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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第八十七夜 保護という名

第八十七夜 保護という名


 名誉争議が終わった翌朝、学院の空気は、少しだけ薄くなっていた。


 騒ぎが消えた、という意味ではない。


 むしろ逆だった。


 昨日までは、誰がどの旗を掲げるのかが、まだ見えていた。


 王家の名誉。


 殿下への忠誠。


 ステファニア様への疑義。


 ファーランドへの警戒。


 祈りの自由。


 それぞれの言葉が、拙くても旗の形をしていた。


 けれど、今朝は違う。


 旗は畳まれていた。


 その代わり、折り目の間から細い糸のようなものが伸びている。


 誰も正面から叫ばない。


 誰も昨日の六人の名を大声では呼ばない。


 けれど、廊下を歩く人の視線は、何度もこちらへ向いた。


 そして、すぐに逸れた。


 リシアは、その逸らされ方を見ていた。


 怖がっているのではない。


 避けているのでもない。


 何かを言う前に、場所を探している目だった。


 どこなら言えるのか。


 誰の前なら、ただの心配に聞こえるのか。


 どの言葉なら、昨日の名誉争議とは別のものに見えるのか。


 そういう目だった。


 貸与邸の朝食室では、いつもより会話が少なかった。


 ステファニア様は、温かい茶を両手で包むように持っている。


 指先は白い。


 顔色は悪くない。


 けれど、昨日の疲れが残っているのは分かった。


 セラはその斜め後ろに立ち、皿の位置、窓の外、扉の向こうを順に確認している。


 護衛としてはいつも通り。


 ただし、表情はいつもより少し硬い。


 アリシアは、平然と茶を飲んでいた。


 平然と。


 とても平然と。


 リシアは、最近その平然がいちばん怖いのだと学び始めている。


「学院長府から、昨日の名誉争議に関する記録確定通知が届いています」


 クラウディアが、朝食室の端で淡々と言った。


「争点は、ステファニア・レーヴェンハイト様およびファーランド大公家関係者へ、ジークフリート殿下の自由意思を害していないことを公開で証明せよと求めた非礼に限定。申立人側六名の主張は、根拠不十分により退けられました」


「根拠不十分、ですか」


 ステファニア様が静かに繰り返した。


「はい」


 クラウディアは頷く。


「また、昨日の模擬決闘は、被申立側代理人の勝利。申立人側六名は、同一争点について追加の公開確認要求を行わない旨を本人署名で提出済みです」


 その言葉に、リシアは少しだけ息を吐いた。


 終わった。


 少なくとも、昨日の争点は。


 そう思いかけた時だった。


「ただし」


 クラウディアが続けた。


 リシアの胸が、すぐに硬くなる。


 ただし。


 この言葉が、最近はあまり好きではない。


「学院内の私的会話および限定連絡で、別系統の語彙が増えています」


「別系統?」


「婚約解消後の令嬢の身の振り方、です」


 朝食室の空気が、ほんの少し止まった。


 アインがパンをちぎる手を止めた。


 アリシアの茶器は、音を立てずに受け皿へ戻った。


 ステファニア様は、目を伏せた。


 それだけで、リシアには分かった。


 知っているのだ。


 ステファニア様は、その言葉の向こうに何があるのかを、最初から知っている。


「……それは」


 リシアは言いかけて、止まった。


 言葉を選ぶ必要があった。


 怒りのまま言えば、またこちらの名が混ざる。


 アリシアが、ゆっくりと視線を向ける。


「続けなさい、クラウディア」


「はい。直接的な語はまだ少数です。主に、静かな環境、祈りの場、名誉ある退き方、王家に近かった令嬢の慎み、といった表現で流れています」


「修道院、ということですか」


 リシアの口から、言葉が出た。


 出してから、少しだけ後悔した。


 けれど、もう戻せない。


 ステファニア様は顔を上げなかった。


 セラの目が、静かに細くなる。


「明言している者は、まだ少数です」


 クラウディアが答える。


「ですが、意味は同じです」


「……なぜですか」


 リシアは自分でも驚くほど低い声で言った。


「ステファニア様は、逃げたわけではありません。殿下の名を傷つけないために、名を返したのです。昨日だって、証明を強いられそうになった側です。それなのに、どうして」


「リシア様」


 ステファニア様が、そこでようやく顔を上げた。


 穏やかな声だった。


 穏やかすぎて、胸が痛くなる。


「それが、慣例だからです」


「慣例」


「王家に近い婚約が解消された場合、当人が望む望まないにかかわらず、しばらく表舞台から退くことがあります。家の名を守るため。王家の面子を守るため。本人の名を守るため。理由は、いくつもつけられます」


