第七十七夜 名の扱い
第七十七夜 名の扱い
机の上には、二つの文書が並んでいた。
一つは、昨日受け取ったメシア教会系学生会の史料照会文の写し。
もう一つは、いまステファニアが持ってきた草案。
ステファニア・レーヴェンハイトの名を使う場合の扱いについて。
表題は、硬い。
けれど、硬くなければならない文書なのだと、リシアにも分かった。
柔らかく書けば、柔らかく使われる。
曖昧に書けば、曖昧なまま人の手へ渡る。
そして、渡った言葉は勝手に歩く。
アインが言った通りだ。
名前は、放っておくと勝手に歩く。
歩かせるなら、足跡を残せ。
この草案は、その足跡を残すためのものだった。
「読みます」
リシアは言った。
ステファニアは、静かに頷いた。
椅子には座っている。
けれど、手は膝の上で軽く重ねられ、背筋はまっすぐだった。
夜の私室で、しかも相手はリシアなのに、まるで正式な面談の場にいるようだった。
それだけ、彼女にとってこの草案が重いのだ。
リシアは、ゆっくり文面へ目を落とした。
レーヴェンハイト侯爵令嬢ステファニア・レーヴェンハイトに関する発言区分および本人意思確認について。
本文は、長くない。
第一に、婚約者保護、善意、忠誠、心配、配慮を名目とする発言であっても、本人からの明示確認がない限り、ステファニア・レーヴェンハイト本人の意思とは扱わないこと。
第二に、ジークフリート・オーラム・アレーナ殿下への批判、擁護、進言、謝罪要求に、ステファニア・レーヴェンハイトの名または立場を用いる場合は、本人の確認または委任範囲を明示すること。
第三に、ステファニア・レーヴェンハイトを守る、慰める、支えるという名目で行われる接触についても、本人の受領意思を確認すること。
第四に、上記に反する発言、伝達、接触が確認された場合、発言者本人の言葉として記録し、必要に応じて学院長府へ照会すること。
リシアは、読み終えてから顔を上げた。
「強いですね」
「はい」
ステファニアは、逃げずに答えた。
「強くしました」
リシアは、もう一度文面を見る。
強い。
だが、攻撃的ではない。
ステファニアの名を盾にも矛にもさせないための文書だ。
同時に、ステファニア自身を「守られるだけの婚約者」から切り離す文書でもある。
「これを出せば、反発があります」
「あるでしょう」
「殿下を拒んでいる、と受け取る方もいるかもしれません」
「それも、あると思います」
ステファニアの声は平らだった。
けれど、何も感じていないわけではない。
リシアには分かった。
この文書を書くこと自体が、彼女を少し傷つけている。
ジークフリート本人が戻ろうとしていることを、ステファニアは分かっている。
昨日の書状も、廊下での言葉も、以前とは違っていた。
だからこそ、余計に苦しい。
本人が戻ろうとしているのに、その周囲が彼女の名を使い始めている。
名を守るための文書を出せば、戻ろうとしている本人まで遠ざけるように見える。
けれど、出さなければ名はもっと歩く。
リシアは、胸の奥が重くなるのを感じた。
「ステファニア様」
「はい」
「これは、殿下を拒む文書ではありませんね」
ステファニアは、少しだけ目を伏せた。
「はい」
短い返事だった。
それだけで十分だった。
リシアは、草案の端を整えた。
「なら、そう読めるようにしましょう」
ステファニアが顔を上げる。
「どう直しますか」
「最初に、殿下本人の言葉と周囲の発言を分けるための文書だと置きます。殿下への拒絶ではなく、私の名を他者の発言根拠にしないためだと」
ステファニアは、しばらく黙った。
そして、ほんの少し笑った。
「リシア様」
「はい」
「今のは、とても公女らしいです」
リシアは、少しだけ頬が熱くなった。
「褒めていますか」
「はい」
「最近、褒め言葉が少し怖い方が多くて」
「私もそう思います」
二人は、小さく笑った。
笑えた。
