表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

89/122

第七十六夜 祈りと写し

第七十六夜 祈りと写し


 翌日の午後、貸与邸の応接室には、いつもより少し硬い空気があった。


 茶は用意されている。


 椅子の位置も整えられている。


 窓から入る光も、学院の白い壁に反射して柔らかい。


 それでも、リシアは卓上に置かれた空白の記録板を見て、背筋を少し伸ばした。


 今日は、雑談ではない。


 昨日の通知通り、メシア教会系学生会の代表が来る。


 目的は、教会本部へ送付した史料照会文の写しを、ファーランド大公家側へ事前共有すること。


 写し。


 その言葉が、今日は妙に重かった。


 写しは、原本ではない。


 けれど、原本がどのような形で置かれたかを示す。


 何を問うたのか。


 誰の名で問うたのか。


 どの記録へ繋げるつもりなのか。


 それが、写し一枚で見える。


 リシアは、首元の装身型端末へ意識を向けかけて、やめた。


 今日は、まず目で見る。


 端末は補助であって、答えではない。


 そう思ったところで、ステファニアが小さく頷いた。


 見られていたらしい。


「今日は、大丈夫そうですね」


「まだ何もしていません」


「だからです」


 ステファニアは柔らかく言った。


 リシアは少しだけ苦笑する。


 何もしないことを褒められる日が来るとは思わなかった。


 だが、この数日で学んだ。


 すぐに見ること。


 すぐに読むこと。


 すぐに意味を決めること。


 それらは、時に早すぎる。


 アリシアは、正面の席で扇を閉じたまま座っていた。


 今日の衣装は白ではない。


 薄い青灰色の上衣に、淡い銀の刺繍が入っている。


 ファーランドの礼装としては控えめで、学院の場としては十分に格式がある。


 祈られる者の色ではなく、記録を受ける者の色。


 そんな印象だった。


 セラは扉の近くに立っている。


 いつものように静かだが、今日は少しだけ間合いが広い。


 入室する者が礼をする位置。


 席へ向かう線。


 退室時に振り返る空間。


 そのすべてを見ている。


 クラウディアは卓の端に立ち、記録板と学院内連絡路から届いた面会申請の写しを確認していた。


「確認します」


 クラウディアが言った。


「本日の場は、ファーランド大公家側とメシア教会系学生会側の非公開確認面談です。学院長府へは面会実施のみ通知済み。発言記録は双方確認後、必要範囲のみ学院長府へ提出可能。教会本部宛て照会文の原本は、既に学生会長署名で送付済み。こちらへ提示されるのは、その写しです」


