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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
新しい風

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第八十八夜 外交補佐候補

第八十八夜 外交補佐候補


 名前が増える時は、たいてい何かが動いている。


 リシアは、最近そう思うようになった。


 婚約者。


 元婚約者。


 保護対象。


 ベルカ式教育課程参加予定者。


 外交実務補佐候補。


 ひとつずつ聞けば、どれもただの言葉に見える。


 けれど、その言葉が誰の手で置かれたのか。


 どの記録へ載るのか。


 誰が読むことを想定しているのか。


 それだけで、同じ名前が鎖にも、足場にも変わる。


 貸与邸の応接室には、朝からいくつもの書面が並んでいた。


 紙ではない。


 アークライト側の記録板と、学院長府へ提出するために整えられた写し。


 そして、王家儀礼局とレーヴェンハイト侯爵家へ送るための確認文。


 机の上は整っている。


 整いすぎていて、かえって息が詰まる。


 ステファニアは、リシアの隣に座っていた。


 背筋は伸びている。


 顔色も、昨日よりはよい。


 けれど、手元の書面を見る目は、いつもより少しだけ硬かった。


 セラはその背後に立っている。


 今日はいつもの護衛位置より、少し近い。


 たぶん、セラ自身は気づいていない。


 アリシアは、向かいの席で扇子を閉じたまま置いていた。


 閉じた扇子。


 それだけで、リシアは少し警戒する。


 開いていても怖い。


 閉じていても怖い。


 では何なら怖くないのかと考えて、たぶん何をしていても怖いのだと結論づけた。


「まず、確認します」


 クラウディアが言った。


 声はいつも通り平坦だった。


「ファーランド大公家保護下、という名は、ステファニア・レーヴェンハイト様の身柄をファーランド大公家が拘束するものではありません」


「はい」


 ステファニア様が頷く。


「学院籍は維持。授業への出席も、医療上または安全上の制限がない限り維持します。ただし、移動時の警護と連絡経路は一部変更します」


「一部、ですか」


「はい。学院長府経由の公的連絡、レーヴェンハイト侯爵家との家門連絡、ファーランド大公家保護関連連絡、ベルカ式教育課程関連連絡。これらを分けます」


 リシアは、机に並ぶ四つの欄を見た。


 どれも似たような書式なのに、表題だけが違う。


 表題が違えば、扱う者も変わる。


 扱う者が変われば、届く場所も変わる。


 それはもう、手紙ではなく道のようだった。


「分けるのは、混ぜられないようにするためですね」


 ステファニア様が言う。


「はい」


 クラウディアが即答する。


「あなたの場合、ひとつの連絡に複数の意味を載せられやすい。王家との婚約解消協議、ファーランド大公家の保護、信仰団体との史料照会、ベルカ式教育課程。これらを同じ窓口で扱えば、必ず誰かが混ぜます」


