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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第六十八夜 帰還後処理

第六十八夜 帰還後処理


 戦闘が終わっても、艦の中は静かにはならなかった。


 ローランド級の格納区画では、回収殻一と捕虜搬送殻二の固定確認が続いている。


 医療区画では、担架が何度も出入りしていた。


 情報指揮所では、帝都北工廠区に残された反応、帝国軍の通信量、地上で発生した混乱の広がりが、次々と整理されていく。


 誰も走ってはいない。


 怒鳴り声もない。


 けれど、すべてが動いていた。


 リシアは、その様子を見ながら、戦いというものは終わった瞬間に終わるわけではないのだと思った。


 剣が止まっても。


 敵が退いても。


 人を運び、診て、記録し、守り直す時間が残る。


 そこまで含めて、戦いなのだ。


「全救出対象、医療区画へ移送完了」


 管制官の声が聞こえる。


「捕虜五名、拘束区画へ移送完了。生命反応、全員安定」


「八咫烏、固定架拘束完了。機体自己診断、軽微損傷のみ」


 報告が積み上がっていく。


 数字と短い言葉。


 それだけで、人が助かったことが分かる。


 それだけで、まだ終わっていないことも分かる。


 クラウディアは表示を見て、淡々と頷いた。


「警戒レベルを一段階下げます。ただし、有事情報管制レベルは維持してください」


「了解。有事情報管制レベル維持」


「帝都側通信傍受、継続」


「継続中」


 リシアは、思わずクラウディアを見た。


「警戒は下げるのに、情報管制は維持するのですか」


「はい」


 クラウディアは短く答える。


「撃たれる危険は下がりました。ですが、情報が動く危険はむしろ上がっています」


「情報が、動く」


「帝国は、何を失ったか確認しようとします。誰を疑うか、どこへ責任を置くか、どの記録を消すか。その動きは、今から始まります」


 リシアは黙った。


 戦いの後に、まだ別の戦いが始まる。


 それは、剣の音がしない戦いだった。


「ですから」


 アリシアが静かに言った。


「勝った直後ほど、気を抜いてはいけませんの」


 リシアは頷く。


 その言葉は、学院の派閥争いにも、戦場にも、同じように刺さるものだった。


     ◇


 医療区画は、明るかった。


 明るすぎるほどだった。


 白い光の下で、救出された者たちが順に処置を受けている。


 水路から出た若い男は、意識を取り戻した後、まず子供たちの所在を尋ねた。


 両手を傷つけていた女性技術者は、手の処置を受けながらも、しきりに何かの図面を心配していた。


 子供二人は、眠っている。


 眠りが浅くなるたびに身を固くするが、医療担当者が声をかけると、少しずつ呼吸が落ち着いた。


 診療所から運ばれた三床の者たちも、別室で処置を受けている。


 老人。


 若い女性。


 子供。


 誰も、十分な状態ではない。


 けれど、メディナは「間に合っています」と言った。


 その一言だけで、リシアの胸は少し軽くなった。


 その一方で、リジェナとリジェスカは、処置台の上で不満そうにしていた。


 二人とも、怪我をしたことそのものより、処置台から降ろしてもらえないことに納得していない顔だった。


「軽傷です」


 リジェスカが言った。


「軽傷かどうかは医療班が判断します」


 メディナが即座に返す。


「任務行動に支障は」


「ありません。任務は終了しています」


「まだ報告が」


「報告は座ったままできます」


 リジェスカは口を閉じた。


 リジェナは、困ったように笑っている。


「私たちは、患者扱いに慣れていませんので」


「慣れてください」


 メディナは容赦がなかった。


 リシアは、少しだけ笑いそうになった。


 だが、すぐに表情を戻す。


 医療区画の奥で、村山主任が目を開けたからだ。


     ◇


 村山主任は、しばらく天井を見ていた。


 その目は、どこか遠い。


 長い眠りから覚めたのではない。


 長い緊張から、まだ戻りきれていない目だった。


 メディナが確認用の光を弱める。


「聞こえますか」


「……聞こえます」


 声は掠れていた。


「ここは」


「ローランド級艦内、医療区画です。安全圏へ離脱中です」


 主任の目がわずかに動いた。


「ローランド……」


 名前を確かめるような声だった。


 その時、医療区画の扉が開いた。


 アインが入ってくる。


 クラウディアが一歩後ろに続いた。


 リシアたちは、自然に道を空けていた。


 アインは主任の処置台の横で足を止める。


 主任は、ゆっくりと顔を向けた。


 白い髪。


 少年の姿。


 けれど、そこに立っているものを、主任は見間違えなかった。