「正式な抗議ではないのですね」


 リシアが確認すると、クラウディアは頷いた。


「書式上は、史料照会です」


 書式上は。


 その一言が、少し冷たい。


 けれど必要な冷たさだった。


 書式が史料照会でも、読む者が抗議として扱えば、意味は変わる。


 逆に、抗議の熱を含んでいても、史料照会として置かれているなら、その形で受けることができる。


 言葉は、どこに置かれるかで意味が変わる。


 そのことを、リシアはもう何度も見てきた。


 扉の外で、短い通知音が鳴った。


 クラウディアが扉へ視線を向ける。


「到着しました」


 セラが扉を開けた。


 入ってきたのは、三人だった。


 エレナ・ヴァイスベル。


 その隣に、少し年上の女子学生。


 もう一人は男子学生で、腕に学生会の記録筒を抱えている。


 三人とも、礼は正確だった。


 ただし、同じ正確さではない。


 エレナの礼は、迷いを抑えた礼。


 女子学生の礼は、立場を守る礼。


 男子学生の礼は、記録を落とさないようにする礼。


 そう見えて、リシアは少しだけ驚いた。


 以前なら、そこまで見分けられなかったかもしれない。


 端末を見なくても、少し分かる。


 それが嬉しいのか怖いのか、まだ判断できなかった。


「本日は、お時間をいただきありがとうございます」


 エレナが言った。


「メシア教会系学生会、史料照会担当、エレナ・ヴァイスベルです」


 続いて、年上の女子学生が名乗る。


「同学生会副会長、マルタ・グレンです」


 男子学生も頭を下げた。


「記録担当、ロイド・アルマーです」


 リシアは立ち上がった。


「ファーランド大公家、リシア・ファーランドです。本日は、史料照会文の写しを拝見する場としてお受けいたします」


 言ってから、ステファニアを見る。


 ステファニアは小さく頷いた。


 よかった。


 最初の線は、間違えていない。


 アリシアは立たなかった。


 けれど、座ったまま軽く礼を返す。


「アリシア・ファーランドです」


 その名が置かれた瞬間、マルタ副会長の肩がわずかに強張った。


 エレナは目を伏せただけだった。


 ロイド記録担当は、記録筒を抱える手に少し力を込めた。


 リシアは、その反応を見た。


 聖女像。


 聖女隠匿事件。


 祈りの対象。


 それらの名が、たぶん彼らの中で同時に揺れている。


 だが、目の前にいるのは像ではない。


 アリシア本人だ。


 その差を受け止めることは、簡単ではないのだろう。


     ◇


 席に着くと、エレナが一通の写しを卓上へ置いた。


 紙質は学院内の正式書式より少し厚い。


 教会系の文書なのだろう。


 左上に学生会長の署名。


 下部にエレナの署名。


 余白には、学院長府照会記録番号が添えられている。


 写しであっても、どの記録へ繋がっているかが分かる。


 リシアは、その一点だけで少し息を緩めた。


 少なくとも、これは祈りの熱だけで持ち込まれたものではない。


「読み上げますか」


 クラウディアが問う。


 エレナは首を横に振った。


「まずは、写しとしてお渡しします。読み上げは、必要でしたら」


「では、拝見します」


 リシアが言うと、クラウディアが文書を静かに複写表示した。


 卓上に、淡い光の文字が浮かぶ。


 表題。


 聖女隠匿事件に関する史料根拠確認のお願い。


 リシアは、ゆっくり読み進めた。


 そこには、感情的な抗議は書かれていなかった。


 少なくとも、文面上は。


 問いは四つ。


 一つ。


 メシア教会系記録において、聖女隠匿事件と呼称される事件の一次記録、またはそれに準じる保存文書の所在確認。


 二つ。


