第八十二夜 最後の確認
第八十二夜 最後の確認
朝の空気は、妙に澄んでいた。
貸与邸の窓から見える学院の庭は、いつもと変わらない。
噴水の水音。
手入れされた芝。
白い石畳。
遠くを歩く学生たちの制服。
けれど、リシアには、その静けさがいつもより薄く感じられた。
触れれば破れそうな膜のような静けさだった。
昨夜の最後の確認という言葉が、まだ耳に残っている。
ステファニアは、朝食の席でも姿勢を崩さなかった。
温かい茶を一口飲み、焼いた薄切りパンへ少しだけ蜂蜜を塗り、淡々と食べている。
その所作は綺麗だった。
いつものステファニアだ。
だからこそ、リシアは何度も彼女の指先を見てしまった。
昨夜、膝の上の布を一度だけ握った指先。
すぐに離された、ほんのわずかな動き。
あれを見なければ、リシアはきっと、ステファニアが平気なのだと思い込もうとしていた。
だが、平気なはずがない。
「リシア様」
ステファニアが、こちらを見た。
「はい」
「そのように見られると、食べにくいです」
「……申し訳ありません」
リシアは小さく頭を下げた。
ステファニアは、少しだけ笑った。
「お気遣いは嬉しく思います」
「はい」
「ですが、今日必要なのは、気遣いよりも記録です」
声は穏やかだった。
けれど、そこに逃げ道はなかった。
リシアは背筋を伸ばす。
「分かりました」
「私が聞き落とした時は、後で教えてください」
「必ず」
ステファニアは頷き、また茶器を手に取った。
その隣で、セラはいつものように周囲を確認している。
食卓の端には、クラウディアの表示が静かに開かれていた。
「公開連絡板は」
アリシアが問う。
「昨夜から継続して監視しています」
クラウディアが答える。
「面談希望そのものは、まだ公開情報ではありません。ただし、周辺では本日何らかの確認があるという推測が流れています」
「流した者は」
「特定中です。発信源は三系統に分かれていますが、語尾と接続語が近いものがあります」
表示に短い文が並ぶ。
殿下が婚約者と話すらしい。
侯爵令嬢が最後の確認を求めたらしい。
殿下は逃げないと返したらしい。
婚約者が殿下を追い詰めるのか。
殿下が婚約者を切るのか。
リシアは眉を寄せた。
まだ何も始まっていない。
なのに、もう意味が付けられ始めている。
「早いですね」
「早いです」
クラウディアは否定しない。
「面談そのものより、面談があるらしいという空白の方が使いやすいのでしょう」
「空白」
「はい。内容が分からない間は、好きな形を置けます」
リシアは昨日の講義を思い出した。
何が起きたのか。
誰が発言したのか。
どの権限で動いたのか。
どこから先が推測なのか。
分けなければならない。
分けなければ、空白は誰かの都合で埋められる。
「本日の面談は、学院本館の記録室付き小応接で行います」
クラウディアが続ける。
「学院長府立会人一名、双方記録担当各一名。参加者は、ジークフリート殿下、ステファニア様、リシア様、アリシア様、セラ様、アルヴィン・ラーデン様、クラウディアです」
「アイン様は」
リシアが問うと、アインは窓際で茶を飲みながら答えた。
「外す」
短い答えだった。
「よろしいのですか」
「俺がいると、話が変わる」
確かにそうだ。
アインが同席すれば、どれほど黙っていても、場の重さが変わる。
ベルカ皇族。
アリシアの婚約者。
ファーランドの礎石の儀で、初代大公ガルフへ酒を捧げた者。
そして今、学院内でさえ名を混ぜられ始めている一人。
その全てが、小応接の席に座ることになる。
「これは、ステファニアとジークフリートの確認だ」
アインは言った。
「俺の名を混ぜる必要はない」
リシアは頷いた。
混ぜない。
ここでも、それが大事なのだ。
「ただし」
アインはステファニアを見た。
「無理に強く立つな」
ステファニアが、少しだけ目を瞬いた。
「強く立つことも、礼の一部だと教えられてきました」
「折れないことと、折れていないふりをすることは違う」
短い言葉だった。
ステファニアは、すぐには答えなかった。
しばらくして、静かに頭を下げる。
「承知しました」
アリシアが、扇を開かずに膝の上で指先だけ動かした。
満足しているのか、心配しているのか。
リシアには分からない。
ただ、アリシアの目はずっとステファニアを見ていた。
◇