「誰かが、ですか」


「はい。善意でも、悪意でも、未熟でも、同じです」


 未熟でも。


 その言葉に、リシアは昨日の決闘場を思い出した。


 悪意だけではない。


 忠誠の形を間違えた者。


 名誉という言葉に寄りかかった者。


 自分の立っている場所が、誰かの足を踏んでいることに気づけなかった者。


 そういうものも、混ざれば火になる。


「第二に、レーヴェンハイト侯爵家との家門関係は維持します」


 クラウディアが続けた。


「保護下に入ることは、侯爵家からの離脱ではありません。ステファニア様は、レーヴェンハイト侯爵家の令嬢であり続けます」


「当然です」


 ステファニア様の声は静かだった。


 けれど、少しだけ強い。


「私は、家から逃げるためにここへ来るのではありません」


「その一文を、本人意思確認欄に入れます」


 クラウディアが記録板へ指を滑らせた。


 早い。


 あまりにも早い。


 リシアが思わず見ていると、アリシアが微笑んだ。


「よろしいではありませんか。言葉が逃げる前に捕まえておくのは大切ですわ」


「捕まえる」


「ええ。言葉はすぐ逃げますもの」


 そう言うアリシアの手元に、なぜか逃げられる言葉など存在しないように見えた。


「第三に、ベルカ式教育課程への試験参加」


 クラウディアが次の欄を開く。


「これは任意です。受けるかどうかは、ステファニア様本人の意思によります」


「希望します」


 ステファニア様は即答した。


 リシアは少しだけ驚く。


 昨日もそう答えていた。


 それでも、改めて確認されれば、少し迷うものだと思っていた。


 けれど、ステファニア様は迷わなかった。


「理由を確認します」


 クラウディアが言う。


「情報接続への興味ですか」


「それもあります」


 ステファニア様は正直に答えた。


「ですが、それだけではありません」


「続けてください」


「私は、見えたものを理解しようとします。分からないものを分からないまま置くことが苦手です」


 クラウディアの目が、少しだけ細くなった。


 たぶん、好きな顔だ。


 賢い子を見る時の顔。


「それは、長所でもあります。ですが、今の私には危険でもあるのでしょう」


「はい」


「ならば、学ぶべきです。見えるものをすべて読まない訓練。理解できるものをすぐ判断へ繋げない訓練。記録と感情を分ける訓練」


 ステファニア様は、そこで一度だけ息を整えた。


「そして、私が誰かの判断を誤らせないための訓練です」


 リシアは、胸が少し痛くなった。


 ステファニア様は、いつも自分を責める方向へ行く。


 けれど、今の言葉は少し違った。


 自分を罰するためではない。


 自分を使えるようにするための言葉だった。


「適切です」


 クラウディアが言った。


「試験参加理由として記録できます」


「ありがとうございます」


「ただし」


 出た。


 リシアは、反射的に背筋を伸ばした。


「ベルカ式教育課程は、あなたの才能を褒める場所ではありません」


「はい」


「制限します。止めます。場合によっては、読ませません」


「承知しています」


「本当に?」


 クラウディアが問い返した。


 ステファニア様は、ほんの少しだけ困ったように微笑む。


「承知したつもりでいる、という方が正しいかもしれません」


「それなら結構です」


 クラウディアが頷いた。


 結構なのだ。


 リシアは、また少し遠い目になった。


 この二人の会話は、時々、入口がどこにあるのか分からない。


