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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第八十一夜 混ぜられる名

第八十一夜 混ぜられる名


 朝の表示は、昨日より静かだった。


 だからこそ、リシアは嫌な予感を覚えた。


 公開連絡板の書き込み数そのものは減っている。


 ジークフリートが出した誤認訂正が効いたのだろう。


 少なくとも、イレーネ・バルシュが自ら身を退いた、忠誠のために名を捨てた、といった美談化は一度勢いを失っている。


 だが、薄い表示に流れる語彙は、前日より悪くなっていた。


 原因。


 責任。


 孤立。


 婚約者。


 聖女。


 信仰。


 ファーランド。


 帝国。


 そして、外圧。


 リシアは朝食の席で、その最後の言葉を見つめた。


「外圧」


 声に出すと、ステファニアが視線を向けた。


「増えていますか」


「はい」


 クラウディアが答える。


「昨日の夜半から急増しています。ただし、使われ方が一定ではありません」


 表示が切り替わる。


 殿下への外圧。


 信仰への外圧。


 学院への外圧。


 王国への外圧。


 ファーランドによる外圧。


 帝国との戦火を口実にした外圧。


 リシアは眉を寄せた。


 同じ言葉なのに、向いている先がばらばらだ。


 殿下を守るために外圧を退けるべき。


 信仰を守るために外圧へ屈してはならない。


 学院は外圧に左右されず公平であるべき。


 ファーランドの影響が王国の判断へ及びすぎているのではないか。


 帝国との戦火が広がる中、内側で王子を弱めてよいのか。


 それらの文は、別々の人間が書いたように見える。


 口調も違う。


 長さも違う。


 だが、読んだ後に残る形が似ている。


「同じ場所へ寄せていますね」


 ステファニアが言った。


「はい」


 クラウディアは、表示の端に線を引く。


 細い線が、複数の語を繋いだ。


 殿下。


 婚約者。


 聖女。


 信仰。


 ファーランド。


 帝国。


「昨日までは、守るという語で周囲が善意の位置へ立っていました」


 クラウディアが続ける。


「今日は、原因という語で複数の名が同じ場所へ寄せられています」


「原因」


 リシアは、胸の奥が冷えるのを感じた。


 誰かが悪い。


 何かが原因だ。


 そういう言葉は、名前を探す。


 そして名前が見つかれば、それを中心に話が組み上がる。


「殿下にここまで言わせた原因」


 ステファニアが静かに言った。


「そこに、私の名とファーランドの名が入る」


 ファーランドはリシアの家の名であり、アリシアが戻ってきた名でもある。


 その名がステファニアの婚約者としての立場と同じ文に置かれれば、読む者は関係があるように受け取る。


「入れられ始めています」


 クラウディアは否定しなかった。


「ただし、まだ直接的ではありません。ほとんどは疑問形です」


 表示に、いくつかの文が出る。


 殿下がここまで強い言葉を出さねばならなかった背景には、何があるのか。


 婚約者周辺への過剰な配慮が、殿下を追い詰めてはいないか。


 聖女像の件、信仰への照会、ファーランドの影響、帝国との戦火。これらは本当に別々の話なのか。


 王国の第一王子が孤立することを、誰が望むのか。


 リシアは、最後の文で息を止めた。


 誰が望むのか。


 その問いは、答えを求めているようで、実は名前を誘っている。


「厄介ですわね」


 アリシアが扇を閉じたまま言った。


「問いの形をしていますけれど、答えを探しているのではありませんわ。名を置く場所を探している」


「はい」


 クラウディアが頷く。


「さらに、語彙の一部に外部流入の特徴があります」


 空気が変わった。


 リシアは顔を上げる。


「帝国ですか」


「断定は避けます」


 クラウディアは淡々と言った。


「ですが、帝都側で確認された情報操作文体と類似する箇所があります」


「情報操作文体」


「はい。直接命令ではありません。既存の不満を拾い、そこへ別の語を混ぜる形です」


 表示が切り替わる。


