第六十七夜 捕虜搬送殻
第六十七夜 捕虜搬送殻
捕虜搬送殻二が、ローランド級の腹から切り離された。
回収殻一よりも、わずかに角張った形をしている。
人を横たえるための医療架台ではなく、動ける者を拘束したまま収容するための区画が多いからだという。
リシアは、その説明を聞いた時、少しだけ胸の奥が重くなった。
捕虜。
その言葉には、どうしても冷たい響きがある。
けれど、いま降りていく殻は、殺すためのものではない。
生かして連れてくるためのものだった。
「捕虜搬送殻二、降下開始」
管制官の声が、簡易作戦指揮所に響いた。
正面の表示では、細い光点が地上へ向けて落ちていく。
その下に、黒い魔導騎装の表示があった。
八咫烏。
アインは、まだ地上にいる。
リシアは、思わず手を握った。
横で、セラがそれを見ている。
「心配ですか」
「はい」
リシアは素直に答えた。
「心配です」
セラは少しだけ目を細めた。
「殿下なら、大丈夫です」
「分かっています」
「分かっていても、心配なのですね」
「はい」
それも、素直に答えた。
分かっていることと、心が勝手に動くことは、同じではない。
それを最近、リシアは少しずつ知り始めている。
「良いことです」
アリシアが言った。
扇の向こうから、柔らかな声が届く。
「心配できる間柄であるということですもの」
リシアは返事に困った。
けれど、アリシアはそれ以上何も言わなかった。
◇
地上では、帝都の鐘がまだ鳴っていた。
その音は、街全体を揺らすほどではない。
だが、どこにいても聞こえる。
危機を告げるための音。
人を走らせ、兵を集め、命令を急がせる音だった。
それでも、北工廠区の一角だけは妙な静けさに包まれていた。
ヴァイス隊の五機は、動かない。
駆動系を封じられ、通信を切られ、武装も沈黙している。
だが、誰も死んでいなかった。
八咫烏は、その少し離れた場所に立っている。
剣は抜いたまま。
けれど、構えてはいない。
ただ、そこに立っていた。
それだけで、北工廠区へ向かおうとしていた数機の帝国魔導騎装が、足を止めている。
近づけば斬られる。
遠くから撃てば、市街と自軍工廠を巻き込む。
何より、あの黒い機体が何を見て、どこまで届くのか、誰にも分からない。
分からないものへ、命令だけで踏み込める者は多くなかった。
「殿下」
クラウディアの声が、通信に入る。
「捕虜搬送殻二、三十秒後に着地します」
「了解」
「帝国側、東側街路に三機。南側広場に二機。いずれも停止中」
「撃たせるな」
「はい」
アインは、八咫烏の戦術主眼をわずかに動かした。
東側街路の三機へ。
それから南側広場の二機へ。
ただ、それだけだった。
しかし、照準を向けられたわけでもないのに、帝国機は一歩下がった。
コクピットの中で、アインは静かに息を吐く。
「目が合ったと思うな」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「見られたと思った時には、もう遅い」
戦術主眼は、飾りではない。
武器でもない。
相手に、自分がどこを見ていると思わせるか。
それだけで、足を止めることができる。
足を止めれば、命令は遅れる。
命令が遅れれば、人を運べる。
戦いとは、斬ることだけではない。
◇
捕虜搬送殻二が、ゆっくりと地面に触れた。
大きな音はしない。
足元から薄い光が広がり、着地の衝撃を地面へ逃がしていく。
殻の側面が開いた。
中から降りてきたのは、白と灰色の装甲服をまとった調整体たちだった。
動きに無駄がない。
二人一組。
五組。
それぞれが、動けなくなったヴァイス隊の機体へ向かって走る。
先頭の一人が、ディートハルトの機体へ取り付いた。
「搭乗者、確認」
外部から接続された器具が、装甲の隙間へ差し込まれる。
「生命反応、安定」
「拘束状態、維持」
「胸部機関、停止確認」
「コクピット解放します」
ディートハルトの機体胸部が、内側からではなく外側から開かれる。
薄い蒸気が漏れた。
その奥で、ディートハルトが両手を上げていた。
「いや、丁寧な扱いで助かる」
彼は笑っていた。
首元には簡易拘束具が巻かれ、腕にも制御輪が付いている。
それでも、妙に機嫌がよさそうだった。
「暴れないでください」
調整体の一人が淡々と言う。
「暴れん。暴れたところで、さきほどの剣がもう一度飛んでくるのだろう?」
「必要であれば」
「必要にしないとも」
ディートハルトは素直に頷いた。
そして、少し離れた場所に立つ八咫烏を見上げる。
「黒の御方」
外部音声が拾える程度の声だった。
