第七十九夜 守るという圧
第七十九夜 守るという圧
公開連絡板には、夜の間にまた新しい言葉が増えていた。
守る。
支える。
孤立させない。
婚約者として。
信仰を軽んじない。
善意を拒まない。
殿下のため。
それらの言葉が、別々の板に、別々の名で、別々の口調で置かれている。
けれど、薄い表示で並べて見ると、奇妙なほど同じ形をしていた。
守る、という言葉は優しい。
口にした瞬間、そこに悪意がないように聞こえる。
だからこそ、形が揃っていることに気づいた時、リシアは小さく息を止めた。
リシアは朝食の席で、表示を見ながら匙を止めた。
「増えましたね」
ステファニアが言った。
声は静かだった。
静かすぎる、とリシアは思った。
昨日の本部初期回答を受けて、貸与邸側は返答を整えた。
初期回答として受領する。
ただし、照会事項への回答は未了。
一次記録、呼称根拠、寄進要求と保管権限の根拠、写し提示可否。
その四点について、改めて回答を求める。
文章としては、きわめて淡々としていた。
怒っていない。
責めていない。
ただ、答えていない問いを答えていないものとして扱っただけ。
それなのに、公開連絡板では、もう別の形へ変わっている。
信仰を守る者を、問い詰めるべきではない。
祈りを守ることは、誰かを奪うことではない。
殿下を支える者を遠ざけることは、殿下を孤立させることではないのか。
婚約者であれば、殿下が責められぬよう心を配るべきではないか。
リシアは、最後の一文で息を止めた。
ステファニアの名前は出ていない。
けれど、誰のことを指しているかは明らかだった。
「名前を出さないまま、名前を置いています」
リシアが言うと、クラウディアが頷いた。
「はい。直接名指しは避けています。ですが、文脈上の参照対象は明確です」
「卑怯ですね」
セラが言った。
いつもより低い声だった。
リシアはセラを見た。
セラは、皿の上の焼き野菜をきちんと半分に切りながら、表示から目を離していない。
「名を出さなければ、斬られにくいと思っています」
「セラ」
ステファニアが軽く咎める。
セラは頷いた。
「比喩です」
「比喩でも物騒です」
「申し訳ありません」
謝りながら、セラは焼き野菜を口へ運んだ。
その顔は、まったく申し訳なさそうではなかった。
アリシアが、扇の先で表示を軽く示した。
「ですが、セラ様の見方は正しいですわ。名を出さずに近づく言葉ほど、受けた側が払いにくい」
「守ると言われると、拒みにくいからですか」
リシアが問う。
「ええ」
アリシアは微笑んだ。
美しい笑みだった。
ただし、朝食の席に置くには少し冷たい。
「守ると言って近づく者を拒めば、今度は守られる側が冷たい者にされます。支えると言って近づく者を止めれば、支えを拒む者にされます。善意と言って差し出された手を受けなければ、善意を踏みにじったことにされます」
「……受ければ?」
ステファニアが問う。
アリシアは、扇を閉じた。
「受ければ、次からその名で近づく道ができます」
リシアは、匙を置いた。
食欲が消えたわけではない。
ただ、考えるために手が止まった。
守る。
支える。
善意。
心配。
どれも、本来は悪い言葉ではない。
むしろ、必要な言葉のはずだ。
けれど、相手の意思を確認せずに向けられた瞬間、それは少し形を変える。
差し出された手に見えて、進路を塞ぐ壁にもなる。
「受け取る前に、確認する」
リシアは、自分に言い聞かせるように言った。
「誰を、何から、どの権限で守るのか」
「はい」
クラウディアが頷く。
「その確認を嫌がる言葉は、記録に残す価値があります」
「嫌がること自体を、ですか」
「はい」
クラウディアは、淡々と答えた。
「本当に保護を目的とするなら、保護対象、危険、権限、手段を確認されても困りません。困るのは、保護という名で別の目的を通したい場合です」
ステファニアが、わずかに目を伏せた。
「私の名が、殿下を責めるためにも、殿下を守るためにも使われ始めていますね」
「そうですわね」
アリシアが答える。
「そして、そのどちらも、ステファニア様ご本人へ確認しないまま進みたがっている」
リシアは、胸の奥が少し冷えるのを感じた。
同じだ。
聖女像と呼ばれたものの話と、少し似ている。
祈る者の心を盾に、保管権限の問いをずらす。
婚約者を守るという言葉を盾に、ステファニア本人の意思確認をずらす。
