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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第八十夜 殿下の限界

第八十夜 殿下の限界


 翌朝、ジークフリート・ローデンフェルトの名で、新しい限定連絡が出された。


 公開ではない。


 宛先は、ジークフリート周辺者。


 控えとして、学院長府連絡窓口、アルヴィン・ラーデン、オスカー・ベルトラン、ミリア・セルヴィン、イレーネ・バルシュ。


 そして、ステファニア・レーヴェンハイトにも写しが置かれていた。


 表題は、周辺者発言の停止および確認手順について。


 リシアは貸与邸の朝食後、ステファニアの端末に届いた写しを一緒に読んだ。


 文面は、昨日よりさらに硬い。


 私、ジークフリート・ローデンフェルトは、私の名、私への忠誠、私を案じる心、または私を守るという名目で、第三者に対して圧力、批判、要求、謝罪要請、態度変更の要求を行うことを禁ずる。


 私への忠誠は、私の発言を越える権限ではない。


 私を守るという心は、私の制止を無効にする理由ではない。


 私の婚約者、友人、同席者、学院関係者、信仰団体関係者、またはその周辺者へ何らかの意見を述べる場合、発言者は自身の名と立場を明示すること。


 私の意向を含むとする発言は、本人署名または明示委任のある文書を伴わない限り、私の意向とは扱わない。


 違反した場合、以後、私の周辺者としての発言資格を認めない。


 リシアは、最後の一文で目を止めた。


 発言資格を認めない。


 昨日までより、明らかに強い。


「踏み込みましたね」


 リシアが言うと、ステファニアは静かに頷いた。


「はい。殿下ご本人としては、かなり踏み込んでいます」


 その言い方が少し気になった。


 ご本人としては。


 リシアは、問いかける前に意味を理解した。


 ジークフリート本人は踏み込んだ。


 だが、それで周囲が止まるかは別だ。


 クラウディアが薄い表示を開いた。


「発信から二十七分。周辺者内での閲覧は確認されています。公開連絡板への直接流出は、現時点ではありません」


「現時点では」


 アリシアが繰り返す。


 楽しそうではない。


「はい」


 クラウディアは表示を切り替えた。


「ただし、周辺語彙の変化は出ています」


 表示に、言葉が並ぶ。


 殿下が強い言葉を。


 周囲を切る。


 忠誠を疑う。


 孤立を深める。


 守る者を遠ざける。


 リシアは、思わず眉を寄せた。


「もう、ですか」


「はい。文面そのものは流れていません。ですが、受け取った者の反応、または周辺者の会話が伝わっています」


 ステファニアは、写しを閉じた。


「止める言葉が、今度は切り捨てる言葉として扱われ始めていますね」


「そのようです」


 クラウディアが頷く。


 セラが、珍しく食後のお茶に手をつけず表示を見ていた。


「命令が届いたことと、命令が通ったことは別です」


 短い言葉だった。


 リシアはセラを見る。


 セラは、真面目な顔のまま続けた。


「騎士団でもあります。隊長の命令を聞いた者が、理解した顔をして別の動きをすることは」


「どうしますか」


 アリシアが問う。


「二度目は、隊列から外します」


 セラは即答した。


 ステファニアが、少しだけ目を伏せた。


「殿下に、それができるかですね」


 部屋が静かになった。


 誰もすぐには言わない。


 けれど、全員が同じ場所を見ていた。


 ジークフリートが周囲を止めようとしていることは、もう疑う必要がない。


 だが、止めようとしているだけでは足りない。


 止まらない者を、どう扱うのか。


 そこで、殿下の限界が見える。


     ◇


 午前の学院は、いつもより静かだった。


 大きな騒ぎはない。


 怒鳴り声もない。


 公開連絡板にも、ジークフリートの文面そのものは出ていない。


 それでも、廊下に流れる空気が硬い。


 リシアは、歩きながらその硬さを感じていた。


 薄い表示には、頻出語が淡く流れている。


 強い言葉。


 切り捨て。


 忠誠。


 確認。


 発言資格。


 そして、婚約者。


 まただ。


 何かが起きるたびに、ステファニアの名は直接出ず、婚約者という形で戻ってくる。


 講義室の前で、ミリア・セルヴィンが待っていた。


 リシアは一瞬、身構えた。


 だが、ミリアはすぐに一歩下がり、礼をした。


「リシア様。ステファニア様。おはようございます」


「おはようございます、ミリア様」


 ステファニアが応じる。


 ミリアは、何か言いかけた。


 けれど、すぐに口を閉じた。


 その沈黙が、以前の彼女とは違っていた。


 以前なら、きっと言っていただろう。


 殿下はお苦しみです。


 殿下は本当にステファニア様を案じていらっしゃいます。