学院本館の記録室付き小応接は、昨日の講義室よりずっと静かだった。
白い壁。
薄い青の敷物。
中央に置かれた楕円の卓。
壁際には、学院長府の記録官が一人座っている。
卓上には、話題範囲を示す薄い板が置かれていた。
周辺者統制。
婚約者名の扱い。
今後の発言責任。
それ以外は、別事案として扱う。
リシアは、その文字を見て少し息を整えた。
分けるための文字だ。
この文字があるだけで、場の形が変わる。
先に到着していたのは、ジークフリート側だった。
ジークフリートは立って待っていた。
アルヴィンも後ろにいる。
今日は、アルヴィンが前へ出ていない。
それだけで、リシアは少し驚いた。
ジークフリートの顔には疲れがあった。
けれど、視線は逃げていない。
「お越しいただき、ありがとうございます」
ジークフリートが言った。
王子としての礼。
そして、一人の相手へ向ける礼。
その二つが、今日はいつもよりはっきり分かれているように見えた。
「ご同席をお受けくださり、ありがとうございます」
ステファニアが応じる。
席に着く。
リシアはステファニアの右少し後ろ。
セラはさらに外側。
アリシアは、ステファニアの隣ではなく、少し斜め後ろの席を選んだ。
支える席ではない。
見届ける席だ。
クラウディアは記録担当として、壁際に近い位置へ立つ。
学院長府の記録官が口を開いた。
「本面談は、双方の同意により記録されます。話題範囲は、周辺者統制、婚約者名の扱い、今後の発言責任に限ります。信仰団体への史料照会、帝国との戦火、ファーランド大公家に関する個別判断は、別窓口の事案として扱います」
確認の言葉が置かれる。
「異議はありますか」
「ありません」
ジークフリートが答える。
「ありません」
ステファニアも答えた。
記録官が頷く。
「では、発言順はステファニア・レーヴェンハイト侯爵令嬢の申請に従い、申請者側から始めます」
ステファニアは、一度だけ息を吸った。
その音は小さかった。
けれど、リシアには聞こえた。
「ジークフリート殿下」
「はい」
「本日は、三つ確認いたします」
「承知しています」
「一つ目。殿下は、ご自身の名、忠誠、守るという語を用いて、第三者が私や私の周囲へ圧力をかけることを望まない。これは現在も変わりありませんか」
「変わりありません」
ジークフリートは即答した。
「二つ目。イレーネ・バルシュ様を周辺発言者名簿から一時除外し、殿下の意向を含む発言資格を停止した判断は、私からの要請でも、私への配慮でもなく、殿下ご本人の発言統制上の判断である。これも変わりありませんか」
「変わりありません」
「三つ目」
ステファニアの声が、ほんの少しだけ低くなる。
「それでも、公開連絡板および周辺会話では、殿下の判断が私への配慮、私による圧力、あるいは私を原因とする殿下の孤立として扱われています」
「……はい」
ジークフリートは、少し遅れて答えた。
「その現状を、殿下は確認されていますか」
「確認しています」
「では、次に問います」
ステファニアは、目を逸らさない。
「殿下は今後、ご自身の周囲が、殿下の名を用いて私の名を扱うことを止められますか」
部屋が静かになった。
リシアは息を止めた。
それは責める言葉ではなかった。
だが、逃げる場所をなくす問いだった。
ジークフリートはすぐには答えなかった。
アルヴィンがわずかに視線を落とす。
助け舟を出さない。
今日は、出してはいけない。
「止める努力はします」
ジークフリートが言った。
ステファニアは、静かに頷く。
「努力ではなく、結果を伺っています」
ジークフリートの唇が、わずかに動いた。
痛みのようなものが、その顔に走る。
「完全には、止められていません」
「今後は」
「……止めると約束したい」
ジークフリートは言った。
「だが、今の私に、完全に止められると言えば嘘になる」
リシアは胸の奥が痛くなった。
それは正しい答えだった。
そして、残酷な答えだった。
ステファニアは、目を伏せない。
「ありがとうございます」
その礼は、冷たくなかった。
むしろ、温かかった。
「嘘を仰らなかったことに、感謝いたします」
ジークフリートは、何かを堪えるように小さく息を吐いた。
「私は」
彼は言いかけた。
そこで一度、言葉を止める。
記録官が筆を止めずに待っている。