相手が大切な言葉を持ち出しているからこそ、真正面から否定できない。
その間に、足元が動く。
「セラの言う盾の後ろの足、ですね」
リシアが言うと、セラは食事を続けながら頷いた。
「はい。盾を持つ手より、踏み込む足を見ます」
「どう見るのですか」
アリシアが面白そうに問う。
セラは少し考えた。
「本当に守る者は、守る対象を押しません」
短い言葉だった。
だが、リシアにはよく分かった。
護衛なら、守る対象を後ろへ下がらせることはある。
けれど、守るという名で、守る対象を自分の望む場所へ押し込むなら、それは護衛ではない。
「庇うふりをして押してくる相手は、敵です」
セラは続けた。
「敵と決めるのが早すぎる場合もありますが、少なくとも距離は取るべきです」
ステファニアが、小さく息を吐いた。
「分かりやすいですね」
「ありがとうございます」
「褒めています」
「理解しました」
セラが真顔で頷く。
そのやり取りで、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
けれど、表示の中の言葉は消えない。
守る。
支える。
孤立させない。
善意を拒まない。
リシアは、もう一度その言葉を見た。
優しい言葉ほど、乱暴に使われた時の音が小さい。
だから、気づくのが遅れる。
◇
午前の講義へ向かう廊下で、最初の接触があった。
三人組の女子学生だった。
リシアは顔を知っている。
同じ学年ではないが、学院内の礼法講義で何度か見かけた学生たちだ。
先頭に立つのは、薄い栗色の髪を綺麗に結い上げた子爵家の令嬢だった。
名は、たしかカミラ・オルテン。
彼女はリシアたちの前で足を止め、深く礼をした。
「ファーランド公女殿下。レーヴェンハイト侯爵令嬢。少しだけ、お時間をいただけますでしょうか」
礼は正しい。
声も落ち着いている。
だからこそ、リシアはすぐに頷かなかった。
「講義まで、あまり時間はありません」
リシアが答えると、カミラはもう一度頭を下げた。
「承知しております。長くは取りません。私たちは、ステファニア様をお守りしたいのです」
ステファニアの表情は変わらなかった。
だが、リシアの中では、小さな鐘が鳴った。
守る。
もう来た。
「私を、ですか」
ステファニアが問う。
「はい」
カミラはまっすぐに答えた。
「この数日、殿下の周囲や公開連絡板で、ステファニア様の名を巡る言葉が増えております。中には、殿下のお立場を守る名目で、ステファニア様へ負担を強いるものもございます」
そこまでは、正しい。
リシアは黙って聞いた。
「私たちは、それを見過ごすべきではないと考えております」
カミラの後ろにいる二人も頷く。
「ですので、ステファニア様を支持する者として、公開連絡板に意見を出したく存じます」
ステファニアは、静かに言った。
「どのような意見ですか」
カミラは用意していたのだろう。
袖口から小さな紙片を取り出した。
学院の簡易筆記紙だ。
「草案です」
ステファニアは受け取らなかった。
「読み上げていただけますか」
カミラが少しだけ目を瞬かせた。
だが、すぐに頷く。
「はい」
彼女は紙片を開いた。
「レーヴェンハイト侯爵令嬢は、長く殿下を支えてこられた方であり、その名誉は守られなければならない。殿下の周囲にいる者は、婚約者の尊厳を傷つけぬよう慎むべきである。ステファニア様を軽んじる言葉は、殿下ご自身の名誉をも損なう」
廊下の空気が、少しだけ固くなった。
言葉だけを見れば、ステファニアを守っている。
だが、その最後の部分。
殿下ご自身の名誉をも損なう。
リシアは、ステファニアを見た。
ステファニアは、やはり静かだった。
「私の確認を受けた意見として出す予定ですか」
ステファニアが問う。
「いえ、そこまでは」
カミラは慌てて首を振る。
「ただ、ステファニア様のお心を思えば」
「私の心は、確認されていません」
短い言葉だった。
カミラの口が止まる。
「ステファニア様を軽んじる言葉を止めたいというお気持ちは、受け取りました」
ステファニアは続けた。
「ですが、その文面は、私の名誉を守る形で、ジークフリート殿下を責める構造になっています」
「責めるつもりは」
「つもりの問題ではありません」
ステファニアの声は柔らかかった。
それでも、廊下に置かれた刃のようだった。