「ですが」


「ええ」


 ステファニア様は、薄く微笑んだ。


「理由がいくつもつけられる時は、たいてい、本当の理由を隠したい時です」


 リシアは言葉を失った。


 ステファニア様は知っている。


 ただ知っているだけではない。


 自分が、その言葉の対象になり得ることも、ちゃんと理解している。


 その上で、昨日まで座っていたのだ。


 記録の席に。


 婚約者という名を返す席に。


 名誉争議の席に。


「ステファニア様は、それを受け入れるおつもりですか」


 セラが言った。


 声は静かだった。


 けれど、リシアには分かった。


 セラは怒っている。


 剣を抜いていないだけで、怒っている。


「まだ、何も決まっていません」


「決まってからでは遅いことがあります」


「それは、そうですね」


 ステファニア様は否定しなかった。


「ですが、私が過剰に拒めば、また殿下の名を傷つける者が出ます。王家に近かった令嬢が、身を慎む慣例すら拒んだ、と」


「慎む、ですか」


 セラの声が、ほんの少しだけ硬くなった。


「守る対象を遠ざけ、見えない場所へ置くことを、慎むと言うのですか」


「セラ」


 リシアは小さく呼んだ。


 止めたかったのではない。


 ただ、今の言葉が自分にも刺さったからだった。


 セラはすぐに頭を下げる。


「失礼しました」


「いいえ」


 ステファニア様は首を振った。


「失礼ではありません。私も、そう思います」


 そう言ってから、少しだけ視線を落とした。


「ただ、思うことと、記録に置けることは違います」


 まただ。


 リシアは胸の奥で思った。


 ステファニア様は、いつもそうやって自分を整える。


 痛みを感じていないわけではない。


 怒っていないわけでもない。


 ただ、感じたものをそのまま外へ出さない。


 記録に置ける形へ、何度も何度も直してから出す。


 それが強さなのか。


 それとも、強くあらざるを得なかっただけなのか。


 リシアには、まだ分からなかった。


「修道院、ですか」


 アリシアが言った。


 声は柔らかかった。


 扇子が閉じる。


 ぱちり、と乾いた音がした。


 リシアは、背筋が伸びた。


「誰が、そのような勿体ないことを許すと思っていらして?」


 朝食室が、完全に静かになった。


 アリシアは微笑んでいる。


 綺麗な微笑みだった。


 綺麗すぎて、まったく安心できない。


「勿体ない、か」


 アインが短く言った。


「ええ」


 アリシアは即答する。


「名を返せる令嬢です。記録を読み、礼を分け、痛みを怒りに変えず、怒りを記録へ置ける方です。その方を、静かな場所へ下げて終わりにするなど」


 そこで、少しだけ笑みが深くなった。


「人材の扱いを知らぬ者の考えですわ」


「アリシア様」


 ステファニア様が困ったように呼ぶ。


「私は、そこまでの者では」


「ご自分の価値を低く見積もる癖は、後で直しましょう」


 アリシアは穏やかに遮った。


「今は別の話です」


「別の」


「はい。あなたを、誰の名で、どこへ置くかです」


 その時、扉が控えめに鳴った。


 リジェナが入ってくる。


「ガリウス大公閣下より、対面連絡の用意が整いました」


「ちょうどよろしいですわね」


 アリシアは立ち上がった。


 まるで、今この時刻に連絡が来ることを知っていたように。


 リシアは思わずクラウディアを見た。


 クラウディアは、何も言わない。


 ただ、いつも通り記録板を閉じた。


     ◇


 対面連絡の部屋に入ると、父と母の姿が現れた。


 ガリウス大公は、いつもより厳しい顔をしていた。


 母は、その横で静かにリシアたちを見ている。


 そして、もう一つ。


 別の窓に、ウィリアム・レーヴェンハイト侯爵の姿があった。


 ステファニア様の父。


 画面越しでも、疲れているのが分かった。


 けれど、その目だけは揺れていない。


 ステファニア様が、一歩前へ出る。


「お父様」


「ステファニア」


 ウィリアム侯爵は短く名を呼んだ。


 それだけで、リシアには分かる。


 心配している。


 怒っている。


 けれど、そのどちらも、娘へぶつけるつもりはない。


「昨日の記録は確認した」


「はい」


「よく耐えた」


 ステファニア様の指が、ほんの少し動いた。


 それだけだった。


「ありがとうございます」


 声は、いつも通りだった。


 いつも通りにしようとしている声だった。


 ガリウス大公が口を開く。


「王都側の一部で、婚約解消後の処遇について、古い慣例を持ち出す動きがある」


「承知しております」