 短い分析表だった。


 特徴一、疑問形で責任の所在を示唆する。


 特徴二、直接名指しを避け、複数の名を同じ文中へ置く。


 特徴三、戦時語彙を学院内の社交問題へ接続する。


 特徴四、信仰と王権と家門の問題を一つの圧力として扱う。


「つまり」


 リシアは言葉を探した。


「誰かが、学院の中の不満へ、帝国側の言葉を混ぜている?」


「その可能性が高いです」


 クラウディアが答える。


「ただし、操られていると見るのは危険です」


「違うのですか」


「多くの発言者は、自分の言葉として書いています。外部から命令されたのではなく、投げ込まれた語彙を、自分の不満に合う形で使っている」


 アリシアが、静かに笑った。


「火種があるところへ、よく燃える布を落としただけですわね」


「はい」


 クラウディアは頷く。


「火をつけたのは、本人たちです」


 リシアは、薄い表示を見つめた。


 それが、いっそう怖かった。


 操られているなら、操る者を探せばよい。


 だが、自分の不満に合う言葉を拾い、自分の言葉として使っているなら。


 それはもう、外から来た言葉だけの問題ではない。


 内側にあったものが、外の言葉で形を得てしまったということだ。


「名を混ぜると、責任も混ざります」


 ステファニアが言った。


 リシアは彼女を見た。


「殿下の周辺統制の問題。私の婚約者としての立場。聖女像を巡る史料照会。メシア教会本部の返答。ファーランドの名。帝国との戦火」


 ステファニアは一つずつ置いた。


「本来は、別々に問うべきです」


「はい」


「ですが、同じ文に置かれると、読む側は一つの大きな問題のように感じる」


「そして、原因を探し始める」


 リシアが言うと、ステファニアは頷いた。


「誰か一人を」


 その言葉は、静かだった。


 だが、リシアには重く響いた。


 誰か一人。


 名前を持つ誰か。


 責任を載せやすい誰か。


 今、その場所に置かれやすいのは、ステファニアだ。


     ◇


 午前の講義へ向かう廊下は、昨日より歩きにくかった。


 誰も大声では話さない。


 けれど、視線が多い。


 リシアは、装身型端末が拾う微細な語彙表示を見ないようにした。


 見すぎると、歩けなくなる。


 アリシアが以前言ったように、見えるもの全部を見る必要はない。


 動いているものと、動いていないものを見る。


 リシアは、そう自分に言い聞かせた。


 動いているもの。


 視線。


 小声。


 公開連絡板から持ち出された語。


 動いていないもの。


 ステファニアの歩調。


 セラの位置。


 アリシアの扇。


 そして、少し離れたところでこちらを見ているエレナ・ヴァイスベル。


 エレナは近づいてこなかった。


 代わりに、軽く礼だけをした。


 リシアも礼を返す。


 その距離感が、今はありがたかった。


 だが、講義室の入口近くで、別の学生が声をかけてきた。


 ラディム・クラインだった。


 王都近衛に縁を持つ騎士家の嫡男。


 以前、食堂で聞こえる声を使い、オスカーに止められた人物だ。


 彼は今日は一人ではない。


 同じ騎士家筋の学生二人を従えている。


 ラディムは、ステファニアの前で足を止めた。


 礼はした。


 形だけは、正しい。


「レーヴェンハイト侯爵令嬢」


「クライン様」


 ステファニアが応じる。


「少し、確認を」


 リシアは、内心で身構えた。


 確認。


 便利な言葉だ。


「講義前です。短くお願いします」


 ステファニアは穏やかに返す。


 ラディムは頷いた。


「殿下の周辺発言者名簿についてです。殿下は昨日、バルシュ様の発言資格を一時停止されました」


「そのように記録されています」


「その措置が、侯爵令嬢への配慮ではないと殿下は明記されました」


「はい」


「ですが、そう明記しなければならない状況そのものが、すでに異常ではありませんか」


 リシアは、指先が冷えるのを感じた。


 来た。


 原因を問う形。


 ラディムは続ける。


「殿下の周辺者が制限され、信仰側の史料照会は圧を受け、ファーランドの名は常に学院内の判断に影を落とす。帝国との戦火が広がる中で、王国の第一王子がここまで気を遣わねばならない」


