第八十夜 殿下の限界
第八十夜 殿下の限界
翌朝、ジークフリート・ローデンフェルトの名で、新しい限定連絡が出された。
公開ではない。
宛先は、ジークフリート周辺者。
控えとして、学院長府連絡窓口、アルヴィン・ラーデン、オスカー・ベルトラン、ミリア・セルヴィン、イレーネ・バルシュ。
そして、ステファニア・レーヴェンハイトにも写しが置かれていた。
表題は、周辺者発言の停止および確認手順について。
リシアは貸与邸の朝食後、ステファニアの端末に届いた写しを一緒に読んだ。
文面は、昨日よりさらに硬い。
私、ジークフリート・ローデンフェルトは、私の名、私への忠誠、私を案じる心、または私を守るという名目で、第三者に対して圧力、批判、要求、謝罪要請、態度変更の要求を行うことを禁ずる。
私への忠誠は、私の発言を越える権限ではない。
私を守るという心は、私の制止を無効にする理由ではない。
私の婚約者、友人、同席者、学院関係者、信仰団体関係者、またはその周辺者へ何らかの意見を述べる場合、発言者は自身の名と立場を明示すること。
私の意向を含むとする発言は、本人署名または明示委任のある文書を伴わない限り、私の意向とは扱わない。
違反した場合、以後、私の周辺者としての発言資格を認めない。
リシアは、最後の一文で目を止めた。
発言資格を認めない。
昨日までより、明らかに強い。
「踏み込みましたね」
リシアが言うと、ステファニアは静かに頷いた。
「はい。殿下ご本人としては、かなり踏み込んでいます」
その言い方が少し気になった。
ご本人としては。
リシアは、問いかける前に意味を理解した。
ジークフリート本人は踏み込んだ。
だが、それで周囲が止まるかは別だ。
クラウディアが薄い表示を開いた。
「発信から二十七分。周辺者内での閲覧は確認されています。公開連絡板への直接流出は、現時点ではありません」
「現時点では」
アリシアが繰り返す。
楽しそうではない。
「はい」
クラウディアは表示を切り替えた。
「ただし、周辺語彙の変化は出ています」
表示に、言葉が並ぶ。
殿下が強い言葉を。
周囲を切る。
忠誠を疑う。
孤立を深める。
守る者を遠ざける。
リシアは、思わず眉を寄せた。
「もう、ですか」
「はい。文面そのものは流れていません。ですが、受け取った者の反応、または周辺者の会話が伝わっています」
ステファニアは、写しを閉じた。
「止める言葉が、今度は切り捨てる言葉として扱われ始めていますね」
「そのようです」
クラウディアが頷く。
セラが、珍しく食後のお茶に手をつけず表示を見ていた。
「命令が届いたことと、命令が通ったことは別です」
短い言葉だった。
リシアはセラを見る。
セラは、真面目な顔のまま続けた。
「騎士団でもあります。隊長の命令を聞いた者が、理解した顔をして別の動きをすることは」
「どうしますか」
アリシアが問う。
「二度目は、隊列から外します」
セラは即答した。
ステファニアが、少しだけ目を伏せた。
「殿下に、それができるかですね」
部屋が静かになった。
誰もすぐには言わない。
けれど、全員が同じ場所を見ていた。
ジークフリートが周囲を止めようとしていることは、もう疑う必要がない。
だが、止めようとしているだけでは足りない。
止まらない者を、どう扱うのか。
そこで、殿下の限界が見える。
◇
午前の学院は、いつもより静かだった。
大きな騒ぎはない。
怒鳴り声もない。
公開連絡板にも、ジークフリートの文面そのものは出ていない。
それでも、廊下に流れる空気が硬い。
リシアは、歩きながらその硬さを感じていた。
薄い表示には、頻出語が淡く流れている。
強い言葉。
切り捨て。
忠誠。
確認。
発言資格。
そして、婚約者。
まただ。
何かが起きるたびに、ステファニアの名は直接出ず、婚約者という形で戻ってくる。
講義室の前で、ミリア・セルヴィンが待っていた。
リシアは一瞬、身構えた。
だが、ミリアはすぐに一歩下がり、礼をした。
「リシア様。ステファニア様。おはようございます」
「おはようございます、ミリア様」
ステファニアが応じる。
ミリアは、何か言いかけた。
