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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第七十一夜 足音の置き場所

第七十一夜 足音の置き場所


 学院長府からの掲示は、翌朝には白い廊下の掲示板に貼り出されていた。


 大きな紙ではない。


 赤い印もない。


 処罰を告げるものでも、誰かを名指しするものでもなかった。


 ただ、学院内における伝聞の扱いについて、既存規則を再確認する文書だった。


 家名。


 商会名。


 国家名。


 個人名。


 それらを根拠なく結びつけ、本人または関係者の不利益になる形で流布してはならない。


 必要な確認は、学院内の正規連絡路を用いること。


 記録に残らない私的伝言をもって、公的な意思表示とみなしてはならないこと。


 リシアは、その文面を読みながら、昨日の公開貸室を思い出していた。


 ジークフリートが、自分の名で注意喚起をすると言った。


 ステファニアが、それを学院規則として処理するべきだと返した。


 その結果が、これだ。


 誰の名前も前に出ていない。


 けれど、分かる者には分かる。


 何かが起きている。


 誰かが、線を引き直した。


 その気配だけが、白い廊下の朝に置かれていた。


「薄い文書ですわね」


 アリシアが言った。


 扇は開いていない。


 視線だけが掲示を読んでいる。


「薄い、ですか」


「ええ。けれど、薄い紙ほどよく切れることがあります」


 ステファニアが、掲示板から目を離した。


「名指しを避けたからでしょうか」


「それもありますわ」


 アリシアは穏やかに言う。


「誰も裁いていない。誰も庇っていない。だから、触れた者の手つきだけが残ります」


 セラが少し首を傾げた。


「手つき」


「この掲示を見て黙る者。規則の話として受け取る者。誰のことかと大きな声で尋ねる者。自分には関係ないと笑う者」


 アリシアは廊下を見た。


「それぞれ、置き場所が違います」


 リシアは、周囲へ目を向けた。


 掲示板の前に集まっている学生たちは、思ったより静かだった。


 だが、静かにも種類がある。


 真面目に読む者。


 興味がないふりをする者。


 何かを知っている顔で視線を交わす者。


 誰かが来るのを待つように、あえて動かない者。


 昨日までなら、リシアはそこまで細かく見なかったかもしれない。


 けれど、今は見えてしまう。


 首元の装身型端末が、学院内公開情報の変化を薄く示していた。


 噂そのものを読んでいるわけではない。


 誰がどの話題を避け、どの名前を組み合わせ、どの時間に同じ廊下へ集まったか。


 公開された範囲の断片が、視界の端で静かに重なる。


 リシアには、それがまだ辞書を片手に歩いているように感じられた。


 意味は分かる。


 けれど、読むのに時間がかかる。


 ステファニアは違った。


 表情は変えない。


 だが、視線の動きが速い。


 掲示。


 廊下。


 学生。


 窓際で話す二人。


 階段の踊り場に立つ上級生。


 それらを、ほとんど迷わず拾っている。


 まるで、最初からそこに注釈が付いているかのようだった。


「ステファニア様」


 リシアが小さく呼ぶ。


「はい」


「今、何か見えていますか」


 ステファニアは、少しだけ考えた。


「見えているというより、並んでいます」


「並ぶ」


「昨日、公開貸室の前にいた方が、今朝は掲示板の反対側にいます。その方と同じ講義を取っている方が、階段の上でこちらを見ないようにしています。三人とも、同じ話題を避けているように見えます」