 言葉が、混ざっている。


 殿下。


 信仰。


 ファーランド。


 帝国。


 リシアは、朝見た表示を思い出した。


 同じ形だ。


 ラディムが外部から命じられたとは思わない。


 おそらく、彼は本当にそう思っている。


 だが、その言葉の並べ方が、すでに投げ込まれた語彙の形をしている。


「クライン様」


 ステファニアの声は、静かだった。


「今のご発言は、どの問題についての確認ですか」


 ラディムが一瞬止まった。


「どの、とは」


「ジークフリート殿下の周辺者統制についてですか。メシア教会系学生会の史料照会についてですか。ファーランド大公家の学院内影響についてですか。帝国との戦火についてですか」


 ラディムの後ろにいた一人が、わずかに眉を動かした。


 ステファニアは続ける。


「今、あなたはそれらを一つの文に置きました。ですが、それぞれ確認すべき窓口と記録が違います」


「全て繋がっているのではありませんか」


 ラディムの声が、少しだけ強くなった。


「殿下が追い詰められている。その原因は一つではない。ならば、全体を見なければ」


「全体を見ることと、別々の名を混ぜることは違います」


 ステファニアは即座に返した。


 廊下の空気が張る。


 セラが、一歩も動かずに立っている。


 けれど、リシアには分かった。


 いつでも動ける位置だ。


「殿下が追い詰められているとお考えなら、ジークフリート殿下ご本人またはアルヴィン・ラーデン様へ、周辺者統制に関する意見として提出してください」


 ステファニアは言った。


「信仰側の史料照会についてなら、メシア教会系学生会または学院長府へ。ファーランド大公家の影響についてなら、具体的な出来事と日時を添えて学院長府へ。帝国との戦火についてなら、学院公式周知の範囲で扱ってください」