けれど、すぐに口を閉じた。
その沈黙が、以前の彼女とは違っていた。
以前なら、きっと言っていただろう。
殿下はお苦しみです。
殿下は本当にステファニア様を案じていらっしゃいます。
殿下のお気持ちを、どうか。
だが、今のミリアは、それを言わなかった。
「何か」
ステファニアが促す。
ミリアは、少しだけ目を伏せた。
「いいえ。今、私が言おうとしたことは、殿下のお気持ちに触れるものでした」
自分で止めた。
リシアは、そう気づいた。
「それは、私が言うべきことではありません」
ミリアは続ける。
「ですから、言いません」
ステファニアの表情が、ほんの少し柔らかくなった。
「ありがとうございます」
ミリアは、驚いたように顔を上げた。
その礼を受けるとは思っていなかったのだろう。
「いえ」
小さく首を振る。
「言わないことが、こんなに難しいとは思いませんでした」
それは、たぶん本音だった。
リシアは、少しだけ胸が温かくなる。
ミリアは軽かった。
伝言と私見を混ぜた。
善意で押した。
だが、彼女は止まろうとしている。
止まることを、学ぼうとしている。
「ミリア様」
ステファニアが言った。
「今の言葉は、記録してもよろしいですか」
ミリアは一瞬だけ息を止め、それから頷いた。
「はい。私の名で」
「承知しました」
それだけでよかった。
だが、その少し後ろで、イレーネ・バルシュが立ち止まっていた。
彼女は、今のやり取りを聞いていたらしい。
表情は整っている。
けれど、目の奥には納得しきれない色があった。
「ミリア様」
イレーネが声をかける。
ミリアが振り返った。
「はい」
「言わないことが、いつも正しいとは限りません」
ミリアの肩が、わずかに強張る。
イレーネは続けた。
「殿下が孤立なさる時、誰かが言わなければならないこともあります」
「誰かが、ではなく」
ミリアは、少しだけ息を吸った。
「言うなら、自分の名で、ですね」
イレーネの目が細くなる。
ミリアは逃げなかった。
「私は、それを今、覚えようとしています」
廊下に、短い沈黙が落ちた。
イレーネは、礼をした。
「そうですか」
声は丁寧だった。
だが、そこに温度はなかった。
彼女はそのまま講義室へ入っていく。
ミリアは、小さく息を吐いた。
「……難しいですね」
「はい」
ステファニアが答える。
「ですが、今のあなたの言葉は、あなたの名で置かれました」
ミリアは、もう一度頷いた。
「ありがとうございます」
リシアは、その横顔を見た。
ミリアは、少しずつ変わっている。
だが、変わる者がいる一方で、変わらない者もいる。
そして変わらない者が、変わった者を裏切り者のように見ることもある。
それもまた、圧なのだろう。
◇
その日の講義は、政務実務だった。
ラウル教官ではなく、学院長府所属の老教官が教壇に立っている。
名は、エーベル・クラント。
礼法よりも実務を重んじる人物で、声は低く、板書は少ない。
彼は黒板に一つだけ言葉を書いた。
統制。
「本日の講義は、緊急時の周辺者統制です」
教室が静かになった。
リシアは、ジークフリートの背を見た。
彼は前を向いている。
昨日よりも硬い。
アルヴィンは隣に座り、筆記板を開いていた。
オスカーは少し離れた席。
ミリアは後方。
イレーネも、その近くにいる。
「権限者が命令を出した時、命令は二つの段階を経ます」
エーベル教官は言った。
「届くこと。通ること」
セラが、ほんの少しだけ反応した。
朝に言ったことと同じだ。
「届いた命令は、まだ命令として完了していません。受領者が理解し、従い、従わない者への処置が定められて初めて、統制として機能します」
黒板に、短く書かれる。
受領。
理解。
実行。
違反時処置。
「よくある失敗は、命令を出した時点で統制できたと思うことです」
教室の空気が、さらに重くなった。
固有名は出ない。
だが、今日の講義が何を受けているか、分からない者はいない。
「命令を聞いた者が、命令者の意図を自分に都合よく解釈する場合があります。命令者が優しいから本心では違うはずだ。命令者は立場上そう言っているだけだ。命令者を守るためには、命令を越える必要がある」