「……アイン君」


 医療区画の空気が、わずかに揺れた。


 アインは、ほんの少しだけ目を細めた。


「戻りました」


 短い言葉だった。


 それだけだった。


 主任は、何かを言おうとした。


 けれど、声にならなかった。


 目尻だけが濡れていく。


「八咫烏は」


「無事です」


「音が、聞こえました」


「はい」


「出力を落としていた」


「主任が見ているなら、雑には動かせません」


 主任は、掠れた声で笑った。


 笑ったというより、息が少し揺れただけだった。


「相変わらず、無茶をする」


「主任たちほどではありません」


「我々は、待っただけです」


「待つのは、簡単ではありません」


 アインの声は低かった。


 主任は、目を閉じる。


「ベルン商会の名を聞いた時、賭けました。あれが届くなら、きっと気づくと」


「気づきました」


「壊れやすくしておきました」


「見れば分かります」


「ひどいでしょう」


「ひどいですね」


 アインは、そこで少しだけ笑った。


 主任も、目を閉じたまま小さく笑う。


 リシアには、二人の会話の全部は分からなかった。


 けれど、分かることもある。


 これは、救出された者と救出した者の会話ではない。


 長い時間の向こうで、同じものを知っている者同士の会話だった。


「図面は」


 主任が、かすかに言った。


「捨てましたか」


「人を先にしました」


「正しい」


 即答だった。


「親父さんなら、怒鳴ったあとで褒めます」


 アインの表情が、ほんの少しだけ止まった。


 ほんの少し。


 リシアが見逃しそうになるほど、わずかな変化だった。


「そうですね」


 アインは言った。


「怒鳴るでしょうね」


 主任は、それ以上は聞かなかった。


 聞けなかったのかもしれない。


 あるいは、もう分かっていたのかもしれない。


 メディナが静かに割って入った。


「ここまでです。会話は生命維持と処置を優先した後にしてください」


「はい」


 主任は素直に答えた。


 アインも頷いた。


「休んでください」


「アイン君」


「はい」


「間に合った、と言ってよいのですね」


 アインは、主任を見た。


 そして短く答えた。


「はい」


 主任の肩から、力が抜けた。


 今度こそ、眠りに落ちるように目を閉じる。


 メディナが表示を確認し、小さく頷いた。


「睡眠へ移行。安定しています」


 アインは、しばらく主任を見ていた。


 その横顔を、リシアは見てしまった。


 戦っている時の顔ではない。


 指揮をしている時の顔でもない。


 帰ってきた場所に、まだ知っている人がいたと知った顔だった。


     ◇


 捕虜区画は、医療区画とは別の場所に設けられていた。


 狭くはない。


 清潔で、椅子も寝台もある。


 だが、出入り口は一つで、壁面には見慣れない装置がいくつも埋め込まれている。


 捕虜五名は、それぞれ簡易拘束具を付けたまま座らされていた。


 ディートハルトだけが、妙に姿勢よく腰かけている。


 その前に、食事の盆が置かれていた。


 温かい汁。


 薄く切られた肉。


 穀物の固め粥。


 水。


 それを見て、部下の一人が小声で言った。


「本当に飯が出た」


「だから言っただろう」


 ディートハルトは胸を張った。


「私は、人を見る目はある」


「隊長の人を見る目で、我々は捕虜になりましたが」


「よいではないか。死んでいない」


「それはそうですが」


「それに」


 ディートハルトは、盆の汁を見た。


「捕虜飯にしては、香りが良い」


 見張りの調整体が、淡々と言った。


「毒物はありません。必要栄養量に合わせています」


「それは助かる」


 ディートハルトは真顔で頷いた。


「帝国軍の野営飯より上等だ」


「隊長」


「事実だ」


 部下たちは、黙って食べ始めた。


 その様子を、クラウディアは区画外の表示で見ている。


 隣にアインが立っていた。


「扱いは」


「捕虜規定に従っています」


「ならいい」


「尋問は後ほど。今は体調確認と基本情報の照合を優先します」


「ああ」


 クラウディアは、少しだけ表示を切り替えた。


 ヴァイス隊五名の所属。


 任務履歴。


 懲戒記録。


 異動履歴。


 その量は、決して少なくない。


 リシアは、隣で見ていて気づいた。


 彼らは優秀なのに、扱いが悪い。


 命令に従うが、都合の悪い命令には理由を求める。


 民間区を巻き込む作戦へ異議を唱えた記録がある。


 帝国軍の中では、たぶん扱いづらい。


 だが、だからこそ。


 アインは殺さなかったのかもしれない。


 リシアがそう思った時、アリシアが小さく扇を鳴らした。


「面白い方々ですわね」