 ラディムは唇を結んだ。


「侯爵令嬢は、全体としての危機を見ないと」


「見ます」


 ステファニアは遮った。


「ですが、全体を見るために、名を混ぜません」


 短い沈黙。


 その言葉は、廊下にまっすぐ置かれた。


 ラディムは、少しだけ視線を逸らした。


「……失礼しました」


 形だけの礼をして、横へ退く。


 だが彼の後ろの学生の一人が、小さく言った。


「言葉はお上手だ」


 セラが、ほんの少しだけ顔を向けた。


 その学生は、すぐに口を閉じる。


 ラディムが彼を制した。


「やめろ」


 それだけ言って、三人は講義室へ入っていった。


 リシアは、息を吐いた。


「今のは」


「混ぜた名を、こちらの口でほどかせるための確認でした」


 ステファニアが答えた。


「問いに答えるのではなく、問いを分ける」


「はい」


 リシアは頷いた。


 また一つ、やるべきことが増えた。


 相手が混ぜてくるなら、こちらは分ける。


 だが、それは疲れる。


 何度も何度も、混ぜられた名をほどく。


 ほどく側だけが疲れる。


 それも、相手の狙いなのかもしれない。


     ◇


 午前の講義は、学院法制に差し替えられていた。


 本来予定されていた講義名は、端末上で薄く消されている。


 代わりに置かれた担当は、エーベル・クラント教官ではなく、若い法制教官だった。


 黒板に書かれた題は、昨日から続いていた。


 複合事案の切り分け。


 リシアは、思わず苦笑しそうになった。


 学院は本当に容赦がない。


 偶然ではない。


 昨夜から今朝にかけての公開連絡板を見て、学院長府が置いたのだ。


「複数の問題が同時に発生している場合、人は一つの大きな物語として理解しようとします」


 法制教官が言った。


「全体像を把握したいという欲求は、悪ではありません」


 黒板に、円がいくつか描かれる。


 それぞれの円に言葉が置かれた。


 家門。


 信仰。


 王権。


 戦時。


 学院規律。


「しかし、全てを同じ責任へ流し込んだ時点で、それは把握ではなく混同です」


 リシアは、朝のラディムの言葉を思い出した。


 全て繋がっているのではありませんか。


 便利な言葉だ。


 繋がっている。


 だから一緒に考える。


 そしていつの間にか、一緒に責める。


「複合事案では、まず問いを分けます。何が起きたのか。誰が発言したのか。どの権限で動いたのか。どこから先が推測なのか」


 黒板の円同士に線が引かれる。


「線を引くことはできます。しかし、線を引いたからといって、円が一つになるわけではありません」


 リシアは筆記板に書いた。


 線は接続。混同ではない。


 隣でセラが、ちらりと見る。


 リシアは小さく首を振った。


 今回は見られても構わない。


 セラは、少しだけ頷いた。


 教官が問いを出す。


「では、例題です。ある学院内で、王族の周辺者統制、信仰団体への史料照会、外部戦争の報、特定家門への警戒が同時に話題となった。学生の一部が、これらは全て一つの圧力であると主張した。この時、最初に確認すべきものは何か」


 今度は、エレナが手を挙げた。


 リシアは彼女を見る。


 エレナの顔は少し疲れている。


 だが、目はまっすぐだった。


「答えなさい」


「その主張が、どの事実をどの根拠で接続しているかです」


 エレナは言った。


「接続の線が記録に基づくものなのか、印象なのか、信仰上の危機感なのか、政治的推測なのかを分ける必要があります」


「よろしい。では、信仰上の危機感は記録から排除すべきか」


「いいえ」


 エレナは、すぐに答えた。


「信仰上の危機感は、信仰上の危機感として記録できます。ただし、それを史料根拠や保管権限の代わりにはできません」


 教室の空気が少し揺れた。


 エレナは続ける。


「同じように、王族への忠誠も、忠誠としては記録できます。ですが、本人発言や本人権限の代わりにはできません」


 リシアは、思わず息を止めた。


 エレナが、自分の場所から、同じ構造を言った。


 信仰を捨てず、記録の側へ立つ。


 アリシアが言っていた通りだ。


 法制教官は頷いた。


「よろしい」


 エレナは座った。


 その瞬間、後方から小さな声が聞こえた。


「信仰の側の方なのに」


 誰が言ったかは分からない。


 だが、エレナには聞こえただろう。


 彼女は振り返らなかった。


 リシアは、胸の奥に小さな怒りを覚えた。


 信仰の側の方なのに。


 その言葉もまた、名を混ぜている。


 信仰の側。


 記録の側。


 どちらか一つにしか立てないかのように。


     ◇


 講義後、エレナがこちらへ来た。


 今日は、彼女から近づいてきた。


 リシアたちの前で一礼する。


「先ほどの発言について、補足を置いておきます」


「伺います」


 ステファニアが答える。


 エレナは、少しだけ息を整えた。


「メシア教会系学生会内でも、今朝から語が混ざっています」


「どのように」


「聖女像、史料照会、殿下の周辺者統制、ファーランド、帝国との戦火。これらを、信仰への圧力として一つに扱う発言が出ています」


 リシアは、朝の表示と同じだと思った。


「エレナ様は、どう扱いますか」


 アリシアが問う。


 エレナは、ほんの少しだけ口元を引き締めた。


「分けます」


 短い答えだった。


「信仰への不安は、不安として記録します。ですが、それを史料照会の停止理由にはしません。殿下の周辺者統制は、学生会の信仰判断ではありません。ファーランド大公家への印象論も、史料照会とは別に扱います」