「殿下の周囲を慎ませるために、私の名を根拠として使っています。さらに、私への言葉が殿下の名誉を損なうと置けば、私の名が殿下への批判の道になります」
カミラは紙片を握った。
「ですが、私たちは本当に、ステファニア様を」
「守ろうとしてくださったのでしょう」
ステファニアは、そこだけは否定しなかった。
「その善意は受け取ります。けれど、その名で私の意思を代弁しないでください」
リシアは、隣で息を詰めていた。
すごい、と思った。
ステファニアは、相手の善意を切り捨てていない。
だが、名を使う道は閉じている。
カミラは、しばらく言葉を探した。
そして、小さく頭を下げた。
「……失礼いたしました。文面を、改めます」
「必要なら、あなた自身の名で書いてください」
ステファニアが言った。
「ステファニア・レーヴェンハイトの心を思えば、ではなく、カミラ・オルテンとして、何を不適切だと考えるのかを」
カミラは顔を上げた。
少し、驚いたようだった。
「私の名で」
「はい」
ステファニアは頷いた。
「それなら、私はあなたの意見として受け取れます」
カミラは紙片を胸元へ戻した。
「承知しました」
もう一度礼をして、彼女たちは廊下の脇へ退いた。
リシアたちは歩き出す。
数歩進んだところで、リシアは小さく息を吐いた。
「今のは、危なかったですね」
「ええ」
ステファニアが答える。
「私を守る言葉で、殿下を責める形でした」
「悪意は」
「おそらく、強くはありません」
ステファニアは、少しだけ目を伏せた。
「だからこそ、早めに止める必要があります」
リシアは頷いた。
悪意があれば、拒む理由は簡単だ。
だが善意なら、拒む側が理由を丁寧に置かなければならない。
それが、疲れる。
そして、疲れさせること自体が、圧になる。
◇
講義の前半は、ほとんど頭に入らなかった。
リシアは筆記板に目を落としていたが、意識は廊下の会話へ戻ってしまう。
守る。
カミラたちは、ステファニアを守ろうとしていた。
たぶん、本当に。
けれど、その言葉はステファニアの名を持って、ジークフリートを責める道になりかけた。
反対側はどうだろう。
ジークフリートを守るために、ステファニアの名を使う者。
そちらは、すでに公開連絡板に出ている。
婚約者であれば、殿下が責められぬよう心を配るべきではないか。
それは、ステファニアを守っていない。
ジークフリートを守る名目で、ステファニアの務めを決めに来ている。
どちらも、本人の意思を確認していない。
リシアは筆記板に、短く書いた。
守る言葉は、向きがある。
誰を守るか。
何から守るか。
守るために、誰を動かすか。
その最後が、怖い。
誰かを守るために、別の誰かを動かす。
しかも、動かされる本人に確認しない。
それは、守ることではなく、使うことだ。
リシアは、そこまで書いて手を止めた。
自分の字が、少し硬い。
隣でセラが、ちらりと筆記板を見た。
「よいと思います」
小声だった。
リシアは少し驚いた。
「見えましたか」
「護衛ですので」
「それは理由になるのですか」
「なります」
セラは真面目な顔で答えた。
リシアは、思わず少し笑いそうになった。
けれど、すぐに表情を戻す。
講義中だ。
前方では、ジークフリートが静かに座っている。
背筋は伸びている。
けれど、少しだけ硬い。
彼にも、言葉は届いているのだろう。
届いていて、どうにもできていない。
その事実が、次の圧になる。
その少し後ろで、イレーネ・バルシュが一度だけ顔を上げた。
彼女は講義板ではなく、ジークフリートの背を見ていた。
心配している顔だった。
怒っている顔でもあった。
リシアは、その視線を見て、胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
何を守ろうとしているのか。
そして、誰の言葉を聞こうとしているのか。
◇
昼休み、ジークフリート本人から限定連絡が届いた。
宛先は、ステファニア。
控えとして、リシア、アイン、クラウディア、学院長府連絡窓口にも残されている。
表題は短かった。
守るという語の扱いについて。
ステファニアは、貸与邸の小応接でそれを開いた。
リシア、アリシア、セラも同席している。
クラウディアは壁際に立ち、すでに記録を複製していた。
ジークフリートの文面は、彼にしては短い。