 当該像を聖女像と呼称する根拠となった教会側文書の有無。


 三つ。


 寄進要求、または保管権限主張が行われた場合、その根拠とされた教義文書、布告、司祭会議記録の有無。


 四つ。


 学院保存記録およびファーランド大公家側史料との照合に供することが可能な写しの提示可否。


 リシアは、読み終えてから顔を上げた。


 強い。


 けれど、形は整っている。


 史料照会として、必要な問いになっている。


 アリシアは、扇を閉じたまま文面を見ていた。


 表情は穏やかだ。


 穏やかすぎる。


 リシアは、少しだけ警戒した。


「よく整っていますわ」


 アリシアが言った。


 エレナの肩が、ほんの少し緩む。


 だが、アリシアは続けた。


「だからこそ、確認します」


 緩んだ肩が、すぐに戻った。


「はい」


「この照会文は、祈りの正当性を問うものではありませんね」


 エレナは、まっすぐ答えた。


「はい。信徒が祈ってきた事実を否定するものではありません」


「では、聖女像という呼称の正当性を、教会本部の記録上どこに置くかを問うもの」


「その通りです」


「当該像の所有、保管、移動権限について、教会側が何を根拠に語っていたかを確認するもの」


「はい」


「よろしいですわ」


 アリシアは、そこでようやく扇を開いた。


 小さな音がした。


「祈りは、祈る者のものです。昨日も申し上げました」


 エレナは頷いた。


「はい」


「ですが、祈りは所有権ではありません」


 室内の空気が、少しだけ冷えた。


 マルタ副会長の眉が動く。


 エレナは動かなかった。


 ロイド記録担当の筆が止まりかけ、すぐに動き出す。


「祈ることは、誰かの名を心に置くことです。けれど、心に置いたからといって、その方の身体、場所、記録、名の扱いまで自分のものになるわけではありません」


 アリシアの声は穏やかだった。


 穏やかだから、逃げ場がない。


「聖女と呼んで祈った方々がいた。その事実を、わたくしは否定しません」


 エレナの目が、少しだけ揺れた。


「ですが、その事実から、当該像を教会へ寄進すべきだった、または教会が保管すべきだった、という結論へは直結しません」


「……はい」


 エレナは答えた。


 声は小さくなかった。


 マルタ副会長が口を開く。


「ですが、祈りの対象として長く扱われてきたものに対し、教会が適切な祀りを求めること自体は」


「求めることはできます」


 アリシアは即座に答えた。


「求めることと、権限を持つことは別です」


 マルタ副会長は、言葉を止めた。


 アリシアは続ける。


「祈りを守るために、祀りの形式を提案することはできます。敬意を求めることもできます。ですが、それを理由に保管権限を要求するなら、祈りではなく権限の話になります」


 扇の端が、卓上の写しを軽く示した。


「ですから、この文書は良いのです。祈りではなく、史料と権限を問う形になっています」


 マルタ副会長は、何も言わなかった。


 その代わり、エレナが深く息を吸った。


「ありがとうございます」


「礼を言われることではありませんわ」


「いいえ」


 エレナは首を振った。


「祈りを否定されなかったことに、礼を申し上げます」


 室内が静かになった。


 リシアは、エレナを見た。


 その言葉は、かなり危ういところに立っていた。


 祈りを否定されなかったことへの礼。


 それは、信徒としての言葉だ。


 だが、史料照会担当としては、少し感情が混じる。


 エレナ自身も分かっているのだろう。


 言い終えた後、彼女は一度目を伏せた。


「今の言葉は、私個人のものです。記録には、個人発言として残してください」


 ロイドが頷き、記録する。


 リシアは、胸の奥で小さく息を吐いた。