クラウディアの表示も、静かに動いている。
「私は、遅かった」
ジークフリートは言った。
「周囲が私のために動くことを、善意として受け取りすぎた。止めるべき時に、止めなかった。止めたつもりで、通ったかどうかを確認しなかった」
アルヴィンの手が、膝の上でわずかに強く握られる。
ジークフリートは続ける。
「その結果、あなたの名が使われた」
「はい」
「あなたの名だけではない。私の名も、あなたを押すために使われた」
「はい」
「それを止められなかった責任は、私にあります」
リシアは、ステファニアを見た。
ステファニアの表情は崩れていない。
けれど、まつ毛の影が少し濃く見えた。
「殿下」
ステファニアが言った。
「私は、殿下が何もなさらなかったとは思っておりません」
「……そう言ってもらえる資格が、私にあるだろうか」
「資格ではありません。記録です」
ステファニアは答える。
「殿下は、書状を出されました。周辺者発言停止と確認手順も置かれました。イレーネ様の発言資格も停止されました。誤認訂正もされました。本日も、逃げずにこの席へお越しくださいました」
ジークフリートは黙って聞いている。
「それらは、殿下の記録です」
「ならば」
ジークフリートの声が、少しだけ揺れた。
「ならば、まだ続ける道はないだろうか」
その問いに、リシアは目を伏せそうになった。
来ると分かっていた。
それでも、聞くと痛い。
ステファニアは、すぐには答えなかった。
沈黙が落ちる。
責めるための沈黙ではない。
言葉を選ぶための沈黙だった。
「殿下」
ステファニアは、静かに言った。
「私は、殿下を嫌っているわけではありません」
ジークフリートの目がわずかに動く。
「むしろ、今日ここで嘘を仰らなかったことを、私は尊重いたします」
「では」
「だからこそです」
ステファニアの声は、柔らかかった。
柔らかいまま、決して曲がらない。
「嫌っているなら、もっと簡単でした。怒りに任せて、殿下を責めることもできたでしょう。ですが、私はそうしたくありません」
リシアは、胸が詰まった。
これは、罰ではない。
攻撃でもない。
ステファニアが昨日までに何度も示してきた通りだ。
「私は、殿下の名を、私のために壊したくありません」
ステファニアは言った。
「同時に、私の名を、殿下の周囲の善意や忠誠のために壊されたくもありません」
ジークフリートは答えない。
「この婚約が続く限り、私の名は殿下の周囲にとって使いやすい名であり続けます。殿下を守るためにも、責めるためにも、孤立を語るためにも、忠誠を示すためにも」
ステファニアの指先が、膝の上で一度だけ動いた。
リシアは見逃さなかった。
「そして、殿下がそれを完全には止められないと、今、確認しました」
ジークフリートは目を閉じた。
短い。
ほんの一呼吸。
それから、目を開ける。
「反論したい」
彼は言った。
「私は、それでもあなたを守ると言いたい」
「はい」
「だが、守るという語が、今どのように使われているかも分かっている」
「はい」
「だから、軽く言えない」
「はい」
ステファニアは頷く。
その一つ一つが、ジークフリートの言葉を受け止めていた。
切り捨ててはいない。
だが、戻してもいない。
「私からも確認したいことがある」
ジークフリートが言った。
記録官が顔を上げる。
「話題範囲内です」
ジークフリートは確認してから、ステファニアを見る。
「あなたは、私が王子でなければ、違う答えを選んだだろうか」
リシアは息を呑んだ。
それは、王子としてではない問いだ。
一人の人間としての問い。
ステファニアは、少しだけ目を伏せた。
今度は、すぐに上げない。
長くはなかった。
それでも、その沈黙は今日いちばん重かった。
「分かりません」
ステファニアは答えた。
ジークフリートの顔に、わずかな痛みが浮かぶ。
「ですが」
ステファニアは続ける。
「殿下が王子でなければ、私も侯爵家の娘ではなく、ファーランドと繋がる家の者でもなく、ここまで多くの名を背負ってはいなかったでしょう」
「……そうだな」
「私たちは、名を持って出会いました」
ステファニアは言った。
「名を持たない私たちを仮定しても、答えにはなりません」
ジークフリートは、ゆっくり頷いた。
「では、もう一つ」
「はい」
「私自身のことは」
彼は、少しだけ言葉に詰まった。