 殿下のお気持ちを、どうか。


 だが、今のミリアは、それを言わなかった。


「何か」


 ステファニアが促す。


 ミリアは、少しだけ目を伏せた。


「いいえ。今、私が言おうとしたことは、殿下のお気持ちに触れるものでした」


 自分で止めた。


 リシアは、そう気づいた。


「それは、私が言うべきことではありません」


 ミリアは続ける。


「ですから、言いません」


 ステファニアの表情が、ほんの少し柔らかくなった。


「ありがとうございます」


 ミリアは、驚いたように顔を上げた。


 その礼を受けるとは思っていなかったのだろう。


「いえ」


 小さく首を振る。


「言わないことが、こんなに難しいとは思いませんでした」


 それは、たぶん本音だった。


 リシアは、少しだけ胸が温かくなる。


 ミリアは軽かった。


 伝言と私見を混ぜた。


 善意で押した。


 だが、彼女は止まろうとしている。


 止まることを、学ぼうとしている。


「ミリア様」


 ステファニアが言った。


「今の言葉は、記録してもよろしいですか」


 ミリアは一瞬だけ息を止め、それから頷いた。


「はい。私の名で」


「承知しました」


 それだけでよかった。


 だが、その少し後ろで、イレーネ・バルシュが立ち止まっていた。


 彼女は、今のやり取りを聞いていたらしい。


 表情は整っている。


 けれど、目の奥には納得しきれない色があった。


「ミリア様」


 イレーネが声をかける。


 ミリアが振り返った。


「はい」


「言わないことが、いつも正しいとは限りません」


 ミリアの肩が、わずかに強張る。


 イレーネは続けた。


「殿下が孤立なさる時、誰かが言わなければならないこともあります」


「誰かが、ではなく」


 ミリアは、少しだけ息を吸った。


「言うなら、自分の名で、ですね」


 イレーネの目が細くなる。


 ミリアは逃げなかった。


「私は、それを今、覚えようとしています」


 廊下に、短い沈黙が落ちた。


 イレーネは、礼をした。


「そうですか」


 声は丁寧だった。


 だが、そこに温度はなかった。


 彼女はそのまま講義室へ入っていく。


 ミリアは、小さく息を吐いた。


「……難しいですね」


「はい」


 ステファニアが答える。


「ですが、今のあなたの言葉は、あなたの名で置かれました」


 ミリアは、もう一度頷いた。


「ありがとうございます」


 リシアは、その横顔を見た。


 ミリアは、少しずつ変わっている。


 だが、変わる者がいる一方で、変わらない者もいる。


 そして変わらない者が、変わった者を裏切り者のように見ることもある。


 それもまた、圧なのだろう。


     ◇


 その日の講義は、政務実務だった。


 ラウル教官ではなく、学院長府所属の老教官が教壇に立っている。


 名は、エーベル・クラント。


 礼法よりも実務を重んじる人物で、声は低く、板書は少ない。


 彼は黒板に一つだけ言葉を書いた。


 統制。


「本日の講義は、緊急時の周辺者統制です」


 教室が静かになった。


 リシアは、ジークフリートの背を見た。


 彼は前を向いている。


 昨日よりも硬い。


 アルヴィンは隣に座り、筆記板を開いていた。


 オスカーは少し離れた席。


 ミリアは後方。


 イレーネも、その近くにいる。


「権限者が命令を出した時、命令は二つの段階を経ます」


 エーベル教官は言った。


「届くこと。通ること」


 セラが、ほんの少しだけ反応した。


 朝に言ったことと同じだ。


「届いた命令は、まだ命令として完了していません。受領者が理解し、従い、従わない者への処置が定められて初めて、統制として機能します」


 黒板に、短く書かれる。


 受領。


 理解。


 実行。


 違反時処置。


「よくある失敗は、命令を出した時点で統制できたと思うことです」


 教室の空気が、さらに重くなった。


 固有名は出ない。


 だが、今日の講義が何を受けているか、分からない者はいない。


「命令を聞いた者が、命令者の意図を自分に都合よく解釈する場合があります。命令者が優しいから本心では違うはずだ。命令者は立場上そう言っているだけだ。命令者を守るためには、命令を越える必要がある」


 リシアは、思わず指先を握った。


 昨日の言葉だ。


 殿下が止めるからこそ、周囲が守らねばならない。


 エーベル教官は続ける。


「この時、周辺者は命令者を守っているつもりで、命令者の統制能力を破壊しています」


 誰かが息を呑んだ。


 ジークフリートは動かなかった。


 だが、背中がさらに硬くなったように見えた。


「問いです」


 教官が言った。


「権限者が周囲へ発言停止を命じた。しかし周囲の一部が、その命令を権限者の優しさと解釈し、権限者を守る名目で別の発言を続けた。この場合、最初に問われるべき責任は誰にありますか」


