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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第六十九夜 ゲート・アレイの朝

第六十九夜 ゲート・アレイの朝


 ローランド級がアークライトへ戻ったのは、夜の終わりに近い時刻だった。


 帝都の灯は、もう見えない。


 窓の外にあるのは、星ではなかった。


 黒い宇宙でもない。


 巨大な構造体の内側だった。


 リシアは、表示窓の前で息を止めていた。


 ローランド級の前方に、光の輪が並んでいる。


 輪というより、門だった。


 だが、城門のように人が歩いて通るものではない。


 船が入るための門。


 艦艇を受け止めるための、あまりにも大きな固定施設だった。


「ゲート・アレイです」


 クラウディアが言った。


「アークライト格納施設内にある、搭載艦艇用の係留設備です。ローランド級、ミッドランド級などは、帰投時にここへ固定されます」


 表示が拡大される。


 一つのゲートから、複数のドッキングチューブが伸びていた。


 それぞれが、船体を受け止める腕のように見える。


 太いもの。


 細いもの。


 柔らかく光るもの。


 機械的な骨組みのようなもの。


 同じゲートの中に、別のローランド級らしき船影が二つ、静かに固定されていた。


 奥には、もっと大きな影がある。


 ミッドランド級だと、クラウディアが説明した。


 距離感が、おかしかった。


 あまりに大きいもの同士が、あまりに整然と並んでいる。


 港。


 そう言えばよいのかもしれない。


 けれど、リシアの知る港は、波と縄と桟橋の場所だった。


 ここには波がない。


 潮の匂いもない。


 ただ、巨大な船を受け止めるための光と構造だけがある。


「一つのゲートに、六隻程度まで係留できます」


 クラウディアが続ける。


「乗員、医療対象、捕虜、物資は、固定後にドッキングチューブ経由でアークライト側へ移送されます」


 リシアは、もう一度ゲートを見た。


 そこに、今から自分たちの乗るローランド級が入る。


 救出された人々も。


 捕虜となったヴァイス隊も。


 八咫烏も。


 全部、あの光の腕の中へ収まる。


「大きな船の中に、また船の港があるのですね」


 ステファニアが静かに言った。


「はい」


 クラウディアは答える。


「アークライトは移民船です。移民船であり、艦隊の母体でもあります」


 その言葉の重みが、前より少し分かるようになっていた。


 船。


 国。


 港。


 工廠。


 病院。


 墓。


 アークライトには、それらが全部ある。


 リシアは、もう驚くことに疲れたと思っていた。


 けれど、まだ驚けるのだと知った。


「係留姿勢へ移行」


 管制官の声が入る。


「第三ゲート、受け入れ準備完了」


「ドッキングチューブ展開」


「外殻固定、同期開始」


 ローランド級が、静かに速度を落とした。


 揺れはない。


 ただ、表示の数字だけが変わる。


 やがて、船体の側面に柔らかな衝撃があった。


 リシアが気づくかどうかという程度の、わずかな震え。


 それで終わりだった。


「固定完了」


 声が響く。


「医療対象、移送開始」


「捕虜区画、移送準備」


「八咫烏、機体検査班へ引き渡し」


 報告が次々と流れる。


 戦いが終わった後の仕事が、また動き出す。


 アインは表示を見ていた。


 何も言わない。


 けれど、医療対象の移送完了の文字が出た時、ほんの少しだけ目を伏せた。


 リシアは、それを見た。


 見ただけで、何も言わなかった。


     ◇


 学院へ戻った時、朝はもう始まっていた。


 聖王国学院の白い廊下には、いつも通りの光が差し込んでいる。


 鐘が鳴り、学生たちが歩き、教本を抱えた下級生が小走りに角を曲がる。


 何も変わっていないように見えた。


 それが、かえって不思議だった。


 ほんの少し前まで、リシアはローランド級の指揮所にいた。


 帝都の警鐘を聞き、八咫烏の帰投を見届け、ゲート・アレイの巨大な光の中へ入った。


 それなのに、目の前では、学生たちが今日の課題の話をしている。


 昼食の献立を気にしている者もいる。