「私自身のことは、どう見ている」
アルヴィンが、ほんの少し顔を上げた。
リシアも、アリシアも、セラも、誰も口を挟まない。
この問いは、本人から本人へ向けられたものだ。
ステファニアは、まっすぐにジークフリートを見た。
「逃げずに座っている方です」
短い答えだった。
ジークフリートの目が、わずかに揺れる。
「遅く、足りず、止めきれなかった。けれど、逃げずに座っている方です」
リシアは、その言葉がひどく優しいと思った。
優しい。
だが、優しいからこそ痛い。
ジークフリートは、しばらく何も言わなかった。
やがて、深く息を吐く。
「それは、救いだろうか」
「分かりません」
ステファニアは言った。
「ですが、嘘ではありません」
ジークフリートは、少しだけ笑った。
苦い笑みだった。
「あなたらしい」
「殿下も、今日は殿下ご自身の言葉でお話しくださっています」
「遅いな」
「遅いです」
ステファニアは、そこで初めてはっきりと言った。
部屋の空気が、一瞬だけ止まる。
ジークフリートは頷いた。
「そうだ」
その返事もまた、逃げていなかった。
◇
面談は、そこで一度休止された。
学院長府の記録官が、ここまでの要点を読み上げる。
ジークフリート本人は、周辺者による名の利用を望まず、過去に複数の制止措置を行った。
しかし、その措置は再解釈され、ステファニアの名とジークフリートの名はなお周辺者によって用いられている。
ジークフリート本人は、今後完全に止められるとは約束できないと認めた。
ステファニアは、ジークフリート本人の努力と記録を尊重しつつ、婚約継続が互いの名を傷つける構造を生むと確認した。
読み上げられる言葉は、冷静だった。
感情を持たない。
けれど、そこに置かれた事実は重い。
記録官が確認を求める。
「異議はありますか」
「ありません」
ステファニアが答える。
ジークフリートは少し遅れて、
「ありません」
と答えた。
その瞬間、リシアは、何かが静かに決まったのだと思った。
まだ婚約解消とは言っていない。
誰も破棄という言葉を使っていない。
だが、婚約を続けるための言葉ではなくなっている。
続けるための努力を確認した結果、続けることが互いを傷つけるという場所へ来てしまった。
「本日の面談記録は、双方確認後、学院長府封緘記録として保管します」
記録官が告げる。
「外部への要約を出す場合は、双方の承認を必要とします」
「承知しました」
ステファニアが答える。
ジークフリートも頷いた。
席を立つ前に、ステファニアが言った。
「殿下」
「はい」
「本日は、ありがとうございました」
ジークフリートは、痛みを堪えるように目を細めた。
「礼を言われることではない」
「いいえ」
ステファニアは首を振る。
「逃げずに答えてくださいました。それには、礼を申し上げます」
ジークフリートは、しばらくステファニアを見ていた。
「私も、礼を言う」
彼は言った。
「私を、ただ悪者にしないでくれた」
「悪者にする方が、楽でした」
ステファニアは答えた。
「ですが、それは事実ではありません」
ジークフリートは、ほんの少しだけ笑った。
「やはり、あなたらしい」
その声は、少しだけ掠れていた。
アルヴィンが一歩進み出る。
だが、ジークフリートは手で制した。
「大丈夫だ」
その言葉は、アルヴィンへ向けたものだった。
そして、たぶん自分自身へ向けたものでもあった。
◇
小応接を出ると、廊下はやはり静かだった。
静かすぎるほどだった。
誰も近づいてこない。
学院長府が人払いをしたのだろう。
けれど、装身型端末の端には、既に細い表示が走っていた。
面談終了。
双方異議なし。
外部要約未承認。
公開不可。
公開不可。
その文字が出るだけで、すでに何かが漏れそうな気配がある。
リシアは、表示を閉じた。
今は見すぎてはいけない。
ステファニアは、廊下の途中で足を止めた。
「ステファニア様」
リシアが声をかける。
ステファニアは振り返らずに言った。
「少しだけ」
その声が、ほんの少しだけ震えていた。
リシアは口を閉じた。
セラも動かない。
アリシアも、扇を開かない。
ステファニアは、白い廊下の窓辺に立ち、外を見た。
庭では学生たちが歩いている。
今日も学院は動いている。