リシアは、思わず指先を握った。
昨日の言葉だ。
殿下が止めるからこそ、周囲が守らねばならない。
エーベル教官は続ける。
「この時、周辺者は命令者を守っているつもりで、命令者の統制能力を破壊しています」
誰かが息を呑んだ。
ジークフリートは動かなかった。
だが、背中がさらに硬くなったように見えた。
「問いです」
教官が言った。
「権限者が周囲へ発言停止を命じた。しかし周囲の一部が、その命令を権限者の優しさと解釈し、権限者を守る名目で別の発言を続けた。この場合、最初に問われるべき責任は誰にありますか」
教室が凍った。
あまりにも近い。
近すぎる。
リシアは、学院という場所の怖さを改めて感じた。
固有名を出さず、一般論として逃げ道を残す。
だが逃げられない場所へ問いを置く。
しばらく、誰も手を挙げなかった。
やがて、アルヴィンが手を挙げた。
「答えなさい」
「命令に従わなかった周辺者に責任があります」
エーベル教官は頷く。
「それは当然です。他には」
アルヴィンは、少しだけ間を置いた。
「その周辺者を、周辺者として扱い続けた権限者にも責任があります」
教室の空気が、変わった。
ジークフリートは、わずかに顔を伏せた。
アルヴィンの声は、揺れていない。
だが、痛みはあった。
「理由は」
「命令を越える者を周囲に置き続ければ、外部からはその行動も権限者の統制範囲として見られます。権限者が望まなかったとしても、止められなかった事実は残ります」
「よろしい」
教官は短く言った。
それから、教室全体へ視線を向ける。
「情は理由になります。免罪にはなりません」
リシアは、その言葉を胸に受けた。
情。
ジークフリートの情。
ステファニアへの情。
周囲への情。
イレーネたちの忠誠。
ミリアの善意。
それらは、理由にはなる。
なぜそうしたかの説明にはなる。
だが、責任を消すものではない。
「では、対応は」
教官が続けた。
今度は、オスカーが手を挙げた。
「違反者を周辺者から外します」
簡潔だった。
教室のあちこちで、ざわりと空気が揺れた。
エーベル教官は、表情を変えない。
「常にか」
「いいえ。一度目は確認、二度目は制限、三度目は排除。ですが、発言の影響が大きい場合は一度目でも制限すべきです」
「基準は」
「命令者の名が、違反者の発言によって外部へ押しつけられるかどうか」
「よろしい」
教官は頷いた。
リシアは、オスカーを見た。
彼は普段から言葉が多くない。
だが、こういう時の判断は早い。
騎士家の者として、命令と隊列の重さを知っているのだろう。
イレーネは、前を向いたまま動かない。
だが、指先が強く握られていた。
◇
講義後、ジークフリートはすぐに席を立たなかった。
アルヴィンも立たない。
オスカーは少し離れたところで待っている。
ミリアは、イレーネの方を見たが、声はかけなかった。
リシアたちも、すぐには動かなかった。
何かが起きる。
そう思った。
だが最初に動いたのは、ジークフリートだった。
彼はゆっくり立ち上がり、ステファニアへ向き直った。
教室にはまだ学生が残っている。
だから、声は大きくない。
しかし、記録に残る場所だった。
「ステファニア」
ステファニアは立ち上がった。
「はい、殿下」
「先ほどの講義を受けて、私の側で整理しなければならないことがある」
「承知しました」
「今日中に、周辺者の発言資格を再確認する。私の制止を越えた者については、周辺者として扱わない」
教室が静かになる。
ジークフリートは、続けた。
「その整理が終わるまで、私の周囲から届く私見、擁護、忠誠表明、婚約者に関する言及は、私の意向とは扱わないでほしい」
ステファニアは、深く礼をした。
「承知しました。今のご発言は、殿下ご本人の確認として記録いたします」
「頼む」
短いやり取りだった。
けれど、重かった。
ジークフリートは、ついに周辺者を外す可能性を明言した。
リシアは、少しだけ息を吐いた。
遅いかもしれない。
それでも、動いた。
だが、その瞬間、後方から声がした。
「殿下」
イレーネだった。
ジークフリートが振り返る。
