。
リシアは、膝の上の指先を見る。
今日は布を握らなかった。
けれど、指先が少しだけ重なり直した。
「嫌ってはおりません」
ステファニアは答えた。
「逃げずに答えてくださったことを、尊重しています」
夫人が、目を伏せた。
「ですが、嫌っていないことと、婚約を続けることは別です」
「……そうだな」
ウィリアムの声は低かった。
「そこを混ぜれば、お前はまた誰かに使われる」
「はい」
「分かった」
ウィリアムは言った。
「レーヴェンハイト侯爵家は、お前の意思を受け取る」
ステファニアが頭を下げる。
「ありがとうございます」
「ただし、一つ確認する」
「はい」
「これは逃げではないな」
リシアは息を止めた。
厳しい問いだ。
だが、必要な問いでもある。
ステファニアは、まっすぐ父を見た。
「逃げではありません」
「では何だ」
「返すことです」
短い答えだった。
「婚約者という名を、殿下へ返します。私が投げ捨てるのではなく、殿下を傷つけるために使うのでもなく、これ以上、双方の周囲に乱用させないために返します」
ウィリアムの表情が、ほんの少しだけ変わった。
誇り。
痛み。
その両方が見えた。
「よく言った」
夫人が、そこで初めて声を出した。
「ステファニア」
「はい」
「帰ってきたら、少しだけ泣いてもよろしいのですよ」
ステファニアの目が、わずかに揺れた。
「……考えておきます」
「考えることではありません」
夫人の声は穏やかだった。
リシアは、少しだけ笑いそうになり、こらえた。
ステファニアも、ほんのわずかに口元を緩める。
ウィリアムが、静かに言った。
「正式手順は、こちらでも整える。だが、お前の言葉を先に置く。その上で家が支える」
「はい」
「相手を悪にしすぎるな」
「承知しています」
「だが、お前を悪にさせるな」
その言葉は、重かった。
ステファニアは深く頭を下げる。
「承知しました」
「よろしい」
ウィリアムは、クラウディアへ視線を移す。
「記録の写しを、正式経路で受け取りたい」
「学院長府封緘記録の要約確認後、本人承認分を送付します」
クラウディアが答える。
「感謝する」
通信は、そこで一度途切れた。
光が薄くなる。
小応接に戻ってきた静けさは、先ほどとは少し違っていた。
ステファニアは目を伏せたまま、ゆっくり息を吐く。
「終わりました」
「始まりました、ですわね」
アリシアが言った。
ステファニアは、顔を上げる。
「はい」
その返事は、もう揺れていなかった。
◇
次は、ファーランド大公家への参考共有だった。
これは承認を求めるものではない。
ファーランドの名が混ぜられている以上、何が起きているかを先に知らせるためのものだ。
ガリウス大公は、通信越しに話を聞き終えると、しばらく黙った。
隣には大公妃がいる。
リシアは、父の沈黙に少し身構えた。
ガリウスは考えている時、表情が薄くなる。
そして、そういう時ほどろくでもない手を思いついていることがある。
「父上」
「うむ」
「妙なことをお考えではありませんよね」
「まだ何も言っておらん」
「何も言っていない時の方が危険です」
大公妃が、横で静かに頷いた。
「リシアの言う通りです」
「お前たち」
ガリウスが少しだけ肩を落とす。
その様子に、場の空気がわずかに緩んだ。
しかし次の瞬間、大公の目に戻る。
「ステファニア嬢」
「はい」
「ファーランド大公家は、この件をお前の婚約解消要求の武器として扱わない」
ステファニアが目を伏せる。
「ありがとうございます」
「だが、我が家の名が混ぜられたことは記録する」
「はい」
「ファーランドの名を用いて王家を責めることも、王家を守ることも、我が家は許していない。必要なら、その確認を出す」
クラウディアが表示を切り替える。
「現時点では、公開確認は遅らせることを推奨します」
「理由は」
「今出すと、ファーランドが婚約解消協議へ圧力をかけたという語へ変換されます」
「なるほど」
ガリウスは、あっさり頷いた。
「では、内部記録に留める」
リシアは少し驚いた。
父なら、ここで一枚噛みたがると思っていた。
その表情を読んだのか、ガリウスがリシアを見る。
「何だ、その顔は」
「いえ」
「わしは何でもかんでも踊り出すわけではない」
「今、誰も踊りの話はしておりません」
大公妃が淡々と言った。
アリシアが、扇の陰で少しだけ笑っている。
重い話の途中なのに、なぜかリシアは肩の力が抜けた。
それもまた、父のやり方なのかもしれない。
「リシア」
「はい」
「これはステファニア嬢の手続きだ。お前は友人として側にいろ。ファーランドの名を背負って前に立つ必要はない」