 ステファニア様が答えた。


 ガリウス大公の目が、わずかに細くなる。


「承知しているなら、こちらも早い」


 父の声は静かだった。


「ファーランド大公家は、ステファニア・レーヴェンハイト嬢を保護下に置く」


 リシアは息を呑んだ。


 ステファニア様も、わずかに目を見開く。


 ウィリアム侯爵は動かなかった。


 まるで、その言葉を待っていたように。


「父上」


 リシアは思わず呼んだ。


「リシア」


 ガリウス大公が、こちらを見る。


「これは、お前の友人をかばうためだけの言葉ではない」


「はい」


「ステファニア嬢は、王家の名を汚さぬために、自らの名を返した。ならば、その名誉を守るのは、婚約解消協議に関わった家々の責任だ」


 父はゆっくりと言った。


「彼女を罰のように退かせるなら、王家は忠義と恥を取り違えることになる」


 ウィリアム侯爵が、そこで初めて深く頭を下げた。


「大公閣下のお言葉、レーヴェンハイト侯爵家として、ありがたく承ります」


「まだ終わっていない」


 ガリウス大公が言う。


「保護という名は、便利だ。便利な名は、すぐに檻になる」


 リシアははっとした。


 保護。


 今、自分たちが求めたもの。


 けれど、それもまた、使い方を誤れば閉じ込める言葉になる。


 父は、それを最初から分かっている。


「ゆえに、本人の意思を確認する」


 ガリウス大公の視線が、ステファニア様へ向いた。


「ステファニア・レーヴェンハイト嬢。あなたは、ファーランド大公家の保護を受ける意思があるか」


 部屋が静かになった。


 リシアはステファニア様を見た。


 セラも。


 ウィリアム侯爵も。


 アリシアも。


 アインだけが、少し離れた場所で腕を組んでいる。


 何も言わない。


 けれど、見ている。


 本人が答えるのを。


 ステファニア様は、ゆっくり息を吸った。


「あります」


 はっきりした声だった。


「ただし」


 その一言に、リシアの胸が跳ねた。


 ステファニア様は続ける。


「それが、私を隠すための保護であるなら、お受けできません」


 ウィリアム侯爵の目が、少しだけ見開かれた。


「私は、昨日までの記録から逃げるために、保護を受けたいのではありません。王家の名を傷つけるためでも、レーヴェンハイト侯爵家を守るためだけでもありません」


 ステファニア様の声は震えなかった。


「私にできることがあるなら、学び、働きます。そのための場所として、保護をいただけるのであれば」


 一拍。


「謹んで、お受けいたします」


 リシアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 守られるだけではない。


 逃げるだけでもない。


 ステファニア様は、ちゃんと自分の足で立っている。


 その立つ場所が必要なのだ。


 ガリウス大公は、深く頷いた。


「よい答えだ」


 ウィリアム侯爵が目を閉じた。


 ほんの一瞬だけ。


 父親の顔だった。


 画面越しの指が、膝の上で一度だけ強く握られたように見えた。


 すぐに侯爵の顔へ戻る。


「ステファニア」


「はい」


「お前の意思を、侯爵家として支持する」


「ありがとうございます」


 そこで、アインが口を開いた。


「本人が決めたなら、それでいい」


 短い。


 けれど、その短さが、この場では何より重かった。


「ただ、囲い込むな」


 アインはアリシアを見た。


「アリシア」


「まあ」


 アリシアは微笑む。


「わたくしが何をすると?」


「分かっているだろ」


「存じておりますわ」


 どちらが何を分かっているのか、リシアには全部は分からない。


 けれど、アリシアの笑みが少し柔らかくなったことだけは分かった。


「もちろん、本人の意思が先です」


「ならいい」


「ええ。ですから」


 アリシアはステファニア様へ視線を戻した。


「選べる場所を、先に作っておきますの」


 選べる場所。


 リシアは、その言葉を胸の中で繰り返した。


 保護は、檻にもなる。


 けれど、場所にもなる。


 逃げ込む場所。


 立ち直る場所。


 次を選ぶ場所。


 それを檻にするか、足場にするか。


 そこに、名の扱い方が出る。


「具体案は」


 クラウディアが、静かに口を挟んだ。


 いつの間にか、手元には記録板が開かれている。


「第一に、ファーランド大公家保護下における学院籍継続。第二に、レーヴェンハイト侯爵家との家門関係維持。第三に、ベルカ式教育課程への試験参加。第四に、ファーランド大公家およびベルン商会関連の外交実務補佐候補としての観察登録」