私、ジークフリート・ローデンフェルトは、私を守る、支える、孤立させない等の名目で、特定個人の名や立場を本人確認なく用いることを望まない。
ステファニア・レーヴェンハイト侯爵令嬢の名を、私の擁護、周囲への圧力、または誰かへの批判の根拠として扱わないこと。
私を案じる言葉であっても、本人の名を借りる場合は、その本人の明示確認を要する。
これは、私を遠ざけるためではなく、私の名で他者を押さないための確認である。
リシアは、ゆっくりと読み終えた。
「……きちんと、書いていますね」
「はい」
ステファニアが答えた。
声に、わずかな安堵がある。
ジークフリート本人は、分かっている。
少なくとも、分かろうとしている。
それは、救いだ。
けれど、クラウディアは表示を一つ切り替えた。
「公開連絡板では、すでに反応が出ています」
「早すぎませんか」
リシアが思わず言う。
「はい」
クラウディアは、何の感情も混ぜずに答えた。
「ジークフリート殿下の限定連絡そのものは公開されていません。ですが、殿下が周囲へ自制を求めたらしい、という断片が流れています」
表示に、短い文が浮かぶ。
殿下はお優しい。
だから、ご自分を責める言葉も止めようとなさる。
だが、殿下が止めるからこそ、周囲が守らねばならないのではないか。
リシアは、ぞっとした。
止めても、止まらない。
止めたこと自体が、別の理由になる。
「……これでは」
ステファニアの指が、膝の上でわずかに動いた。
「殿下が何を言っても、殿下の優しさとして回収されてしまいます」
「そうですわ」
アリシアが静かに言った。
「止める言葉を、止められた側が美談に変える。よくあることです」
「では、どうすれば」
リシアは言いかけて、止まった。
アリシアがこちらを見る。
その目に、答えを急がせない光があった。
リシアは、言葉を選び直した。
「いえ。どうすれば止まるか、ではありませんね」
「ええ」
アリシアが微笑む。
「止まらないものを、止まったことにしてはいけません」
ステファニアが、ゆっくり頷いた。
「殿下が止めようとした記録は残す。けれど、それで周囲が止まったとは扱わない」
「はい」
クラウディアが答える。
「すでに、ジークフリート殿下本人の確認文と、公開連絡板上の再解釈を時系列で並べています」
「用意が早いですわね」
アリシアが言うと、クラウディアは淡々と返した。
「必要になる可能性が高かったためです」
リシアは、少しだけ遠い目になった。
こういう時のクラウディアは、本当に怖い。
誰も頼んでいないのに、必要なものがすでに揃っている。
だが今は、それがありがたかった。
セラが表示を見ながら言った。
「殿下の命令を聞かない者が、殿下を守ると言っています」
部屋の空気が、少し止まった。
短い。
だが、本質だけを突いていた。
ステファニアが、静かに目を伏せる。
「そうですね」
その声は、深く沈んでいた。
「殿下本人の言葉に従わない者が、殿下を守ると」
リシアは胸が痛くなった。
ジークフリート本人は、書いている。
止めようとしている。
だが、止めきれていない。
それは彼の悪意ではない。
けれど、責任ではある。
王子の名は、本人の手を離れても歩く。
歩かせてきた時間が長ければ、止まれと言ってもすぐには止まらない。
「記録を残しましょう」
ステファニアが言った。
「殿下が止めようとしたこと。止めようとしたにもかかわらず、周囲がそれを殿下の優しさとして再解釈し、さらに周囲が守るべきだと語ったこと」
「承知しました」
クラウディアが答える。
「分類は」
「本人発言の再解釈による周辺圧力」
ステファニアは、少し考えてから言った。
「それに、婚約者名の間接利用を添えてください」
「はい」
クラウディアが指を動かす。
薄い表示に、新しい分類が置かれた。
本人発言の再解釈による周辺圧力。
婚約者名の間接利用。
リシアは、その文字を見た。
また一つ、名前がついた。
名前がつくと、見える。
けれど、見えるようになったものは、消えたわけではない。
◇
午後、メシア教会系学生会からも短い連絡が届いた。
発信者は、エレナ・ヴァイスベル。
表題は、史料照会と祈りの自由に関する学生会内確認。
連絡は、公開ではなく限定共有だった。
宛先には、ファーランド大公家貸与邸、学院長府連絡窓口、学生会内部記録保管席が含まれている。