誰かの婚約が終わりへ向かおうとしていても、誰かの名がほどかれようとしていても、庭の噴水は変わらず水を上げている。
「嫌いになれたら、簡単でした」
ステファニアが言った。
小さな声だった。
けれど、今度は隠さなかった。
「はい」
リシアは答えた。
「けれど、嫌いではありません」
「はい」
「だから、きちんと返さなければなりません」
リシアは胸が痛くなった。
返す。
名を返す。
婚約者という名を。
相手を嫌うためではなく。
相手と自分を、これ以上壊させないために。
「ステファニア様」
リシアは、少し迷ってから言った。
「私は、側にいます」
ステファニアが、ゆっくり振り返る。
目は赤くなっていない。
涙もない。
ただ、いつもの彼女より少しだけ、年相応に見えた。
「ありがとうございます、リシア様」
ステファニアは微笑んだ。
「その言葉は、今は記録しなくてもよろしいですか」
リシアは一瞬固まり、それから小さく息を漏らした。
「はい。私的記録に留めます」
「それなら、助かります」
セラが、ほんの少しだけ眉を動かした。
「護衛記録にも残しません」
「セラ」
「私的な言葉と判断しました」
真面目な顔で言われ、リシアは少しだけ笑ってしまった。
ステファニアも、ほんのわずかに笑う。
重い空気の中で、その笑みは小さかった。
けれど、確かにあった。
アリシアが、そこでようやく扇を開いた。
「よろしい」
声音は穏やかだった。
「泣かずに済ませることだけが、強さではありませんわ。笑えたなら、それも十分です」
ステファニアは、深く礼をした。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早いですわ」
アリシアは、扇の陰で目を細める。
「次は、正式な手順です」
その言葉で、リシアの背筋が伸びた。
そうだ。
今日の面談は終わりではない。
最後の確認だった。
確認が終わったなら、次は手続きが始まる。
◇
貸与邸へ戻ると、アインは小応接で待っていた。
窓際ではなく、今日は卓の前に座っている。
クラウディアから既に概要を受け取っているのだろう。
リシアたちが入ると、彼はステファニアを見た。
「終わったか」
「はい」
ステファニアが答える。
「最後の確認は、終わりました」
アインは頷いた。
「どうだった」
短い問いだった。
だが、何を聞いているのかは分かった。
記録ではなく。
ステファニア自身が、どう受け取ったのか。
ステファニアは少し考えた。
「殿下は、逃げませんでした」
「そうか」
「ですが、止められませんでした」
「そうか」
「そして、ご自身もそれを認めました」
「なら、次に進める」
アインは言った。
冷たくはない。
ただ、事実を置く声だった。
「進むべきだと思います」
ステファニアは答えた。
アリシアが頷く。
「では、名を返す準備に入りましょう」
「はい」
ステファニアは、はっきりと答えた。
リシアは、その横顔を見た。
昨日までのステファニアと、同じ人だ。
けれど、何かが変わっている。
支えられる婚約者ではない。
周囲に名を使われる人でもない。
自分の手で、自分の名を持ち直そうとしている人だ。
クラウディアが表示を開く。
「手順案を提示します」
淡々とした声が、小応接に置かれた。
「レーヴェンハイト侯爵家への本人報告。ファーランド大公家への参考共有。学院長府封緘記録の要約確認。ジークフリート殿下側への正式協議日程提示。王家筋への書式確認」
表示に項目が並ぶ。
それは、感情を削った手続きの列だった。
だが、今日のリシアには、それが冷たいものには見えなかった。
感情があるからこそ、手続きがいる。
礼を尽くすために、順番がいる。
壊さないために、記録がいる。
「本日中に、どこまで進めますか」
クラウディアが問う。
ステファニアは表示を見る。
それから、静かに言った。
「レーヴェンハイト侯爵家への本人報告から」
「承知しました」
「父には、私の言葉で伝えます」
その声は震えていなかった。
アインが、少しだけ目を細める。
「いい」
短い承認。
ステファニアは、深く息を吸った。
リシアは、その隣に立つ。
アリシアは扇を閉じる。
セラは扉の近くへ移動する。
クラウディアは通信準備へ入る。
外では、学院の鐘が鳴った。
最後の確認は終わった。
名を返すための最初の手続きが、始まろうとしていた。