それだけで、リシアは少し安心した。
◇
翌朝、草案はクラウディアの手で正式文書に整えられた。
貸与邸の食堂で、リシアたちは朝食を取りながら最終確認をしている。
セラはいつもより少し多めの朝食を前にして、真剣な顔でパンを割っていた。
真剣なのは、文書に対してではない。
たぶん、今日のスープに入っている肉団子の数を見ている。
ステファニアが、それに気づいて小さく息を吐いた。
「セラ」
「はい」
「今日の文書について、何か意見はありますか」
セラは、パンを置いた。
食べ物から手を離すあたり、真面目に答えるつもりなのだろう。
「守ると言って近づく相手へ、私の許可なく私の背に立つな、と言っているように読めます」
ステファニアが、少し目を見開いた。
「そう読めますか」
「はい。騎士としては分かりやすいです」
「騎士としては」
「はい。リシア様の背に立つなら、私はリシア様と立つ位置を決めます。勝手に守ると言って近づかれると、斬るべきか退けるべきか迷います」
リシアは、思わずセラを見た。
怖いことをさらっと言う。
だが、分かりやすい。
アリシアが楽しそうに目を細めた。
「よい例えですわ」
「ありがとうございます」
セラは素直に頷き、パンを再び手に取った。
褒められたので、食事へ戻ってよいと判断したらしい。
クラウディアが、文面を投影した。
最終版は、草案より少しだけ柔らかい。
ただし、線は太くなっている。
冒頭に、こう加えられていた。
本書は、ジークフリート・オーラム・アレーナ殿下ご本人の発言と、ステファニア・レーヴェンハイト本人の意思を、周囲の善意、忠誠、心配、配慮の名で混同しないための確認文書である。
リシアは、その一文を見て頷いた。
殿下本人を拒むものではない。
ステファニアの名を、他人の根拠にしないためのもの。
そう読める。
「送付先は」
ステファニアが問う。
「学院内連絡路を通じて、ジークフリート殿下本人、第一王子側近アルヴィン・ラーデン様、学院長府連絡窓口、レーヴェンハイト侯爵家代理窓口、ファーランド大公家貸与邸控え」
クラウディアが答えた。
「公開掲示はしません」
「はい」
「ただし、受領後に内容が漏れる可能性はあります」
「あるでしょうね」
ステファニアは静かに言った。
「漏れることを前提に、漏れても困らない形にしました」
クラウディアの目が、わずかに細くなる。
「よくできています」
ステファニアが、ほんの少し身構えた。
アリシアの「よろしいですわ」と同じ種類の言葉に聞こえたのだろう。
クラウディアは、気にせず続けた。
「送ります」
淡い光が一度だけ走った。
文書は、学院内連絡路へ置かれた。
名の扱いが、記録になった。
◇
ジークフリートがその文書を受け取ったのは、午前の講義前だった。
控室には、アルヴィンとオスカーがいた。
ミリアも呼ばれている。
イレーネはいない。
少なくとも、最初の確認には。
ジークフリートは、文書を最後まで読んだ。
読み終えてから、しばらく黙っていた。
アルヴィンは、何も言わない。
オスカーも黙っている。
ミリアは、手を膝の上で強く握っていた。
「正しい」
ジークフリートが、ようやく言った。
声は低かった。
「正しい文書だ」
ミリアの肩が、わずかに動く。
ジークフリートは文書を机へ置いた。
「私の名を使うなと言った以上、彼女の名もまた勝手に使わせるべきではない」
「はい」
アルヴィンが答える。
「受領確認を出しますか」
「出す」
ジークフリートは即答した。
「本人署名で。内容に異議なし。今後、私の周囲でステファニア嬢の名を用いた発言があれば、発言者本人の言葉として扱う。私からも同様に周知する、と」
アルヴィンが記録する。
オスカーが、静かに言った。
「殿下」
「何だ」
「周知は、騎士家側にも必要です」
「頼めるか」
「私の名で伝えます。ただし、殿下の受領確認が出た後に」