イレーネは立ち上がっていた。
礼はしている。
しかし、顔は上げたままだ。
「それは、殿下を案じる者を切り捨てるということでしょうか」
教室の空気が、一気に張った。
ミリアが目を見開く。
アルヴィンの表情が硬くなる。
オスカーは、一歩だけ前へ出た。
ジークフリートは、しばらく黙っていた。
それから、静かに答えた。
「違う」
「では」
「私の言葉に従わない者を、私の言葉を運ぶ者として扱わないということだ」
イレーネの唇が、わずかに震えた。
「殿下が、ご自身を守る者を遠ざければ、誰が殿下をお守りするのですか」
昨日と同じ問い。
だが、今は教室の中だ。
学生たちが見ている。
記録も残る。
ジークフリートは、目を逸らさなかった。
「私を守るために私の言葉を越える者は、私を守っていない」
イレーネの表情が変わる。
傷ついた顔だった。
リシアは、その顔を見て胸が痛んだ。
イレーネは、本気なのだ。
本気でジークフリートを守りたい。
本気で、彼のためだと思っている。
だからこそ、止まれない。
「私は」
イレーネが言った。
「殿下を軽んじる言葉を、見過ごせません」
「なら、自分の名で言え」
ジークフリートの声は、昨日より少し強かった。
「私の名ではなく、イレーネ・バルシュの名で」
「それでは、殿下のためには」
「私のためという言葉を使うな」
静かな声だった。
だが、はっきりしていた。
教室の空気が、止まる。
ジークフリートは続けた。
「少なくとも、私の制止を越える時には使うな」
イレーネは、何か言いかけた。
しかし、声にならなかった。
ジークフリートは、アルヴィンへ視線を向けた。
「アルヴィン」
「はい」
「イレーネ・バルシュを、私の周辺発言者名簿から一時除外する。本人発言は本人名でのみ扱う。私の意向を含む発言資格は停止」
イレーネの顔から血の気が引いた。
ミリアが小さく息を呑む。
アルヴィンは、一拍だけ遅れて答えた。
「承知しました」
ジークフリートは、イレーネを見た。
「これは罰ではない」
「……罰では、ないのですか」
「確認だ。私の言葉と、君の言葉を分ける」
イレーネは、深く礼をした。
「承知いたしました」
言葉は整っていた。
だが、今度は誰の耳にも分かった。
彼女は、受け取っていない。
従っている。
だが、受け取ってはいない。
リシアは、その違いをはっきり感じた。
ジークフリートも、たぶん感じている。
けれど、今度は踏み込んだ。
発言資格を止めた。
それでも、完全には届いていない。
そこが限界なのだ。
◇
昼休みまでに、噂は広がった。
文面は出ていない。
だが、出来事は見られていた。
王子が教室で側近の一人を名簿から外した。
殿下が忠実な者を退けた。
婚約者の前で、殿下が周囲を切った。
ステファニア様のために、殿下が苦渋の判断をなさった。
ステファニア様が何も言わなかった。
殿下の周囲は、もう誰も守れないのではないか。
リシアは貸与邸へ戻る途中、表示に流れる語を見ながら、疲れを覚えた。
「止めても、動きますね」
「はい」
クラウディアが答える。
「ただし、今回は前進もあります」
「前進」
「ジークフリート殿下は、イレーネ・バルシュ様の発言資格を一時停止しました。これは、周辺者を外す処置として記録できます」
ステファニアが頷く。
「殿下は、動きました」
その声には、安堵もあった。
そして、痛みもあった。
「けれど、止まりません」
リシアが言う。
「ええ」
ステファニアは認めた。
「殿下が動いたことと、周囲が止まったことは別です」
朝、セラが言ったことと同じだ。
命令が届いたことと、命令が通ったことは別。
ジークフリートは、一歩進んだ。
だが、その一歩で周囲が止まるわけではなかった。
むしろ、動いたからこそ、新しい言葉が生まれている。
切り捨て。
孤立。
苦渋。
婚約者の前で。
また、ステファニアの名が戻ってくる。
「私の前で、という部分が使われますね」
ステファニアが言った。
リシアは表示を見る。
確かに増えている。
婚約者の前で。
婚約者への配慮から。
婚約者を守るために。
婚約者に見せるために。
