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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第六十六夜 回収殻

第六十六夜 回収殻


 回収殻は、空から落ちてきた。


 降下殻とは違う。


 地上へ兵を送るためのものではなく、地上から人を拾い上げるためのものだった。


 黒い外殻。


 音を殺した降下。


 地面へ近づくほど速度を落とし、最後は風だけを置いて旧倉庫街の空き地へ降りる。


 蓋が開いた。


 中は、簡易医療区画になっている。


 担架固定具。


 魔力循環補助。


 低温維持。


 外傷処置用の細い腕。


 それらが、狭い内部に無駄なく収まっていた。


「回収殻一、着地」


 ローランド級の指揮所で、管制官が告げる。


「医療班、搬入開始」


「馬車二、到着」


「馬車三、到着」


「診療所搬出班、三床到着」


 光点が、一つずつ回収殻へ重なっていく。


 リシアは、その表示を見ていた。


 一つ。


 また一つ。


 灯が中へ入るたび、胸の奥が少しだけ緩む。


 けれど、完全には緩まない。


 回収殻の扉が閉じるまで。


 ローランド級へ戻るまで。


 医療区画へ引き渡されるまで。


 まだ終わりではない。


 アリシアが言った。


「よく我慢していますわね」


 リシアは、思わず自分の手を見た。


 指が白くなるほど握っている。


「喜ぶのは、まだ早いと思いまして」


「ええ」


 アリシアは頷いた。


「でも、息はしておきなさい。倒れては、あとで笑われますわ」


 リシアは、ゆっくり息を吸った。


 自分が息を止めていたことに、そこで気づいた。


     ◇


 回収殻の中へ、最初に運び込まれたのは若い男だった。


 水路から最初に出た対象一。


 意識はある。


 だが、目は焦点を結びきっていない。


 医療班が手を握る。


 短。


 長。


 聞こえるか。


 男の指が、遅れて動いた。


 長。


 肯定。


 医療班は頷き、首元の補助具を調整する。


 次に、両手を傷つけた女性技術者。


 彼女は、搬入される直前まで周囲を見ていた。


 逃げられるかではない。


 誰が残っているかを見ている目だった。


 リジェスカがその横へつく。


「主任も、子供たちも出ました」


 女性の目が揺れる。


 声は出ない。


 けれど、頬を伝うものがあった。


 リジェスカはそれ以上言わない。


 言葉を重ねるより、固定具を締める方が今は大事だった。


 子供二人が続く。


 一人は眠ったまま。


 一人は目を開けていた。


 リジェスカを見つけると、弱く手を伸ばした。


 リジェスカはその手に指を置く。


 短。


 短。


 長。


 もう大丈夫、という符号ではない。


 だが、子供は目を閉じた。


 それで十分だった。


 村山主任が運び込まれる。


 医療班がすぐに固定する。


 発熱。


 肩の損傷。


 魔力循環の乱れ。


 薬剤反応。


 並ぶ項目は軽くない。


 それでも、呼吸はある。


 まだ、生きている。


「主任推定対象、固定完了」


「生命維持補助、開始」


「意識なし。呼吸維持」


 リジェスカは、その報告を聞いてようやく膝から力が抜けかけた。


 すぐに踏み止まる。


 まだ、自分の仕事は終わっていない。


     ◇


 診療所三床も、回収殻へ入った。


 老人。


 若い女性。


 子供。


 老人は、ほとんど骨と皮だけに見えた。


 だが、医療班が耳元へ確認符号を送ると、ほんのわずかに指が動いた。


 若い女性は、痛みで意識が戻りかけている。


 声にならない声を漏らし、すぐに補助眠へ落とされた。


 子供は、抱えられたまま眠っていた。


 リジェナはその搬入を最後まで見届ける。


 洗濯場の臨時手伝いではない。


 もう、その顔は必要なかった。


 彼女は、アークライトの調整体として、医療班の邪魔にならない位置で情報を渡し続けた。


「診療所対象、三名搬入完了」


「回収殻一、全対象搭載」


 管制官の声が、指揮所に響く。


 リシアは、そこで初めて唇を噛んだ。


 声を出したら、泣きそうだった。


 ステファニアが、隣で小さく息を吐く。


 セラは、じっと表示を見ていた。


 アリシアは、扇を閉じたまま目を伏せている。


 誰も、まだ喜ばない。