ジークフリートは頷いた。
「頼む」
ミリアが、小さく息を吸った。
「殿下」
「ミリア」
「私からも、友人筋へ伝えます」
言ってから、彼女は一度目を伏せた。
「私の名で。殿下のご意向としてではなく」
ジークフリートは、ミリアを見た。
以前なら、ありがとう、と軽く言ったかもしれない。
今は、少し違う。
「伝える前に、文面をアルヴィンへ見せてくれ」
ミリアの顔が、一瞬だけ揺れた。
だが、すぐに頷く。
「承知しました」
「疑っているわけではない」
ジークフリートは言いかけ、そこで止まった。
違う。
疑っていないと言えば、確認を避ける理由になる。
彼は、言い直した。
「確認する。私のためにも、お前のためにも」
ミリアは、少しだけ目を見開いた。
それから、深く礼をする。
「ありがとうございます」
ジークフリートは、息を吐いた。
礼を言われることではない。
けれど、今はそう返さなかった。
彼女にとっては、確認されることが救いなのかもしれない。
自分の名を勝手に借りないための手すり。
そう考えると、少しだけ分かる気がした。
◇
文書が届いたことは、すぐに周囲へ広がった。
公開掲示ではない。
だが、学院内連絡路を通った文書は、関係者の動きで気配が出る。
ジークフリートの控室に出入りする者。
アルヴィンが急ぎ足で学院長府へ向かう姿。
オスカーが騎士家学生数名を呼び止める姿。
ミリアが友人たちに短く話している姿。
それだけで、何かが置かれたと分かる。
そして、分かれば、言葉が生まれる。
「ステファニア様が、ずいぶんお強く出られたようですわね」
「殿下がご自身の周囲を整えようとされた途端に、今度はご自分の名まで」
「婚約者として支え合うべき時期に、線ばかり引かれるのは」
廊下の端で、そんな声が聞こえた。
リシアは、歩きながら息を整える。
端末は、表示を出している。
だが、今日はすぐに見なかった。
声の方向。
言葉の強さ。
誰が、誰へ聞かせるつもりで言っているか。
それを先に見る。
アリシアは、リシアの少し前を歩いていた。
扇は開いていない。
閉じたまま、手の中で静かに揺れている。
ステファニアは、リシアの隣にいた。
聞こえているはずだ。
それでも、足を止めなかった。
セラが、ほんの少しだけ前へ出る。
間合いを作る。
廊下の向こうから、イレーネ・バルシュが歩いてきた。
取り巻きは二人。
彼女の顔には、きちんと整えられた礼儀があった。
整えられすぎている。
リシアは、そう思った。
「ステファニア様」
イレーネが足を止め、礼をする。
「イレーネ様」
ステファニアも礼を返す。
「本日の文書、拝見はしておりませんが、内容の一部を伺いました」
最初から危うい。
拝見していない。
だが、内容の一部を伺った。
噂として拾った言葉を、文書への反応として置こうとしている。
リシアは、口を開きかけた。
だが、ステファニアの方が先だった。
「正式な写しを受領されていない文書については、内容確認として扱えません」
静かな声だった。
イレーネの表情が、わずかに固まる。
「私は、心配しておりますの」
「何をでしょうか」
「殿下が周囲を整えようとなさっている時に、ステファニア様までご自身の名を厳しく管理されれば、殿下のお立場がさらに窮屈になるのではと」
出た。
リシアは、胸の中で思った。
心配。
殿下のお立場。
ステファニアの名の管理。
それらを繋げて、彼女はステファニアが殿下を縛っているように置こうとしている。
ステファニアは、表情を変えなかった。
「私の名を他の方の発言根拠にしないことは、殿下のお立場を狭めるものではありません」
「ですが」
「殿下ご本人の言葉と、周囲の方々の善意を分けることは、殿下ご自身が始められた整理でもあります」
イレーネの目が、少しだけ鋭くなる。
「では、ステファニア様は殿下のお考えに倣われた、と」
これも危うい。
倣った。