「私は何も求めていません」
ステファニアの声は静かだった。
「ですが、私の前で行われたというだけで、私のために行われた形へ寄せられる」
アリシアが、扇を開いた。
「場所と同席者は、意味を持ちますもの」
「はい」
ステファニアは頷く。
「だからこそ、記録が必要です」
クラウディアが薄い表示を出す。
「すでに、殿下の発言、イレーネ様の問い、発言資格停止の理由、ステファニア様の非関与を時系列に整理しています」
アリシアが少しだけ笑った。
「本当に早いですわね」
「必要になるためです」
クラウディアの答えは、いつも通りだった。
リシアは、もう驚かないことにした。
たぶん無駄だ。
◇
午後、ジークフリート側から正式な補足連絡が届いた。
表題は、周辺発言者名簿の一時更新について。
発信者はジークフリート本人。
記録作成補助はアルヴィン。
内容は短い。
イレーネ・バルシュについて、本人の私見発言は妨げない。
ただし、ジークフリート本人の意向、感情、婚約者対応、周辺者対応に関する発言資格は一時停止する。
今後、本人が自名で発言する場合、それはイレーネ・バルシュ個人の見解として扱う。
この措置は、ステファニア・レーヴェンハイト侯爵令嬢の要請によるものではない。
また、同令嬢への配慮を理由とするものでもない。
ジークフリート本人の発言統制上の判断である。
リシアは、最後の二行を見て、深く息を吐いた。
「ここまで書きましたね」
「はい」
ステファニアも同じ箇所を見ていた。
「私の名を外すための文言です」
「アルヴィン様が補助したのでしょうか」
「おそらく」
クラウディアが答える。
「文章構造はアルヴィン様の整理癖に近いです。ただし、判断主体はジークフリート殿下本人として置かれています」
アリシアは扇を閉じた。
「ようやく、少しだけ形になりましたわね」
「少しだけ、ですか」
リシアが問うと、アリシアは頷いた。
「ええ。だって、まだ一人ですもの」
リシアは言葉に詰まった。
そうだ。
今止めたのは、イレーネ一人だ。
しかも一時停止。
他の者たちがどう動くかは分からない。
イレーネが本当に止まるかも分からない。
「一人を止めたことで、他の者が黙る場合もあります」
クラウディアが言った。
「逆に、殿下が側近を切ったという物語へ寄る場合もあります」
「今回は」
ステファニアが問う。
「後者の可能性が高いです」
即答だった。
リシアは、予想していたが、それでも少し肩が落ちた。
「理由は」
「殿下を守るという語は、すでに殿下本人の制止を越える形へ変質しています。中心人物の一人を外した場合、その者を殉じた者、切られた者、忠誠を尽くした者として扱う語が生まれます」
ステファニアが、目を閉じた。
「イレーネ様が、それを望まなくても」
「はい」
クラウディアが答える。
「望むかどうかとは別に、周囲が使います」
セラが言った。
「盾を落とした者を、旗にすることがあります」
全員がセラを見た。
セラは、少しだけ首を傾げた。
「違いますか」
「いえ」
アリシアが、ゆっくりと笑った。
「とても合っていますわ」
リシアも頷いた。
盾を落とした者を、旗にする。
イレーネがジークフリートを守ろうとした。
その結果、周辺発言者から外された。
すると周囲は、彼女自身の意思とは別に、殿下を守ろうとして切られた忠臣という形へ変えることができる。
また、名が歩く。
今度はジークフリートの名だけではない。
イレーネの名も。
◇
夕方、公開連絡板に最初の大きな反応が出た。
名はない。
だが、内容は明らかだった。
殿下をお守りしようとした者が、殿下の御心を煩わせぬために身を退いたと聞く。
忠誠とは、時に名を捨てることでもある。
殿下が苦渋の判断をなさったなら、その痛みを周囲が受け止めねばならない。
リシアは、その文を見た瞬間、頭が痛くなった。
「身を退いた」
ステファニアが読み上げる。
「違いますね」
「違います」
クラウディアが答える。
「発言資格の一時停止です。本人が身を退いたわけではありません」
「忠誠とは、時に名を捨てること」
アリシアが、扇で文字を指す。
