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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第七十夜 公開貸室の境界

第七十夜 公開貸室の境界


 学院本館の公開貸室は、白い廊下の奥にあった。


 正式な会議室ほど重くはない。


 応接室ほど柔らかくもない。


 扉の横には、貸室番号、使用目的、使用時間、責任者名が表示されている。


 誰が、何のために、どの時間に使ったのか。


 後から確認できる部屋だった。


 ステファニアは、扉の前で一度だけ息を整えた。


 リシアは、その横に立っている。


 アリシアは少し後ろ。


 セラはさらに後ろで、廊下の流れを見ていた。


 アインは同席しない。


 近くにはいる。


 けれど、部屋には入らない。


 これはステファニアが受ける面談であり、ステファニアが線を引く場だからだ。


「大丈夫ですか」


 リシアが小さく尋ねる。


 ステファニアは、少しだけ笑った。


「大丈夫かどうかは、終わってから考えます」


「それは、少し強すぎませんか」


「強がりです」


 ステファニアは正直に言った。


 その正直さに、リシアは少し安心した。


 強いのではない。


 強くあろうとしている。


 その方が、ずっと信じられる。


「参りましょう」


 ステファニアが扉を開けた。


     ◇


 室内には、すでにジークフリートがいた。


 席から立ち上がる。


 その隣には、アルヴィン・ラーデン。


 少し離れた席に、学院側の立会い教官が一名。


 記録用の魔石板が、中央の卓に置かれていた。


 ミリアはいない。


 それが、まずリシアの目に留まった。


 伝言を届けた者が、そのまま場の中へ入らない。


 以前なら、自然に同席していたかもしれない。


 今は、違う。


 役割を分けている。


「来てくれてありがとう」


 ジークフリートが言った。


 視線は、ステファニアへ向けられている。


 まっすぐだった。


 だが、強すぎない。


「お招きいただき、ありがとうございます」


 ステファニアが礼を返す。


「本日は、事前にいただいた範囲に沿ってお話を伺います」


「分かっている」


 ジークフリートは頷いた。


「話題は、先日の返書への礼と、今後の伝言経路の整理に限る。記録を残す。学院側の立会いを置く。君が求めた条件は、すべて受け入れる」


 アルヴィンが魔石板を確認する。


「記録開始します」


 教官が頷いた。


「学院立会いとして、話題範囲逸脱があれば止めます」


 ジークフリートは、少しだけ息を吐いた。


 それから、ステファニアを見た。


「まず、礼を言わせてほしい」


 ステファニアは黙って聞く。


「君の返書は、私にとって痛いものだった。だが、必要なものだった」


 その言葉に、リシアは少しだけ目を動かした。


 ジークフリートは、続ける。


「私は、周囲が私のために動くことへ甘えていた。誰が何を言ったか。何が私の言葉で、何が周囲の解釈か。それを分ける責任を、十分に果たしていなかった」


 アルヴィンの手が、魔石板の上で止まりかけた。


 すぐに動く。


 記録は続く。


「だから、君が線を引いたことに礼を言う。あれがなければ、私は自分の名で動く者の言葉を、自分で受け取るということを、もっと遅く学んでいた」


 ステファニアは、しばらく黙っていた。


 それから、静かに答える。


「殿下がそう受け取ってくださったことは、ありがたく思います」


「だが」


 ジークフリートが言った。


 自分で言葉を止める。


 そして、言い直した。


「いや。続ける前に確認する。ここから先は、私の所感になる。話題範囲に含めてよいだろうか」


 教官が顔を上げる。


 ステファニアも、少しだけ目を細めた。


 確認。


 以前にはなかった動きだった。


「返書への礼に関わる所感であれば」


 ステファニアが答える。


「伺います」


「ありがとう」


 ジークフリートは、短く礼を言った。


「私は、君に支えられる資格があるかどうかを考えていた。だが、その問いの立て方自体が違っていたのだと思う」


 リシアは、息を詰めた。


 ジークフリートの声は、整っている。


 けれど、書状を読むような整い方ではなかった。


「君は、私を支えるためだけにいるのではない。レーヴェンハイトの者であり、ファーランドの友人であり、君自身でもある。私は、その順番を何度も間違えた」