 教室が凍った。


 あまりにも近い。


 近すぎる。


 リシアは、学院という場所の怖さを改めて感じた。


 固有名を出さず、一般論として逃げ道を残す。


 だが逃げられない場所へ問いを置く。


 しばらく、誰も手を挙げなかった。


 やがて、アルヴィンが手を挙げた。


「答えなさい」


「命令に従わなかった周辺者に責任があります」


 エーベル教官は頷く。


「それは当然です。他には」


 アルヴィンは、少しだけ間を置いた。


「その周辺者を、周辺者として扱い続けた権限者にも責任があります」


 教室の空気が、変わった。


 ジークフリートは、わずかに顔を伏せた。


 アルヴィンの声は、揺れていない。


 だが、痛みはあった。


「理由は」


「命令を越える者を周囲に置き続ければ、外部からはその行動も権限者の統制範囲として見られます。権限者が望まなかったとしても、止められなかった事実は残ります」


「よろしい」


 教官は短く言った。


 それから、教室全体へ視線を向ける。


「情は理由になります。免罪にはなりません」


 リシアは、その言葉を胸に受けた。


 情。


 ジークフリートの情。


 ステファニアへの情。


 周囲への情。


 イレーネたちの忠誠。


 ミリアの善意。


 それらは、理由にはなる。


 なぜそうしたかの説明にはなる。


 だが、責任を消すものではない。


「では、対応は」


 教官が続けた。


 今度は、オスカーが手を挙げた。


「違反者を周辺者から外します」


 簡潔だった。


 教室のあちこちで、ざわりと空気が揺れた。


 エーベル教官は、表情を変えない。


「常にか」


「いいえ。一度目は確認、二度目は制限、三度目は排除。ですが、発言の影響が大きい場合は一度目でも制限すべきです」


「基準は」


「命令者の名が、違反者の発言によって外部へ押しつけられるかどうか」


「よろしい」


 教官は頷いた。


 リシアは、オスカーを見た。


 彼は普段から言葉が多くない。


 だが、こういう時の判断は早い。


 騎士家の者として、命令と隊列の重さを知っているのだろう。


 イレーネは、前を向いたまま動かない。


 だが、指先が強く握られていた。


     ◇


 講義後、ジークフリートはすぐに席を立たなかった。


 アルヴィンも立たない。


 オスカーは少し離れたところで待っている。


 ミリアは、イレーネの方を見たが、声はかけなかった。


 リシアたちも、すぐには動かなかった。


 何かが起きる。


 そう思った。


 だが最初に動いたのは、ジークフリートだった。


 彼はゆっくり立ち上がり、ステファニアへ向き直った。


 教室にはまだ学生が残っている。


 だから、声は大きくない。


 しかし、記録に残る場所だった。


「ステファニア」


 ステファニアは立ち上がった。


「はい、殿下」


「先ほどの講義を受けて、私の側で整理しなければならないことがある」


「承知しました」


「今日中に、周辺者の発言資格を再確認する。私の制止を越えた者については、周辺者として扱わない」


 教室が静かになる。


 ジークフリートは、続けた。


「その整理が終わるまで、私の周囲から届く私見、擁護、忠誠表明、婚約者に関する言及は、私の意向とは扱わないでほしい」


 ステファニアは、深く礼をした。


「承知しました。今のご発言は、殿下ご本人の確認として記録いたします」


「頼む」


 短いやり取りだった。


 けれど、重かった。


 ジークフリートは、ついに周辺者を外す可能性を明言した。


 リシアは、少しだけ息を吐いた。


 遅いかもしれない。


 それでも、動いた。


 だが、その瞬間、後方から声がした。