「我らは捕虜である。だが、部下への扱いに礼を申し上げる」
八咫烏の戦術主眼が、わずかに下がった。
頷いたようにも見えた。
「生きている者を無駄に殺す趣味はない」
アインの声が、外部へ流れる。
「剣を交えた相手なら、なおさらだ」
ディートハルトは一瞬だけ黙った。
それから、深く頭を下げた。
「ますます惚れましたな」
「捕虜としての立場を忘れるな」
「忘れておりません。だからこそ、いずれ正式に願い出ます」
調整体が、ディートハルトを促す。
彼は抵抗せず、捕虜搬送殻へ向かった。
残る四人も、順に機体から引き出される。
一人は悔しそうに歯を食いしばっていた。
一人は呆然としていた。
一人は隊長を見て肩をすくめた。
最後の一人は、殻の入口で小さく呟いた。
「本当に、飯は出るんだろうな」
ディートハルトが振り返る。
「黙って乗れ。捕虜飯の心配をする前に、我々は生きていることへ感謝すべきだ」
「隊長が一番楽しそうですが」
「それはそれ、これはこれだ」
殻の中で、調整体がわずかに目を瞬いた。
リシアは、表示越しにその会話を聞きながら、妙な気分になった。
敵。
捕虜。
それなのに、完全には憎めない。
あの者たちは、帝国の兵だ。
だが、先ほどアインに斬られ、なお礼を言った。
人は、所属だけでは測れない。
それは、とても厄介なことだった。
同時に、たぶん大事なことだった。
◇
帝都中央通信室では、命令が渋滞していた。
「北工廠区、捕虜搬送用と思われる落下物を確認」
「落下物ではない。着地している」
「分類は」
「不明」
「撃てるのか」
「射線上に工廠区居住棟があります」
「迂回部隊は」
「黒い機体の視界内で停止」
「なぜ止まっている」
「近づけば撃破されると判断したものと思われます」
「思われますではなく、命令を出せ」
士官の怒声が飛ぶ。
だが、命令の先にいる騎士たちは動かなかった。
動けなかった、という方が正しい。
彼らが見ているのは、黒い魔導騎装の背中だった。
背を向けている。
こちらへ構えてすらいない。
それなのに、踏み込めば死ぬという感覚だけが、喉元に刃のように当たっていた。
通信室の士官には、その感覚が分からない。
だから、声だけが大きくなる。
「撃て。少なくとも足を止めろ」
「市街への被害が」
「反逆者を逃がすよりましだ」
「対象はまだ反逆者と確定していません。北工廠区警備別働隊です」
「ならばなおさらだ。帝国軍の機体を奪われている」
「捕虜搬送殻、収容を開始」
「撃てと言っている!」
その命令は、遅かった。
捕虜搬送殻二の側面が閉じる。
固定音。
圧力確認。
浮上準備。
地上管制から、短い報告が上がる。
「捕虜五名、収容完了」
クラウディアが、迷いなく返した。
「捕虜搬送殻二、上昇」
◇
捕虜搬送殻二が浮き上がった。
八咫烏は、その場から動かない。
黒い機体は、上昇する殻の影に入ることもなく、地上に残ったまま周囲を見ている。
リシアは、息を詰めた。
「なぜ、殿下は一緒に上がらないのですか」
思わず口にしていた。
答えたのはクラウディアだった。
「最後に上がる者がいるから、先に上がる者が安全に離脱できます」
「殿を務めている、ということですか」
「はい」
それは、古い言葉だった。
けれど、いま目の前にある光景に、これほど合う言葉もない。
殿。
最後に残り、追撃を断つ者。
リシアは、胸の奥が少し苦しくなった。
「昔から、ああですの?」
ステファニアが、低く尋ねる。
クラウディアは一瞬だけ黙った。
「はい」
短い返事だった。
それだけで、リシアはそれ以上聞けなかった。
アリシアも、何も言わない。
ただ、扇の骨をそっと閉じた。
◇
地上の帝国魔導騎装が、一機だけ動いた。
南側広場にいた機体だ。
焦りからか、命令に押されたのか。
それとも、恐怖を踏み潰して前へ出たのか。
一歩。
踏み出した。
八咫烏は、剣を向けなかった。
かわりに、左手を上げる。
指先に、淡い光が集まった。
魔力の塊。
それが、何の装飾もなく放たれる。
光は地面を抉らなかった。
建物を壊さなかった。
ただ、前へ出た機体の右膝、その駆動関節だけを撃ち抜いた。
帝国機が膝をつく。
遅れて、金属音が響いた。
それだけだった。
八咫烏は、また立つ。
黒い剣を下げたまま。
帝国側は、それ以上動かなかった。
「警告射撃」
管制官が呟いた。
別の管制官が、すぐに訂正する。
「いえ、警告破壊です」
リシアは、思わずその言葉を胸の中で繰り返した。
警告破壊。
壊す。
けれど、殺さない。
それができる力。
それを選ぶ判断。
どちらか片方だけでは、たぶん成立しない。
◇