リシアは、少しだけ息を呑んだ。
言われるまで、自分がそうしようとしていたことに気づかなかった。
ステファニア様を守らなければ。
ファーランドの名を混ぜられたなら、私も前に出なければ。
そう思いかけていた。
「はい」
リシアは答える。
「友人として、側にいます」
「それでよい」
ガリウスは頷いた。
「アリシア様」
「はい」
「娘を、よろしくお願いいたします」
「承りましたわ」
アリシアは、いつものように美しく礼をした。
「ただし、リシアは賢い子です。前へ出るべき時と、隣に立つべき時を、そろそろ自分で選べますわ」
リシアは、思わず背筋を伸ばした。
父が小さく笑う。
「それなら安心だ」
通信が切れる。
リシアは、閉じた表示をしばらく見つめていた。
攻撃ではない。
撤収でもない。
これは、名の置き場所を戻す作業なのだ。
自分が前へ出れば助かるとは限らない。
むしろ、また名が混ざる。
リシアは、ようやくそのことを腹の底で理解した。
◇
午後、学院長府封緘記録の要約確認が行われた。
場所は貸与邸ではなく、学院本館の小記録室。
昨日と同じように、記録官が要点を読み上げる。
だが、今日は読み上げられる言葉の一つ一つが、正式手続きの材料になっていた。
ジークフリート本人は、周辺者による名の利用を望まない。
ジークフリート本人は、過去の措置を自分の発言統制上の判断として確認した。
ジークフリート本人は、今後完全に止められるとは約束できないと認めた。
ステファニアは、ジークフリート本人の努力と記録を尊重する。
ステファニアは、婚約継続が互いの名を傷つける構造を生むと確認した。
記録官が顔を上げる。
「この要約で、双方への確認に回します」
「お願いします」
ステファニアが答える。
その横で、リシアは要約の最後の文を見ていた。
婚約継続が互いの名を傷つける構造を生む。
感情の言葉ではない。
だが、十分に痛い。
リシアは、隣のステファニアを見た。
ステファニアの指は、膝の上で静かに重ねられている。
震えてはいない。
けれど、親指だけが、もう片方の指の節をゆっくりとなぞっていた。
硬い言葉で読まれるほど、逃げ場がなくなる。
それを一番よく分かっているのは、たぶん本人だった。
クラウディアが小さく表示を開く。
「ジークフリート殿下側にも同時送付されました」
「反応は」
アリシアが問う。
「アルヴィン・ラーデン様が受領。本人確認へ回すとのことです」
「本人が先に読むべきですわね」
「はい」
ステファニアは、何も言わなかった。
その沈黙を、誰も急かさない。
しばらくして、クラウディアの表示が淡く光った。
「ジークフリート殿下本人署名で、要約確認を受領。異議なし」
リシアは、少しだけ目を閉じた。
異議なし。
それは、また一つ逃げ道が閉じたということだった。
だが、同時に礼が通ったということでもある。
ジークフリートは、ここでも逃げなかった。
「次へ進めます」
クラウディアが言った。
ステファニアは頷く。
「はい」
◇
正式協議日程提示の文面は、驚くほど短くなった。
長い説明を入れようとすれば、いくらでも入れられる。
これまでの経緯。
周辺者の発言。
公開連絡板の再解釈。
学院長府の周知。
面談記録。
要約確認。
それらを全て書けば、文面は重くなる。
だが、アリシアは首を振った。
「長い文は、長いほど切り取られますわ」
「では、短く」
ステファニアが言う。
「ええ。短く、逃げ道なく」
クラウディアが草案を出す。
表題。
婚約解消協議開始の申入れ。
発信者。
ステファニア・レーヴェンハイト。
宛先。
ジークフリート・オーラム・アレーナ。
控え。
アルヴィン・ラーデン。
学院長府連絡窓口。
レーヴェンハイト侯爵家正式窓口。
必要に応じて、アレーナ王家儀礼局。
内容。
本日付学院長府封緘記録の要約確認に基づき、婚約継続が双方の名を傷つける構造を生むことを確認したため、礼を尽くした婚約解消協議の開始を申し入れる。
これは、ジークフリート殿下個人への非難ではなく、ステファニア・レーヴェンハイト本人の意思による名の整理である。
協議においては、双方の名誉、家門、王家との礼、学院内記録、今後の発言責任を分けて扱う。
信仰団体への史料照会、帝国との戦火、ファーランド大公家に関する個別判断は、協議対象外とする。
リシアは読み終えて、息を吐いた。
短い。
けれど、重い。
そして、徹底して分けている。
「これで、よろしいでしょうか」
ステファニアが問う。
アリシアは扇を閉じた。
「一点だけ」
「はい」