 すらすらと出てくる。


 リシアは、少しだけ遠い目になった。


 やはり、準備していた。


 絶対に、準備していた。


「クラウ」


 アインが言った。


「はい」


「早い」


「必要になる可能性が高いと判断していました」


「誰の判断だ」


 クラウディアは一拍だけ黙った。


 そして、アリシアを見た。


 アリシアはにこりと笑う。


「備えは大切ですわ」


「だろうな」


 アインは諦めたように言った。


 ウィリアム侯爵が、少しだけ咳払いをした。


 笑いそうになったのを、押さえたようにも見えた。


「ベルカ式教育課程、ですか」


 ステファニア様が言う。


「あなたには必要です」


 クラウディアは即答した。


「必要」


「はい。見えるものをすべて読まない訓練、理解できるものをすぐ形にしない訓練、記録と判断を分ける訓練、そして情報接続時の負荷管理。現状のまま学院記録層へ触れ続けるのは、推奨できません」


「……そう言われると、否定しづらいですね」


「否定しない方が賢明です」


 クラウディアの声はいつも通り平坦だった。


 ステファニア様は、少しだけ笑った。


「承知しました。試験参加を希望します」


「記録しました」


 クラウディアが頷く。


 そこで、アリシアがまた茶器を手に取った。


「では、保護という名は、檻ではなく足場として置きましょう」


 その声は穏やかだった。


「ステファニア様には、休んでいただきます。学んでいただきます。そして、働いていただきます」


「働くところまで決まっているのですか」


 リシアが思わず言うと、アリシアはにこりとした。


「もちろんですわ」


「もちろん……」


「働ける方を、働けない場所へ置くほど、わたくしは贅沢ではありませんもの」


 贅沢。


 リシアは、その言葉をどう受け止めればよいのか少し迷った。


 けれど、ステファニア様は困ったように、そして少しだけ嬉しそうに目を伏せた。


「過分なお言葉です」


「過分かどうかは、働いてから判断なさい」


「……はい」


 ガリウス大公が、そこで話を締める。


「では、ファーランド大公家として、学院長府および関係家門へ正式に通知する。レーヴェンハイト侯爵家は、これに同意するか」


「同意いたします」


 ウィリアム侯爵が答えた。


「娘の意思を前提として」


「当然だ」


 短く返した父の声に、リシアは少しだけ安堵した。


 当然。


 その一言が、この場ではとても大切だった。


     ◇


 対面連絡が終わった後、ステファニア様はしばらく黙っていた。


 貸与邸の小さな応接室。


 窓の外では、学院の庭木が揺れている。


 昨日、枝を貸してくれた古木とは違う木だ。


 けれど、葉の揺れ方を見ると、リシアはどうしても昨日のことを思い出してしまう。


 枝一本。


 名誉争議。


 そして今日の、保護という名。


 次から次へと、名前が変わる。


 けれど、見なければならないものは同じだ。


 誰が、どの名で、何をしようとしているのか。


「ステファニア様」


 リシアは声をかけた。


「はい」


「私は、嬉しいです」


 ステファニア様が、少しだけ目を丸くする。


「嬉しい、ですか」


「はい。ステファニア様が、どこかへ下がってしまうのではなく、ここに残ると決めてくださったことが」


「……リシア様」


「もちろん、無理をしてほしいわけではありません」


 リシアは慌てて付け加える。


「ただ、私の勝手な気持ちとして、嬉しいのです」


 ステファニア様は、ゆっくりと微笑んだ。


 昨日より少しだけ、顔の強ばりが解けている。


「ありがとうございます」


 その横で、セラが真面目な顔で言った。


「私も、嬉しいです」


「セラまで」


「はい。リシア様をお守りするにあたり、ステファニア様が近くにいらっしゃる方が、判断材料が増えます」


「それは、喜んでよいのでしょうか」


「よいと思います」


 セラは真顔だった。


 ステファニア様が、小さく笑う。


 その笑い声を聞いて、リシアはようやく肩の力が抜けた。


 抜けた瞬間、アリシアが言った。


「ところで、クラウディア」


「はい」


「昨日から今日にかけて、王都側で比較的よい動きをした方の一覧はありますか」


 リシアの肩に、別の力が入った。


 クラウディアは当然のように答える。


「あります」


「エレナ・ヴァイスベル様は?」


「含まれます。信仰団体窓口、学院長府連絡、ジークフリート殿下側の周辺整理において、信仰上の判断と記録上の責任を分ける姿勢を維持しています」


「よろしいですわね」


 アリシアが微笑む。


 リシアは、少し嫌な予感がした。


 悪い意味ではない。