つまり、殿下の動きに従った。
また、中心をジークフリートへ戻そうとしている。
ステファニアは、一拍置いた。
「いいえ」
短く言った。
廊下が静かになる。
「殿下の文書を拝見し、必要な整理であると理解しました。そのうえで、私自身の名について、私自身の名で確認文書を置きました」
リシアは、思わず息を止めた。
私自身の名で。
強い。
だが、必要な強さだった。
イレーネは、微笑もうとした。
少しだけ、失敗している。
「随分と、はっきり仰いますのね」
「曖昧にすると、また誰かが困ります」
ステファニアは言った。
「私も。殿下も。周囲の方々も」
イレーネの取り巻きの一人が、小さく息を呑んだ。
ステファニアは、そこで礼をした。
「文書についてご確認が必要でしたら、学院内連絡路を通じて正式にお問い合わせください。廊下で聞いた一部の内容に基づくご心配は、受領いたしかねます」
受領いたしかねます。
その一言で、会話は終わった。
イレーネは、礼を返すしかなかった。
リシアたちは、その横を通り過ぎる。
すれ違う瞬間、リシアはイレーネの横顔を見た。
怒っている。
だが、その怒りの中に、少しだけ焦りがあった。
自分の言葉が届かなかった焦り。
殿下のためという名を、うまく使えなかった焦り。
それは、まだ小さい。
けれど、小さな焦りは、次の言葉を探す。
◇
午後、貸与邸へ戻ると、クラウディアがすでに分析を並べていた。
卓上には、学院内公開連絡板の写しと、廊下での非公式発言の分類表が表示されている。
リシアは、もう驚かなかった。
驚かない自分に、少しだけ慣れてきた。
「本日の文書送付後、関連語が変化しています」
クラウディアが言った。
「増加した語は、縛る、冷たい、婚約者の務め、殿下のお立場、支える気がない、です」
ステファニアが、静かに目を伏せた。
リシアは、思わず手を握りそうになった。
けれど、握らなかった。
今は、隣にいる。
それだけでよい時もある。
アリシアが、扇を開く。
「予想通りですわ」
「はい」
クラウディアが頷く。
「直接的な殿下名義利用は減少しています。一方で、殿下のお立場、婚約者の務め、支える気がない、という抽象語へ移っています」
「抽象語は便利ですものね」
アリシアが微笑む。
「誰の何を指すかを曖昧にしたまま、相手へ重さだけ載せられます」
リシアは、今日のイレーネを思い出した。
心配しておりますの。
殿下のお立場が窮屈になるのでは。
どちらも、優しい顔をした言葉だった。
だが、その下にあるものは優しくない。
「イレーネ様の発言は」
ステファニアが問う。
「分類済みです」
クラウディアが即答した。
「文書未受領状態での内容言及。善意、心配を名目とする受容圧。殿下の立場を介した本人意思の相対化。ステファニア様の文書を殿下追随として置く誘導」
リシアは、少し目を丸くした。
言葉にされると、かなり多い。
あの短いやり取りの中に、そんなに詰まっていたのか。
ステファニアは、淡々と聞いていた。
「記録対象ですか」
「現時点では、内部記録に留めるのが妥当です」
「理由は」
「正式な文書確認ではなく、廊下での非公式接触です。学院長府へ上げるには、もう一段踏み越えが必要です」
「承知しました」
ステファニアは頷いた。
その声に、少しだけ疲れがある。
アリシアが、ステファニアを見た。
「よく止めましたわ」
ステファニアは、微妙な顔をした。
「ありがとうございます」
「怖がらなくてもよろしいのに」
「最近、反射的に身構えるようになりました」
「まあ」
アリシアは楽しそうだった。
その横で、クラウディアが静かに言う。
「エレナ・ヴァイスベル様は、今日の公開連絡板上では発言なし。学生会内記録に専念しているようです」
アリシアの目が、ほんの少し動いた。
「賢いですわね」
「はい」
クラウディアは即答した。
「信仰を捨てず、記録の側へ立てる稀少な人材です」