「殿下」


 イレーネだった。


 ジークフリートが振り返る。


 イレーネは立ち上がっていた。


 礼はしている。


 しかし、顔は上げたままだ。


「それは、殿下を案じる者を切り捨てるということでしょうか」


 教室の空気が、一気に張った。


 ミリアが目を見開く。


 アルヴィンの表情が硬くなる。


 オスカーは、一歩だけ前へ出た。


 ジークフリートは、しばらく黙っていた。


 それから、静かに答えた。


「違う」


「では」


「私の言葉に従わない者を、私の言葉を運ぶ者として扱わないということだ」


 イレーネの唇が、わずかに震えた。


「殿下が、ご自身を守る者を遠ざければ、誰が殿下をお守りするのですか」


 昨日と同じ問い。


 だが、今は教室の中だ。


 学生たちが見ている。


 記録も残る。


 ジークフリートは、目を逸らさなかった。


「私を守るために私の言葉を越える者は、私を守っていない」


 イレーネの表情が変わる。


 傷ついた顔だった。


 リシアは、その顔を見て胸が痛んだ。


 イレーネは、本気なのだ。


 本気でジークフリートを守りたい。


 本気で、彼のためだと思っている。


 だからこそ、止まれない。


「私は」


 イレーネが言った。


「殿下を軽んじる言葉を、見過ごせません」


「なら、自分の名で言え」


 ジークフリートの声は、昨日より少し強かった。


「私の名ではなく、イレーネ・バルシュの名で」


「それでは、殿下のためには」


「私のためという言葉を使うな」


 静かな声だった。


 だが、はっきりしていた。


 教室の空気が、止まる。


 ジークフリートは続けた。


「少なくとも、私の制止を越える時には使うな」


 イレーネは、何か言いかけた。


 しかし、声にならなかった。


 ジークフリートは、アルヴィンへ視線を向けた。


「アルヴィン」


「はい」


「イレーネ・バルシュを、私の周辺発言者名簿から一時除外する。本人発言は本人名でのみ扱う。私の意向を含む発言資格は停止」


 イレーネの顔から血の気が引いた。


 ミリアが小さく息を呑む。


 アルヴィンは、一拍だけ遅れて答えた。


「承知しました」


 ジークフリートは、イレーネを見た。


「これは罰ではない」


「……罰では、ないのですか」


「確認だ。私の言葉と、君の言葉を分ける」


 イレーネは、深く礼をした。


「承知いたしました」


 言葉は整っていた。


 だが、今度は誰の耳にも分かった。


 彼女は、受け取っていない。


 従っている。


 だが、受け取ってはいない。


 リシアは、その違いをはっきり感じた。


 ジークフリートも、たぶん感じている。


 けれど、今度は踏み込んだ。


 発言資格を止めた。


 それでも、完全には届いていない。


 そこが限界なのだ。


     ◇


 昼休みまでに、噂は広がった。


 文面は出ていない。


 だが、出来事は見られていた。


 王子が教室で側近の一人を名簿から外した。


 殿下が忠実な者を退けた。


 婚約者の前で、殿下が周囲を切った。


 ステファニア様のために、殿下が苦渋の判断をなさった。


 ステファニア様が何も言わなかった。


 殿下の周囲は、もう誰も守れないのではないか。


 リシアは貸与邸へ戻る途中、表示に流れる語を見ながら、疲れを覚えた。


「止めても、動きますね」


「はい」


 クラウディアが答える。


「ただし、今回は前進もあります」


「前進」


「ジークフリート殿下は、イレーネ・バルシュ様の発言資格を一時停止しました。これは、周辺者を外す処置として記録できます」


 ステファニアが頷く。


「殿下は、動きました」


 その声には、安堵もあった。


