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ベルカ  作者: 柿内彦左衛門
古より吹く風

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第六十四夜 刃の舞い

第六十四夜 刃の舞い


 馬車三の中で、村山主任はもう一度目を開けた。


 薄い天井が見える。


 揺れは少ない。


 誰かが、負傷者を運ぶために馬車の床を作り替えている。


 そう判断できる程度には、まだ頭が動いた。


 だが、身体は動かない。


 熱がある。


 肩は外れている。


 魔力循環も乱れている。


 普通なら、気を失っていた方が楽だった。


 それでも、耳だけは離せなかった。


 遠くの機体音。


 荒い帝国機の拍。


 それを滑るように避ける、低く抑えられた黒い機体の音。


 主任は、唇を動かした。


「……八咫烏」


 医療班の手が止まる。


「喋らないでください」


「あれは」


 声は掠れていた。


「八咫烏、だ」


 医療班は、視線だけを端末へ向ける。


 記録は、すでに指揮所へ転送されている。


 主任は天井を見たまま、かすかに笑った。


 笑ったというより、遠い記憶に触れた顔だった。


「……アイン君?」


 その一言が、馬車三の狭い空間に落ちた。


     ◇


 ローランド級の指揮所で、その声が再生された。


 ノイズ混じりの、弱い声。


 けれど、その呼び方だけは、はっきり届いた。


 アイン君。


 リシアは、思わずクラウディアを見た。


 クラウディアは目を伏せている。


 ほんの一拍。


 それから通信を開いた。


「殿下」


「聞こえた」


 アインの声が返る。


 その声は、広場の黒い機体から来ているはずなのに、妙に近く聞こえた。


「馬車三の主任推定対象が、八咫烏を識別しました」


「ああ」


「殿下を、アイン君、と」


 通信の向こうで、短い沈黙があった。


 長くはない。


 けれど、リシアには分かった。


 アインが、今の声の持ち主を思い出している。


「主任の映像を」


 アインが言った。


 クラウディアが指示する。


 馬車三の医療班から、短い映像が送られてきた。


 痩せた顔。


 白に近い髪。


 長い耳。


 疲労と熱で輪郭が崩れていても、目の奥だけはまだ消えていない。


 アインは、その映像を見た。


「……生きていたのか」


 声は小さかった。


 誰に聞かせるためでもない声だった。


「殿下」


 クラウディアが静かに呼ぶ。


「分かっている」


 アインは答えた。


「今は、先に逃がす」


 それだけだった。


 けれど、その声の底に、何かが入った。


 怒りではない。


 焦りでもない。


 ただ、静かに沈んでいた。


 アリシアが、扇を閉じた。


 ぱちり、と音がする。


「お気づきになりましたわね」


 その横顔は、誇らしげだった。


 けれど、喜びだけではない。


 アインが何かを背負い直したことを、彼女は分かっていた。


     ◇


 帝都の奥から、三機が出た。


 完全な起動ではない。


 急がせたため、歩様はばらついている。


 一機は右脚の脈が荒い。


 一機は左腕の反応が遅い。


 最後の一機は、胸部機関の出力が高すぎる。


 どれも市街地で振り回してよい状態ではなかった。


 それでも、帝国兵は叫ぶ。


「黒機を止めろ!」


「馬車を追え!」


「診療所の連中を逃がすな!」


 三機が別々に動こうとする。


 追う者。


 囲む者。


 威圧する者。


 動きに統一がない。


 だが、数は力になる。


 普通なら。


 八咫烏は、街路の交点に立っていた。


 東から来る機体。


 北から回り込む機体。


 奥で出力を上げようとする機体。


 その全てを、黒い戦術主眼が見ている。


 アインは、主流路を開かなかった。


 補助流路だけ。


 低く、浅く、必要なだけ。


 主任が聞いている。


 そう思ったわけではない。


 見せるために戦うつもりもない。


 けれど、今この場に、あの人がいる。


 ならば、雑な戦いはできない。


 救うための戦いで、街を壊すわけにはいかない。