 けれど、ステファニア様が少し楽しそうなのは分かった。


 怖がっていない。


 昨日までのように、席に座らされているのではない。


 自分で席へ近づいている。


「第四に」


 クラウディアが、最後の欄を開いた。


「外交実務補佐候補」


 その言葉が出た瞬間、部屋の空気がまた少し変わった。


 保護。


 教育課程。


 そこまでは、まだステファニア様を守るための言葉に見えた。


 けれど、外交実務補佐候補。


 それは、外へ向く名だ。


 誰かに見せるための名。


 誰かと話すための名。


 そして、誰かに使わせないための名でもある。


「表向きには、ファーランド大公家およびベルン商会関連の外交実務補佐候補です」


 クラウディアが説明する。


「業務内容は、記録補佐、連絡文の草案確認、学院長府および王家儀礼局との記録照合、必要時の随行補佐」


「随行補佐」


 ステファニア様が繰り返した。


「はい。ただし、当面は実地ではなく訓練扱いです」


「当面」


「はい」


 クラウディアは表情を変えない。


 リシアは、そこに何かが隠れている気がした。


 隠れているというより、まだ表に出していない。


 アリシアが茶器を持ち上げる。


「候補、という言葉が大切ですわ」


「候補、ですか」


「ええ」


 アリシアは、ゆっくりと茶を一口飲んだ。


「決定ではありません。拘束でもありません。けれど、何もない人ではない。誰かが勝手に名を付けようとした時、こちらにはすでに候補という席があります、と返せます」


「席」


「はい。空席は危険ですもの」


 リシアは、その言葉を聞いてぞくりとした。


 空席。


 そこに誰かが座るとは限らない。


 けれど、空いていれば、誰かが勝手に札を置く。


 修道院。


 退いた令嬢。


 王家の失点。


 名誉ある慎み。


 それらの札を置かれる前に、別の札を置く。


 外交実務補佐候補。


 候補。


 まだ選べる。


 けれど、勝手には奪わせない。


「アリシア」


 アインが言った。


 窓際に立っていた。


 いつからそこにいたのか、リシアは少し驚いた。


 いや、最初からいた。


 ただ、話を邪魔しないように黙っていただけだ。


「はい、殿下」


「本人の意思が先だ」


「存じておりますわ」


「候補という名も、檻になる」


 その言葉に、アリシアの目がほんの少しだけ柔らかくなった。


「ええ」


 珍しく、すぐに言い返さなかった。


「ですから、確認しましょう」


 アリシアはステファニア様へ向き直る。


「ステファニア様。外交実務補佐候補という名を、あなたはどう受け取りますか」


 部屋が静かになった。


 また、本人が答える時間だ。


 リシアは、膝の上で手を握った。


 ステファニア様は、しばらく書面を見ていた。


 それから、顔を上げる。


「逃げ場としてなら、受けません」


 声は静かだった。


「ですが、役目としてなら、受けます」


 アリシアは何も言わない。


 アインも。


 クラウディアも記録板へ触れない。


 ただ、続きを待っている。


「私は、王家の名から逃げるために、ファーランド大公家の名へ移るのではありません。レーヴェンハイト侯爵家の責任から逃げるためでもありません」


 ステファニア様は、自分の言葉を一つずつ選んでいた。


「昨日までの記録を抱えたまま、それでも働ける場所があるのなら、私はそこで学びたい。役に立てるかどうかは、まだ分かりません。ですが、役に立てるように整えることはできます」