 この人は、分けようとしている。


 信徒としての自分。


 学生会の担当者としての自分。


 史料照会を出す者としての自分。


 それらが完全に分けられるわけではない。


 けれど、混ぜたまま相手へ押しつけないようにしている。


 それは、たぶん誠実さなのだと思った。


     ◇


 写しの確認は、さらに細かく続いた。


 ステファニアが、文面の一部を指で示す。


「ここです。『教会側文書の有無』となっていますが、文書が存在しない場合の扱いはどうなりますか」


 エレナは答える。


「本部から、文書なし、または所在不明と返答された場合は、その返答自体を記録として扱う予定です」


「文書がないことを、ただちに信仰の否定とは扱わない」


「はい」


「では、文書がある場合」


「写しの提示可否を確認します。提示できない場合は、提示できない理由を求めます」


「秘匿文書である可能性は」


「あります」


 エレナは少しだけ表情を引き締めた。


「その場合でも、秘匿であるという形式の返答は必要です。存在するのか、しないのか、存在するが出せないのか。それが分からなければ、学院保存記録との照合ができません」


 ステファニアは頷いた。


「整っています」


 エレナの顔に、ほんの少し安堵が浮かぶ。


 だが、ステファニアもそこで終わらせなかった。


「ただし、整っている文面ほど、返答する側は逃げ道を探すことがあります」


「はい」


「本部が、信仰上の配慮を理由に史料提示を避けた場合、学生会としてどう扱いますか」


 マルタ副会長が、少し身じろぎした。


 エレナは、彼女を見なかった。


「それは、史料提示不能として扱います」


「強いですね」


「強くなければ、照会した意味がありません」


 ステファニアの目が、わずかに細くなる。


 嫌な細さではない。


 評価している時の目だった。


「承知しました」


 マルタ副会長が、そこで口を開いた。


「ただ、学生会としては、教会本部への敬意も保たねばなりません。本部から信仰上の判断が返された場合、それを単に史料提示不能と切るのは」


「切るのではありません」


 エレナが言った。


 声は静かだった。


「分けます」


 マルタ副会長が、エレナを見る。


「信仰上の判断は、信仰上の判断として記録します。史料提示の有無は、史料提示の有無として記録します。同じ返答の中に両方が含まれていても、同じものとして扱いません」


 アリシアが、扇の陰で少しだけ笑った。


「よろしいですわ」


 エレナは、今度はすぐに安堵しなかった。


 むしろ、少し怖がったように見えた。


「……ありがとうございます」


「今のは褒めていますのに」


 アリシアが言う。


 ステファニアが小さく視線を下げた。


 たぶん、同じことを思い出したのだろう。


 最近、よろしいですわと言われると少し怖い。


 リシアは、笑わないように少しだけ口元を引き締めた。


 場は重い。


 けれど、完全に冷たいわけではない。


 それが、今日の面談をぎりぎり支えていた。


     ◇


 面談の終盤、アリシアが一つだけ追加の確認を求めた。


「エレナ様」


「はい」


「この照会文が教会本部へ届いた後、本部内で意見が割れる可能性はありますか」


 エレナは、少しだけ黙った。


 マルタ副会長が、先に答えようとした。


 だが、エレナはその前に口を開いた。


「あります」


 マルタ副会長の顔が固くなる。


 エレナは続けた。


「史料で返すべきだと考える方もいます。信仰の対象について外部から根拠を問われること自体を、好ましくないと考える方もいます。ファーランド大公家との過去の関係を考え、慎重に扱うべきだと考える方もいるはずです」