「美しく言っていますけれど、名を捨てたことにして、別の名を与えていますわね」
「別の名」
「殿下を守ろうとして切られた忠臣」
リシアは、ぞっとした。
その通りだ。
イレーネ本人が何を言ったか。
ジークフリートが何を理由に発言資格を止めたか。
それらが消えている。
代わりに、美しい物語が置かれている。
忠臣。
身を退く。
苦渋。
痛み。
まただ。
見ている。
けれど、聞いていない。
「訂正を出しますか」
リシアが問う。
ステファニアはすぐには答えなかった。
クラウディアを見る。
「ジークフリート殿下側が出すべき訂正です」
クラウディアが言った。
「ステファニア様側が出せば、殿下側の周辺統制へ介入した形になります」
「そうですね」
ステファニアは頷いた。
「私が出すべきではありません」
アリシアが、満足そうに目を細める。
「よろしいですわ。手を出せることと、出すべきことは違います」
リシアは、胸の奥が少しもどかしかった。
明らかに違う。
訂正したい。
だが、こちらが訂正すれば、ジークフリート側の問題へこちらの手が入る。
するとまた、婚約者が殿下の周囲を動かしている、という形にされる。
動いても使われる。
動かなくても使われる。
だから、記録だけは残す。
リシアは、その理屈を理解していた。
理解していても、苦い。
◇
訂正は、夜になる前にジークフリート側から出た。
表題は、周辺発言者名簿一時更新に関する誤認訂正。
発信者はジークフリート本人。
補助はアルヴィン。
文面は、さらに短い。
イレーネ・バルシュは、自ら身を退いたのではない。
私、ジークフリート・ローデンフェルトが、本人発言と私の意向を分けるため、発言資格を一時停止した。
当該措置を忠誠、美談、身を退いた行為として扱わないこと。
本人の名誉を守るためにも、事実と異なる美称を付けないこと。
この措置は、私の統制上の判断である。
リシアは、文面を読み終えた。
「かなり強いですね」
「はい」
ステファニアが言う。
「必要な強さです」
アリシアは、少しだけ面白そうにしていた。
「ようやく、殿下ご自身の言葉が刃になりましたわね」
「刃」
「ええ。切るためではありません。形を分けるための刃です」
リシアは頷いた。
これは、攻撃ではない。
だが、切っている。
美談を切る。
忠臣という名を切る。
自分の統制上の判断だと、責任を自分へ戻す。
ジークフリートは、また一歩進んだ。
しかし、クラウディアの表示は冷静だった。
「反応は二方向に分かれています」
表示が切り替わる。
一つ目。
殿下がここまで明言された以上、周囲は従うべきだ。
二つ目。
殿下にここまで言わせる状況こそ問題ではないか。
リシアは、目を閉じた。
「また」
「はい」
クラウディアが答える。
「後者は、次の語へ接続しやすいです」
「次の語」
「殿下にここまで言わせた原因」
ステファニアが、静かに言った。
「その原因として、私の名が戻ってくる」
「はい」
クラウディアは否定しなかった。
部屋が静かになる。
ジークフリートは動いている。
止めようとしている。
訂正している。
それでも、周囲は別の問いへ移る。
殿下にここまで言わせたのは誰か。
なぜ殿下はここまで追い込まれたのか。
誰が殿下を孤立させているのか。
そうして、また名前が探される。
ステファニアの名。
ファーランドの名。
アリシアの名。
メシア教の名。
やがて、帝国の語彙もそこへ入ってくるのだろう。
リシアは、まだ見えていない流れの先に、薄い黒い線を感じた。
◇
夜、貸与邸の居間で、その日の記録が整理された。
ジークフリートの停止命令。
ミリアの言わない選択。
イレーネの反発。
政務実務講義での統制の話。
教室での発言資格一時停止。
公開連絡板の美談化。
ジークフリート本人による誤認訂正。
そして、訂正後に生まれた新しい問い。
殿下にここまで言わせた原因。
クラウディアは、それらを時系列に並べた。
「本日の結論です」
表示に、短い文が浮かぶ。
ジークフリート殿下は、周辺者統制を開始した。
ただし、統制は部分的であり、再解釈、逸話化、原因探索を止めきれていない。