 ステファニアの指が、膝の上でわずかに動いた。


「遅い言葉だと、分かっている」


 ジークフリートは言った。


「それでも、記録に残る場で言うべきだと思った」


 アルヴィンが、魔石板へ言葉を刻んでいる。


 その横顔は、普段より硬い。


 整える者としてではなく、記録する者としてそこにいる。


 リシアは、その違いを見た。


     ◇


 面談は、思ったより静かに進んだ。


 ジークフリートは、謝罪を繰り返さなかった。


 礼を述べ、今後の伝言経路を確認した。


 本人の言葉。


 側近の事務連絡。


 友人の私見。


 周囲の善意。


 それらを混ぜないこと。


 婚約者であるステファニアへ向ける言葉は、原則としてジークフリート本人から、学院内連絡路か記録の残る場を通すこと。


 緊急時に側近を介する場合は、本人の委任範囲を明記すること。


 ミリアのような友人を通す場合は、伝言と私見を分けること。


 そこまでは、整理できた。


 だが、問題はその後に来た。


「もう一つ」


 ジークフリートが言った。


 教官がわずかに手を上げる。


「話題範囲の確認を」


「分かっています」


 ジークフリートは頷いた。


「今後の伝言経路に関わる話です」


 ステファニアは、黙って続きを待つ。


「学院内で、帝国、ベルン商会、ファーランドの名を結びつける噂が動き始めている」


 室内の空気が、少しだけ変わった。


 アリシアは、表情を変えない。


 リシアは、背筋を伸ばした。


「私は、これを私の周囲から広げさせない」


 ジークフリートは言った。


「未確認の噂で、誰かを裁くことはさせない。必要なら、私の名で学院側へ注意喚起を求める」


 その言葉は、正しい。


 正しいはずだった。


 けれど、リシアは少しだけ違和感を覚えた。


 自分の名で。


 その言葉が、強すぎる。


 ステファニアも同じものを感じたのか、すぐには頷かなかった。


「殿下」


 ステファニアが言った。


「お気持ちはありがたく思います」


 ジークフリートが、少しだけ身を正す。


「ですが、殿下の名で注意喚起を行えば、噂の中心に殿下ご自身が立つことになります」


 ジークフリートは黙った。


「それは、殿下の善意による守りであると同時に、噂へ王家の重みを与えることにもなります」


 アルヴィンの手が止まった。


 今度は、すぐには動かなかった。


 教官が、記録を促すように視線を向ける。


 アルヴィンは、小さく息を吸ってから記録を続けた。


「では、どうすればよい」


 ジークフリートが尋ねた。


 その問いは、責めではなかった。


 本当に、答えを求めている声だった。


 ステファニアは、静かに答える。


「学院規則として処理してください」


 ジークフリートの目が動く。


「私を守るためではなく、学院内の伝達規則を守るために。ファーランドやベルン商会だけでなく、どの家名、どの商会名、どの国家名であっても、証拠のない結びつけを禁じる。そうすれば、殿下の名ではなく、学院の規則が前に立ちます」


 教官が、わずかに頷いた。


 アリシアの扇が、静かに閉じる。


 ぱちり、と小さな音がした。


 ジークフリートは、その音を聞いたようだった。


 少しだけ苦笑する。


「また、私は前へ出すぎるところだったのだな」


「お立場上、前へ出ること自体は悪いことではありません」


 ステファニアは言った。


「ただ、前へ出るものを選ぶ必要があるのだと思います」


 ジークフリートは、深く頷いた。


「分かった。学院規則としての注意喚起を、学院長府へ提案する。私の名を前に出すかどうかは、学院側の判断に委ねる」


 教官が記録を確認する。


「その形であれば、学院側の議題として受け取れます」


 アルヴィンが、ようやく少し肩の力を抜いた。


 リシアは、それを見た。


 ジークフリートが戻ろうとしている。


 ステファニアも、それに応じる形を選んでいる。


 けれど、そのたびに、新しい危うさが顔を出す。


 戻る道は、まっすぐではない。


     ◇


 面談が終わる前に、アルヴィンが発言を求めた。


「記録担当として、一点確認してもよろしいでしょうか」


 教官が頷く。


「話題範囲に関わる確認であれば」


「はい」


 アルヴィンは、ステファニアを見た。


「今後、殿下からの言葉は学院内連絡路を原則とする。緊急時は側近を介するが、委任範囲を明記する。友人経由の伝言は伝言と私見を分ける。この整理で、レーヴェンハイト侯爵家側として受領可能でしょうか」