 誰かを安心させるために、強さを見せびらかすわけにもいかない。


 だから、最高の技能だけで戦う。


 余分な力を使わない。


 余分な破壊を残さない。


 余分な死を出さない。


 八咫烏が動いた。


     ◇


 一機目は、東から来た。


 槍を構えている。


 突進の勢いで、黒い機体を路地へ押し戻すつもりだった。


 アインは、正面から受けない。


 戦術主眼を、ほんの少しだけ槍先へ向ける。


 帝国機の搭乗者が、それを追う。


 槍先が上がる。


 その瞬間、八咫烏は半歩だけ内へ入った。


 剣はまだ振らない。


 左手で槍の柄を押す。


 力ではない。


 角度を変える。


 突進の線が、八咫烏の横を通り過ぎる。


 刃が、一瞬だけ光を持った。


 槍の根元。


 右膝外側の補助管。


 足首の固定爪。


 三点を切る。


 一機目は、勢いのまま三歩進み、膝をついた。


 転倒しない。


 転倒すれば、路地の家を潰す。


 八咫烏は背後から装甲を押さえ、石壁に触れない位置で止めた。


     ◇


 二機目は、北から回り込んだ。


 腕に鎖付きの刃を持っている。


 市街地で使えば、何を巻き込むか分からない武器だった。


「下がれ、黒い欠陥機!」


 外部スピーカーが怒鳴る。


「その目玉を潰してやる!」


 鎖刃が放たれる。


 八咫烏は避けなかった。


 戦術主眼が、鎖の先端を見た。


 搭乗者は、そこへ意識を取られる。


 刃が届く、と思ったはずだった。


 だが、八咫烏の剣は鎖を切らない。


 鎖の輪の一つに、刃の背を当てる。


 流す。


 鎖刃は、八咫烏の横を抜け、帝国機自身の腕へ巻きついた。


 搭乗者が慌てる。


 巻き戻そうとする。


 遅い。


 八咫烏は、その間に近づいている。


 エーテルは、まだ通さない。


 ただ、剣の柄頭で肩部の外装を叩く。


 衝撃が、内部の安全装置を誤作動させる。


 腕が止まる。


 その停止に合わせて、刃へ一瞬だけ通す。


 腕と巻き取り機構、それに足を止める要所だけを断つ。


 二機目は武器を抱えたまま、動けなくなった。


 殺さない。


 壊しすぎない。


 ただ、追えなくする。


     ◇


 三機目は、奥で出力を上げていた。


 他の二機が止められても、動かなかった。


 馬車を追うのではなく、遠距離から撃つつもりだった。


 胸部の魔導砲に、光が集まる。


 市街地で撃てば、馬車だけでは済まない。


 建物も、人も、巻き込む。


「殿下」


 クラウディアの声が入る。


「分かっている」


 八咫烏は、そこで初めて速く動いた。


 速い。


 けれど、荒くない。


 地面を蹴るたびに障壁が重さを逃がし、石畳を割らない。


 壁に触れる前に身を返し、屋根の影を踏まず、路地の灯りを消さない。


 黒い機体が、街の形に合わせて舞う。


 直線ではない。


 曲線でもない。


 必要な場所へ、必要な角度で、必要なだけ動く。


 それは、戦闘というより舞に近かった。


 リシアは指揮卓の映像を見て、息を忘れた。


 速いのに、怖くない。


 いや、怖い。


 けれど、壊れる怖さではなかった。


 あまりにも正確なものを見ている怖さだった。


 アリシアが、扇を胸元へ寄せる。


「流石ですわ」


 その声には、隠しきれない誇りがあった。


「ブレードダンサーの称号を持つお方」


 リシアは、思わずアリシアを見た。


「ブレードダンサー……」


「刃で踊る者、ではありませんわ」


 アリシアは映像から目を離さない。


「刃を舞わせ、戦場そのものを踊らせる者。あの方にそう名を付けた者は、よく見ていましたのね」


 映像の中で、八咫烏が三機目へ届く。


 魔導砲の光が膨らむ。


 アインは、砲口を斬らなかった。


 斬れば暴発する。


 だから、砲身の下に剣を添えた。


 刃ではなく、峰で。


 わずかに上へ向ける。


 同時に、左手で胸部装甲の横を押す。


 照準が、空へ逃げる。


 魔導砲が放たれた。


 光は、帝都の空へ抜けた。


 建物にも、馬車にも、人にも当たらない。


 その瞬間、八咫烏の刃へエーテルが通る。


 砲身基部と供給、脚と肩の制御だけを断つ。


 三機目の光が消えた。