 そして、痛みもあった。


「けれど、止まりません」


 リシアが言う。


「ええ」


 ステファニアは認めた。


「殿下が動いたことと、周囲が止まったことは別です」


 朝、セラが言ったことと同じだ。


 命令が届いたことと、命令が通ったことは別。


 ジークフリートは、一歩進んだ。


 だが、その一歩で周囲が止まるわけではなかった。


 むしろ、動いたからこそ、新しい言葉が生まれている。


 切り捨て。


 孤立。


 苦渋。


 婚約者の前で。


 また、ステファニアの名が戻ってくる。


「私の前で、という部分が使われますね」


 ステファニアが言った。


 リシアは表示を見る。


 確かに増えている。


 婚約者の前で。


 婚約者への配慮から。


 婚約者を守るために。


 婚約者に見せるために。


「私は何も求めていません」


 ステファニアの声は静かだった。


「ですが、私の前で行われたというだけで、私のために行われた形へ寄せられる」


 アリシアが、扇を開いた。


「場所と同席者は、意味を持ちますもの」


「はい」


 ステファニアは頷く。


「だからこそ、記録が必要です」


 クラウディアが薄い表示を出す。


「すでに、殿下の発言、イレーネ様の問い、発言資格停止の理由、ステファニア様の非関与を時系列に整理しています」


 アリシアが少しだけ笑った。


「本当に早いですわね」


「必要になるためです」


 クラウディアの答えは、いつも通りだった。


 リシアは、もう驚かないことにした。


 たぶん無駄だ。


     ◇


 午後、ジークフリート側から正式な補足連絡が届いた。


 表題は、周辺発言者名簿の一時更新について。


 発信者はジークフリート本人。


 記録作成補助はアルヴィン。


 内容は短い。


 イレーネ・バルシュについて、本人の私見発言は妨げない。


 ただし、ジークフリート本人の意向、感情、婚約者対応、周辺者対応に関する発言資格は一時停止する。


 今後、本人が自名で発言する場合、それはイレーネ・バルシュ個人の見解として扱う。


 この措置は、ステファニア・レーヴェンハイト侯爵令嬢の要請によるものではない。


 また、同令嬢への配慮を理由とするものでもない。


 ジークフリート本人の発言統制上の判断である。


 リシアは、最後の二行を見て、深く息を吐いた。


「ここまで書きましたね」


「はい」


 ステファニアも同じ箇所を見ていた。


「私の名を外すための文言です」


「アルヴィン様が補助したのでしょうか」


「おそらく」


 クラウディアが答える。


「文章構造はアルヴィン様の整理癖に近いです。ただし、判断主体はジークフリート殿下本人として置かれています」


 アリシアは扇を閉じた。


「ようやく、少しだけ形になりましたわね」


「少しだけ、ですか」


 リシアが問うと、アリシアは頷いた。


「ええ。だって、まだ一人ですもの」


 リシアは言葉に詰まった。


 そうだ。


 今止めたのは、イレーネ一人だ。


 しかも一時停止。


 他の者たちがどう動くかは分からない。


 イレーネが本当に止まるかも分からない。


「一人を止めたことで、他の者が黙る場合もあります」


 クラウディアが言った。


「逆に、殿下が側近を切ったという物語へ寄る場合もあります」


「今回は」


 ステファニアが問う。


「後者の可能性が高いです」


 即答だった。


 リシアは、予想していたが、それでも少し肩が落ちた。


「理由は」


「殿下を守るという語は、すでに殿下本人の制止を越える形へ変質しています。中心人物の一人を外した場合、その者を殉じた者、切られた者、忠誠を尽くした者として扱う語が生まれます」