 一拍置いて、ステファニア様はアインを見た。


「殿下」


 アインではなく、アイン殿下と呼ばない。


 けれど、今の殿下は、ジークフリートではない。


 アインへ向けた言葉だった。


「私は、誰かに使われる名ではなく、自分で扱える名として、その候補を受けたいと思います」


 アインは、短く頷いた。


「ならいい」


 それだけだった。


 けれど、ステファニア様の肩が、ほんの少しだけ下がった。


 力が抜けたのだ。


 リシアにも分かった。


「記録します」


 クラウディアが、そこでようやく指を動かした。


「本人意思確認。外交実務補佐候補を逃避先ではなく、役目と訓練のための席として受諾」


「少し硬いですね」


 ステファニア様が言った。


「記録文です」


「そうでした」


 少しだけ笑いが落ちた。


 その笑いで、ようやく部屋の空気が柔らかくなる。


     ◇


 学院長府への通知文は、昼前に送られた。


 正確には、三つに分けて送られた。


 一つ目は、ファーランド大公家からの保護通知。


 二つ目は、レーヴェンハイト侯爵家との関係維持確認。


 三つ目は、ベルカ式教育課程試験参加および外交実務補佐候補観察登録の申請。


 同じ人物に関する書面なのに、窓口が違う。


 内容も違う。


 だから、混ぜられにくい。


 リシアは、クラウディアが送信前に全ての表題を読み上げるのを聞いていた。


 表題。


 そこに名前を置く前に、何の話なのかを決める場所。


 表題を誤れば、中身も誤って読まれる。


 今なら、少し分かる気がした。


「学院長府より受領確認」


 クラウディアが言った。


「早いですね」


 リシアが言うと、クラウディアは淡々と答える。


「待機していたようです」


「待機」


「はい。昨日の件以降、学院長府側もこの種の通知が来る可能性を想定していました」


「それは、良いことなのでしょうか」


「悪くはありません」


 クラウディアの言い方は、微妙だった。


 良い、ではない。


 悪くはない。


「学院長府は、事態の流れを見ています。先回りして解釈を固定するよりは、こちらの記録を受ける余地を残している」


「それは良いことでは」


「はい。ただし、余地は空白でもあります」


 また、空白。


 空席。


 空白。


 空いた場所には、何かが入り込む。


 だから、早く、正確に、けれど急ぎすぎず、名前を置かなければならない。


「王家儀礼局への参考送付も完了しました」


 クラウディアが続ける。


「ジークフリート殿下側へも、本人に限り閲覧可能な形で共有済みです」


 ステファニア様の睫毛が、少しだけ動いた。


 ジークフリート殿下。


 名前が出ても、もう昨日ほど痛そうではない。


 痛くないのではない。


 痛みの置き場所が、少し変わったのだと思う。


「殿下は、どう受け取られるでしょうか」


 ステファニア様が言った。


 誰もすぐには答えなかった。


 リシアも答えられなかった。


 安堵するかもしれない。


 苦しむかもしれない。


 その両方かもしれない。


「少なくとも」


 アインが言った。


「修道院へ追いやった記録にはならない」


「はい」


 ステファニア様が頷く。


「それは、ありがたいことです」


「あいつにも必要だろ」


「殿下にも」


「自分が壊しただけじゃないと分かるものがな」


 言い方は少し荒い。


 けれど、その言葉に、リシアは息を止めた。


 アインは、ジークフリートを許したわけではない。


 甘やかしているわけでもない。


 ただ、壊しただけの人間として終わらせることも、たぶん望んでいない。


 ステファニア様は、ゆっくりと目を伏せた。


「そうですね」


 その声は、静かだった。


     ◇


 午後、エレナ・ヴァイスベルへの打診文が作成された。


 リシアは、なぜ自分がその場にいるのか少し分からなかった。


 けれど、アリシアが「見ておくとよろしいですわ」と言ったので、見ている。


 たぶん、また学ばされている。


 アリシアの学びは、いつも少し突然始まる。


「表題は」


 クラウディアが問う。


「ファーランド大公家外交実務研修に関する打診」


 アリシアが答えた。


「引き抜き、ではありませんか」


 リシアが思わず言うと、アリシアはにこりとした。


「リシア」


「はい」


「本音を表題に書くのは、喧嘩を売る時だけで十分ですわ」


「……なるほど」


 なるほどでよいのだろうか。


 リシアは少し迷った。


 けれど、クラウディアは平然と記録している。


「理由欄は」


「ジークフリート殿下周辺整理における記録補助、学院長府連絡、信仰団体窓口との実務対応において、判断領域を混同しない姿勢が確認されたため」


 アリシアはすらすらと言った。


 あらかじめ考えていたのだろう。


 いや、絶対に考えていた。


「信仰と記録を分けられる方は、貴重ですわ」


「貴重」


「ええ。祈ることと、記録すること。信じることと、責任を負うこと。その境界を崩さない方は、使えます」


 使えます。


 その言葉は少し冷たく聞こえた。


 けれど、アリシアの目は冷たくなかった。


 怒っている時の目でもない。


 獲物を見つけた時の目に近い。


 ただし、それは人を食べるという意味ではなく、人を逃がさないという意味で。


「アリシア様」