内容は簡潔だった。
メシア教会系学生会は、信徒個人の祈りの自由を尊重する。
同時に、聖女隠匿事件および聖女像寄進要求事件に関する史料根拠確認を、祈りの自由への攻撃とは扱わない。
祈り、儀礼、保管権限、呼称根拠は関連し得るが、同一ではない。
学生会としては、教会本部からの正式回答または追加回答を待ち、史料提示の有無を記録する。
以上。
リシアは読み終えて、思わず息を吐いた。
「エレナ様、置きましたね」
「置きましたわね」
アリシアが少し嬉しそうに言う。
「学生会の名で、置ける範囲を選んだ」
ステファニアも頷いた。
「個人意見ではなく、学生会内確認として置いたのですね」
「はい」
クラウディアが表示を確認する。
「文面上、教会本部の判断には踏み込んでいません。学生会が今扱うべき範囲に留めています」
「うまいですわ」
アリシアが扇を軽く鳴らした。
その音が、どこか楽しそうで、リシアは少しだけエレナの将来が心配になった。
だが、次の表示でその心配は別のものに変わった。
公開連絡板に、新しい反応が出ている。
学生会は信仰を守る責務を忘れてはならない。
祈りを攻撃ではないと決めること自体が、信徒の痛みに鈍いのではないか。
史料を求める者を責めるなというなら、祈る者を守る者は誰なのか。
エレナ様は立派だが、周囲の圧に配慮しすぎているのではないか。
リシアは、今度こそ肩が重くなった。
その少し後に、エレナから短い追記が届いた。
個人名ではなく、学生会内確認の補足記録として。
公開連絡板上の反応は確認済み。
祈りを守るという語が、史料照会の停止要求として使われる場合は、学生会内記録で別分類とする。
必要があれば、次回会合で扱う。
文面は短かった。
だが、最後に一行だけ、エレナ個人の記録として添えられていた。
思ったより、早く来ました。
「こちらも、守る、ですね」
「はい」
クラウディアが答える。
「信仰を守る、祈る者を守る、エレナ様を守る。語の構造は同じです」
アリシアが、楽しそうではない顔で言った。
「便利な言葉ですわね。守る」
その声音に、少しだけ怒りが混じっていた。
リシアは、それに気づいた。
アリシアは、祈りを敵とは見なさない。
けれど、祈りの名で保管権限を奪い、記録を塗り替え、眠っていた者の名を自分たちの物語へ取り込もうとする者は敵だと言った。
今も同じだ。
祈りを守るという言葉が、史料照会を押し返す力として使われている。
それは、アリシアにとって、よく知った形なのだろう。
「リシア様」
ステファニアが声をかけた。
リシアは顔を上げる。
「はい」
「今、何を考えていらっしゃいましたか」
問われて、少し迷った。
だが、隠すことではない。
「守るという言葉は、守る対象を中心にしているようで、実際には守ると言った人の位置を強くするのだと思いました」
ステファニアが、静かに続きを待つ。
「守ると言った人は、守る側に立てます。善意の側に。だから、その言葉を向けられた側が拒むと、守られることを拒んだように見える。けれど、本当は、守る側に立つ許可を出していない場合があります」
「はい」
ステファニアの目が少し柔らかくなった。
「私も、そう思います」
リシアは、胸の奥で小さく息を吐いた。
最近、分かってきたことがある。
アインは、答えをすぐに渡さない。
クラウディアも、情報を必要以上に与えない。
アリシアは、問いの形だけ置いて、こちらが自分で言葉にするまで待つことがある。
それは冷たさではない。
たぶん、優しさだ。
自分の足で立つための。
リシアは、今そのことを少しだけ実感していた。
◇
夕方、ジークフリート側の控室では、空気が重かった。
リシアはそこにいない。
だが後にクラウディアが共有した記録によれば、その場にいた者たちは皆、同じ沈黙を見ていたという。
ジークフリートは、机の上に置かれた公開連絡板の写しを見ていた。
殿下はお優しい。
だからこそ、周囲が守らねばならない。
その一文の前で、彼はしばらく動かなかった。
「殿下」
アルヴィンが声をかける。
ジークフリートは、顔を上げなかった。
「私は、止めたつもりだった」
声は低い。
怒りよりも、疲労が強かった。
「はい」
アルヴィンが答える。
「止める文面でした」
「なら、なぜだ」
ジークフリートの指が、写しの端を押さえる。
紙が少し歪んだ。