 ステファニアが、目を閉じた。


「イレーネ様が、それを望まなくても」


「はい」


 クラウディアが答える。


「望むかどうかとは別に、周囲が使います」


 セラが言った。


「盾を落とした者を、旗にすることがあります」


 全員がセラを見た。


 セラは、少しだけ首を傾げた。


「違いますか」


「いえ」


 アリシアが、ゆっくりと笑った。


「とても合っていますわ」


 リシアも頷いた。


 盾を落とした者を、旗にする。


 イレーネがジークフリートを守ろうとした。


 その結果、周辺発言者から外された。


 すると周囲は、彼女自身の意思とは別に、殿下を守ろうとして切られた忠臣という形へ変えることができる。


 また、名が歩く。


 今度はジークフリートの名だけではない。


 イレーネの名も。


     ◇


 夕方、公開連絡板に最初の大きな反応が出た。


 名はない。


 だが、内容は明らかだった。


 殿下をお守りしようとした者が、殿下の御心を煩わせぬために身を退いたと聞く。


 忠誠とは、時に名を捨てることでもある。


 殿下が苦渋の判断をなさったなら、その痛みを周囲が受け止めねばならない。


 リシアは、その文を見た瞬間、頭が痛くなった。


「身を退いた」


 ステファニアが読み上げる。


「違いますね」


「違います」


 クラウディアが答える。


「発言資格の一時停止です。本人が身を退いたわけではありません」


「忠誠とは、時に名を捨てること」


 アリシアが、扇で文字を指す。


「美しく言っていますけれど、名を捨てたことにして、別の名を与えていますわね」


「別の名」


「殿下を守ろうとして切られた忠臣」


 リシアは、ぞっとした。


 その通りだ。


 イレーネ本人が何を言ったか。


 ジークフリートが何を理由に発言資格を止めたか。


 それらが消えている。


 代わりに、美しい物語が置かれている。


 忠臣。


 身を退く。


 苦渋。


 痛み。


 まただ。


 見ている。


 けれど、聞いていない。


「訂正を出しますか」


 リシアが問う。


 ステファニアはすぐには答えなかった。


 クラウディアを見る。


「ジークフリート殿下側が出すべき訂正です」


 クラウディアが言った。


「ステファニア様側が出せば、殿下側の周辺統制へ介入した形になります」


「そうですね」


 ステファニアは頷いた。


「私が出すべきではありません」


 アリシアが、満足そうに目を細める。


「よろしいですわ。手を出せることと、出すべきことは違います」


 リシアは、胸の奥が少しもどかしかった。


 明らかに違う。


 訂正したい。


 だが、こちらが訂正すれば、ジークフリート側の問題へこちらの手が入る。


 するとまた、婚約者が殿下の周囲を動かしている、という形にされる。


 動いても使われる。


 動かなくても使われる。


 だから、記録だけは残す。


 リシアは、その理屈を理解していた。


 理解していても、苦い。


     ◇


 訂正は、夜になる前にジークフリート側から出た。


 表題は、周辺発言者名簿一時更新に関する誤認訂正。


 発信者はジークフリート本人。


 補助はアルヴィン。


 文面は、さらに短い。


 イレーネ・バルシュは、自ら身を退いたのではない。


 私、ジークフリート・ローデンフェルトが、本人発言と私の意向を分けるため、発言資格を一時停止した。


 当該措置を忠誠、美談、身を退いた行為として扱わないこと。


 本人の名誉を守るためにも、事実と異なる美称を付けないこと。