「非難ではない、と書くと、非難ではないと言わなければならないほど非難なのだと読む者が出ますわ」
リシアは思わず額を押さえそうになった。
確かに。
ここまで来ると、どの言葉も裏返される。
「では、削りますか」
ステファニアが問う。
「削りましょう。代わりに、本人の意思による名の整理、とだけ置きます」
クラウディアが即座に修正する。
これは、ステファニア・レーヴェンハイト本人の意思による名の整理である。
「こちらの方がよいですわ」
アリシアが頷く。
「相手を悪にしないことは、文で弁明するものではありません。手順で示すものです」
ステファニアは深く頷いた。
「承知しました」
アインは、少し離れた席で黙って見ていた。
今日も多くは話さない。
だが、表示を見る目は鋭い。
「どう思われますか」
ステファニアが問う。
アインは短く答えた。
「いい」
「理由を伺っても」
「相手を殴る文じゃない。だが、掴まれる場所も少ない」
アリシアが少しだけ笑った。
「殿下らしい評ですわね」
「分かりやすいだろ」
「ええ。とても」
リシアは、少しだけ肩の力を抜いた。
そのやり取りがあるだけで、部屋の空気が少し呼吸を取り戻す。
ステファニアも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「では、送付します」
クラウディアが確認する。
ステファニアは表示へ手を伸ばした。
指先が、認証面に触れる。
淡い光が走る。
本人署名。
送付。
学院長府連絡窓口の受付欄に、淡い印が灯った。
相手方確認待ち。
リシアは、その印を見つめた。
昨日の面談希望の時も、同じように待った。
だが、今日の待ち時間は昨日より静かだった。
なぜだろう。
もう決めているからかもしれない。
相手の返答によって、自分の足場が揺れる段階を越えたのかもしれない。
やがて、受付欄の印が変わる。
相手方確認済。
そして、しばらくして本人署名付きの短い返答が連絡窓口へ添えられた。
受領した。
正式協議開始を受ける。
話題範囲を確認した。
双方の名誉を損なわぬよう、学院長府および王家儀礼局を通じて日程を整える。
ジークフリート・オーラム・アレーナ。
ステファニアは、それを読んだ。
長くは見なかった。
ただ一度だけ、静かに目を伏せる。
「ありがとうございます」
今度の礼は、誰へ向けたものか分かった。
ジークフリートへだ。
受け取ったこと。
受けたこと。
そこで余計な言葉を足さなかったこと。
そのすべてへの礼だった。
◇
外は、すぐに動き始めた。
もちろん、正式文面そのものは公開されていない。
学院長府封緘記録も、協議申入れも、範囲の限られた正式経路にしか流れていない。
それでも、空気は漏れる。
誰かが廊下で立ち止まる。
誰かが急に声を落とす。
誰かが、こちらを見て、すぐ目を逸らす。
装身型端末の端には、クラウディアが拾った語彙だけが細く出ていた。
返した。
切った。
逃げた。
責めた。
殿下が受けた。
侯爵家が動いた。
ファーランドが裏にいる。
リシアは、最後の語で息を止めた。
まただ。
混ぜられる。
どれほど分けても、混ぜようとする語は来る。
「見すぎないでください」
アリシアが言った。
リシアは顔を上げる。
「はい」
「今見るべきものは、語そのものではありませんわ」
「では、何を」
「誰が、どの語を、誰の名と並べたか」
昨日、アインが言ったことと同じだった。
混ざった記録も残せ。
誰が、いつ、どの名を、どの名と並べたか。
「クラウ」
「はい」
「分けた記録と、混ぜられた記録。両方を継続してください」
「継続中です」
「それから」
アリシアの声が、少しだけ低くなる。
「婚約解消協議に対して、直接の反対ではなく、殿下の名誉、信仰、ファーランド、帝国戦火を同じ文に置いた者を別枠で拾ってください」
「決闘火種候補ですか」
クラウディアが、何の感情もなく問う。
リシアは思わず二人を見た。
決闘。
その言葉が、あまりにも自然に出た。
アリシアは扇を開く。
「まだ刃を抜く段階ではありませんわ」
にこりと笑う。
「柄に手をかけた者の名だけ、見ておきなさい」
クラウディアは、当然のように頷いた。
「承知しました」
リシアは、背筋が少し冷えた。
アリシアは、表では礼を尽くしている。
誰よりも丁寧に、誰よりも正しい手順を踏んでいる。
だが、その手順の外側で、もう次の盤面を見ている。
誰が踏み越えるか。
誰が混ぜるか。
誰が、名を刃に変えるか。
それを静かに待っている。
「アリシア様」
リシアは、思わず問うた。
「それは、踏み越えさせるためですか」
アリシアは、リシアを見る。
