幕間十一 空になった三つの扉
幕間十一 空になった三つの扉
帝都北工廠区の鐘は、夜明け前になってようやく止まった。
止まったからといって、事態が収まったわけではない。
ただ、鳴らし続ける意味がなくなっただけだった。
警鐘が告げるべき危機は、もう通り過ぎている。
残っているのは、危機そのものではなく、危機に何もできなかったという事実だった。
北工廠区第七保管棟。
帝国軍務局の調査官たちが到着した時、そこには三つの扉が開いたまま残されていた。
一つ目の扉。
二つ目の扉。
三つ目の扉。
どれも、破壊されたわけではない。
外から力任せに抉じ開けられた形跡もない。
鍵は、正しく開いている。
手順が、正しく踏まれている。
だからこそ、調査官たちは押し黙った。
荒らされた倉庫なら、まだ分かる。
爆破された収容区画なら、まだ報告書に書きようがある。
だが、ここにあるのは違った。
保管棟は、内側から開いた。
そのうえで、中身だけが消えている。
「対象者は」
軍務局の調査官が尋ねた。
北工廠区の管理官は、硬い顔で答える。
「確認中です」
「確認中、ではない。ここに何を置いていた」
「予備部品と、技術評価用の資料です」
「人の話をしている」
管理官は、口を閉じた。
答えれば、自分の責任になる。
答えなければ、別の責任になる。
その二つの間で、顔だけが青くなっていく。
「記録上、この区画に人員収容の申請はない」
調査官は、手元の端末を見ながら言った。
「だが、医療班の痕跡がある。食料搬入の記録もある。排水量も、人がいた数字だ」
「それは」
「それは、何だ」
管理官は答えられなかった。
答えられないことそのものが、答えになっていた。
◇
旧資材置き場では、五機の魔導騎装が横たわっていた。
鼻つまみ者のヴァイス隊。
そう呼ばれていた者たちの機体だった。
派手な装飾はない。
階級章も、必要最低限。
だが、装甲の組み方も、関節の保護も、武装の収め方も、手堅い。
調査官の一人は、その五機を見て舌打ちした。
「よりによって、ヴァイス隊か」
隣にいた若い士官が顔を上げる。
「問題の多い隊なのでは」
「問題は多い」
調査官は言った。
「だが、腕は確かだ」
五機のうち、隊長機だけが胴を断たれている。
しかし、搭乗席は避けられていた。
胸部機関も、決定的には抜かれていない。
他の四機は、外見上の損傷が少ない。
それでも動かない。
駆動系は外部から封じられ、通信系は綺麗に切られ、武装は使えないように止められている。
「これは」
若い士官が呟いた。
「鹵獲ではありませんか」
「違う」
調査官は即座に否定した。
「機体は置いていった。持っていかれたのは中身だけだ」
「では」
「捕虜だ」
その言葉を口にした瞬間、場の空気が少し重くなった。
帝都中心部に近い北工廠区で、帝国軍の魔導騎装部隊が五名まとめて捕虜にされた。
機体は残されている。
死体はない。
血の跡も少ない。
その事実が、どれほど厄介なものか、そこにいる者たちは理解していた。
殺されたのであれば、敵の残虐さを叫べた。
裏切ったのであれば、隊の汚名として処理できた。
だが、これは違う。
相手は、殺せたはずの者たちを殺さずに連れ去っている。
その余裕が、帝国側の言葉を奪っていた。
「隊長のディートハルト・ヴァイスは、敵に寝返る男ではありません」
若い士官が言った。
調査官は横目で見た。
「知っているのか」
「士官学校で、少し」
「評判は」
「融通が利かず、上官に嫌われる。民間被害を軽く扱う命令には必ず理由を求める。部下からは妙に慕われる」
「鼻つまみ者だな」
「はい」
若い士官は、少しだけ間を置いた。
「ですが、敵に寝返る男ではありません」
調査官は、もう一度五機を見た。
空の機体。
綺麗すぎる拘束。
そして、殺されていない搭乗者。
「寝返ったのではなく、見たのだろうな」
「何をです」
「自分の剣より上にあるものを」
調査官の声は低かった。
それは報告書に書ける言葉ではない。
だが、現場に立つ者なら分かる。
ディートハルト・ヴァイスという男が、ただ負けただけで捕虜になるとは思えない。
何かを見た。
見たうえで、生きて連れていかれることを選んだ。
その方が、よほど厄介だった。
◇
帝都軍務局の会議室は、昼前には満席になっていた。
軍務局。
工廠局。
情報局。
近衛参謀部。
それぞれの部署から、責任者と代理が集められている。