 この措置は、私の統制上の判断である。


 リシアは、文面を読み終えた。


「かなり強いですね」


「はい」


 ステファニアが言う。


「必要な強さです」


 アリシアは、少しだけ面白そうにしていた。


「ようやく、殿下ご自身の言葉が刃になりましたわね」


「刃」


「ええ。切るためではありません。形を分けるための刃です」


 リシアは頷いた。


 これは、攻撃ではない。


 だが、切っている。


 美談を切る。


 忠臣という名を切る。


 自分の統制上の判断だと、責任を自分へ戻す。


 ジークフリートは、また一歩進んだ。


 しかし、クラウディアの表示は冷静だった。


「反応は二方向に分かれています」


 表示が切り替わる。


 一つ目。


 殿下がここまで明言された以上、周囲は従うべきだ。


 二つ目。


 殿下にここまで言わせる状況こそ問題ではないか。


 リシアは、目を閉じた。


「また」


「はい」


 クラウディアが答える。


「後者は、次の語へ接続しやすいです」


「次の語」


「殿下にここまで言わせた原因」


 ステファニアが、静かに言った。


「その原因として、私の名が戻ってくる」


「はい」


 クラウディアは否定しなかった。


 部屋が静かになる。


 ジークフリートは動いている。


 止めようとしている。


 訂正している。


 それでも、周囲は別の問いへ移る。


 殿下にここまで言わせたのは誰か。


 なぜ殿下はここまで追い込まれたのか。


 誰が殿下を孤立させているのか。


 そうして、また名前が探される。


 ステファニアの名。


 ファーランドの名。


 アリシアの名。


 メシア教の名。


 やがて、帝国の語彙もそこへ入ってくるのだろう。


 リシアは、まだ見えていない流れの先に、薄い黒い線を感じた。


     ◇


 夜、貸与邸の居間で、その日の記録が整理された。


 ジークフリートの停止命令。


 ミリアの言わない選択。


 イレーネの反発。


 政務実務講義での統制の話。


 教室での発言資格一時停止。


 公開連絡板の美談化。


 ジークフリート本人による誤認訂正。


 そして、訂正後に生まれた新しい問い。


 殿下にここまで言わせた原因。


 クラウディアは、それらを時系列に並べた。


「本日の結論です」


 表示に、短い文が浮かぶ。


 ジークフリート殿下は、周辺者統制を開始した。


 ただし、統制は部分的であり、再解釈、逸話化、原因探索を止めきれていない。


 リシアは、その文字を見た。


 冷たい。


 だが、公平だ。


 ジークフリートを悪く言ってはいない。


 動いたことは、動いたと記録している。


 止めきれていないことも、止めきれていないと記録している。


 ステファニアは、長く表示を見ていた。


「動いたことは、軽く扱いたくありません」


 彼女は言った。


「殿下は、確かに動きました」


「はい」


 クラウディアが答える。


「同時に、止めきれていないことも軽く扱えません」


 ステファニアは、そこで少しだけ目を閉じた。


「はい」


 短い返事だった。


 その一音が、リシアには痛かった。


 ジークフリートが何もしなければ、切る理由は簡単だったかもしれない。


 だが彼は動いている。


 遅くても、足りなくても、戻ろうとしている。


 だから、ステファニアは痛む。


 動いている相手を、それでも足りないと見るのは、怒るより難しい。


 アリシアが、静かに扇を閉じた。


「殿下が動いたことは、殿下の記録です」


 ステファニアが顔を上げる。