 ただ、誰かの人生の位置が、今まさに変わろうとしている気配がした。


「ついでに、あの子もいただきましょう」


「……ついで、ですか」


 クラウディアの声に、ほんの少しだけ何かが混じった。


 呆れだろうか。


 諦めだろうか。


 たぶん、両方だ。


「ええ」


 アリシアは涼しい顔で言った。


「あそこに置いておくには、少々惜しいですもの」


 リシアは、ステファニア様と顔を見合わせた。


 ステファニア様も、少し困った顔をしている。


 アインは、窓際でため息をついた。


「アリシア」


「はい、殿下」


「本人の意思が先だ」


「存じておりますわ」


「本当に分かっているか」


「ええ。ですから、選べる場所を先に作っておりますの」


 同じ言葉。


 けれど、今度はエレナに向けられている。


 リシアは思った。


 アリシアは、怖い。


 とても怖い。


 けれど、その怖さは、ただ誰かを追い詰めるためのものではない。


 逃げ道を塞ぐ時もある。


 だが同時に、選べる場所も作る。


 どちらも同じ手でやる。


 だから、もっと怖い。


「外交実務研修、という名目が適切かと」


 クラウディアが言った。


「ジークフリート殿下側の周辺整理への協力、史料照会の実務経験、信仰団体窓口との調整能力。いずれも評価理由として成立します」


「戻すとは言わなくてよろしいですわ」


「言いません」


「アリシア様」


 ステファニア様が、思わずというように呼んだ。


 アリシアは、にこやかに振り向く。


「何でしょう」


「……その、エレナ様にも、選ぶ余地は」


「もちろんあります」


 即答だった。


「選んでいただきますわ。どちらに立つか。何を守るか。誰の名で記録へ残るか」


 その声は、少しも軽くなかった。


「ただ、選ぶ前に潰されてしまっては、つまらないでしょう?」


 リシアは、返す言葉を失った。


 つまらない。


 そう言いながら、アリシアの目は笑っていない。


 たぶん、アリシアは本当に怒っている。


 王都が。


 学院が。


 名誉という言葉が。


 守るという言葉が。


 使える人を、使う前に壊そうとすることに。


「ステファニア様」


 アリシアが、改めて呼んだ。


「はい」


「あなたも、エレナ様も、まだ何者になるか決まっておりません」


 ステファニア様は黙って聞く。


「だからこそ、急いで誰かに名を付けさせてはなりません。傷物。退いた令嬢。祈りに閉じた方。王家の失点。便利な実務係」


 扇子が、ゆっくりと開く。


「そのような名は、こちらでお断りいたします」


 静かな宣言だった。


 ステファニア様は、しばらく何も言わなかった。


 やがて、深く息を吐く。


「私は」


 声は小さかった。


 けれど、はっきりしていた。


「まだ、自分が何になるのか分かりません」


「ええ」


「ですが、修道院へ退くために名を返したのではないことだけは、分かります」


 アリシアの目が、ほんの少し柔らかくなる。


「それで十分ですわ」


 ステファニア様は、リシアを見た。


「リシア様」


「はい」


「少し、長くご一緒することになりそうです」


 リシアは、すぐに頷いた。


「はい。嬉しいです」


「ご迷惑をおかけします」


「今さらです」


 言ってから、リシアは自分で驚いた。


 ステファニア様も、一瞬だけ驚いた顔をした。


 そして、笑った。


 今度は、はっきりと。


 リシアも笑う。


 セラが、少しだけ首を傾げた。


「今さら、なのですか」


「今さらです」


 リシアはもう一度言った。


 保護という名は、まだ危うい。


 外交補佐候補という名も、これから形を持つ。


 エレナの件も、きっと簡単には済まない。


 王都の影も、第二王子派の糸も、まだ残っている。


 けれど、今日。


 少なくとも今日。


 ステファニア様は、修道院へ退く人ではなくなった。


 名を返して、それでも立つ人になった。


 リシアは、そのことを記憶に置いた。


 記録ではなく。


 まず、自分の中に。


 それから、前を見る。


 アリシアはすでに、次の書面の文言をクラウディアと詰め始めていた。


 アインは、それを見て少しだけ眉を寄せている。


 たぶん、また言うのだろう。


 本人の意思が先だ、と。


 そしてアリシアは笑うのだ。


 選べる場所を作っているのですわ、と。


 リシアは思った。


 風は、まだ止んでいない。


 けれど、今度の風は、ただ旗を揺らすだけではない。


 誰かが立つ場所を、少しずつ変えていく風だった。


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