「それを、学生会として把握しているのですね」


「把握している、というより」


 エレナは言葉を選んだ。


「想定しています」


 アリシアは頷いた。


「正直でよろしいですわ」


「本部が一枚岩であると言えば、安心はできるかもしれません」


 エレナは静かに言った。


「ですが、嘘になります」


 リシアは、その言葉に少しだけ息を止めた。


 嘘になります。


 その言い方は、簡単ではない。


 特に、教会系学生会の立場で、教会本部について言うには。


 アリシアは、少しだけ目を細めた。


「では、こちらも正直に申し上げます」


 扇が、静かに閉じられる。


「ファーランドは、祈りを敵とは見なしません」


 エレナの目が上がる。


「ですが、祈りの名で保管権限を奪おうとする者、記録を塗り替えようとする者、眠っていた者の名を自分たちの物語へ取り込もうとする者は、敵と見なします」


 その言葉は、静かだった。


 けれど、室内の温度が一段下がったように感じた。


 マルタ副会長が息を呑む。


 ロイドの筆が止まる。


 クラウディアが淡々と言った。


「記録してください」


 ロイドが、慌てて筆を動かす。


 エレナは、アリシアを見ていた。


 怖がっている。


 けれど、目を逸らしていない。


「その線を、本部への報告に含めます」


「報告の名義は」


 アリシアが問う。


「エレナ・ヴァイスベル個人の補足として」


 エレナは答えた。


「学生会長名義の照会文とは分けます」


「よろしいですわ」


 今度のよろしいですわは、少しだけ柔らかかった。


 エレナも、それを感じたのか、深く頭を下げた。


     ◇


 面談が終わると、三人は丁寧に礼をして退室した。


 扉が閉まる。


 セラが静かに扉の前へ戻った。


 リシアは、しばらく卓上の写しを見ていた。


 薄い光の文字は、まだ残っている。


 聖女隠匿事件に関する史料根拠確認のお願い。


 お願い。


 その柔らかい言葉の中に、硬い問いが入っている。


 リシアは、今日のエレナの顔を思い出した。


 祈りを否定されなかったことに礼を言った時の顔。


 史料提示不能と扱うと言った時の顔。


 本部は一枚岩ではないと認めた時の顔。


 どれも同じ人の顔だった。


 同じ人の中に、信徒と学生と担当者がいる。


 それを混ぜないようにしている。


 たぶん、とても疲れることだ。


「エレナ様は」


 リシアは言った。


「敵ではありませんね」


 アリシアは、扇を膝に置いた。


「今のところは」


「今のところ」


「ええ」


 アリシアは穏やかに言った。


「誠実な方でも、所属する場所の言葉を背負わされることがあります。祈りを守ろうとする方が、祈りの名で押す者の前へ立たされることもあります」


 リシアは、少し胸が痛くなった。


 それは、ジークフリートの周囲にも似ている。


 本人の意図。


 周囲の言葉。


 所属する場所の名。


 それらがずれていく時、誰かが間に立たされる。


「では、どう見ればよいのでしょう」


「その時その時の言葉を見ることです」


 アリシアは答えた。


「昨日誠実だった方が、明日も同じとは限りません。昨日踏み越えた方が、明日戻らないとも限りません。けれど、記録はその都度残ります」


 リシアは頷いた。


 クラウディアが、卓上の写しを整理する。


「本日の面談記録は、双方確認後、学院長府へ面会実施記録として最小限提出します。全文はファーランド側控えとします」


「教会本部への照会文は、既に送付済みでしたね」


 ステファニアが問う。


「はい。学院内連絡路ではなく、学生会を経由した教会系正式連絡です」


「返答予定は」


「通常なら三日から七日。ただし、本件は本部内で上位確認へ回る可能性が高いです」


 アリシアが小さく笑った。


「早くても遅くても、意味がありますわね」


「はい」


 クラウディアは頷く。


「早ければ、事前に用意されていた反応。遅ければ、内部調整または判断保留。どちらも記録できます」


 ステファニアが、少しだけ息を吐いた。


「記録することが増えていきますね」


「はい」


 クラウディアは当然のように答えた。


「増えます」


 リシアは、思わずクラウディアを見た。


 少しは慰めてもよいのではないか。


 そう思ったが、言わなかった。


 クラウディアが慰める時は、きっともっと別の形なのだろう。


 たとえば、必要な記録板がすでに用意されているとか。


 返答分類表が、頼んでもいないのに作られているとか。


 その予感は、たぶん当たっている。


     ◇


 同じ頃、学院の礼拝堂脇にある学生会室では、エレナが椅子に座ったまま、しばらく動けずにいた。


 面談記録の控えは、ロイドが清書している。


 マルタ副会長は、窓際で腕を組んでいた。


「エレナさん」


「はい」


「あなたは、少し踏み込みすぎました」


 エレナは、すぐに反論しなかった。


 その指摘は、半分は正しい。


 本部が一枚岩ではない。


 それをファーランド側の前で認めた。


 学生会としては、危うい。


「承知しています」


「では、なぜ」


「嘘になるからです」


 エレナは、同じ言葉を繰り返した。


 マルタ副会長が、少し苛立ったように息を吐く。


「信仰の場では、嘘ではなく配慮と呼ぶこともあります」


「史料照会の場でした」


「ですが、相手はファーランドです」


「だからこそです」


 エレナは顔を上げた。


「祈りの場で祈りを守ることと、記録の場で根拠を整えることを混ぜれば、こちらが崩れます」