机の上には、報告書が積まれていた。
だが、どの報告書も、肝心な一点に触れていない。
誰が、なぜ、何を、どの権限で保管棟に置いていたのか。
それを書いた紙だけが、どこにもなかった。
「第七保管棟は、工廠局の管理下です」
軍務局の男が言った。
「施設管理上の不備は、まず工廠局に問うべきでしょう」
「保管棟の警備は軍務局の管轄です」
工廠局の女が即座に返す。
「我々は建物を管理していたのであって、夜間の巡回配置を決めたのは軍務局です」
「中にいた者たちは何者です」
情報局の男が淡々と尋ねる。
その一言で、二人が黙った。
「技術評価対象ですか。保護対象ですか。拘束対象ですか。それとも、存在しない者ですか」
「言葉を選べ」
近衛参謀部の代理が低く言う。
「選んでいます」
情報局の男は、表情を変えなかった。
「存在しない者を奪われた場合、我々は奪われたと公表できません。存在する者を隠していた場合、隠していた理由を問われます。まず、どちらにするのか決めていただきたい」
会議室が静まり返る。
誰も、すぐには答えられなかった。
答えた部署が、責任を持つことになる。
責任を持てば、失態も持たされる。
だから、誰も最初の言葉を取りたがらない。
その沈黙の中で、情報局の男だけが書類をめくった。
「ベルン商会帝都支店」
その名が出た瞬間、何人かが顔を上げた。
「昨夜、北工廠区周辺で複数の商会関係車両が確認されています」
「証拠は」
「ありません」
「では、名を出すな」
「証拠がないからこそ、名が残ります」
情報局の男は続ける。
「証拠があれば、処理すればよい。証拠がない場合、疑いは消えず、かえって広がります」
「商会ごと潰せばよい」
軍務局の男が吐き捨てた。
情報局の男は、ほんの少しだけ目を細める。
「潰す理由は」
「敵と通じた疑い」
「証拠は」
「これから探す」
「順序が逆です」
「逆でも必要ならやる」
その言葉に、近衛参謀部の代理が指で机を叩いた。
一度。
短く。
会議室が静かになる。
「ベルン商会を今潰せば、何が起きる」
代理が言った。
情報局の男が答える。
「帝都内の薬材、香辛料、工芸品流通に穴が開きます。表向きは小さい。裏では、各貴族家の出入り記録、商館経由の信用取引、地方からの物資移送に波及します」
「つまり」
「証拠なしで潰せば、こちらが焦っていると知らせるだけです」
軍務局の男が舌打ちした。
その舌打ちの音だけが、やけに大きく響いた。
◇
会議の後、情報局の男は一人で廊下を歩いていた。
窓の外に、帝都の屋根が見える。
昨日と同じ街だ。
人は歩き、荷車は動き、煙突から煙が上がっている。
見た目には何も変わっていない。
だが、変わっていた。
帝都の中心に近い場所から、人が消えた。
軍の魔導騎装部隊が捕虜にされた。
死者は出ていない。
大規模破壊もない。
だから、市民はまだ事の大きさを知らない。
それが、男には不気味だった。
派手に壊された方が、まだ対処しやすい。
怒りを向ける先を作ればいい。
敵の残虐さを叫べばいい。
だが、今回の相手はそれをさせなかった。
目的だけを達成し、余分な死を置いていかなかった。
その結果、帝国は叫び方を失っている。
「嫌な相手だ」
男は呟いた。
強いだけではない。
強い者なら、帝国にもいる。
残虐な者なら、もっといる。
だが、強く、精密で、殺さない判断を選べる相手。
それは、戦場で最も扱いにくい。
こちらの物語に、乗ってこないからだ。
廊下の向こうから、若い伝令が走ってきた。
「局長補佐」
「走るな」
「失礼しました」
伝令は足を止め、息を整える。
「東方戦線司令部より、緊急照会です。北工廠区の件と、黒い魔導騎装の件について、前線投入中の各部隊へ注意喚起を出すべきかと」
「出すべきか、ではない」
男は言った。
「出したいのだろう」
「は」
「黒い魔導騎装に出会ったら逃げろ、と書けるか」
伝令は答えられなかった。
書けるはずがない。
帝国軍が、正体不明の一機を恐れて逃げろと命じる。
そんな命令は、士気を壊す。
だが、知らずに当たれば、もっと壊れる。
情報局の男は、しばらく窓の外を見た。
「文面はこうだ」
伝令が端末を構える。
「黒色単眼型の高機動魔導騎装を確認した場合、単独交戦を禁ずる。市街地、工廠区、民間区画における砲撃判断は上級指揮官承認を要する。近接戦闘を避け、複数機による距離維持を徹底」