 ステファニア様が声をかけた。


「エレナ様は、ジークフリート殿下側で動いていた方です。突然そのような打診を受ければ、裏切りのように受け取られる可能性もあります」


「ええ」


 アリシアは頷く。


「ですから、研修です」


「研修」


「期間を置きます。本人の意思確認を置きます。ジークフリート殿下側にも、周辺整理協力者の実務経験評価として通知します」


「戻る余地を残すのですね」


「本人が望むなら」


 アリシアはさらりと言った。


「ただし、戻る場所が本人を潰すなら、別です」


 その一言で、部屋の温度が少し下がった。


 やはり、怒っている。


 アリシアは、笑っていても怒っている。


「本人の意思が先だ」


 アインが言った。


 さっきと同じ言葉。


 でも、必要な言葉。


「ええ、殿下」


 アリシアは、今度はすぐに頷いた。


「選ぶ時間を差し上げますわ」


「選ぶ場所も作るんだろ」


「もちろんです」


「ならいい」


 アインは、それ以上言わなかった。


 その短いやり取りを見て、リシアは少しだけ不思議な気持ちになった。


 アインはアリシアを止める。


 アリシアは止まる。


 けれど、動く。


 止まった上で、別の形で動く。


 アインもそれを分かっている。


 だから、完全には止めない。


 二人の間には、リシアにはまだ読めない線がある。


 長い時間でできた線。


 たぶん、千五百年前より前からあった線。


「送付します」


 クラウディアが言った。


 表題。


 宛先。


 閲覧範囲。


 本人回答期限。


 学院長府参考共有。


 ジークフリート殿下側への限定共有。


 全て確認される。


「送付」


 短い言葉と共に、エレナ・ヴァイスベルの前へ、新しい名が置かれた。


 外交実務研修。


 まだ、候補ですらない。


 けれど、道は引かれた。


     ◇


 返事は、思ったより早く来た。


 夕刻前。


 学院の庭に長い影が伸び始めた頃、クラウディアが応接室へ入ってきた。


「エレナ・ヴァイスベル様より、一次回答が届きました」


 リシアは顔を上げた。


 ステファニア様も。


 アリシアは、まるで来る時刻まで分かっていたように茶器を置いた。


「読み上げて」


「はい」


 クラウディアが記録板を開く。


「ファーランド大公家よりの外交実務研修に関する打診、確かに受領いたしました。過分な評価を賜り、恐縮しております」


 丁寧な文面だった。


 けれど、ただ丁寧なだけではない。


 余計な感情を置かず、必要なところだけを整えている。


「現在、私はジークフリート殿下周辺整理に関する学院長府連絡補助および信仰団体窓口照会補助に関与しております。これらの作業を無断で放棄することは、記録上も礼法上も適切ではありません」


 リシアは、少しだけ目を見開いた。


 断るのかと思った。


 けれど、クラウディアは続ける。


「ただし、貴家より提示された研修趣旨が、信仰判断と学院記録責任、王家周辺整理と家門外交を分けて扱う実務経験の評価であるならば、検討の余地があります」


 アリシアが、静かに笑った。


「よろしいですわね」


「はい」


 クラウディアも、少しだけ満足そうに見えた。


 気のせいかもしれない。


「つきましては、第一に、ジークフリート殿下側への限定共有範囲。第二に、学院長府における担当作業の引き継ぎ手順。第三に、研修期間中の所属記録。第四に、信仰団体窓口との接触制限の有無。以上四点について、事前確認をお願いいたします」


 リシアは、思わず息を吐いた。


 断っていない。


 飛びついてもいない。


 ただ、確認している。


 何を置き、何を動かし、何を混ぜてはいけないのか。


 エレナ・ヴァイスベルという人は、たぶん本当に実務の人なのだ。


「最後です」


 クラウディアが言った。


「なお、本件について、私が何者として扱われるのかを、私自身が理解しないまま席を移すことはできません。ご容赦ください」


 部屋が静かになった。


 ステファニア様が、小さく息を吸う。


「……よい返事ですね」


「ええ」


 アリシアは扇子を開いた。


 ゆっくりと。


 楽しそうに。


「とてもよい返事ですわ」


「アリシア様」


 リシアは、つい聞いてしまった。


「嬉しそうですね」


「ええ」


 アリシアは隠さなかった。


「自分が何者として扱われるのかを確認できる方は、潰れにくいですもの」


 潰れにくい。


 また、人を物のように扱う言葉だった。


 けれど、リシアには少しだけ分かってきた。


 アリシアは、人を物として見ているのではない。


 壊れないように見るから、そういう言葉になるのだ。


 人がどこで壊れるかを知っている。


 壊れたら、もう働けない。


 選べない。


 だから、その前に場所を作る。


 怖い。


 やはり怖い。


 けれど、その怖さがなければ、救えないものもあるのかもしれない。


「返答案を作成します」


 クラウディアが言った。


「第一、ジークフリート殿下側への共有は、本人および指定実務補佐に限定。第二、学院長府作業の引き継ぎは、エレナ様本人の作成する一覧に基づく。第三、研修期間中の所属記録は、学院籍維持、ジークフリート殿下側周辺整理協力者の記録を閉じた上で、ファーランド大公家外交実務研修参加者として別記。第四、信仰団体窓口との接触は、本人意思および安全確認を前提に段階制限」