 扉が閉まるまで。


 上がるまで。


     ◇


 旧資材置き場では、ヴァイス隊の拘束が進んでいた。


 降下班が、四機の脚部駆動へ外部封鎖具を取り付ける。


 腕部の補助系を落とし、通信機を切り離す。


 搭乗者は機内に残す。


 約束どおりだった。


 部下たちは、意外なほど素直に従った。


「本当に飯は出るのか」


 一機が聞く。


「出る」


 降下班の隊員が短く答えた。


「温かいか」


「状況による」


「水は」


「出る」


「酒は」


「捕虜に酒は出ない」


「隊長、酒は出ないそうです」


 ディートハルトの笑い声が、半分に断たれた隊長機から響いた。


「ならば仕方ない。勝って飲む酒ではなく、負けて飲めぬ水を味わおう」


「隊長、それは格好いいんですか」


「分からん」


 部下たちの機体が、わずかに揺れた。


 笑っているのかもしれない。


 降下班の隊員は、淡々と拘束を続けた。


 八咫烏はその少し離れた位置に立っている。


 剣は下げている。


 だが、戦術主眼は帝都の奥を見ていた。


 アインは、ディートハルトたちを見ていない。


 信じているからではない。


 今見るべきものが、別にあるからだ。


 ディートハルトは、それを理解しているようだった。


「黒き騎士」


「何だ」


「そちらを見るな、という顔だな」


「顔は見えないだろう」


「剣で分かる」


 アインは答えなかった。


 ディートハルトは楽しそうに続ける。


「よい。こちらは動かん。部下も動かさん。貴殿は、貴殿の守るものを見ていろ」


 アインは、ほんの短く言った。


「そうする」


     ◇


 帝都側の指揮は混乱していた。


 黒い機体が何者なのか分からない。


 救出対象がどこへ向かったのか分からない。


 北工廠区の魔導騎装が、壊されずに動けなくされている理由も分からない。


 そして、ヴァイス隊が戦闘を継続しない理由も分からない。


「ヴァイス隊は何をしている!」


 通信室で、将校が怒鳴った。


「応答ありません!」


「別働隊に命令を送れ!」


「通信遮断されています」


「現場へ伝令を」


「北工廠区、黒機により経路封鎖。伝令が近づけません」


「砲を使え!」


 別の将校が顔色を変えた。


「市街地です」


「知るか!」


「北工廠区には帝国軍施設もあります。工廠の火薬庫と予備燃料庫が近い。撃てばこちらも」


 言葉が止まる。


 誰も、責任を取りたがらなかった。


 黒い機体を止める命令は出したい。


 だが、市街地を吹き飛ばす命令は出したくない。


 その躊躇が、時間を生んだ。


 その時間こそ、アインが稼いでいるものだった。


     ◇


「帝国通信室、砲撃判断で停滞」


 管制官が告げた。


「現場指揮系統、分裂気味。北工廠区への直接砲撃は未承認」


「当然です」


 クラウディアが言った。


「撃てば自分たちの工廠も燃えます」


「それでも撃つ者はいる」


 アリシアが静かに言う。


「ええ」


 クラウディアは頷いた。


「ですから、撃つ者が命令権を握る前に抜きます」


「回収殻一、離陸準備完了」


 管制官の声が重なる。


「地上班、搭乗完了」


「リジェナ、リジェスカ」


 ヴァレンが通信を開く。


「搭乗確認」


「リジェナ、搭乗」


「リジェスカ、搭乗」


 二人の声が続いた。


 どちらも落ち着いている。


 けれど、リシアには、その声の奥にある疲労が分かった。


 リジェナは、診療所で手を伸ばせる距離にいながら待った。


 リジェスカは、水路で扉が開くまで待った。


 どちらも、ただ待っていたわけではない。


 今、ようやく、その二人も回収殻へ入った。


「回収殻一、離陸」


 黒い外殻が、地面を離れる。


 音は小さい。


 風だけが、旧倉庫街の塵を巻き上げた。


 リシアは、指揮卓の上でその灯が上がっていくのを見た。


 上へ。


 帝都の屋根の上へ。


 さらに上へ。


 ローランド級へ。


     ◇


 回収殻の内部で、リジェナは壁に背を預けた。


 座るつもりはなかった。


 けれど、身体が少しだけ沈む。


 リジェスカは、隣で手袋を外していた。


 指先が擦り切れている。


 水路の石と金具で、薄く傷が走っていた。


 リジェナの袖にも、小さな血が滲んでいる。


 診療所で軍人を崩した時に、短剣の端が掠ったのだろう。


 大した傷ではない。


 だが、二人とも無傷ではなかった。