 セラが、その三人を順に見た。


「避けているのに、分かるのですか」


「避け方が、同じですから」


 ステファニアは淡々と言った。


 リシアは、少しだけ息を呑んだ。


 自分には、そこまで自然には見えない。


 けれど、ステファニアには見えている。


 シークへ繋がる鍵を、一度その手で受け取った人。


 情報を受け取る才能がある人。


 クラウディアが慎重に慣らそうとしていたものを、アリシアが一手で開いてしまった人。


 その差が、白い廊下の中で形になっていた。


「よく見えていますわ」


 アリシアが言った。


「見えすぎる時は、すぐに結論を出さないことです」


「はい」


「見えたものは材料。結論は料理ですわ。材料を見た瞬間に皿へ盛れば、たいてい生です」


 セラが、少しだけ真剣な顔をした。


「料理」


「セラは今、食べる方で考えましたわね」


「はい」


「正直でよろしいですわ」


 リシアは、思わず笑いそうになった。


 けれど、その笑いはすぐに引っ込んだ。


 廊下の向こうから、三人の女子学生が近づいてきたからだ。


     ◇


 三人の先頭にいたのは、淡い緑のリボンを結んだ上級生だった。


 名前は知らない。


 だが、家格は低くない。


 歩き方がそう言っていた。


 彼女は、掲示板を一度見てから、ステファニアの前で足を止めた。


「レーヴェンハイト様」


「ごきげんよう」


 ステファニアが礼を返す。


「今朝の掲示、ご覧になりました?」


 声は柔らかい。


 柔らかすぎるほどだった。


「ええ」


「怖いですわね。根拠のない噂はいけない、というのは当然ですけれど」


 上級生は、少しだけ声を落とした。


「では、根拠のある話なら、してもよろしいのでしょう?」


 リシアの指先が、わずかに冷えた。


 来た。


 そう思った。


 アリシアは、黙っている。


 セラは半歩後ろで、廊下の流れを見ている。


 ステファニアは、すぐには答えなかった。


 その沈黙は、怯えではない。


 相手の言葉を、どの皿へ置くか選んでいる沈黙だった。


「根拠のある話であれば」


 ステファニアは言った。


「根拠を添えて、正規の場でお話しになるのがよろしいと思います」


 上級生の笑みが、ほんの少し固まる。


「正規の場、ですか」


「はい。廊下は、記録が残りません」


「ただの世間話ですのに」


「でしたら、根拠という言葉は重すぎます」


 ステファニアの声は静かだった。


 責めていない。


 だが、逃がしてもいない。


「根拠を示す話なら、場所を選ぶべきです。世間話なら、根拠という形を取るべきではありません」


 緑のリボンの上級生は、一瞬だけ目を細めた。


 後ろの二人が視線を交わす。


 リシアは、その動きを見た。


 困っている。


 怒っているのではない。


 手順が崩れて、次に何を言うか迷っている。


「では、こういう場合はどうなりますの」


 上級生は、声を少し変えた。


「たとえば、ある商会が帝国と関わっているかもしれない。ある公国が、その商会と深く関わっているかもしれない。そういう話を聞いた場合」


「学院へ届け出てください」


 ステファニアは即答した。


「個人へぶつける話ではありません」


「けれど、当事者に聞くのが一番早いのでは?」


「当事者に聞くなら、当事者が答えられる形にしてください」


 ステファニアは、相手をまっすぐ見た。


「誰から、いつ、どのような内容を聞いたのか。確認したい対象は何か。質問なのか、通告なのか、抗議なのか。それを明らかにした上であれば、受け取ることはできます」


 上級生は黙った。


 廊下の空気が、少しだけ薄くなる。


 通りかかる学生たちが、速度を落とす。


 見ていないふりをしながら、耳だけを置いていく。


 リシアは、その気配を感じた。


 ここは、公開貸室ではない。


 記録魔石板もない。


 学院教官もいない。


 だからこそ、言葉は軽く投げられる。


 軽く投げたものを、後から重い話に変えられる。


 アリシアが「派閥という国同士が競い争い合う場所」と言った意味が、少しだけ分かった気がした。


 国境は、石でできているとは限らない。


 廊下の真ん中にも、国境は引ける。


「……随分、堅いお答えですのね」


 上級生が言った。


「昨日、殿下とお話しになったからかしら」


 空気が止まった。


 それは、踏み込みだった。


 ステファニアの表情は変わらない。


 けれど、リシアには分かった。


 今の言葉は、個人間の面談を、廊下の噂へ引きずり出すためのものだ。


「昨日の面談は、学院立会いのもと、記録を残して行われました」


 ステファニアは言った。


「その範囲を越えて、私が廊下で申し上げることはありません」


「つまり、何もおっしゃらないのですね」


「はい」


 あっさりと頷いた。


「記録のない場所では、申し上げません」