リシアは、その文字を見た。
冷たい。
だが、公平だ。
ジークフリートを悪く言ってはいない。
動いたことは、動いたと記録している。
止めきれていないことも、止めきれていないと記録している。
ステファニアは、長く表示を見ていた。
「動いたことは、軽く扱いたくありません」
彼女は言った。
「殿下は、確かに動きました」
「はい」
クラウディアが答える。
「同時に、止めきれていないことも軽く扱えません」
ステファニアは、そこで少しだけ目を閉じた。
「はい」
短い返事だった。
その一音が、リシアには痛かった。
ジークフリートが何もしなければ、切る理由は簡単だったかもしれない。
だが彼は動いている。
遅くても、足りなくても、戻ろうとしている。
だから、ステファニアは痛む。
動いている相手を、それでも足りないと見るのは、怒るより難しい。
アリシアが、静かに扇を閉じた。
「殿下が動いたことは、殿下の記録です」
ステファニアが顔を上げる。
「ですが、殿下が止めきれなかったことも、殿下の記録です」
優しい声ではなかった。
けれど、突き放す声でもなかった。
「婚約は、気持ちだけで結ぶものではありません。名と家と周囲と、未来の扱いまで含めて結ぶものです」
リシアは、息を止めた。
話が、少し先へ進んだ。
婚約。
気持ち。
名と家と周囲。
未来の扱い。
ステファニアは、アリシアの言葉を受け止めている。
「分かっています」
静かな声だった。
「分かっているから、苦しいのですね」
アリシアは、それ以上言わなかった。
リシアも、何も言えなかった。
セラが、部屋の端で少しだけ姿勢を正す。
「ステファニア様」
「はい」
「護衛の話でよろしければ」
ステファニアが少しだけ目を瞬かせた。
「伺います」
「守る対象が進むべき場所と、護衛が守れる場所が違う場合があります」
セラは言った。
「その時、護衛は進路を変えるか、守り方を変えるか、守れないと報告します」
「守れないと」
「はい」
セラは頷いた。
「守れるふりをすると、対象も護衛も死にます」
あまりにも率直だった。
だが、誰も笑わなかった。
ステファニアは、しばらく黙っていた。
「婚約でも、そうなのでしょうね」
リシアは胸が締めつけられた。
守れるふりをすると、どちらも壊れる。
ジークフリートは、ステファニアを大切に思っているのかもしれない。
ステファニアも、ジークフリートを嫌っているわけではない。
だが、その周囲が、名が、善意が、忠誠が、婚約者という言葉が、二人を守れる形ではなくなっている。
そう見えてしまう。
クラウディアが、最後の表示を出した。
明日以降、語彙流入予測。
原因。
責任。
孤立。
婚約者。
聖女。
信仰。
ファーランド。
帝国。
リシアは、最後の二つで目を止めた。
「帝国」
「はい」
クラウディアが答える。
「まだ少数です。ですが、混ざり始めています」
「どういう形で」
「殿下の孤立、ファーランドの影響、信仰への圧力、帝国との戦火を同列に置く形です」
アリシアが、ゆっくりと目を細めた。
「次は、混ぜられる名ですわね」
その声は、とても静かだった。
リシアは、表示の中の言葉を見つめた。
原因。
責任。
婚約者。
聖女。
ファーランド。
帝国。
別々だったはずの言葉が、少しずつ同じ場所へ寄せられている。
守るという圧の次に来るもの。
それは、名を混ぜることだった。
ステファニアが、静かに顔を上げた。
「記録を続けましょう」
声は、疲れていた。
けれど、折れてはいなかった。
「殿下が動いたことも。止めきれなかったことも。私の名がどう使われたかも」
「はい」
クラウディアが答える。
リシアも頷いた。
その夜、貸与邸の窓の外では、学院の灯がいつも通りに並んでいた。
静かで、整っていて、何も起きていないように見える。
けれど表示の中では、言葉が動き続けている。
誰かを守るため。
誰かの原因を探すため。
誰かの名を、別の名と混ぜるため。
リシアは、その流れを見ながら思った。
殿下の限界は、今日見えた。
けれど、見えたから終わるわけではない。
見えたものを、どう扱うか。
次は、そこから始まる。