 小さな試験の結果に落ち込んでいる者もいる。


 世界は、簡単に同じ顔へ戻る。


 戻ったように見せる。


 リシアは、首元の装身型端末へ意識を向けた。


 視界の端に、薄い表示が開く。


 学院内の公開範囲に限った噂の流れ。


 帝国。


 黒い魔導騎装。


 ベルン商会。


 ファーランド。


 まだ、はっきりした形ではない。


 けれど、単語だけが細く流れ始めている。


 誰かが知っている。


 誰かが聞いた。


 誰かが繋げようとしている。


 リシアは、表示を閉じた。


「戻った顔をしていますわね」


 アリシアが言った。


 扇は開いていない。


 ただ、廊下を見ている。


「学院が、ですか」


「ええ」


 アリシアは微笑む。


「何事もなかった顔をしている時ほど、足元を見るものですわ」


 ステファニアが、少しだけ視線を下げる。


「足元」


「誰が、どの言葉を避けるか。誰が、聞こえる声で言うか。誰が、聞こえなかった顔をするか」


 アリシアは淡々と言った。


「派閥というものは、席順だけでできているのではありません。沈黙の置き場所でもできます」


 セラが首を傾げる。


「沈黙にも、置き場所があるのですか」


「ありますわ」


「難しいですね」


「難しく考えすぎると、見えなくなります」


 セラは少し考えた。


 それから、廊下の向こうを見た。


「では、あそこにいる二人は、こちらを見ないようにしているのですね」


 リシアは思わずそちらを見る。


 上級生らしい男子学生が二人、柱の近くに立っていた。


 こちらへ顔を向けてはいない。


 けれど、会話が止まっている。


 手元の教本の頁も、動いていない。


 リシアが見た瞬間、二人は慌てて歩き出した。


 アリシアが、小さく笑った。


「よろしい」


 セラは、よく分かっていない顔で頷いた。


 ステファニアは、少しだけ目を細める。


「直接の言葉より、そちらの方が早い場合もあるのですね」


「ええ」


 アリシアは答えた。


「言葉は、後から整えられます。態度は、整える前に出ますもの」


 リシアは、その言葉を覚えておこうと思った。


     ◇


 午前の講義は、いつも通り始まった。


 いつも通り。


 そう見えるように始まった。


 教官は、帝国の名を出さなかった。


 東方戦線の名も出さない。


 ただ、今日の講義題目として「非常時における学院内伝達規則」を黒板に書いた。


 それだけで、教室の空気が少し変わる。


「学院は、戦場ではありません」


 教官が言った。


「ですが、学院の外に戦場がある時、学院内の言葉は外へ繋がります。噂、憶測、善意の伝言、聞き違い。いずれも、時に剣より速く人を傷つけます」


 リシアは、ノートを開いた。


 ステファニアも、同じように姿勢を整える。


 アリシアは、何も書かない。


 ただ教官を見ている。


「特に、家名や商会名、国家名を結びつける発言には注意すること」


 教官の視線が、教室全体をゆっくりと動いた。


「証拠のない結びつけは、伝達ではなく加害です」


 その言葉に、数人が身じろぎした。


 リシアは、それを見た。


 誰が反応したのか。


 誰が反応しなかったのか。


 端末に頼らなくても、少しだけ分かるようになっていた。


 アリシアの言葉が、耳に残っている。


 沈黙の置き場所。


 その意味が、少し見えた気がした。


     ◇


 昼休みの前に、ミリアがやって来た。


 廊下の端で一度立ち止まり、こちらの人数を確認し、それから近づいてくる。


 リシア。


 ステファニア。


 アリシア。


 セラ。


 そして、少し離れた位置に立つアイン。


 全員を確認してから、ミリアは礼をした。


「リシア様。ステファニア様。アリシア様」


 順番に、名前を呼ぶ。


 以前なら、誰かをまとめて呼んでいたかもしれない。


「ジークフリート殿下より、伝言をお預かりしています」


 ステファニアの表情は動かない。


「伺います」


 ミリアは、一度息を整えた。


「本日の午後、もしご負担でなければ、学院内の公開貸室にて短時間の面談をお願いしたいとのことです。参加者はジークフリート殿下、記録担当一名、必要であれば教官立会い。話題は、先日の返書への礼と、今後の伝言経路の整理に限る、と」