「帝国は」


 リシアが聞いた。


 エレナは、こちらを見た。


「帝国との戦火は、信徒の不安を増やします」


 正直な答えだった。


「不安な時、人は分かりやすい原因を欲しがります。聖女、王子、婚約者、古い家門。そういう名は、原因として扱われやすい」


 エレナは、少しだけ目を伏せた。


「だから、分けます。分けなければ、祈りも記録も同じ泥に沈みます」


 アリシアが、扇を軽く鳴らした。


「よい覚悟ですわね」


 エレナは、少し身構えた。


 褒め言葉なのに身構える。


 その反応に、リシアは少しだけ同情した。


「ありがとうございます」


「ただし、疲れますわよ」


 アリシアは続けた。


「混ぜる者は一息で混ぜます。分ける者は、一つずつ分けなければなりません」


「承知しています」


 エレナの声は、静かだった。


「それでも、分ける側に立ちます」


 アリシアは、満足そうに微笑んだ。


「クラウ」


「はい」


 クラウディアが即座に答える。


「エレナ様の本日の発言、学生会内記録と照合しておいてください」


「承知しました」


 エレナが、少しだけ目を瞬かせた。


「照合、ですか」


「ええ」


 アリシアはにこりと笑う。


「よい言葉は、置いた場所を守らなければなりませんもの」


 エレナは、少し考え、それから深く礼をした。


「お願いします」


 リシアは、その姿を見て思った。


 エレナは、もう半歩こちら側に来ている。


 ただし、信仰を捨てて来たのではない。


 信仰を持ったまま、記録の側へ足を置き直している。


 それはきっと、簡単なことではない。


     ◇


 昼過ぎ、クラウディアの分析がまとまった。


 場所は貸与邸の小応接。


 アインも今日は同席していた。


 窓際の椅子に座り、黙って表示を見ている。


 いつもより口数が少ない。


 リシアは、それが少し気になった。


 クラウディアが表示を開く。


「語彙流入の経路です」


 線が三本引かれた。


 一つ目、学院内公開連絡板。


 二つ目、王都系学生の私的連絡網。


 三つ目、メシア教会系学生会周辺の非公式会話。


 その外側に、細い線が二本。


 商会噂筋。


 東方戦線情報筋。


「帝国側からの直接指示は確認できません」


 クラウディアが言った。


「ですが、東方戦線情報筋を経由して、同じ言い回しが複数入り込んでいます」


「どのような」


 ステファニアが問う。


「王国中枢の弱体化。信仰共同体への圧迫。古い家門による内政影響。戦時における内側の分断。外敵より内なる亀裂」


 リシアは、最後の言葉で顔を上げた。


「内なる亀裂」


「はい」


 クラウディアは表示を拡大する。


 外敵より内なる亀裂を恐れよ。


 その文は、何度か形を変えて使われていた。


 帝国との戦火を前に、王国は内なる亀裂を許してよいのか。


 殿下の孤立は、外敵より危うい内なる亀裂ではないか。


 信仰への圧迫は、王国の内なる亀裂を広げる。


 ファーランドの影響が、内なる亀裂を深めてはいないか。


 リシアは、胸の奥がざらりとした。


 同じ言葉だ。


 誰が書いたかは違う。


 だが、核になる言葉が同じ。


「帝国の情報操作語彙ですか」


 アリシアが問う。


「帝都側で捕捉した類似文型と一致します」


 クラウディアが答える。


「ただし、学院内へ入った時点で、各発言者の関心に合わせて変形しています」


「便利な毒ですわね」


 アリシアの声が冷えた。


「飲ませるのではなく、香りを流す」


「はい」


 クラウディアは頷いた。


「飲む者は、自分で飲みます」


 アインが、そこで初めて口を開いた。


「帝国は、たぶん学院を動かしたいわけじゃない」


 全員の視線が向く。


 アインは表示を見たまま続けた。


「王子、婚約者、聖女、ファーランド。そこを混ぜておけば、後で使える。今すぐ何かを壊すより、名を汚しておく方が安い」


 リシアは、その言葉にぞっとした。


 名を汚しておく。


 戦いではない。


 けれど、攻撃だ。


「後で使える、とは」


 ステファニアが問う。


「戦火が広がった時、あいつらは言える」


 アインの声は低い。


「王国の第一王子は内側から揺れていた。ファーランドは王国中枢へ影響していた。信仰は圧迫されていた。婚約者問題で王家は割れていた。だから王国は判断を誤った、とな」


 リシアは、息を忘れた。


 それは、未来のための言葉だ。


 今すぐ誰かを倒すためではない。