「なぜ、止めたことが、守れという理由になる」
誰もすぐには答えなかった。
ミリアは唇を噛んでいる。
オスカーは腕を組み、壁際に立っていた。
イレーネは、少し離れた位置にいる。
その顔には、納得できないものが残っていた。
「殿下がご自分を責めるような形で止められたからではありませんか」
イレーネが言った。
アルヴィンが目を向ける。
ジークフリートも、ようやく顔を上げた。
「どういう意味だ」
「殿下は、ご自分の名で他者を押さないため、と書かれました」
イレーネの声は震えていない。
彼女は、本気で言っている。
「ですが、それでは殿下だけが責任を負う形に見えます。殿下を案じる者が、周囲で声を上げるのは当然ではありませんか」
「私が止めた」
ジークフリートが言った。
「それでもか」
「殿下が止められるからこそです」
イレーネは一歩も退かなかった。
「殿下はお優しい。ご自分を責め、周囲を庇われる。ならば周囲は、殿下の優しさで失われるものを守らなければなりません」
ミリアが顔を上げた。
「イレーネ様、それは」
「私は、殿下を責める者を許せません」
イレーネの声が、少しだけ強くなる。
「殿下の名を使うなと言われても、殿下を守る心まで止められるものではありません」
ジークフリートは目を閉じた。
アルヴィンが、静かに言った。
「心は止めていない。行動と発言の扱いを止めています」
「同じことです」
「違います」
アルヴィンの声が、珍しく硬くなった。
「殿下を守る心があることと、殿下本人の制止を越えて、殿下の名を周囲に押しつけることは違います」
イレーネは、アルヴィンを見た。
「では、殿下が不当に責められても黙れと」
「不当だと思うなら、あなたの名で言えばいい」
オスカーが口を開いた。
短い言葉だった。
イレーネの視線が、今度はオスカーへ移る。
「殿下のためではなく、イレーネ・バルシュとして不当だと言え。殿下の優しさを理由にするな」
「オスカー様まで」
「殿下本人の言葉に従わないなら、それは殿下のためじゃない」
部屋の空気が、さらに重くなる。
ジークフリートは、ゆっくり目を開けた。
「イレーネ」
「はい」
「私の名で、誰かを責めるな」
イレーネの表情が揺れた。
「殿下」
「私を守るという言葉で、ステファニアの名を使うな。ファーランドの名を使うな。信仰の名を使うな。使うなら、自分の名で言え」
その声は、王子のものだった。
弱くはない。
けれど、遅かった。
リシアがその記録を見た時、そう感じてしまった。
この言葉は正しい。
だが、今まで名を歩かせてきた時間に対して、少し遅い。
イレーネは、深く礼をした。
「……承知、いたしました」
言葉は従順だった。
しかし、完全には納得していない。
それが記録の声にも残っていた。
ジークフリートは、それに気づいたのだろう。
だが、その場でさらに踏み込むことはしなかった。
それが、彼の限界なのか。
あるいは、今はまだ踏み込めないだけなのか。
リシアには、分からなかった。
◇
夜になって、貸与邸の居間に記録が並べられた。
カミラ・オルテンの接触記録。
ジークフリート本人の限定連絡。
公開連絡板の再解釈。
エレナ・ヴァイスベルの学生会内確認。
メシア教会系学生会に対する公開連絡板の反応。
ジークフリート側控室の会話要約。
同じ言葉が、何度も出てくる。
守る。
支える。
案じる。
孤立させない。
信仰を守る。
殿下を守る。
婚約者を守る。
「多すぎますね」
リシアが言った。
疲れが声に出た。
アリシアは、扇を膝の上で閉じたまま、表示を見ていた。
「多いのではありませんわ」
「違うのですか」
「同じものが、いくつもの顔で現れているだけです」
ステファニアが、ゆっくり頷いた。
「守るという言葉で、発言者が善意の側へ立つ。そのうえで、本人確認を避ける」
「はい」
クラウディアが答える。
「本日の記録を分類すると、少なくとも三系統です」
表示が切り替わる。
一、婚約者保護を名目とするステファニア様への圧力。
二、ステファニア様保護を名目とするジークフリート殿下側への圧力。
三、祈りの自由保護を名目とする史料照会への圧力。
リシアは、その三行を見た。
綺麗に並んでいる。
並んでいるのが、怖い。
「全部、本人確認を避けています」
リシアが言うと、クラウディアは頷いた。
「はい」
「守る対象を、本当に見ていない」