「用意していたのですね」


 ステファニア様が言った。


「想定していました」


 クラウディアは即答した。


 やはり。


 リシアは、もう驚かないことにした。


 たぶん、少し驚いているけれど。


「ステファニア様」


 アリシアが呼ぶ。


「はい」


「あなたにも、確認しておきます」


「私に、ですか」


「ええ。エレナ様がこちらへ来た場合、あなたと近い場所で働くことになります」


 ステファニア様は、少しだけ背筋を伸ばした。


「補佐候補その二、ということですか」


「言い方は少々雑ですが、概ね」


「……概ね」


 ステファニア様が困ったように笑う。


 けれど、すぐに真面目な顔へ戻った。


「私は、歓迎します」


「理由は」


「私一人では、見えるものが偏ります。エレナ様は、私よりも信仰団体窓口と学院長府の境界に近い場所で動いています。記録と信仰を分ける実務経験もある。私が学ぶべき相手でもあると思います」


 アリシアは満足そうに頷いた。


「よろしいですわ」


「ただし」


 ステファニア様が続けた。


 今度は、リシアも少しだけ慣れていた。


「彼女を、私のためだけに動かすのは違うと思います」


 アリシアの笑みが、ほんの少し深くなる。


「ええ。そう言える方でなければ、横に置けませんもの」


 横に置く。


 その言葉に、リシアは気づいた。


 アリシアは、ステファニア様を下に置こうとしていない。


 エレナも。


 使う。


 働かせる。


 けれど、壊すためではない。


 横に置くために、鍛えようとしている。


 その横が、誰の横なのかまでは、まだ言わない。


 言わないけれど、たぶん、アリシアの中ではもう見えている。


 アインが、窓の外を見たまま言った。


「急ぎすぎるな」


「はい、殿下」


「本人たちが歩ける速さでやれ」


「もちろんですわ」


 アリシアは微笑んだ。


「少しだけ、道を掃いているだけです」


「道を作ってるだろ」


「掃いているだけです」


「嘘だな」


「表現の違いですわ」


 リシアは、思わず笑いそうになった。


 ステファニア様も、口元を押さえている。


 セラだけは真面目な顔で二人を見ていた。


「道は、掃くと作るで違うのですか」


「違います」


 クラウディアが答えた。


「ただし、アリシア様の場合は結果が同じになる可能性が高いです」


「クラウディア」


 アリシアが笑顔で呼んだ。


「はい」


「後で少しお話しましょう」


「業務記録上、必要な補足でした」


「ええ。後で少しお話しましょう」


 クラウディアは、わずかに視線を逸らした。


 珍しいものを見た気がした。


     ◇


 夕暮れの貸与邸は、少し静かだった。


 学院の騒ぎは、まだ終わっていない。


 保護通知。


 教育課程試験参加。


 外交実務補佐候補。


 外交実務研修打診。


 新しい言葉は、きっとまた廊下を流れる。


 誰かが読み間違える。


 誰かが意図的に曲げる。


 誰かが、そこに別の意味を載せようとする。


 けれど、今日は少し違う。


 先に置いた言葉がある。


 本人が受け取った言葉がある。


 本人が確認を求めた言葉がある。


 リシアは、応接室の机に残った空の椅子を見た。


 ステファニア様の隣。


 まだ誰も座っていない席。


 けれど、空白ではない。


 候補の席だった。


「リシア様」


 ステファニア様が声をかけた。


「はい」


「また、少し大きな話になってしまいましたね」


「はい」


 リシアは正直に頷いた。


「ですが」


「ですが?」


「今度は、前より少しだけ、置かれている場所が見えます」


 ステファニア様は、目を細めた。


「そうですね」


 窓の外で、夕風が庭木を揺らした。


 昨日の枝。


 今日の席。


 名前は違う。


 けれど、どちらも誰かが立つために必要なものだった。


 リシアは、空の椅子をもう一度見る。


 その席へ誰が座るのかは、まだ分からない。


 けれど、少なくとも。


 誰かが勝手に札を置く前に、こちらの言葉は置かれた。


 外交補佐候補。


 それは、まだ未来を決める名ではない。


 けれど、未来を奪わせないための名だった。


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