 ステファニアは、すぐには答えない。


 家として。


 その言葉が、少し重かった。


 これは学院内の面談であり、家同士の正式協議ではない。


 だが、アルヴィンはおそらく善意で確認している。


 整えすぎる盾。


 リシアは、以前の記録整理で出た言葉を思い出した。


 ステファニアは、ゆっくり答えた。


「学院内の個人間連絡としては、受領可能です」


 アルヴィンの指が止まる。


「侯爵家としては」


「この場では、侯爵家を代表してお答えする権限を持ちません」


 静かな声だった。


 けれど、はっきりしていた。


「必要であれば、正式な家門間連絡として、父へお届けください。その場合、私個人への連絡とは別に扱われます」


 ジークフリートが目を伏せた。


「そうだな。そこも、混ぜるべきではない」


 アルヴィンは、深く頭を下げた。


「失礼しました。記録を訂正します」


「訂正ではなく、補足でお願いします」


 ステファニアが言った。


「最初の確認があったことも、残してください。そこから線を引き直したことが分かります」


 アルヴィンは、一瞬だけ驚いた顔をした。


 それから、静かに頷く。


「承知しました」


 アリシアは、何も言わなかった。


 けれど、扇の奥で少しだけ目を細めていた。


     ◇


 面談は、予定時間内に終わった。


 最後に、ジークフリートが立ち上がる。


「今日は、ありがとう」


「こちらこそ、ありがとうございました」


 ステファニアが礼を返す。


 その距離は、近づいてはいない。


 けれど、以前より測れていた。


 ジークフリートは、部屋を出る前に一度だけ足を止めた。


「ステファニア」


 名前だけを呼んだ。


 婚約者としての親しさを取り戻そうとする呼び方ではない。


 ただ、個人へ向けた確認だった。


「はい」


「私は、また間違えると思う」


 ステファニアは、少しだけ瞬きをした。


「だが、間違えた時に、私ではなく周囲が先に言葉を立てることは減らす。そうできるようにする」


 完璧な言葉ではなかった。


 だが、本人の言葉だった。


 ステファニアは、静かに頷く。


「その時は、記録を見ます」


 ジークフリートは、少しだけ笑った。


「厳しいな」


「必要ですので」


「そうだな」


 それだけ言って、ジークフリートは退室した。


 アルヴィンが続く。


 教官は記録魔石板の封印を確認し、学院管理記録へ送る手続きを始めた。


 部屋に残ったリシアは、ようやく息を吐いた。


「悪くはありませんでしたね」


 アリシアが言った。


「はい」


 ステファニアは答えた。


「悪くは、ありませんでした」


 その言い方に、リシアは少しだけ笑いそうになった。


 悪くはない。


 けれど、良いとも言い切れない。


 戻る道ができた。


 同時に、壊れる時の記録も残った。


 アリシアは、扇を閉じたまま扉を見る。


「さて」


「さて?」


 リシアが聞き返す。


「戻る道ができると、戻ってほしくない者が動きますわ」


 その言葉に、室内の空気が少しだけ冷えた。


 セラが扉の方を見る。


「外ですか」


「外にも、内にも」


 アリシアは微笑んだ。


「どちらも、そろそろ足音を立てますわね」


 公開貸室の外では、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴り始めていた。


 白い廊下に、学生たちの声が戻ってくる。


 いつも通りの学院の音。


 けれどリシアには、その音の下に、別のものが混じって聞こえた。


 誰かが、まだ見えない場所で椅子を引く音。


 誰かが、名前を別の場所へ置き直す音。


 そして、見えない場所で席順が変わる音だった。


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