捕虜搬送殻二が、ローランド級へ収容された。
「捕虜搬送殻二、収容」
指揮所に声が響く。
「捕虜五名、生命反応安定。拘束維持」
「了解」
クラウディアが頷く。
「殿下、捕虜搬送殻二、収容完了」
「了解」
「帰投してください」
ほんのわずか、間があった。
「分かった」
その返事を聞いた瞬間、リシアは自分の肩から力が抜けるのを感じた。
八咫烏が、ゆっくりと剣を収める。
黒い機体が膝を曲げた。
地面に沈むように、姿勢を低くする。
次の瞬間、足元に光が広がった。
爆発ではない。
跳躍でもない。
地面との間に薄い膜を作り、その上を滑るように加速する。
八咫烏は、北工廠区を離れた。
低く。
速く。
けれど、街を壊さない高度で。
屋根の上をかすめることもなく、街路の風だけを置いていく。
追う者はいなかった。
追える者もいなかった。
帝都の鐘だけが、まだ鳴っている。
だが、その音はもう、戦いを動かしてはいなかった。
終わったことを、遅れて街に知らせているだけだった。
◇
ローランド級の格納区画で、回収殻一と捕虜搬送殻二が並んでいた。
片方からは、担架が出てくる。
もう片方からは、拘束された兵が降ろされる。
同じ場所へ、違う理由で運ばれてきた人々。
医療班は、迷わなかった。
救出者を診る。
負傷した潜入員を診る。
必要があれば、捕虜も診る。
それは感情ではなく、手順だった。
だからこそ、揺るがない。
リジェナとリジェスカは、並んだ処置台の上に座らされていた。
二人とも、降ろされてすぐに歩こうとした。
そして、医療班に止められた。
「任務は終了しています。治療対象です」
そう言われて、二人とも妙な顔をした。
リジェスカは不満げに唇を尖らせる。
リジェナは、少しだけ笑った。
「叱られてしまいましたね」
「叱られるほどではないと思うけど」
「処置台に座ってください」
医療班の声は淡々としていた。
「はい」
二人は同時に返事をした。
その少し離れた場所で、村山主任が担架の上で目を開けた。
焦点は、まだ合っていない。
だが、何かを探すように視線が動く。
メディナが身をかがめる。
「ここは安全です。話さなくて構いません」
村山主任の唇が、かすかに動いた。
「……八咫烏は」
「帰投中です」
「そう、ですか」
その目尻に、薄く涙が滲んだ。
「間に合った、のですね」
メディナは、少しだけ目を伏せた。
「はい」
それだけを答える。
◇
八咫烏が、ローランド級へ帰投した。
格納区画の空気が変わる。
黒い魔導騎装が固定架へ収まり、拘束具が機体を受け止めた。
装甲の表面に、細かな傷が走っている。
だが、大きな損傷はない。
胸部装甲が開く。
アインが姿を見せた。
白い髪が、格納区画の光を受ける。
顔色は悪くない。
けれど、目だけが少し遠かった。
クラウディアが、最初に近づく。
「お帰りなさいませ、殿下」
「戻った」
「全対象、収容済みです」
「そうか」
アインは短く答えた。
それから、処置台の方へ目を向ける。
リジェナとリジェスカが、揃って立ち上がろうとした。
医療班に、同時に肩を押さえられる。
「座っていてください」
「ですが」
「座っていてください」
二度目は、少し強かった。
アインが、小さく笑った。
「座っていろ」
その一言で、二人はようやく力を抜いた。
「はい」
声が揃った。
アインは二人を見た。
そして、もう一度言った。
「よくやった」
リジェナの目が、わずかに揺れた。
リジェスカは、唇を噛んだ。
それでも二人は、姿勢を正した。
「任務を、完了しました」
「ああ」
アインは頷く。
「完了だ」
その言葉で、二人の肩から、目に見えない何かが落ちたように見えた。
リシアは、その場面を指揮所の表示越しに見ていた。
任務御苦労。
よくやった。
短い言葉。
けれど、その言葉を待っている人がいる。
その重さを、リシアは初めて少しだけ理解した気がした。
◇
帝都北工廠区では、八咫烏の残した跡だけが残っていた。
壊された壁。
焼けた舗装。
膝を撃ち抜かれた魔導騎装。
空になった三つの扉。
そして、動かなくなったヴァイス隊の機体。
中身は、もうない。
帝国兵たちが駆け寄る頃には、そこに残されていたのは結果だけだった。
何が奪われたのか。
誰が連れ去られたのか。
どの情報が抜かれたのか。
それを正確に把握するには、時間がかかる。
だが、一つだけ、すぐに分かったことがある。
帝都の中心部で、帝国は守れなかった。
奪われたのは、技術者だけではない。
兵だけでもない。
安全だと思い込んでいた場所の名だった。
その事実は、鐘の音よりも静かに、帝都の奥へ沈んでいった。