「ですが、殿下が止めきれなかったことも、殿下の記録です」


 優しい声ではなかった。


 けれど、突き放す声でもなかった。


「婚約は、気持ちだけで結ぶものではありません。名と家と周囲と、未来の扱いまで含めて結ぶものです」


 リシアは、息を止めた。


 話が、少し先へ進んだ。


 婚約。


 気持ち。


 名と家と周囲。


 未来の扱い。


 ステファニアは、アリシアの言葉を受け止めている。


「分かっています」


 静かな声だった。


「分かっているから、苦しいのですね」


 アリシアは、それ以上言わなかった。


 リシアも、何も言えなかった。


 セラが、部屋の端で少しだけ姿勢を正す。


「ステファニア様」


「はい」


「護衛の話でよろしければ」


 ステファニアが少しだけ目を瞬かせた。


「伺います」


「守る対象が進むべき場所と、護衛が守れる場所が違う場合があります」


 セラは言った。


「その時、護衛は進路を変えるか、守り方を変えるか、守れないと報告します」


「守れないと」


「はい」


 セラは頷いた。


「守れるふりをすると、対象も護衛も死にます」


 あまりにも率直だった。


 だが、誰も笑わなかった。


 ステファニアは、しばらく黙っていた。


「婚約でも、そうなのでしょうね」


 リシアは胸が締めつけられた。


 守れるふりをすると、どちらも壊れる。


 ジークフリートは、ステファニアを大切に思っているのかもしれない。


 ステファニアも、ジークフリートを嫌っているわけではない。


 だが、その周囲が、名が、善意が、忠誠が、婚約者という言葉が、二人を守れる形ではなくなっている。


 そう見えてしまう。


 クラウディアが、最後の表示を出した。


 明日以降、語彙流入予測。


 原因。


 責任。


 孤立。


 婚約者。


 聖女。


 信仰。


 ファーランド。


 帝国。


 リシアは、最後の二つで目を止めた。


「帝国」


「はい」


 クラウディアが答える。


「まだ少数です。ですが、混ざり始めています」


「どういう形で」


「殿下の孤立、ファーランドの影響、信仰への圧力、帝国との戦火を同列に置く形です」


 アリシアが、ゆっくりと目を細めた。


「次は、混ぜられる名ですわね」


 その声は、とても静かだった。


 リシアは、表示の中の言葉を見つめた。


 原因。


 責任。


 婚約者。


 聖女。


 ファーランド。


 帝国。


 別々だったはずの言葉が、少しずつ同じ場所へ寄せられている。


 守るという圧の次に来るもの。


 それは、名を混ぜることだった。


 ステファニアが、静かに顔を上げた。


「記録を続けましょう」


 声は、疲れていた。


 けれど、折れてはいなかった。


「殿下が動いたことも。止めきれなかったことも。私の名がどう使われたかも」


「はい」


 クラウディアが答える。


 リシアも頷いた。


 その夜、貸与邸の窓の外では、学院の灯がいつも通りに並んでいた。


 静かで、整っていて、何も起きていないように見える。


 けれど表示の中では、言葉が動き続けている。


 誰かを守るため。


 誰かの原因を探すため。


 誰かの名を、別の名と混ぜるため。


 リシアは、その流れを見ながら思った。


 殿下の限界は、今日見えた。


 けれど、見えたから終わるわけではない。


 見えたものを、どう扱うか。


 次は、そこから始まる。


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