リシアは、思わず二人を見た。
今、何かとても危ない評価が交わされた気がする。
アリシアが、扇の陰で微笑む。
「よい土ですわ」
「水と刃物を間違えなければ、伸びます」
クラウディアが淡々と答えた。
「お二人とも」
リシアは、思わず言った。
「エレナ様は植物ではありません」
「もちろんですわ」
「比喩です」
二人がほとんど同時に答える。
ステファニアが、片手で額を押さえた。
「……引き抜くおつもりですか」
アリシアは、にこりと笑った。
「今はまだ」
「今は」
リシアとステファニアの声が重なった。
セラだけが、真面目に首を傾げる。
「引き抜くとは、護衛対象を増やすという意味ですか」
「たぶん、そうです」
リシアは答えた。
「たぶん」
ステファニアが小さく呟いた。
部屋の空気が、少しだけ緩む。
けれど、クラウディアの表示は緩まなかった。
新しい分類が、卓上に浮かぶ。
外部流入語候補。
縛る。
冷たい。
婚約者の務め。
支える気がない。
殿下を孤立させる。
リシアは、その最後の語で息を止めた。
「殿下を孤立させる」
ステファニアが、静かに読み上げる。
「はい」
クラウディアが頷いた。
「本日午後から増加しています。出所はまだ断定できませんが、帝都支店側で確認された攪乱文言の構造と近い」
帝国。
その言葉は、誰も口にしなかった。
けれど、部屋の中に置かれた。
アリシアが、扇を閉じる。
「では、次はそこですわね」
「殿下を孤立させる、ですか」
リシアが問う。
「ええ」
アリシアは、静かに言った。
「ステファニア様が名を守れば、殿下が孤立する。殿下が周囲を止めれば、周囲が切り捨てられる。そういう形にしたい者がいる」
ステファニアは、表示を見ていた。
顔色は変わらない。
けれど、指先が少しだけ白くなっている。
「では」
ステファニアが言った。
「私は、殿下を孤立させる者として置かれ始めているのですね」
「置こうとしている者がいます」
クラウディアが訂正した。
「まだ、置かれたわけではありません」
その言葉は、少しだけ優しかった。
クラウディアにしては。
ステファニアは、ゆっくり頷いた。
「承知しました」
リシアは、何か言おうとした。
けれど、言葉が出なかった。
大丈夫です、とは言えない。
大丈夫かどうかは、これから決まる。
すると、セラが静かに言った。
「孤立させると言われても、実際に背中を空けるかどうかは別です」
ステファニアが、セラを見る。
「騎士としての意見ですか」
「はい」
セラは頷いた。
「周りが離れたと言っても、本当に背後が空いたかは見れば分かります。言葉で孤立と言われても、立っている場所を見ます」
リシアは、少しだけ息を吐いた。
セラの言葉は、時々まっすぐすぎて救いになる。
ステファニアも、ほんの少し笑った。
「では、私も立っている場所を見ます」
「はい」
セラは真面目に答えた。
「食事の席でも、立ち位置は大事です」
「そこへ戻るのですね」
「はい」
今度は、リシアも笑った。
ほんの少しだけ。
◇
その日の夕方、ジークフリートの控室にも同じ語が届いていた。
殿下を孤立させる。
アルヴィンが、公開連絡板と周辺者の会話記録を整理して机へ置く。
オスカーは腕を組み、黙っている。
ミリアは顔色が悪かった。
「私が周囲を止めれば、周囲が切り捨てられる」
ジークフリートは、文面を見ながら言った。
「ステファニア嬢が自分の名を守れば、私を孤立させる」
アルヴィンが頷く。
「そういう構図へ置こうとする言葉が増えています」
「誰が流している」
「断定はできません」
「断定できないなら、名は出せない」
ジークフリートは言った。
以前なら、苛立っていたかもしれない。
今は、その言葉を自分に言い聞かせるように口にした。
アルヴィンの目が、少しだけ動く。
「その通りです」
ジークフリートは、息を吐いた。