笑みは消えていない。
けれど、目だけが少し違った。
「いいえ」
短い答えだった。
「踏み越えない者は、そのまま帰しますわ」
「では」
「踏み越える者は、止めます」
扇が、静かに閉じる。
「ただし、止める時に、誰が何を踏み越えたのか分からない止め方はいたしません」
リシアは、言葉を失った。
それは、罠ではない。
だが、逃げ道のない記録だ。
アリシアは、誰かを罪に落とすために待っているのではない。
誰かが罪を曖昧なまま使い逃げることを許さないだけだ。
「怖いです」
リシアは、正直に言った。
アリシアは、少しだけ楽しそうに目を細めた。
「ええ」
「否定しないのですね」
「怖くない政治など、ただの願望ですわ」
その言葉に、ステファニアが小さく息を吐いた。
笑ったのか、呆れたのか。
たぶん、両方だった。
◇
夕刻、学院長府から短い確認が届いた。
表題は、婚約解消協議に関する未確認流布の禁止。
内容は、いつものように端的だった。
ジークフリート・オーラム・アレーナとステファニア・レーヴェンハイトの間で、正式経路による協議開始手続きが進行中である。
協議内容、原因、責任、家門関係、信仰団体、外部戦火、ファーランド大公家の関与について、学院長府未確認情報を流布してはならない。
本人確認なき推測、第三者名義による代弁、特定個人・家門・信仰団体への圧力は学院規律違反として扱う。
リシアは、その周知を読んで、昨日と同じことを思った。
学院も動いている。
だが、これで止まるわけではない。
やはり、公開連絡板はすぐに反応した。
協議開始手続き。
つまり、実質的な破棄ではないのか。
未確認流布を禁じるほど、何を隠したいのか。
殿下の名誉は誰が守るのか。
信仰への圧力と同じ構図ではないか。
ファーランドの影響を問うことまで禁じるのか。
リシアは目を閉じた。
また、混ざる。
だが、昨日とは違った。
今日は、全部を受け止めようとは思わなかった。
誰が。
どの語を。
どの名と並べたか。
その三つだけを見る。
見るべきものを絞ると、息がしやすくなる。
リシアは表示を閉じ、ステファニアを見た。
ステファニアは、同じ表示を読んでいた。
表情は静かだった。
苦しんでいないわけではない。
だが、今は流されていない。
「ステファニア様」
「はい」
「これは、攻撃ではないのですね」
ステファニアは、リシアを見た。
「はい」
迷いのない返事だった。
「攻撃ではありません。ですが、守るために引く線です」
「線」
「はい」
ステファニアは言った。
「これ以上、私の名で殿下を責めないための線。殿下の名で私を押させないための線。そして、ファーランドの名を、この婚約の理由にも原因にもさせないための線です」
リシアは頷いた。
やっと分かった気がした。
名を返すとは、後ろへ下がることではない。
手放すことでもない。
置き場所を戻すことだ。
婚約者という名を、誰かの武器置き場にしないために。
リシアは、静かに息を吸った。
「私も、見ます」
「リシア様」
「前には出ません。混ぜません。ですが、側で見ます」
ステファニアは、少しだけ微笑んだ。
「ありがとうございます」
セラが扉の近くで頷く。
「護衛としても、その方が助かります」
「セラ」
「前に出る人数が増えるほど、守る範囲が広がります」
あまりにも実務的な言い方だった。
リシアは少しだけ笑ってしまう。
ステファニアも、今度は素直に笑った。
アリシアが、それを見て満足そうに扇を閉じる。
「では、次は割れる旗を見ますわ」
その言葉に、部屋の空気が少し冷える。
「割れる旗」
リシアが繰り返す。
「ええ」
アリシアは穏やかに言った。
「殿下を守ると言う旗。ステファニア様を責める旗。王家を案じる旗。信仰を守る旗。ファーランドを疑う旗」
扇の先が、ひとつずつ見えない名を指す。
「旗は、同じ風を受けても同じ方向へは向きません」
リシアは、公開連絡板の語彙を思い出した。
もう、一つ一つを真正面から受け取らない。
誰が、どの語を、どの旗の下へ置いたのか。
見ればよい場所は、そこだけだった。
そしてそれらは、もう一つの場所へ集まり始めている。
次に割れるのは、ジークフリートの周囲だ。
その予感があった。
そしてその先に、誰かが越えてはいけない線を越える。
リシアは、まだそれを知らない。
けれど、アリシアはもう見ている。
クラウディアも、記録を取り始めている。
アインは、窓の外を見ていた。
何も言わない。
ただ、手元の表示だけが淡く光っている。
混ぜられた名。
返される名。
割れていく旗。
そのすべてが、静かに次の場へ流れ込んでいた。