「見ている場合もあります」
クラウディアが、少しだけ補足した。
「ただし、見ていることと、聞いていることは別です」
アリシアが微笑んだ。
「よい言い方ですわね」
クラウディアは、表情を変えない。
「ありがとうございます」
リシアは、表示から目を離した。
見ていることと、聞いていることは別。
守ると言っている人たちは、ステファニアを見ている。
ジークフリートを見ている。
信徒を見ている。
祈りを見ている。
けれど、聞いているか。
本人が何を言ったか。
何を望んでいないか。
どこまでを認め、どこからを拒むか。
それを聞いているか。
そこが違う。
「明日以降、接触は増えます」
クラウディアが言った。
「理由は」
アリシアが問う。
「今日、ステファニア様がカミラ・オルテン様を拒絶ではなく整理で返しました。ジークフリート殿下も限定連絡を出しました。エレナ様も学生会内確認を置きました。これにより、三方向すべてで表立った言葉が生まれました」
「言葉が生まれれば、反応が生まれる」
ステファニアが言う。
「はい」
クラウディアは頷いた。
「特に、殿下が自制を求めたことへの再解釈は、明日以降さらに増える可能性があります」
セラが、部屋の隅で腕を組んだ。
「押してくるなら、下がる場所を決めておくべきです」
「下がる場所」
リシアが問う。
「はい。護衛では、押された時にどこへ退くかを先に決めます。退く場所がないと、守る対象が壁際へ追い込まれます」
ステファニアが、少しだけ目を細めた。
「私たちの場合、下がる場所は記録ですか」
「はい」
セラは即答した。
アリシアが、声を立てずに笑った。
「本当に分かりやすいですわね」
「ありがとうございます」
セラは、真面目に礼をした。
リシアは、そのやり取りで少しだけ息をつけた。
押された時に、どこへ下がるか。
記録。
本人確認。
権限の確認。
その場所へ下がれば、少なくとも相手の圧に流され続けることはない。
ステファニアは、しばらく表示を見ていた。
そして、静かに言った。
「殿下本人の言葉に従わない者が、殿下を守ると言っている」
朝、セラが言った言葉だ。
今度はステファニアの声で置かれると、少し違って聞こえた。
痛みがある。
それでも、逃げない響きだった。
「この記録は、残してください」
「はい」
クラウディアが答える。
アリシアが、ステファニアを見た。
「苦しいですか」
直球だった。
リシアは、思わずアリシアを見た。
ステファニアは、少しだけ目を伏せる。
「苦しくないと言えば、嘘になります」
その答えも、正直だった。
「ですが、苦しいから見ない、では困ります」
「ええ」
アリシアは、満足そうに頷いた。
「それでよろしいですわ」
優しいのか、厳しいのか。
たぶん、両方だ。
リシアは、そう思った。
アリシアは、好きな人間ほど甘やかさない。
けれど、折れるところまでは追い込まない。
今の言葉も、ステファニアを試したのではなく、立っている場所を確かめたのだろう。
「明日は、殿下側がもう少し動きますわね」
アリシアが言った。
「ジークフリート殿下が、ですか」
リシアが問う。
「ええ。動かざるを得ません。本人が止めても周囲が止まらないと分かった以上、次は周囲をどう扱うかを問われます」
「……殿下の限界が、見える」
ステファニアが呟いた。
小さな声だった。
だが、部屋にいた全員に届いた。
リシアは、その言葉を胸の中で繰り返した。
殿下の限界。
ジークフリートは、悪意で動いているわけではない。
戻ろうとしている。
止めようとしている。
けれど、止めきれていない。
そこにあるのは、気持ちの問題だけではない。
王子として、名を持つ者として、周囲をどこまで統制できるか。
それが、明日から問われる。
公開連絡板の表示が、また一つ更新された。
クラウディアが無言で拡大する。
短い文だった。
殿下は、ご自身の優しさゆえに周囲を止めようとなさる。
だからこそ、殿下の代わりに守る者が必要なのだ。
リシアは、目を閉じた。
同じ言葉が、また来た。
守る。
優しい顔をして、本人の言葉を越えてくる。
ステファニアが、静かに息を吐いた。
「明日、ですね」
アリシアは頷いた。
「ええ。明日ですわ」
その声は、穏やかだった。
けれどリシアには、盤面の上で何かが一つ進んだ音のように聞こえた。