 後で、何かが起きた時に、意味を与えるための言葉。


 そう考えると、今学院内で流れている語彙が別のものに見えた。


 小さな噂ではない。


 未来の記録へ差し込むための見出しだ。


「だから、今のうちに分けておく」


 アインは言った。


「混ざったまま残すな」


 短い。


 けれど、命令に近い響きがあった。


 クラウディアは頷いた。


「すでに分類記録を作成しています」


「足りない」


 アインが言った。


 クラウディアの目が、わずかに動く。


 珍しい。


 アインは続けた。


「分類だけじゃなく、混ぜた記録も残せ。誰が、いつ、どの名を、どの名と並べたか。後でほどく時にいる」


「承知しました」


 クラウディアが即答する。


 アリシアが、少しだけ嬉しそうにアインを見た。


「殿下」


「何だ」


「少し、戻っていらっしゃいますわね」


 アインは、眉をひそめた。


「何が」


「人の名を守る時の怒り方です」


 アインは答えなかった。


 少しだけ目を逸らした。


 リシアは、その横顔を見た。


 礎石の儀の後から、アインは少し変わっている。


 亡霊のように立っているだけではない。


 時々、怒る。


 短く、静かに。


 けれどそれは、誰かを使うための怒りではなく、誰かの名を踏ませないための怒りに見えた。


     ◇


 午後、学院長府から短い周知が出た。


 表題は、複合事案に関する未確認結合の禁止について。


 内容は、法制講義の延長だった。


 王族周辺者統制、信仰団体への史料照会、ファーランド大公家関連の噂、東方戦火、帝国関連情報を、根拠なく同一原因へ結びつけることを禁じる。


 複数事案を比較・分析する場合は、出典、日時、発言者、権限、推測範囲を明示すること。


 未確認の結合を用いて特定個人、家門、信仰団体、王族周辺者へ圧力をかけた場合、学院規律違反として扱う。


 リシアは、その周知を読んで少し安堵した。


 学院も動いている。


 ただ見ているわけではない。


 だが、公開連絡板はすぐに反応した。


 学院はなぜ、これほど急いで結合を禁じるのか。


 結びつけられて困る者がいるのではないか。


 事実を問う前に、問い方を縛るのは公平なのか。


 リシアは、思わず額に手を当てそうになった。


 どこまでも来る。


 問い方を整えれば、問いを縛っていると言われる。


 名を分ければ、結びつけられて困るのだと言われる。


 訂正すれば、訂正が必要なほど追い込まれていると言われる。


 ステファニアが、表示を見ながら言った。


「同じです」


「はい」


 クラウディアが答える。


「分ける動きそのものを、隠蔽や圧力として再解釈しています」


「では、どうすれば」


 リシアは言いかけて、また止まった。


 この問いも、昨日と同じだ。


 どうすれば止まるか。


 止まらないものを、止まったことにしてはいけない。


 アリシアが、こちらを見る。


 リシアは息を整えた。


「止まらない前提で、記録を積む」


「はい」


 アリシアが頷いた。


「そして、次の手を考えます」


 ステファニアが顔を上げた。


「次の手」


 アリシアは、扇を閉じた。


 小さな音がした。


「そろそろ、名を返す準備ですわね」


 部屋の空気が止まった。


 リシアは、意味を理解するのに一拍遅れた。


 名を返す。


 婚約者という名を。


 ステファニアが持たされ、周囲に使われ、ジークフリートも止めきれない名を。


 返す。


 ステファニアは、驚かなかった。


 ただ、静かに目を伏せた。


 膝の上に置いた指先が、ほんの一度だけ、布を握る。


 すぐに離した。


 誰かに見せるための動きではなかった。


 けれどリシアには、それだけで分かった。


 平気なはずがない。


「まだ、最後の確認が必要です」


「もちろんですわ」


 アリシアは穏やかに言った。


「礼を欠いてはなりません。殿下は動きました。そこは記録として尊重します」


「はい」


「ですが、動いたことと、守れることは別です」


 昨日、セラが言ったことと同じだった。


 守れるふりをすると、対象も護衛も壊れる。


 婚約でも、そうなのだろうとステファニアは言った。


 その言葉が、今また戻ってくる。


「最後の確認は、殿下ご本人と」


 ステファニアが言った。


「記録付きで」


 クラウディアが補う。


「はい」


 ステファニアは頷いた。