 その時だった。


 ぱちり、と音がした。


 アリシアの扇が、閉じた音だった。


 昨日の公開貸室で聞いたものより、少しだけ澄んでいた。


 緑のリボンの上級生が、思わずそちらを見る。


 アリシアは微笑んでいた。


「よろしいですわね」


「何が、でしょうか」


 上級生が尋ねる。


「境界です」


 アリシアは言った。


「廊下で遊ぶなら、廊下の言葉を。記録へ触れるなら、記録の作法を。家名へ触れるなら、家門の礼を。それぞれ、履き物が違います」


 上級生は答えなかった。


「靴を間違えたまま他家の敷居を越えると、転びますわ」


 声は優しい。


 優しいのに、廊下の温度が一段下がった。


 リシアは、アリシアの横顔を見た。


 笑っている。


 けれど、それは親切だけでできた笑みではない。


 相手がどの足を出したか、もう見ている笑みだった。


 上級生は、深く礼をした。


「失礼いたしました」


「ええ」


 アリシアは、同じ角度で礼を返した。


「次は、靴をお選びくださいませ」


 三人は去っていった。


 背中が少し硬い。


 勝った、という感じではなかった。


 むしろ、何かを測り終えた後の静けさが残った。


     ◇


 講義室へ向かう途中、リシアはようやく息を吐いた。


「今の方々は」


「使いですわね」


 アリシアが即答した。


「本人たちの発案ではありませんの?」


「発案の一部は本人でしょう。ただ、最初の問いが少し整いすぎていました」


 ステファニアが頷く。


「根拠のある話ならよいのか、という入り方ですね」


「ええ」


 アリシアは言う。


「あれは、掲示の隙間を探す問いです。掲示を読んで不満に思った学生がその場で出すには、少し早すぎます」


 リシアは、今朝の掲示板を思い出した。


 貼り出されてから、まだそれほど時間は経っていない。


 その短い時間で、規則の抜け道を廊下で試しに来た。


 つまり、掲示が出ることを予測していた者がいる。


 あるいは、掲示を見た瞬間に誰かへ指示を出せる者がいる。


「学院内の誰か、でしょうか」


「まずは、そう見るべきですわ」


 アリシアは言った。


「ただし、学院の中だけで完結しているとは限りません」


 その言葉に、リシアは首元の装身型端末へ意識を向けた。


 視界の端に、薄い表示が開く。


 廊下で交わされた言葉は記録されていない。


 けれど、掲示の閲覧者数。


 その直後に動いた学生の公開予定。


 談話室の利用申請。


 公開連絡板に残された短い文面。


 そうしたものが、細い線になって並んでいる。


 まだ意味は分からない。


 だが、昨日までより線が増えていた。


「ステファニア様には、これがもっとはっきり見えるのですか」


「はっきり、というほどではありません」


 ステファニアは少し困ったように笑った。


「ただ、どこを見ればよいかが先に浮かぶ感じです」


「羨ましいような、怖いような」


「私も、怖いです」


 ステファニアは、正直に言った。


「ですが、見えないふりをしても、見えたものは消えません」


 その声に、リシアは胸の奥が少し痛くなった。


 ステファニアは強くなった。


 けれど、強くなったから怖くないわけではない。


 怖いまま、見ている。


     ◇


 昼前、ジークフリートは学院長府の控室にいた。


 アルヴィンが、今朝の掲示に対する反応をまとめた記録を机へ置く。


「概ね、規則の再確認として受け取られています」


「概ね、か」


「はい」


 アルヴィンの声は硬い。


「一部で、根拠のある話ならよいのか、という言い方が出ています」


 ジークフリートは目を伏せた。


「早いな」


「早すぎます」


 アルヴィンは言った。


「昨日の面談内容を知っていた者、あるいは掲示が出ることを予測していた者が動いている可能性があります」


「私の周囲か」


「否定できません」


 その答えは、以前のアルヴィンなら少し濁したかもしれない。


 今は、濁さなかった。


 ジークフリートは、その変化を受け止めるように頷いた。


「ミリアは」


「昨日から、私的な伝言を控えています。今朝も、ご自身からレーヴェンハイト様へ近づくことはありませんでした」


「そうか」


「ただ」


 アルヴィンが少し迷う。


「何だ」


「謝罪したがっています」


 ジークフリートは、しばらく黙った。


 窓の外では、学生たちが中庭を横切っている。


 白い制服。


 話し声。


 何事もない学院の午前。


 その中で、誰かが細い線を引いている。


「今は、させない」


 ジークフリートは言った。


「謝罪は、したい者の気持ちで押し出すものではない。受け取る側の準備がいる」


 アルヴィンが、少し驚いた顔をした。


「何だ」


「いえ」


 アルヴィンは首を振った。


「失礼しました」