 八咫烏は、機体を蹴らない。


 押し倒さない。


 ただ、胸部装甲に添えた手を少しだけ引き、重心をずらす。


 三機目は、自分の重さで膝をついた。


 広場に、また静けさが落ちる。


     ◇


 馬車三の中で、主任は泣いていた。


 声は出ない。


 泣く力も、ほとんど残っていない。


 それでも、目尻から涙が流れていた。


「やはり」


 医療班が止めようとする。


 主任は、首を振るほどの力もない。


 ただ、言葉だけをこぼした。


「やはり、我々の向かう先は……あそこだった」


 医療班は、その言葉を記録した。


 主任は天井を見ていない。


 もう、馬車の天井ではなく、遠い格納庫を見ているようだった。


 村山の工房。


 鉄の匂い。


 三日三晩、誰かが笑いながら無茶を言い、誰かが怒鳴り、誰かが止め、誰かが煽った場所。


 その先にあったもの。


 ただ強い機体ではない。


 ただ速い機体でもない。


 人を守るために、どこまで余分を削れるか。


 その答えが、今、帝都の街路で舞っている。


「間違って、いなかった」


 主任はそう呟いた。


 その直後、意識が落ちた。


 医療班がすぐに処置へ戻る。


「主任推定対象、意識消失。呼吸維持。処置継続」


     ◇


 指揮所に、その報告が届いた。


 クラウディアは、しばらく何も言わなかった。


 アリシアも、扇を閉じたまま映像を見ている。


 リシアは、二人の沈黙の意味を考えた。


 主任の言葉は、単なる称賛ではない。


 技術者が、自分たちの道の先を見た言葉だった。


 千五百年前に作ろうとしていたもの。


 戦場を壊す力ではなく、戦場の中で人を残す技術。


 それが、今の八咫烏にあった。


「記録を保存」


 クラウディアが言った。


「医療処置を最優先。主任の発話は後で私が確認します」


「了解」


 クラウディアは、それだけを言ってから、通信を開いた。


「殿下」


「聞いていた」


 アインの声が返る。


「主任推定対象、意識消失。呼吸は維持しています」


「生かせ」


「はい」


「必ずだ」


 短い言葉だった。


 けれど、そこには命令以上のものがあった。


 クラウディアは静かに頷く。


「必ず」


     ◇


 帝都の鐘は、まだ鳴っている。


 だが、街路の交点に立つ黒い機体へ、近づく者はいなかった。


 三機の魔導騎装が膝をついている。


 どれも搭乗者は生きている。


 どれも胸部機関は残されている。


 どれも、追う力だけを失っていた。


 兵たちは、それを理解できなかった。


 なぜ殺されていないのか。


 なぜ機体が残っているのか。


 なぜ、戦場の真ん中に立つ黒い機体が、これほど静かなのか。


 アインは、外部スピーカーを開かなかった。


 名乗らない。


 威嚇しない。


 ただ、立つ。


 その背後で、合流点の灯が一つになった。


「全対象、合流点通過」


 管制官が告げる。


 リシアは、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。


 まだ終わっていない。


 けれど、ひとつ大きな線を越えた。


「ローランド級、回収殻準備」


 ヴァレンが言った。


「地上班、最終経路へ。殿下、退避壁継続をお願いします」


「了解」


 八咫烏が、わずかに向きを変える。


 帝都の奥。


 まだ動く兵。


 まだ起きようとする機体。


 そのすべてを、黒い戦術主眼が見ていた。


 アリシアが、小さく息を吐く。


「本当に」


 誰に向けたものでもない声だった。


「困った方ですわ」


 けれど、その横顔は誇らしかった。


 リシアは、その顔を見て思った。


 アインという人は、たぶん何度もこうやって誰かの道を変えてきたのだ。


 怖いほどの力で。


 けれど、力だけではないものを見せて。


 その背中を見た者が、自分たちの向かう先をもう一度信じられるようにして。


 黒い機体は、まだ街路の交点に立っている。


 刃は下げられていた。


 けれど、その場の誰も、もう一歩も前へ出られなかった。


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