「面白い、で済ませないでください」


 クラウディアが言う。


「まだ捕虜です」


「ええ。ですから、捕虜として丁重に扱うのでしょう」


 アリシアは微笑んだ。


「丁重に扱われた者は、自分が何を見たか、忘れにくくなりますもの」


 クラウディアは、ほんの一瞬だけ目を細めた。


「アリシア様」


「はい」


「今は、捕虜の思想誘導を考える時間ではありません」


「まあ。考えていただけですわ」


「考えている時点で十分です」


 リシアは、少しだけ背筋を伸ばした。


 救出作戦が終わっても、アリシアはもう次の盤面を見ている。


 それが少し怖くて、少し頼もしい。


     ◇


 帝都北工廠区の混乱は、ローランド級の情報卓に集まり続けていた。


 現地部隊の報告。


 通信室の命令記録。


 工廠責任者の釈明。


 軍務局の照会。


 どれも、言葉が多い。


 そして、肝心なところほど曖昧だった。


「対象者の所在、不明」


「拘束記録の一部、照合不能」


「北工廠区警備別働隊、搭乗員不在」


「残置機体、外部より駆動系封鎖」


「侵入経路、特定できず」


「被害範囲、局所」


「死者、現時点で確認なし」


 クラウディアが表示を眺める。


「死者なし、という事実が彼らをさらに混乱させます」


「なぜですか」


 リシアが尋ねる。


「帝国側の理屈では、大規模侵入で死者がないことは説明しにくいからです。大きな力を持つ者は殺す。そう考えている組織ほど、殺さず目的だけ達成されると、相手の輪郭を誤ります」


「優しいから殺さなかった、とは思わないのですね」


「思いません」


 クラウディアは即答した。


「優しさでこれだけの精度は出ません」


 リシアは、何も言えなかった。


「帝国は、どう動きますか」


 ステファニアが尋ねた。


「まずは隠します」


 クラウディアが答える。


「次に、責任を下へ落とそうとします。それから、外部へ敵影を作るでしょう」


「ベルン商会ですか」


「可能性はあります。ただし、証拠がありません」


「証拠がなければ、やらないのですか」


「いいえ」


 クラウディアの声は、淡々としていた。


「証拠がなくても、やる者はやります」


 その言葉は、学院の中で見てきたものにも似ていた。


 事実より先に、物語を置く。


 物語を置いてから、人を裁く。


 小さな教室であっても、大きな帝国であっても、やることは似ているのかもしれない。


 リシアはそう思い、少しだけ嫌な気分になった。


     ◇


 作戦終了報告は、簡潔だった。


 救出対象、全員収容。


 潜入要員、収容。


 捕虜、五名。


 八咫烏、帰投。


 ローランド級、離脱航路へ移行。


 帝都側追撃、なし。


 その報告を聞いた後、アインはしばらく何も言わなかった。


 クラウディアも、急かさない。


 アリシアも、扇を閉じたまま待っている。


 やがて、アインは表示の一つを見た。


 医療区画の表示だった。


 村山主任の生命反応。


 子供たちの睡眠状態。


 リジェナとリジェスカの処置状況。


 捕虜五名の拘束状態。


 すべてが、同じ画面に並んでいる。


「生きているな」


 アインが言った。


「はい」


 クラウディアが答える。


「全員、生きています」


「なら、いい」


 それは勝利宣言ではなかった。


 作戦成功の誇示でもなかった。


 ただ、必要な確認を終えた人の声だった。


 リシアは、その声を覚えておこうと思った。


「殿下」


 クラウディアが言った。


「この後、アークライトへ帰投します。医療対象の本格処置、捕虜聴取、技術者保護、帝国通信解析を並行して進めます」


「任せる」


「はい」


 クラウディアが頷く。


 それから、ほんのわずかに声を柔らかくした。


「お疲れさまでした」


 アインは、少しだけ目を伏せた。


「まだ終わってない」


「それでも、一区切りです」


 その言葉に、アインは何も返さなかった。


 代わりに、医療区画の表示をもう一度見た。


 その視線の先に、眠る人々がいる。


 待っていた人々がいる。


 捕らえられた人々もいる。


 そして、これから話を聞かなければならない人々がいる。


 戦いは、終わった。


 終わったからこそ、次の仕事が始まる。


 ローランド級は、静かに帝都上空を離れていく。


 窓の外に、帝都の灯が遠ざかっていた。


 その灯は、今も何事もなかったように瞬いている。


 だが、その奥ではもう、何かが壊れていた。


 リシアは、それを見ながら思った。


 壊れたのは、扉だけではない。


 きっと、帝国が自分自身について信じていた何かも、今日少しだけ壊れたのだ。


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