「単眼型、ですか」
「現場の連中がそう呼んでいる」
男は、少しだけ嫌そうに言った。
「正式分類ではない。だが、現場が生き残るなら仮称で構わん」
「了解しました」
「それから」
伝令が顔を上げる。
「ベルン商会帝都支店への監視を強めろ。ただし、手は出すな」
「手は出さないのですか」
「今出せば、こちらが何も分かっていないと教えるだけだ」
伝令は頷き、去っていった。
男は一人、廊下に残る。
窓の外の帝都は、まだ穏やかに見えた。
穏やかに見えるものほど、内側で歪む時は静かだ。
◇
その日の夕刻、軍務局の奥で別の会議が開かれた。
出席者は少ない。
表の会議に出ていた者より、階級は高い。
そして、記録係はいなかった。
机の中央には、黒い魔導騎装の粗い映像が置かれている。
低空を走る影。
剣を抜く瞬間。
膝を撃ち抜かれる帝国機。
旧資材置き場で、ヴァイス隊長機の胴が遅れて落ちる映像。
誰も、すぐには口を開かなかった。
「これは、どこの機体だ」
最初に言ったのは、軍務局次官だった。
「現行帝国規格ではありません」
技術審査官が答える。
「聖王国系でもない。東方諸国の魔導騎装とも一致しません」
「では、どこだ」
「旧ベルカ系の可能性があります」
その言葉に、場の空気が少し変わった。
旧ベルカ。
滅んだはずの名。
記録の中で、悪魔と魔王の影に押し込められた名。
だが、帝国の奥では、その名がただの昔話ではないことを知っている者たちがいる。
「確証は」
「ありません」
「ならば言うな」
「確証がないから、申し上げています」
技術審査官は、机の映像を指した。
「この機体は、出力で押していません。動きのほとんどを制御で作っています。関節を壊す位置、機関を残す位置、搭乗席を避ける角度。どれも、異常です」
「腕の良い操縦者なら」
「可能です。ただし、あの速度で、あの精度で、市街地被害を抑えたまま行うには、機体側も応答しなければなりません」
技術審査官は、少しだけ声を落とした。
「少なくとも、我々の前線機では無理です」
軍務局次官は、表情を変えなかった。
だが、指先だけが机を叩いた。
一度。
二度。
「東方戦線との連動は崩すな」
次官は言った。
「今ここで帝都の失態に引きずられれば、前線の主導権を失う」
「ですが、黒い機体が前線に出た場合」
「出たら、その時考える」
「後手になります」
「もう後手だ」
次官の声が低くなる。
「だからこそ、こちらから別の盤を動かす」
会議室が静かになった。
「聖王国学院側の連絡線は」
別の男が答える。
「維持されています。ジークフリート王子周辺の貴族筋、ファーランド系への不満を持つ者、メシア教会系の窓口。いずれも細い線ですが、切れてはいません」
「太くしろ」
「今ですか」
「今だからだ」
次官は言った。
「帝都で起きたことを、帝都の中だけで処理するな。外へ意味を作れ。ファーランド、ベルン商会、旧ベルカ、黒い機体。そのすべてを一つの不安として流せ」
「証拠は」
「証拠は後から探す」
その言葉に、技術審査官がわずかに眉を動かした。
だが、何も言わなかった。
この会議では、事実より先に物語が作られている。
それを止める役目の者は、この部屋に呼ばれていなかった。
◇
夜、北工廠区第七保管棟は封鎖された。
三つの扉には、新しい封印が貼られた。
床の傷は白い粉で測定され、壁の焦げ跡は削り取られ、落ちていた小さな金属片はすべて袋に入れられた。
だが、どれほど集めても、足りない。
そこにいたはずの者たちはいない。
ヴァイス隊の搭乗者もいない。
黒い機体もいない。
残っているのは、開いた扉の形だけだった。
現場を最後に出た若い士官は、振り返ってその扉を見た。
昼間、調査官に言った言葉が頭に残っている。
ディートハルト・ヴァイスは、敵に寝返る男ではない。
ならば、何を見たのか。
何を見れば、あの男は生きて捕虜になることを選ぶのか。
若い士官には分からなかった。
分からないまま、ひとつだけ確信があった。
ヴァイス隊は、ただ失われたのではない。
持っていかれた。
殺されるよりも厄介な形で。
帝国が見せたくなかったものを知る者たちが、帝国の外へ出た。
それは、空になった三つの扉よりも大きな穴だった。
士官は封鎖印を確認し、灯りを落とす。
扉は暗闇の中に沈んだ。
だが、その向こうにあった空白だけは、消えなかった。