「殿下が動いたこと。止めようとしたこと。周囲を外そうとしたこと。訂正したこと。それでも、私の名が戻ってくること」


 彼女は、一つずつ置く。


「それを、本人の前で確認します」


 リシアは、胸が痛くなった。


 ここまで来た。


 まだ決まったわけではない。


 けれど、道筋は見えた。


 婚約を続けるかどうかではなく。


 続けることで、互いの名がどう扱われるか。


 その確認へ進む。


     ◇


 夕方、ジークフリート側へ面談希望が送られた。


 表題は、周辺者統制および婚約者名の扱いに関する本人確認。


 発信者はステファニア・レーヴェンハイト。


 宛先はジークフリート・ローデンフェルト。


 控えとして、アルヴィン・ラーデン、学院長府連絡窓口、レーヴェンハイト侯爵家代理窓口、ファーランド大公家貸与邸。


 内容は短い。


 これまでの本人発言、周辺者発言、発言資格停止、誤認訂正、公開連絡板上の再解釈、複合事案化の流れについて、ジークフリート本人と記録付きで確認したい。


 話題範囲は、婚約者名の扱い、周辺者統制、今後の発言責任に限る。


 信仰団体への史料照会、帝国との戦火、ファーランド大公家に関する個別判断は、別窓口の事案として扱う。


 リシアは、文面を読み終えて思った。


 分けている。


 徹底して、分けている。


 混ぜられた名を、面談の表題から分けている。


「これでよろしいですか」


 ステファニアが問う。


 アリシアは頷いた。


「よろしいですわ」


 クラウディアも頷く。


「記録上、話題範囲が明確です」


 セラは、少し考えてから言った。


「退路もあります」


「退路」


 ステファニアが見る。


「はい。話題範囲外のものが入ってきた場合、そこから下がれます」


 ステファニアは、ほんの少しだけ笑った。


「ありがとうございます」


 セラは真面目に礼をした。


「護衛ですので」


 その言葉に、リシアは少しだけ救われた。


 重い話の中でも、セラはセラだ。


 面談希望は、学院内連絡路で送付された。


 表示に、受領待ちの文字が出る。


 しばらくして、既読。


 その後、少し間が空いた。


 返答は、アルヴィン補助ではなく、ジークフリート本人署名で返ってきた。


 承知した。


 記録付き面談を受ける。


 話題範囲も確認した。


 私からも、確認したいことがある。


 逃げずに答える。


 短い文だった。


 リシアは、それを読んで、少しだけ胸が締めつけられた。


 ジークフリートも、逃げるつもりはない。


 逃げない者同士が、次に向き合う。


 それが救いになるのか。


 それとも、終わりへの礼になるのか。


 まだ分からない。


 ステファニアは、文面を見つめていた。


 長く。


 長く見つめてから、静かに言った。


「ありがとうございます」


 その言葉は、誰へ向けたものなのか。


 リシアには、少し分からなかった。


     ◇


 夜になって、クラウディアが最後の報告を持ってきた。


 公開連絡板上では、学院長府の周知とステファニアの面談希望がまだ直接結びつけられていない。


 だが、語彙の準備は進んでいる。


 最後の確認。


 名を返す。


 婚約者の責任。


 殿下の孤立。


 ファーランドの影。


 聖女の名。


 帝国の戦火。


 リシアは、その並びを見た。


 もう、ほとんど同じ場所へ来ている。


 アリシアは、扇を開かなかった。


 膝の上で閉じたまま、静かに言った。


「明日は、最後の確認ですわね」


「はい」


 ステファニアが答える。


 声は静かだった。


 疲れている。


 苦しんでいる。


 それでも、姿勢は崩れていない。


 リシアは、その横顔を見て思った。


 ステファニアは、まだジークフリートを嫌っていない。


 たぶん、嫌えない。


 だからこそ、名を返すことは罰ではない。


 攻撃でもない。


 これ以上、互いの名を壊させないための確認なのだ。


 セラが、静かに部屋の扉近くへ立った。


 いつもの護衛の位置だ。


 アインは、窓際で外を見ていた。


 クラウディアは表示を閉じる。


 アリシアは、ステファニアを見ている。


 誰も、軽い言葉を足さなかった。


 混ぜられた名は、明日ほどかれる。


 ほどいた先で、何が残るのか。


 それを確かめるために、夜は静かに過ぎていった。


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