「こちらが崩れる?」


「はい」


 エレナは、机の上の写しを見た。


「あの方は、祈りを否定しませんでした」


 アリシアのことだ。


 マルタ副会長は、名前を出さなかった。


 エレナも出さなかった。


 だが、同じ人を指している。


「ですが、祈りを権限として使うことは許さない、と明確に線を引かれました」


「それは、ファーランド側の都合です」


「そうです」


 エレナは頷いた。


「そして、私たちが史料照会として文書を出した以上、こちらもその線を見なければなりません」


 マルタ副会長は黙った。


 完全に納得した顔ではない。


 だが、反論する言葉を探している顔でもない。


 たぶん、彼女も分かっている。


 祈りだけで押すには、相手が悪すぎる。


 いや、相手が悪いのではない。


 相手が、記録の場所を決して間違えないのだ。


 ロイドが清書を終えた。


「本部宛て補足文、どうしますか」


 エレナは、手元の紙を取った。


「学生会長名義の照会文とは別に、私個人の補足を付けます」


「内容は」


 マルタ副会長が問う。


 エレナは、ゆっくり書き始めた。


 ファーランド大公家側は、信徒による祈りの事実を否定しない。


 ただし、祈りを根拠として当該像の保管権限、移動権限、呼称の正当性を主張することは、史料上の根拠提示を要するものと見なしている。


 また、祈りの名で眠っていた人物の名、場所、記録を取り込もうとする行為は、明確な敵対行為と受け止める旨が示された。


 ロイドが、横で息を呑んだ。


「強いですね」


「弱く書けば、誤解されます」


 エレナは言った。


「これは脅しではありません。線です」


 マルタ副会長が、その文面を見た。


「本部が、これをどう読むか」


「分かりません」


「分からないまま出すのですか」


「はい」


 エレナは、署名欄に自分の名を書いた。


 エレナ・ヴァイスベル。


 個人補足。


 学生会長名義ではない。


 本部への正式照会文に添える、現場担当者の補足。


 それ以上でも、それ以下でもない。


「出します」


 マルタ副会長は、しばらく黙っていた。


 やがて、小さく頷いた。


「分かりました。学生会長には、私からも説明します」


「ありがとうございます」


「ただし」


 マルタ副会長は、エレナを見た。


「本部から返答が来た時、あなたは矢面に立つことになります」


「承知しています」


 エレナは答えた。


 怖くないわけではない。


 むしろ、怖い。


 だが、祈りを守るとは、たぶんそういうことでもある。


 祈りの名で押す者からも。


 祈りを全て権力だと切り捨てる者からも。


 その間に立って、これは祈りです、これは権限です、と分け続ける。


 美しい仕事ではない。


 けれど、必要な仕事だった。


     ◇


 夕方、貸与邸へ戻った後、リシアは自室の机で今日の記録を読み返していた。


 クラウディアが整理した面談要約。


 エレナの照会文写し。


 アリシアの発言抜粋。


 どれも、淡々としている。


 淡々としているのに、重い。


 リシアは、筆を取った。


 自分用の記録に、一行だけ書く。


 祈りを否定しないことと、祈りの名で奪わせないことは、両立する。


 書いてから、少し考える。


 そして、もう一行足した。


 誠実な人が、誠実なまま困難な場所へ立たされることがある。


 それは、エレナのことだった。


 ジークフリートのことでもあるかもしれない。


 ステファニアのことでもある。


 あるいは、これから自分もそうなるのかもしれない。


 窓の外では、学院の灯が一つずつ点り始めていた。


 その灯の向こうに、礼拝堂の尖塔が見える。


 祈りの場所。


 記録の場所。


 学ぶ場所。


 それらは同じ学院の中にありながら、少しずつ違う顔をしている。


 リシアは、首元の端末へ意識を向けた。


 表示は出せる。


 今日の頻出語も、文体変化も、外部流入語との一致も、求めればすぐに並ぶだろう。


 けれど、今は出さなかった。


 まず、自分の言葉を置く。


 その後で、表示を見る。


 そう決めた。


 扉が軽く叩かれる。


「リシア様」


 ステファニアの声だった。


「はい」


「少し、お時間よろしいですか」


 リシアは立ち上がり、扉を開けた。


 廊下に、ステファニアが立っている。


 手には一枚の草案があった。


 昨日、話していたものだ。


 ステファニア自身の名を使う場合の扱い。


 その限定連絡の草案。


「クラウディア様から草案が届きました」


 ステファニアは言った。


 その顔は静かだった。


 疲れている。


 けれど、逃げてはいない。


「読んでいただけますか」


「もちろんです」


 リシアは答えた。


 その瞬間、リシアは理解した。


 今日の祈りと写しは、もう次の話へ繋がっている。


 祈りの名を分けた次は、ステファニアの名を分けなければならない。


 誰の名で。


 何を語るのか。


 それを決める作業は、まだ終わらない。


 むしろ、ここから始まるのだ。


 リシアはステファニアを部屋へ招き入れた。


 机の上には、まだ自分の記録が開かれている。


 そこへ、新しい草案が置かれた。


 祈りの写しの隣に、婚約者の名を守るための文書が並ぶ。


 リシアは、静かに息を吸った。


 明日、また一つ、名前の歩き方が変わる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