「私は、そんなに驚くことを言ったか」


「以前なら、殿下はミリア様の善意を先に見ておられたと思います」


 ジークフリートは苦笑した。


「今も、善意は見ている」


「はい」


「だが、善意だけでは済まないことも、ようやく見え始めた」


 アルヴィンは深く頭を下げた。


「でしたら、次にすべきことがあります」


「言え」


「殿下の名で動く者の範囲を、明文化してください」


 ジークフリートが顔を上げる。


「側近、友人、支持者、派閥の者。それぞれ、殿下の委任を受けている範囲と、受けていない範囲を分ける必要があります」


「昨日、ステファニアが求めたことと同じだな」


「はい」


「分かった。作れ」


「私が作ってよろしいのですか」


「お前が作り、私が読む。私が直し、私の名で出す」


 アルヴィンは、今度こそはっきりと頷いた。


「承知しました」


 控室の扉の外で、誰かが足を止める気配があった。


 すぐに離れていく。


 ジークフリートは、扉を見た。


「今のは」


「聞き耳でしょう」


 アルヴィンが言った。


「追いますか」


「いや」


 ジークフリートは首を振る。


「聞かせたと思わせておけ。こちらが範囲を明文化すると知れば、困る者が動く」


 アルヴィンは、一瞬だけ黙った。


 それから、わずかに笑った。


「殿下」


「何だ」


「少し、意地が悪くなられました」


「褒め言葉として受け取る」


 ジークフリートは、窓の外へ視線を戻した。


 その顔には、まだ迷いがあった。


 だが、迷いながら動く覚悟も、少しだけ生まれていた。


     ◇


 午後の講義が終わる頃、リシアたちの端末に短い通知が入った。


 クラウディアからだった。


 表示は、学院内用の簡易文面に整えられている。


 外部通信網に小さな揺らぎを確認。


 学院内公開連絡板の文体変化と、外部から流入した複数語の一致を検出。


 即時対応不要。


 観測継続。


 リシアは、通知を読み終えてからアリシアを見た。


 アリシアは、驚いていなかった。


「外にも、内にも」


 昨日と同じ言葉を、リシアは思い出した。


「やはり、外からも何か」


「でしょうね」


 アリシアは言った。


「学院だけで作るには、言葉が少し混じりすぎています」


「混じる」


「帝国、ベルン商会、ファーランド。そこまでは、今の学院でも繋げようとする者はいますわ」


 アリシアの声が、少しだけ低くなる。


「けれど、聖女像、寄進、隠匿。この三つを今ここで混ぜるのは、少し古い手癖です」


 リシアの背筋が冷えた。


 聖女像。


 寄進。


 隠匿。


 白い鐘の講義で聞いた言葉。


 ファーランドとメシア教の古い傷。


 アリシアが、千五百年前から布石として置いていた可能性のある出来事。


 それが、今の学院の噂へ混ぜられようとしている。


「では、メシア教が」


「可能性の一つですわ」


 アリシアは、すぐには断じなかった。


「名を出すには、まだ早い。けれど、手癖は覚えておくべきです」


 ステファニアが静かに頷く。


「足音ですね」


「ええ」


 アリシアは微笑んだ。


「誰が歩いているか分からなくても、床板の鳴り方で靴は分かります」


 セラが廊下の先を見る。


「捕まえますか」


「まだです」


 アリシアが答えた。


「今捕まえると、一番軽い足だけが止まります」


「重い足を待つのですね」


「その通りですわ」


 リシアは、廊下の窓から中庭を見た。


 学生たちは、いつも通り歩いている。


 笑う者。


 急ぐ者。


 誰かを待つ者。


 その中に、昨日より少し濃い流れがある。


 どこか外の暗がりへ続いているかもしれない流れ。


 リシアは、装身型端末の表示を閉じた。


 見えすぎるものに飲まれないように。


 まだ見えないものを、勝手に決めつけないように。


 アリシアが隣で、扇を開いた。


 白い廊下に、柔らかな風が動く。


「さて」


 アリシアが言った。


「次は、こちらも少しだけ椅子を引きましょうか」


 その声は、楽しそうだった。


 リシアは、思わず聞き返す。


「何をなさるおつもりですか」


「大したことではありませんわ」


 アリシアは、にこりと笑った。


「噂が根拠を欲しがっているなら、根拠というものがどれほど重いか、少しだけ教えて差し上げるだけです」


 ステファニアが、そっと目を伏せた。


「……少しだけ、ですか」


「ええ」


 アリシアは涼しい顔で言った。


「少しだけですわ」


 リシアは、その言葉を信じるべきか少し迷った。


 セラは、すでに信じていない顔をしていた。


 白い廊下の向こうで、次の鐘が鳴る。


 その音の下で、またどこかの椅子が、小さく床を擦った。


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