「なら、私が言えることは限られる」
彼は文書を閉じた。
「私は孤立していない。周囲を止めることは、周囲を切り捨てることではない。ステファニア嬢が自身の名を守ることは、私を遠ざけることではない」
言葉を並べる。
だが、並べただけでは足りない。
それも分かっていた。
「これを公開すれば、また反応が出ます」
アルヴィンが言った。
「出るだろう」
「それでも」
「出す」
ジークフリートは答えた。
迷いはあった。
けれど、迷って出さなければ、また周囲が代わりに言う。
それだけは避けなければならない。
ミリアが、そっと口を開いた。
「殿下」
「何だ」
「一つだけ、お願いがあります」
「言え」
「ステファニア様のお名前を出す場合、文面を先に確認していただけませんか」
ジークフリートは、ミリアを見る。
ミリアは震えていた。
だが、目は逸らしていない。
「殿下が守るためにお名前を出されても、それがまた別の重さになるかもしれません」
ジークフリートは、すぐに答えられなかった。
その通りだった。
ステファニアの名を守るために、ステファニアの名を出す。
それもまた、危うい。
オスカーが静かに言った。
「殿下。名を出さずに、原則だけを置くべきです」
アルヴィンも頷く。
「『特定個人の名を、孤立や切り捨ての根拠として扱わない』という形なら、殿下の意思を示しつつ、ステファニア様の名を再度掲げずに済みます」
ジークフリートは、目を閉じた。
難しい。
名を守るために、名を出さない。
言葉を置くために、言葉を削る。
だが、今はそれが必要なのだろう。
「そうする」
ジークフリートは言った。
「文面を作れ。いや」
彼は言い直す。
「まず、私が書く。お前たちは確認してくれ」
アルヴィンが、少しだけ目を見開いた。
オスカーが頷く。
ミリアは、小さく息を吐いた。
ジークフリートは羽ペンを取った。
自分の名で。
自分の言葉を置くために。
まだ遅いかもしれない。
それでも、置くしかなかった。
◇
夜、貸与邸に、ジークフリート本人署名の短い確認文が届いた。
学院内連絡路を通じた、受領確認と追加整理。
クラウディアが文面を表示する。
ステファニアは、リシアとアリシアの隣で、それを読んだ。
文面は短かった。
特定個人の名を、私の孤立、周囲の切り捨て、または忠誠の有無を語る根拠として扱わないこと。
周囲を止めることは、周囲を捨てることではない。
他者が自身の名を守ることは、私を遠ざけることではない。
この整理は、私自身の名を管理する責任の延長として置く。
ジークフリート・オーラム・アレーナ。
ステファニアは、最後まで読んだ。
目を伏せる。
「殿下は」
声は静かだった。
「努力していらっしゃいます」
「はい」
リシアは答えた。
「それでも」
ステファニアは、文面を見たまま言った。
「努力している方の周囲が、その努力を壊すこともあるのですね」
誰も、すぐには答えなかった。
アリシアが、扇を閉じる。
「ええ」
それだけだった。
短い肯定。
けれど、その一言が一番重かった。
クラウディアの端末に、新しい表示が浮かぶ。
公開連絡板。
最新投稿群。
殿下はお優しい。
だからこそ、周囲が支えねばならない。
支える者を遠ざけることが、果たして本当に殿下のためなのか。
リシアは、息を止めた。
早い。
早すぎる。
ジークフリートが名を出さずに線を引いたその直後に、別の言葉がもう生まれている。
アリシアが、静かに言った。
「次は、守るという圧ですわね」
ステファニアは、表示を見ていた。
逃げずに。
けれど、その横顔は少しだけ青白かった。
リシアは、何も言わずに隣へ座り直した。
言葉では、まだ足りない。
今は、席を離れないこと。
それだけを選んだ。
窓の外では、学院の夜灯が揺れている。
名は、今日も歩いていた。
足跡を残してもなお、その足を止めるには、まだ足りなかった。