 医療班が寄ろうとする。


 リジェナが首を振った。


「対象者を先に」


「命令系統上、あなた方も対象です」


 医療班は淡々と言った。


「座ってください」


 リジェスカが小さく笑った。


「怒られましたね」


「ええ」


 リジェナは、ようやく座った。


 その時、通信が入った。


 アインの声だった。


「リジェナ、リジェスカ」


 二人の背筋が、同時に伸びる。


「はい」


「任務御苦労」


 短い言葉だった。


 それだけだった。


 だが、リジェナは目を伏せた。


 リジェスカは、指先を握った。


「……身に余るお言葉です」


 リジェナが言う。


 声が、ほんの少しだけ震えていた。


「帰投後、報告を聞く」


「はい」


「まず治療を受けろ」


「はい」


 通信が切れる。


 二人は、しばらく黙っていた。


 医療班が何も言わずに処置を始める。


 リジェスカは、手袋を握ったまま、小さく息を吐いた。


「戻れましたね」


「まだです」


 リジェナは答えた。


 けれど、その声は少し柔らかかった。


「ローランド級へ着くまでが任務です」


「はい」


 リジェスカは頷いた。


     ◇


 旧資材置き場では、ヴァイス隊の拘束が完了した。


「ヴァイス隊五機、駆動系封鎖」


「通信遮断」


「搭乗者、生存」


「隊長機、胴部切断状態。搭乗者に外傷軽微」


 ヴァレンが報告を聞き、頷く。


「捕虜搬送殻二を準備」


「了解」


 クラウディアがアインへ通信を開く。


「殿下、回収殻一、上昇中。ヴァイス隊拘束完了。捕虜搬送殻二、準備に入ります」


「了解」


「帝国側、砲撃判断で停滞。ただし長くは持ちません」


「分かっている」


 八咫烏は、旧資材置き場の入口から帝都の奥を見ている。


 帝国兵は、まだ遠巻きにしている。


 魔導騎装は、動けない。


 鐘は鳴り続けている。


 黒い機体は、その全ての前に立っていた。


「クラウ」


「はい」


「回収殻一がローランド級に入ったら、捕虜搬送殻を降ろせ」


「はい」


「それまで、俺はここにいる」


 クラウディアは、少しだけ目を伏せた。


「承知しました」


     ◇


 リシアは、指揮卓の光を見ていた。


 回収殻一。


 上昇中。


 ヴァイス隊。


 拘束完了。


 八咫烏。


 地上残留。


 戦闘は派手だった。


 けれど、今いちばん重いのは、派手ではない表示だった。


 上昇中。


 拘束完了。


 残留。


 たったそれだけの言葉に、人の命と判断が詰まっている。


「リシア様」


 ステファニアが言った。


「はい」


「この表示だけで、胸が詰まりますね」


 リシアは、表示から目を離せなかった。


「はい」


 それだけを答えた。


 ステファニアは頷いた。


 アリシアが、静かに扇を伏せる。


「見えてきましたわね」


 その一言だけで、リシアは少しだけ背筋を伸ばした。


     ◇


 回収殻一が、ローランド級へ収容された。


「回収殻一、収容」


 管制官の声が、指揮所に響く。


「全救出対象、ローランド級内へ移送開始」


 その瞬間、リシアはようやく息を吐いた。


 長い息だった。


 自分でも驚くほど、長い。


 セラも、少しだけ肩を落とす。


 ステファニアは目を閉じた。


 アリシアは扇を開き、口元を隠す。


 その目は、まだ地上の八咫烏を見ていた。


「殿下」


 クラウディアが通信を開く。


「回収殻一、収容完了」


「了解」


「捕虜搬送殻二、降下準備」


「降ろせ」


「はい」


 クラウディアが指示を出す。


 ローランド級の別区画で、二つ目の殻が準備される。


 今度は救出対象ではない。


 捕虜を拾うための殻。


 帝国軍の鼻つまみ者たちを、アークライト側へ連れていくための殻だった。


 リシアは、妙な気分になった。


 助けるために拾う殻。


 捕らえるために拾う殻。


 どちらも、人を死なせないために降りる。


 それが、少しだけおかしかった。


 そして、少しだけ救いだった。


 地上で、八咫烏が剣を上げる。


 攻撃のためではない。


 降下する捕虜搬送殻の進路を守るために。


 帝都の鐘は、まだ鳴っている。


 だが、救出すべき者たちは、もう空の上にいた。


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