 リシアは、少しだけ驚いた。


 条件が先に出ている。


 参加者。


 場所。


 話題範囲。


 記録。


 以前より、ずっと整っている。


 ステファニアも、それを感じたのだろう。


 返事を急がず、静かに聞いていた。


「返答は、今すぐでなくてよいとのことです」


 ミリアは続けた。


「ただし、私が預かった伝言はここまでです。私個人の解釈は含めません」


 その一言で、アリシアの扇がほんの少し動いた。


 褒めるような音ではない。


 だが、悪くない、という音だった。


 ステファニアは、ミリアを見た。


「ありがとうございます。伝言として、確かに受け取りました」


「はい」


 ミリアは少しだけ肩の力を抜いた。


「返答は、私からではなく、ステファニア様ご自身の形で返される方がよろしいかと存じます」


 言ってから、ミリアは一瞬だけ目を伏せた。


「それも、私個人の意見です」


 ステファニアの口元が、わずかに緩んだ。


「分けてくださったのですね」


「はい」


 ミリアは、少し恥ずかしそうに頷いた。


「以前、分けられていませんでしたので」


 その場の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


 セラが小さく息を吐いた。


 アインは何も言わない。


 けれど、ミリアを見る目は以前より少しだけ穏やかだった。


     ◇


 ミリアが去った後、ステファニアはしばらく黙っていた。


 廊下の向こうでは、昼休みへ向かう学生たちの声が増えている。


 その中に、まだ細い噂の気配が混じっていた。


 帝国。


 商会。


 黒い機体。


 ファーランド。


 言葉はまだ、形を持っていない。


 だが、誰かが形にしようとしている。


「受けるべきでしょうか」


 ステファニアが言った。


 リシアへではない。


 全員へ向けた問いだった。


 アリシアは、すぐには答えなかった。


 アインも黙っている。


 だから、リシアは自分で考えた。


 ジークフリートは、戻ろうとしている。


 少なくとも、戻る形を作ろうとしている。


 けれど、その周囲では、別のものが動き始めている。


 帝国の不安。


 メシア教会系の窓口。


 ファーランドへの視線。


 それらは、学院の廊下へ、まだかすかな気配として届いているだけだった。


 だが、かすかなものほど、気づかないうちに足元へ入り込む。


「受けるなら」


 リシアは言った。


「記録を残し、話題を限り、立会いを置く形がよいと思います」


 ステファニアがリシアを見る。


「理由は」


「殿下が整えた形を、こちらがさらに整えて返すためです。拒絶ではなく、境界を明確にする返答になります」


 言い終えてから、リシアは少しだけ不安になった。


 言い過ぎただろうか。


 けれど、アリシアが扇を開いた。


「よろしいですわ」


 短い言葉だった。


 リシアは、胸の奥で息を吐いた。


 ステファニアは、静かに頷く。


「では、その形で返答します」


 そこで、アインが初めて口を開いた。


「無理はするな」


 ステファニアは、少しだけ目を伏せた。


「はい」


「相手が戻る形を作っていても、お前が全部受け止める必要はない」


「分かっています」


 その返事は、以前より少し強かった。


 アインは頷いた。


「ならいい」


 廊下の向こうで、また誰かがこちらを見て、すぐに目を逸らした。


 リシアは、それに気づいた。


 気づいただけで、追わなかった。


 足元を見る。


 沈黙の置き場所を見る。


 そして、自分たちの言葉の置き場所を間違えない。


 学院の昼は、いつも通り始まろうとしていた。


 けれど、その白い廊下の下では、もう見えない流れが動き始めていた。


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